こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第五章 嘉南の島

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  さてそれから夏休みとなり、タカノと4人は移住の準備と島の主たるオジイとオバアに挨拶のため、嘉南の島に向かっていく。嘉南岳という山を頂く嘉南島は、すでに県南の漁港のむかえに見えるのだが、漁港から島へと向かった一艘の釣り船が、波間に一路の渡航線を白く先へとつけながら進んでいくのが、あたかも海を二つに分けていくかに見える。

  4人が船に乗ろうとした時、一本の大きな虹が、ちょうど嘉南岳をその半円内におさめるように、島に大きくかかっているのが目に入る。空は真夏の青空で、雨もないのに虹がさすのは不思議だが、大人たちは誰ひとりそれに気づいていないらしい。

  オジイとオバアの古民家は、島のほぼ真ん中にある嘉南岳の麓にあって、その後ろには山を前に静かな森がたたずんでいるのだが、百姓姿のオジイとオバアは曾孫みたいな4人を前に、こんな所に若い子達が来てくれるのは有難いと、大いに歓迎した様子。お茶やお菓子と振るまいながら、やがてみんなが落ち着き出すと、伽羅の香炉を焚きはじめる。伽羅の煙が部屋に満ち、香りが立ち込め出したころ、伽羅の昇りに誘われて、4人が意識をゆだねていたところ、ふと気がつけば彼らは広間に座っていた。そこは総板張りの床、樹木がただ茂ったような壁に囲まれ、屋根は煙でよく見えないが天井の丸く開いた窓からはうっすらと光が差し込み、その光が広間のすべての空間をとてもやさしく包んでいる。

「この島に君らが来るのはわかっていた。青空に雲をわかし、海と山に虹の弓をあらわしたのは、君らを迎えるためである。」

  見れば、オジイとオバアは白装束に正座姿で、少しはなれた壇上から4人に向かって話しかける。

「君らが今座っている周辺をよく見渡しておきなさい。その空間が、君たち人が一人ひとり年々食べていくのに充分な糧を生み出す土地の広さだ。」

  見れば4人もお互いに、離れて正座しているのに気づく。その広さは狭くもなくさして離れてもいない。互いの顔もよく見える。

「この広さをよく覚えておくことだ。この土地で、人はに汗して糧を得て、ついにはもとの土へと帰る。この法をこえなければ、人は本来争わず、自然の恵みはその生存を保障する。それでも人が争うのは、己の分をわきまえず、他人を貪るからである。人は本来何も生み出すことはない。自然の恵みがあればこそ人は生きていられるのだ。だから自然の恵みというものは全て分かち合わねばならず、決して他人を貪ってはならないのだ。これが君たちとの契約だ(1)。」

「本来いっさいの争いも戦争も不要なのだ。オレたちは蝦夷地の侵攻、琉球処分、日韓、日清、日露このかた、日中から日米、そして経済成長と姿を変えた全ての戦争・争いごとを知っている。そして今や放射能死の灰までが降ってきた。君たち世代の苦悩と苦痛は察するに余りある。君たちは人の子で、その行く末に長く希望が見えてこない初の世代かもしれぬ。」

「おじいさん、おばあさん、あなた方は本当はいったい誰なのですか? ひょっとして死なない人?」

  オジイとオバアは、微笑みながらも言葉をつづける。

「かつて人は長生きだった。アダムは930歳まで生きて、ノアは600歳で洪水にあったという。オレたちは君らにこうして会えるのを、今日この日まで待っていたのだ。」

「人があい争うのは、人に“執着”があるからだ。この執着が人をして“私”という牢獄と“他人”という貪り先をつねにもたらし、人は欲という毒にまみれた奴隷のごとき一生を無為に送る。君たちの年齢がこの“私”がまだ固まらないギリギリの線なのだ。そしてこの“私”は実は存在しない。それに対して真の“わたし”は実在し、永遠に死ぬこともない。霊と肉体は別ではなく、空間と物質も別ではない。色即是空、空即是色というではないか。」

  天からの光の波と伽羅の香りがやわらかく混じりあい、4人はまたうっとりしてくる。やがてオバアはニッコリ笑ってこう告げる。

 

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「ところでユリコ。この島は代々島の女だけでノロという神官を立て、神をまつり、島の祭祀を守ってきた。お前たちがこの島に住むからには、お前たち自身の中から当代のノロを立てねばならない。お前は霊媒師の孫娘と聞いているが、この島に住む間、しばらくノロを預からないか。」

  ユリコが予見していたようにゆっくりとうなずくと、オバアはその微笑んでいた目を一瞬強く輝かせ、ユリコはその反動か、ドウッと後ろにつんのめった。

「アララ、ご免ご免。まだ少しキツいと見える。これがオレからお前への贈り物だ。大丈夫、お前の父と姉さんが、いつもお前を見守ってくれているから。」

「どうして死産した姉のことを…。家族だけしか知らないのに…。あなたはもしや、最後のノロ…。」

  そしてオジイとオバアはこう続けた。

「君たちは今日一日のことを一度忘れる。しかしこれらのことは石の板に刻むがごとく、君らの心に留め置かれて、時おり思い出されるだろう。今日君たちに見せたように、あの虹がこれから永きに渡って結ばれる君たちとの契約の証である。地の上に雲がわき、その中に虹の弓があらわれる時、君たちはこの契約を思い起こすがよいだろう。」

  オジイとオバアがそう言い終わると、伽羅の煙は昇りつめ、天井の丸窓から光とともに消えてしまった。気がつけば、広間はもとの古民家の居間へと戻り、オジイとオバアも百姓に戻っていた。

 

  さて夏休みで準備は整い、予定通り二学期より、4人はこの嘉南の島に開設された彼らの革命と独立のためのフリースクールへと転校した。タカノは、これからも継続する放射線被ばくによる特に子どもの健康被害に幅広く対応するため、この活動をNPO法人化し、理事長にはタカノがついて、学校長にはアタカがついた。

  4人が新たに移住するこの嘉南島は、島のほぼ中央に嘉南岳という山をいただき、そこから裾が広がるように丘陵地が続いている。島の周囲はほぼ円形で絶壁に囲まれてはいるものの、県南の漁港を望む海に面した所は浜で、島唯一の船着場が置かれている。この浜の名を納瑠卍(のるまんじ)の浜といい、かつて隠れキリシタンが流れ着いたとの伝説がある。その伝説の証としてか浜を上がった片側には小さな教会が建っていて、その向かいのもう片側には、かつての島の小学校、木造平屋の旧校舎が残っている。この建物の後ろには防風林が細く連なり、それを抜けると丘陵地が広がって、以前はオジイとオバアの親族たちが住んでいたが、今はそれが空き家と耕作放棄地となって点在している。オジイとオバアの古民家はその山の手にあり、森をはさんだその後ろには嘉南岳の姿が見える。この森の中には聖なる泉があるといわれ、その泉を源とする小川が丘陵地を左右に分けて浜まで下り、水を供給するとともに、聖水を海へとそのまま流している。

  4人に続いて汚染地から逃れてくる難民に対応するため、この木造校舎を寮として改装し、タカノ夫妻を住み込みの寮母として、まずはテツオの個室を割り当てた。キンゴとヨシノは実家に住むまま、島の学校・生活は通いとし、その往来は漁師であるヨシノのパパが受け持った。アタカ夫妻とミセス・シンのご家族は、オジイとオバアが子孫のために建ててやったが誰も島には帰らずに空き家となった民家にそのまま入ってもらい、ユリコはノロの修行のためオバアの家に住み込みとした。これらの改修費用などは、大企業脱サラのタカノの年金、また開業医であるキンゴのパパの寄付をあて、あとはひたすらアタカやヨシノのパパ、また4人の革命独立に賛同する漁師仲間の実労働でまかなうことにしたのである。NPO法人だからといって安直な寄付金だよりは、独立の妨げになると同時に、おかしなヒモつきカネつきの敵か見方か得体の知れない人脈をよんでくるから受け付けない-これが理事長タカノの方針だった。

  このように島民の衣食住の衣と住とは定まったようなのだが、食についてはヨシノたちの海の幸と、当面はオジイとオバアのおすそ分けによる他は、島の耕作放棄地より額に汗して得る他はなく、その主たる労働力は、もうじき後期高齢者となるタカノと、東北育ちで西の暑さに極めて弱いキンゴとに頼るわけにもいかないので、いきおいテツオが背負うことになったのである。

 

  今日もテツオは耕作放棄地を前にして、一人ポツンと立っている。ここは嘉南岳を背に、広がる海を目前にして、青空の下、空の雲と海の波間の白さが互いに行き来しあっているのが見える。吹き上げられる海風が肌に通っていく様子が心地よい。テツオの手元足元には、スコップ、ヒラグワ、ノコギリガマの、百姓基本三点セットがあるだけだ。彼らの革命独立は、まずエネルギーに頼らない。

「テツオ、君らは恵まれている。ここには土地も水も陽の光もある。あとは少々、人の力が加わればよいのだから…。」

  麦藁帽子に藍の作務衣姿のタカノが、ただずっと前の海を見つめながらつぶやいている。いきなり全部を田畑にするのは無理だからと、テツオは最も農薬の影響のなさそうな、17年間人の手が入っていない8畝=800㎡の果樹が残った放棄地を、まずは畑にすることにした。

  しかし、この8畝の土地は見るからに草ボウボウで、その大半はセンダン草-この地方の方言でヌスットという-に文字通り占拠され、これをノコギリガマで刈り取ることがまず第一歩。このヌスット、猛々しくも根っこばかりか茎からもまた根を出して地に張り付いているものだから、刈り取るばかりか掴んで寄せては引っこ抜くを繰り返さねばどうにもならない。しかもその小さな花にはハチが群がり、花のあとは放射状のトゲの実となり、手袋はめても突き抜け刺さってくるものだから、まさに“イバラとアザミに悩まされ”を地で行くような作業である。

  それでもようやくヌスットたち雑草を取り払い、いよいよタネをまくために、ここでやっと百姓らしく畝たての作業に入る。畝の溝はスコップで土を切っては掘り返し、その土を積み上げて両足で踏み固めては畝とするが、しかしそのスコップが簡単に土に入らず、根だの石だのに遮られ、いちいち掘っては捨てながらの労苦となれば、農というより土木である。こうしてテツオの一日は、立っては屈み掘っては捨ての、まるでシャクトリ虫みたいな運動で終わっていった。

 

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  農地が開墾中なので、ヨシノたちがとってくる魚以外の食材は、当面オジイとオバアの援助を受けて、みんなで食事をする時はミセス・シンが栄養士として作ってくれる。このミセス・シン、顔つきは東アジア系なのだが、英中韓日と四ヶ国語が解せるらしく、今や世界が多国籍企業に乗っ取られていることに対抗して、自らは多国籍人として国境にしばられない生き方を、ミュージシャンの夫であるブルーノ氏と共々に標榜している。この夫婦の2人の娘はハーフであり、それもあってか母親のミセス・シンが、給食の食材の放射能Bq検査をいくら要求してみても、全く相手にされないのに嫌気がさして、この島に合流したとのことだった。

「つッーか、権力の本質っていうのはさ、本ッ当に暴力だよねえ!」

  世界のあちこちを見てまわり、サバイバルの経験もあるミセス・シン。日焼けした丸顔に小さなメガネを鼻にのせ、食事の後に一席ぶちだす。

「こうしてさ、機動隊に引っ張り出される頃合にさ、痛いイタイッて大声で叫んでおいて連中をこわばらせて、彼らが私を抱え込むや、いきなりダラ~っと思いッきり脱力するのォ。そしたらおばさんだから重いでしょオ! ただ排除されては面白くないからさ、これで奴らの腰を痛めてやろうと…。だいたいあの機動隊ってのは何様なのよ。私たちの子どものような年のクセして、私たちの税金で住民守らず核を漏らす電力会社や米軍守り、私たち国民には暴力を振るうのだから!」

  そういうタカノ夫人は、経産省前テント広場や各地の原発ゲート前、辺野古キャンプシュワブゲート前など、旅行やグルメや買い物ばかりに興じている同年代にあきれながらも、自分一人で年金元手に各地各種の座り込みへと行くという。

「省庁の地方移転というのなら、霞ヶ関も永田町も国策の責任とって、みんな福島に移ればいいと思いますよ。彼らが避難解除するのだから、自分たちで20mSvの所で暮らして、100Bqまで毎日食べて、8000Bqのゴミ処理場の近くに住んで、それで本当に自分のその身で安全を立証してから、住民の帰還を促せばいいんじゃないかと思いますけど。」

  こういうアタカの女房は理系なのか、数値がらみのつっこみ所ははずさないようである。

  この3人の女たち、共通の趣味が喫茶というだけで、島で知り合いそのまますぐに意気投合。ミセス・シンはアフリカのコーヒー事情に詳しいらしく、タカノ夫人はゲート前より喫茶店の座り込みの方が長く、アタカ女房はよんどころなく鎌倉の、有名喫茶の常連だったということだ。

 

  畝たてがそこそこ進んで、テツオはいよいよ種降ろしへと入っていく。秋冬野菜の播種時期は9~10月がピークなので、本来は長く収穫を得るためには時間差でまくのがよいのだろうが、テツオにはまだその感覚がなく、畝ができるが早いか一斉にまいてしまった。

「まあそれは、経験によるしかないな。四季の移ろいにあわせながら、その折々の旬のものをいかに切らさず植え収穫していくかは、何年も経験して体で覚えるしかないんだよ。」

  タカノはテツオの畑をしげしげと眺めては言う。タカノの農の指導とは、エネルギーに頼らないという他は、農薬も化学肥料も使わない。要は、人も含めて一切は自然の力だけでせよ-ということらしい。タカノは農の教えとして、常々テツオにこう語る。

々畑を観察して答えは畑に聞くがよい。草ある土地には作物は必ずできる。作物は最初から育とうとする性質と姿勢とを持っている(2)。人間がしていることはそれを自分の都合にあわせようとすることだけだ。作物が自ら生えて育つのであり、人が働いているのではない。人はただ自然を盗んで貪り取っているだけだ。」

  タカノの他にはミセス・シンもテツオの畑によく来てくれる。いつも着ているアフリカの民族衣装が陽に映える。

「テツオ、無農薬野菜ってのはね、農薬野菜に比べると大きさや形こそショボイのかもしれないけれど、味も風味も密度も濃くて、それらがボヤケた農薬野菜に勝るのよ。」

「シンさん、こんなので本当に自給自足って、できるのでしょうか?」

「できるわよオ。何いってるの。だけど自給自足というのはね、コツがあるのよ。要は料理の方から見て、ベースになる野菜は何かと考えながら、それが保存がきくものか、保存ができねば時間差で植えることで長期収穫できるものかを考えて、農には脳を使いながらやればいいのよ。」

  さすがサバイバルのミセス・シンの言うことには、妙に説得力がある。

「たとえばパスタを見てご覧なさい。パスタのためにはまずはコムギを作ればいい。何でコムギかというと、コメをやるより簡単だから。畑は案外借りられても田圃はなかなか借りられないし、また借りたとしても水が充分出なかったりする。コムギだったら畑でできるし、水の管理も不要だし、何かにつけて手間いらずよ。コムギの次は塩とオリーブ、あるいは卵を買うといっても大量ではない。この島だったらオリーブの樹も植えれるし、ニワトリだって飼えるわよ。

  次にソースはどうかというと、トマトさえ切らさなければ他の野菜は、イモやマメ、根菜、葉ものと何だって、茹でたり蒸したり炒めたりのバリエーションで使えるわけさ。トマトは大玉中玉よりかはミニトマトを苗を買って育てればより確実だし、ドライトマトにして保存する方法もある。トマトは赤くてきれいだし、酸味と甘みとジュウシイさと、うまいの全部そろっているし、とにかく生命力が強いから、いくらでも増殖して育て甲斐があるのよねえ。あとニンニクとトウガラシも好みによってはいるけれど、これも大量ではないから買うか少し作ればいいし、ニンニクがわりにタマネギだって結構いけるよ。それにパスタは和食のように一汁三菜みたいなこと言わないから、献立を考える手間はぶけるし、ワンプレートで完結するから、一つ作れば格好つくよ。」

  テツオもおおいに頷いている。

「そう考えると狭い土地しかない場合、優先したいこれらの野菜をこのパスタプランで見てみると、トマト以外はたとえばジャガイモ、保存もきくし年2回できるから。そしてサツマイモ、5~6月にツルを植えれば後は放ったらかしたまま、11月に掘ればいい。サツマイモでも一冬もつよ。それからあとはタマネギ、ニンジン、ラディッシュ含めカブやダイコン、ホウレンソウにルッコラなんかがいいんじゃないの。パスタにルッコラ乗っけたら、味も風味もグンとあがるよ。みんなここなら年2回も収穫できるし、間引きのうちから食べれるしさ。しかもこの野菜たち、トマト、ジャガイモ、サツマイモ、タマネギ、ニンジン、カブやダイコン、あとホウレンソウは、順にナス、ヒルガオ、ユリ、セリ、アブラナアカザ科ときているから、連作の管理もしやすくなるっていうわけさ。

  この7種類の野菜たち、10本ほどの畝を使うとした場合、幅60cm×長さ400cmの畝の場合で、畝の通路を考慮に入れても50㎡の土地さえあれば、立派な家庭菜園が成り立つってことなのよ。」

  ミセス・シンの熱弁はまだまだ続く。

「あとアタシのこのパスタプラン、エネルギー効率だっていいんだから。パスタ茹でるのって沸騰させてせいぜい9分。コメを焚くよりはるかに早いし、またパスタといっしょに野菜も茹でて、茹で汁も再利用してしまえば、ガスもお水も節約できるよ。コメみたいにとぎ汁を捨てなくてもいいんだし。」

「ち、ちょっとシンさん、待って下さい。学校でも聞けないような貴重なお話。部屋に帰ってノートを持って来ますから。」

「こんなのいつでも教えたげるよ。だいたいこれはタカノさんに、教えたげたことなんだから。」

「えっ、タカノさんに、何でまた?」

「タカノさんはね、大企業の社員の時に、この国がアメリカのイラク侵略に加担したのを目の当たりに、自分も侵略戦争の元凶たる死の商人多国籍企業に大企業、原子力ムラ、安保ムラの一員たるのを恥として、この経済国家の大企業のブランドとプライド捨てて、いきなり脱サラしちゃったのさ。そういう一種おバカなところに皆あの人にほれるんだけど、彼が言うには、世界が石油を安く貪り続けるために戦争が作られる-それは第一次大戦オスマン・トルコが解体されたその時から欧米の植民地列強の一貫した戦略で、戦争は私たちのエネルギーを貪っている生活こそに因があると-彼はエネルギーに頼らない生活をするために脱サラを遂げたのよ。最初のうちは自宅の庭しか土地がないって苦労して、アタシはその頃マクロビのレストランをやってたからさ、よく来てくれた彼に対してこのパスタプランの十八番を、教えたげたってわけなのよ。」

 

  ミセス・シンの影響で、テツオはこの8畝の畑をまた開墾して、コムギを時間差でまくことにした。これで人類史上、長らく主食を支えてきたコムギを早くも自給できるのかもと、夢はふくらむばかりである。再びヌスットらを四苦八苦して刈り取って、何とか玄麦を手に入れて、点まき条まきいろいろ変えて、何とか時期は間に合った。発芽までの不安というのはいつもの通り、先にまいた所からツンツンと勢いよく緑の葉が垂直に出揃ったのを喜んだのも束の間か、あとの所はみな一斉にトリにやられて、点まきにした所は一箇所残らずことごとくほじくり返され穴だらけ、見るも無残な有様である。

  テツオはさすがにがっかりして、それを見るなり畑の淵に座り込んだ。彼はトリにほじられ散らされた、コムギの粒の残骸をじっと見つめた。コムギは今や白い根を宙にむき出し、自ら生きようとしたその矢先に、トリにちぎられあちこちに切れ切れになったまま、捨てられてしまったのだ。ちくしょう、せっかくまいたのに…。こんな惨めな気持ちになるなんて…。

 

  やがてテツオの脳裏には、原発事故で故郷を追われた、心の底に自分で鎮めたあの記憶が、むざむざとよみがえってきたのだった。

  …3.11、俺はあの時、東京のある本屋で立ち読みをしていたんだ。突然大きな地震があって、俺のいた6階は紙細工のビルのように揺れに揺れた。このままぶっ倒れて終わるのかと自分でカウントダウンをする気になるほど、意外にも人間は、死の間際には冷静になれるもんだ。そして外に出てみたら、そこいらのオフィスビルから黄色っぽいヘルメットと白い軍手をしたスーツ姿のサラリーマンが、小ぎれいに整列しては上司の点呼を待っている。まだビルの揺れもおさまらず、ガラスの落下や倒壊の恐れもあるというのに、何であんたら逃げねえんだ、今さら何で上司の指示を待ってんだって、俺はこの国の国民はどこまで奴隷根性かと思ったぜ。鉄道はサッサと終わり、バスやタクシーももう止まってくれねえから、歩いて歩いて歩き続けてようやく秋葉原までたどり着いた。駅の真上に大きなテレビ画面があって、今まさに東北の村々が津波に押し流されていこうとするのが映ってたよな。そこにいた人たちは、それを見るなり“アーッ”て一声上げたっきりで、あとは押し黙ってしまったよ。鉄道は復旧しないし、まだ寒い3月の夜の中、とりあえず家の方角に向かって歩くほかなかった。ケータイは通じないし、母も家も無事なのかもわかりもしない。まわりも人、人、人の人だらけだ。えらく長く幅の広い人間の行列が出来上がった。歩道から車道に溢れ、もはや信号をも無視をして、誰もが闇の中をただ黙々と歩いている。俺は彼らの中にいて、まわりから生気というのを感じなかった。不気味なほどに無口にして無表情、そして無感覚な人間の群れ。まるで映画で見たような、何万人もの捕虜、敗残兵。ただ隷従の道に乗った奴隷の行軍。それが点滅する自動車の赤いテールライトに吸い寄せられていくように、ただ自動的に進んでいく。彼らは毎日この東京で働くフリして、本当はいったい何をやっていたのだろうって、思いもした。思えばこれが、この時すでに危機的だった人という種の、終わりの始まりだったのかも…。それでも荒川を渡ってから、ようやく動いているバスとタクシーを乗り継いで、やっとのことで帰りついたら、幸いにも母も家も無事だった。

  しかし今までの天災とは異なって、今度はこれでは終わらなかった。西の原発にいた親父から、東はもう危ないから今すぐ西へ脱出しろッて。シーベルトが倍以上になっているって連絡が来て、とりあえず母の実家に避難はしたが、親父はこのまま西へ移住しろって言ってきて、母は実家の父といっしょになってイヤだという。国が安全と言っているのに自分さえ助かればいいの?なんてさ…。俺は放射能への危機感がなく、かといって自分で調べようともしない母に対して、子である俺も自分自身も守れない母に対して、心底ダメだと思ったね。結局その後、親父は俺だけ無理やり西へと移住・転校させ、これが因で親父と母はまもなく離婚。親父とはしばらく一緒に暮らしたのも束の間か、再稼動が始まって、親父も再び原発へと戻っていった。そしてそれからはずっと一人さ。まあ、幼児の頃から一人暮らしは、慣れてるけどな…。転校先ではセシウムが伝染ってくるとバカにされ、それで頭にきた俺は、“お前らクソバカ国民が、この国であいも変わらずバカッ面を引っさげながら日々三度のメシを貪れるのは、俺の親父みてえな原発で被ばくしながら働いている労働者のおかげだろッ!”って言ってやったら、それっきり誰も俺には近寄らないってことらしい。

  そしたらある日、目の前に女の子があらわれて、“あなた、この前、かっこよかった! いっしょにシバキに行きましょう”って、きれいな大きな眼をして言うんで、“シバクって、俺は暴力嫌いだよ”って答えたら、彼女笑って“お茶シバクって、関西では喫茶するって意味なのよ。私はユリコ。あなたに友達紹介するわ”と言うものだから、ついて行ったらそこにヨシノとキンゴがいたってわけさ…。

 

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  テツオは畑の片隅で、両膝を抱えたまま一人でじっと座っている。海風が丘陵を上がってきて、彼の頬をやさしくなでる。

  テツオは目を落とした眼差しのその先に、一本のムギが生え残っているのを見つけた。それは種まきの際、最後の方で面倒になり、雑に畝から落としたこぼれ種から出たムギだった。いわば見捨てたようなこのムギが、今やたった一本生き残り、大地にしっかり白い根を張り、剣のような緑の葉を天に向かって突きたてている。この一本のムギの葉は、テツオの両目にその身を映し、彼が流した大きな涙の一滴をその全身に受け止めている。そして彼はこの時、自分が今まで、いかに食べ物を粗末にしてきたかを知ったのである。

  ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!

  テツオは心の中で慟哭し、ひざまづいて、何度も何度も拳で地を打ち、土と草を握りしめる。

  -あの3.11の直後、原発が爆発したその日から、直ちに健康に影響はないだの、飲ませるはずのヨウ素剤を配らないだの、スピーディーを隠すだの、100mSvまで安心安全だの、核が降りしきるなか子どもはどんどん外で遊んでいいだの…。俺はあの時、確かに殺されそうになったんだ。地震にじゃないよ。核にだよ。いやもっと正確に言うのなら“人”にだよ。しかし、俺はこうして生きている。まるで目の前のこの一本のムギのように…。だから俺はまだ生きる、いや、絶対に生きてやる!

  俺は決して忘れない(3)。核がまさに降っているにもかかわらず、マラソンが強行されて、足が痛いと倒れた子どもがいたことも。鼻血のことを書いたマンガがよってたかってのバッシングの末、一滴の血も出なかったかのようにされ押しつぶされていったことも。心筋梗塞白血病で俺と同世代の子どもたちが死んだことも。学校の給食がわざわざBq入りの食材で調理されるものだから、親が持たせた弁当を周囲を恐れて食べていた子供に対して、まわりの奴らが“自分だけ助かる気か、この非国民!”とイジメぬいていたことも。そして総じてこの国の国民が、原発事故も何事もなかったことにするように、全てをウソぶき、雨漏りする仮説住居の住民も、日々被ばくする原発の労働者も、20mSvを押し付けられている子どもたちも、意識の中から消し去って、電力の最大消費地トウキョウで、福島原発の電力を貪り食った張本人のあのトウキョウで、これ見よがしにオリンピックをやってやろうと、労働者をかき集め、何億円もの競技場を新設してはバブルに浮かれ興じたことも。そんなカネと労力とがあるのなら、子供たちの集団疎開も、仮説住居の改善も、被ばく労働の軽減だって何だってできたのに。世界第三位の経済大国であるこの国の国民は、総じて見て見ぬフリをしながら、何もかも見殺しにした。俺は決して決してこのことを忘れない!! 最後の一人になってまで忘れない!!-

  テツオの拳は血がにじみ、彼はその血のつく土を、両手で固く握りしめる。

  -独立してやる。国として独立してないこの国から、人として独立してないこの国民から、俺たちは独立して、必ず独りで立ってやる。ここはまだ小さな島にすぎないが、俺たちのこの革命と独立とで、生きることを蔑ろにされている子どもたちを救ってやりたい。みんなここに来るがいい。この畑に立つがいい。そして独立するがいい。何よりも人間の、ウソと擬制と偽善と欺瞞、そしてあらゆる奴隷根性から独立するのだ!-

 

  気がつくと、テツオの下の地面には、彼の打った血の痕跡が残っていた。-間の血、その生命の損失には、人間の責任を追及する。人の血を流すものは、人によって血を流される(4)-、彼は心の奥底から、こんな声を聞いた気がした。

  テツオは今やムギから離れ、畑を去った。テツオが去ったその後も、ムギはなおも海風に吹かれたまま、緑の葉先を揺らせていた。何事もなかったかのように…。