こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第二章 法の精神

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  さて、革命を決意した4人は、まず勉強と図書館に閉じこもり、要点を整理してから、ある法律事務所を訪ねてみることにした。

  出て来たのは…、若いというか、その顔立ちも体つきも一見同級生と間違えそうな外見の、受験勉強からそのままこの事務所に入ったような弁護士の先生である。

「ボクなりに論点整理をしたところ、君たちの訴えは、第一に平和的生存圏に関するもの、第二に君たちの独立への憲法上の法的根拠、第三に集団的自衛権国防軍による君たち世代の不利益への法的救済の可能性、第四に20mSv・100Bqなる放射線規制基準の違法性の法的追求-以上4点に整理できるかと思われますが、これらを順に法律の条文そして判例へのあてはめを行って、ボクなりの解釈(1)を君たちに解説していくということでよろしいでしょうか。あくまでボク個人なりの解釈ですけど。」

「よろしくお願いいたします。」

  4人はまずは期待できそうと快く返事をする。

「まず、第一の平和的生存圏-これは改憲前の憲法の前文に由来するものですが、これはその法規範性は肯定されても裁判規範性は肯定されない-つまりこれ自体が直接に争訟に適応される性質のものではない-とされています。また憲法25条の生存権は、いわゆるプログラム規定とされており、国民が健康で文化的な生活が営めるということを国家の政治的な努力義務として宣言したにとどまるもので、この25条を根拠として生存権の保障を直接司法に訴えることはできないとされています。」

「ということは、つまり憲法にある生存権とは、空文ということですか?」

「いや、空文というのではなく、例えば生活保護法みたいに個別的具体的に制定された法律によりはじめて裁判所の審査に適する-裁判規範性となりうる-という意味なのです。」

  …ということは、個別法がなきゃ何事も門前払いってことになるじゃん。そう言うのを世間では空文っていうんじゃないの…と、テツオは思うが、まずは先に行くことにする。

「では、二点目の、僕たちの言う革命と独立については、どうなのですか?」

憲法の22条は国籍離脱の自由を謳っていますが、それはわが国の国内に別の国が独立することは想定されていませんし、また、いわゆる革命とは、立憲主義憲法の下ではもっぱら抵抗権の問題として考えられるところでしょうが、ドイツの基本法とは違ってわが国の憲法には条文上の規定はなく、したがって君たちの革命と独立には、現行の法制上は法的根拠が存在しないことになります。」

「第三点目の、集団的自衛権や安保法の合憲性や新憲法での戦争の合法化などについての一連の問題は、これはもうこの国では常識かなとは思いますけど、終局的には日米安保体制という高度の政治性を有するもので、純司法的機能をその使命とする裁判所の審査には基本的にはナジマナイ性質のものであり、つまりは司法審査権の範囲外とされるものとされるのです。」

「つまり、要するにこの国では、安保はすなわちアンタッチャブルってことなんですか? 戦争放棄の旧憲法のもとにおいても、ほとんど憲法判断を避けて通った司法の責任、これをどう思われますか?」

「噛み砕いた表現かなとは思われますが、あいにくボクは、その言葉に関する表現の“言葉のあや”の研究を、よくおこなっていないので…」

  先生は、この時はじめてその表情に変化を見せ、その白いお顔の薄そうな皮膚の下に皮肉な笑みを浮かべたかに見えたのだが、それはここまでコンニャク問答に付き合わされた4人にとっては、イライラをつのらせただけだった。

「じゃあ、これからは抽象論では済まされない具体論を聞かせて下さい。四点目、この国で放射能の安全基準とされている年間の空間線量は、国際標準1mSvの20倍の20mSvです。一方、この国でもレントゲン室など放射線管理区域は年間5.4mSv。これは憲法14条の法の下の平等に反しているのではないですか? そして何より、重大な人権侵害ではないのですか?」

「第四の20mSvに関する問題は、原発事故後に成立した“子ども・被災者支援法”において、旧ソ連チェルノブイリ法のような5mSv以上は強制避難、1~5mSvは避難の権利といった住民避難の基準値も、それに伴う国家的な支援策も盛り込まれなかったので、この支援法に基づく訴えを起こしても有効とは思われないので、従来の公害訴訟の流れに沿ってその代表的な形態である民事訴訟行政訴訟の二面において検討する必要があろうかと思われます。それにはまず出訴形態として、民事訴訟による差止請求を提起するか、それとも行政訴訟による何らかの請求を提起するか、ということになろうかと思われます。また、この民事訴訟による差止請求においては、未だ実定法上確立した権利とまでは言い切れない環境権より、実定法の規定を待たなくても当然認容されるべき人格権において訴えるべきとかなあと思われます。」

「そうですよね。原発の再稼動差し止めを認めた福井地裁の判決でも人格権は謳われていましたからね。」

「ところがこの20mSvの問題は、基準値を引き上げた行政に対する行政権の行使の取消変更を請求するものと思われますので、行政訴訟によるのはともかくとして、通常の民事訴訟の差止請求のような私法上の給付請求を有するとの主張は成立すべきいわれはないと裁判所に却下されるおそれがあると思われます。」

「じゃあ、その行政訴訟の方法で20mSv問題を訴えるということになるのですね!」

「はい。ところがその行政訴訟の本案審査で仮に出訴期間内に提起できたとした上でも、原告は、行政処分によって直接自己の権利と利益を侵害されたものに限って法律上保護されるという“原告適格”、そして、処分後の事情の変化等があっても訴訟を追行する資格を持ち続けている“訴えの利益”という、二つの要件をクリアーせねばなりません。そしてこの二つをクリアーできたとしても、次に行政行為の“処分性”が認められるかどうかという問題があると思われます。つまり、この基準値を20mSvとした通知や通達といった行政行為が、文科省教育機関の間という行政組織内にとどまる命令にとどまらず、その影響が国民の具体的な権利義務ないし法律上の利益に変動をきたしていることが明白であることがいえなければ、処分性を否定され、却下されることがありうると思われます。」

「それで仮にこの処分性が認められたとしても、次に来るべきハードルは“行政裁量”の問題かと思われます。つまり行政は、専門技術的かつ政策的な見地から広範な裁量権を有しており、裁判所はこの裁量権の範囲を逸脱し、またはその濫用が認められる場合に限って違法とすべきと解されているのです。さらにこの場合の裁判所の審査のあり方というものは、処分の内容その適否を審査するというよりも、専門技術的な審議を受けた行政方が行った判断のあり方に不合理な点があったかどうかを審査するものとされるとされているのです。」

「では要するに、裁判所は行政の裁量の名のもとに一定の丸投げをしておいて、社会が要請するような安全審査はしないということなのですか? 20mSvや100Bqといった基準の異常と違法性を追求することはしないでおいて、ただ単にお役所の手続きしか見ようとしないということですか?」

「これは三権分立の要請から、行政よりも裁判所の判断が常に優先されるような判断代置審査が認められるわけにはいかないという理由によるとされていると思われます。」

「ちょっと待って下さい。水俣病の認定基準の昭和52年判断条件による認定棄却処分の取消の訴訟において、水俣病の認定は事実認定の問題であり行政庁の裁量にゆだねられる性質のものではないとの判例がありますよ。また、水俣病国家賠償責任を認めた最高裁判決では、国が原因企業のチッソに対し水質二法による規制権限を行使しなかったのは国家賠償法上の違法であると言っています。ということは、この20mSv・100Bqに関しても、同様に違法性は認められるのではないですか?」

「でもそれは国家賠償を求めるもので、事故後相当な時間が経過して、ヤット認められた類のものといえるでしょう。水俣病の公式発見は1956年、この国賠判決が出されたのが2004年と、実に半世紀もの時間が経過した上での判決といえるのです。」

「世間の常識が裁判所に達するまでに50年もかかるのですか? 被害者も原告の多くの人も死んだ後じゃないですか。手遅れじゃないのですか? それとも死ぬのを待っていたのですか? だいたい国は1956年の水俣病の公式発見の12年も後になって、チッソが原因物質のアセトアルデヒド製造を中止した1968年5月を見届けた同年の9月になって、つまり人命よりも企業の利益優先を満了させた後になって、やっと水俣病を公害と認めました。もし同じことが原発事故でも起こるのだったら、廃炉や最終処分場の汚染問題など一切が終了した何千年か何万年の後になって、はじめて20mSv・100Bqの違法性をはじめとするあらゆる不作為、不条理、無責任、無能そして怠慢を、ヤットコサ認めるだろうということですか?!」

「それは政治の問題であり私たち司法の問題ではありません。そうなりたくないのなら、そのような政治と政治家を皆さんが選べばいいと思われます。」

「いいかげんにしろいッ!!」

  テツオはついにブチ切れての上に飛び乗ると、先生とサシで向き合いそこに座り込んだまま(2)、話をはじめる。

「ただでさえ放射線被ばくによる健康被害の立証は困難とされているのに、それでも一つも本題に入ろうとせず、やれ適格だの利益だの処分だのとヘリクツをこね回し、落語の“寝床”じゃあるめえし、要は聞きたくないやりたくないの言い訳のオンパレードだ。あんたがた司法ときたらこんな小賢し論法で、空港の騒音や原発や軍事基地、ゴミ処理場や環境破壊の都市開発に反対する住民たちを、何年何十年間もダラダラ裁判で弄したあげく、却下や棄却の連続で足蹴りにしてきたんだろ。国民の血税で食べてるくせに、ただ裁判官たるプライドと保身のために、権力に忖度おもねり媚売って、市民住民貧乏人を虐げ踏みつけてきたんだろ。水俣病裁判で言われたような“舎芝居のごたる裁判、田舎芝居といっちょん変わらぬ”(3)ったあこのことさね。もとはと言えば、3.11原発事故後に14の小中学生らが提訴した“ふくしま集団疎開裁判”の高裁の決定で、“子どもは低線量被ばくにより生命、健康に由々しい事態の進行が懸念される。被ばくの危険を回避するには安全な地域に避難するしか手段がない。”と事実認定までしておきながら申し立てを却下した(4)。これが今日まで持続しているこの低線量被ばくという“見えないゲットー”から避難する権利の芽をつんだのさ。」

  しかしテツオのこの訴えを目前にして、先生は当然のような顔をして抗弁を開始した。

「裁判官というものは権力に忖度するか、あるいは権力よりも世論の方が強い場合は世論の方に忖度して住民側を勝たせることもありえます。しかし、こと原発について言うのなら、私が知ってる立地県のある市なんかは住民が30万人以上もいるというのに、再稼動反対集会は1万人に達することなく、やがては1千人にさえも及ばず、再稼動差止訴訟の最中でも地裁に市民は集まらず、商店街をデモしてもほとんど誰も無関心ということでした。こんなことで裁判所に何を期待するというのですか? 自分たちの生命がかかっているというのなら、どうして市民全体が原告あるいはサポーターになるなどして、裁判を支えようとしないのですか?」

 

  4人はこの先生の事務所をあとにした。そしてまた、もう一つの事務所に向かった。