こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第九章 淘汰と萌芽

「これはまさに、吉と凶とがこの島に、一度にやってきたようだな。」

  タカノが発したこの一言に、全員そろった喫茶室は、重い空気につつまれる。彼が手にする2つの通知が、皆の手元に配られる。校長が髭をしごきながら言う。

「この島にも米軍のヘリパットを作らせろってか。この前の“発狂した官僚”の仕返しか、また、この独立国への嫌がらせか。これもまた、ゆゆしき御大事といえる。」

  “発狂した官僚”とは、キンゴが例の文科省官僚のビデオ画像をおもしろおかしく編集し、彼が好みのショスタコビッチの音楽をつけ、ネットのBGM選手権に投稿したところ世界中でブレイクし、特に香港、台湾、そして中国大陸で、その派生やパクリが続出して、ますます世界中を笑わせたのをさしていると思われる。タカノは続ける。

「皆も沖縄高江のヘリパッドのことは知ってるだろう。安保条約・地位協定(1)のセットにより、米軍はこの国のどこにでも、自由に勝手に基地を置ける。米軍は本国ではできないような住宅地での夜間飛行、低空飛行、爆音飛行も思いのままで、基地内には、ベトナム戦争で悪名高い枯葉剤や有害物の持ち込みも置き去りもやっている。米軍の犯罪は裁かれ難いときているし、この国はそんな米軍を居すわらせておく何千億もの多くの経費を“思いやり”と皮肉のような呼称をこめて、皮肉ではなく我々の血税から貢いでいるのだ。このように米軍は世界中で戦争=人殺しを続けているにもかかわらず、この国では憲法9条があった時から、米軍には多額の予算と治外法権とが幾重にも保障されていたわけだ。さらにこの国の最高裁は、あの砂川事件の判決で、“安保のごとき高度の政治性を有するものへの違憲や否やの判断は、司法裁判所の審査にはなじまない”と、平気でそんな卑屈で卑劣な理屈をこねる。だから憲法9条などは、最初からあってなきが如きものなのだ。この国では米軍に対しては、住民市民を法的に保護する仕組みは存在しない。これでは独立国とはいえないのだ。」

「タカノさん、私たち僕たちは、金儲けのためだけにこの地震国で原発を再稼働させ、20mSvや100Bqを子供たちに押しつけているこの国から、いまや独立しています。だからこの上、米軍を入れることはありません。」

  だれからともなく出たこの一言が、この子ども革命独立国の意思をよく示しているようである。

「では、この凶の通知は無視するとして、次に吉の方へと移るとしよう。これはシンさんから説明してもらおうかな。」

「みんなァ、すごいよ、あたしたち。ついに映像デビュウするのかもよ。」

  ミセス・シンの話によると、世界中にブレイクしたあの“発狂した官僚”を偶然見た外国のある映像作家が、その振付のおもしろさと音楽のセンスのよさとに感心し、発信者であるキンゴの英訳ブログを読んで、この子ども革命独立国をぜひドキュメンタリーに撮りたいと打診してきたらしいのだ。

「その人はね、イゾルデ・マチルデ・アイシェンチエラという名前で、父方はドイツだかイタリア系だか、母方は藍生節楽と漢字で書いて中国は満州系のハーフらしいの。彼女は自分のライフワークとして、戦争や紛争地、あるいは環境汚染された地域で生きる子どもたちのドキュメンタリーを撮り続けていて、その中にはチェルノブイリ後を生きるというテーマもあって、それで今回、あたし達をぜひ撮りたいってことなのよぉ。でさあ、東アジアの夏はきついし、秋以降にこの島に来たいんだって!」

 

 

  テツオたち4人にとっては、高校二年の夏である。彼らはまさに青春のまっ盛りといった感じで、子ども革命独立国でのこの島の生活も一巡二巡し、みな各々の暮らしの形も定着してきたようである。タカノは木造校舎の事務室で行政書士の仕事をし、夫人は畑仕事か庭いじり。校長は授業と漁師の仕事以外はヨシノのパパやキンゴのパパと連れ立っては釣りに出かけ、レイコは自分のガーデンのお手入れや、自宅か県の図書館での読書や勉強。ミセス・シンはキンゴのブログの英訳発信、あるいは厨房仕事や子育てやら。ヨシノは主に家業を手伝い、キンゴは島の教会兼図書館でワーグナーを聞きながらブログと小説を書いているか、あるいはヨシノと一緒にパパの内部被ばく防御のための勉強会等の活動を手伝ってるかで、テツオはいつも田んぼか畑で農をしていて、ユリコは島のノロとして日々行にいそしんでいる-だいたいそんな感じのようだ。

  そしてユリコは、自分のその日の行が終わると、時々田んぼか畑にいるテツオをたずねて、腹をすかせた彼のために、おにぎり等の差し入れをしてくれる。そんな時、二人は田んぼと畑の脇にあるクスノキの木陰のもとの、傾斜のゆるい土手へと座り、憩いの時を過ごすのだった。

  この憩いの時もテツオにとっては、ユリコの肢体をためつすがめつ眺めまわすイイ機会には違いはないが、すでにキスも着衣の上のお触りも一通り済んでしまった彼にとっては、次なる展開をどうしたものかと、正直やや戸惑っているのだった。俗世の映画やビデオなどに従って、この際一気にエッチにまでもっていってもイイような気もするのだが、彼は今いちそんな気にはなれず、それを自分の男ッ気のなさというより、ユリコが修行の身であることがいい口実となり得ることに、むしろホっとしていたくらいである。-この今や二人で並んで腰を下ろしているゆるやかな斜面の土手も、抱かれ抱きつき愛撫するには絶好の天然のベッドになり得る・・・。しかし、たとえそこまで及んでも、はたして俺のが勃ち続けてくれるかどうか・・・。そんなことより・・-

  そう、テツオはそんな心配をすることより、目の前に展開しているユリコの“女の子座り”の方に、むしろ惹かれているのだった。それは正座から足をくずしたその際に、骨格あるいはお尻のサイズの違いからか、男ではあぐらとなるが、女では足をくの字に折り曲げるあの座り方のことである。それがプリーツスカートなら、まるで扇を広げたようになるので、彼にはそれがとても優雅に見えるのだった。

  テツオは時折、農作業の休息中にゆるい斜面の土手に座って、一人この女の子座りを実践してみる。やがて彼は、靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、足をいっそうくの字によじらせ、またシャツのボタンも胸まではずして、片手を地につけ上半身をしならせて、ますます己を女の子っぽいポーズへと近づけていく。そして彼は、はだけた胸に片手をさし入れ、平たい胸の胸肉をもみ、己の乳首を指でまさぐる・・・。

  -ああ、僕はこんなにも美しい美青年なのに、胸もお尻も女よりはるかに小ぶりで、それが悔しい-

  テツオは己のナルシスを溺愛するばかりではなく、こうした己の矛盾をも客観的に自覚しており、この思春期の立ち位置を確かめようと、また、先ごろ悟りを得たと思っている“美の絶対性”なる彼の仮説を検証しようと、生きた美の鑑賞として、一人県へと出かけて行った。

 

  出かける先はフーゾク街でもゲイバーでもなく、ただのスーパー銭湯である。テツオはかつて県の中学校にいた時に、部活動の後などに近隣の高校生の男子たちがこの銭湯によく来ることを知っていて、彼らの裸体が今や同年齢となった自分にどんな性的体験をもたらすのかを、実地検証しようとしている。彼は美術館の図書室で、ミケランジェロの素描画を入念に点検してから、部活動後の時間にあわせてスーパー銭湯へと入湯し、それこそかのシスティナ礼拝堂の天井画にあふれかえっているような青年たちのめくるめく本物の裸体美のチラ見チラ見を重ねながら、サウナ、ジャグジー、薬湯と、脱衣場を行ったり来たりで、すっかりのぼせてふやけながらも、ミケランジェロの青年ヌードの生きた世界を生身のモデルをまさに通して充分に鑑賞した後、帰りの船へと乗り込んでいく。そしてその船上で、嘉南の島を望みつつ、彼は一人、今日の生きた美の鑑賞を回想していく。

  -僕は自分がもしゲイだとしたら、青年ヌードに惹起され、それこそ己の欲情が浴場で躍上して、己のペニスが銭湯内で勃起しっぱなしになったりすればどうしようかと思ってたけど、僕は青年たちの裸体美に惹かれるよりも、まったく意外な感情が自分の中に起き上がってきたのを知った。それは-絶望的な悲しみ-というものではないだろうか・・・。

  僕自身も充分に美しいけど、あの美しい青年たちは僕があのまま残って進学したら、きっと同級生になっただろうし、その内の何人かはボーイフレンドにもなり得ただろう。

  僕は3.11で西へと転向して以来、僕たち4人以外とはだれとも友にならなかった。世間に捨てられたこの僕は、そのまま世間を逆に恨んだ。だから今日も彼らを見ると、やはり僕は複雑だった。しかし、この島で独立した僕の目からは、今や逆にこの国が以前以上によく見える。同級生のアイツらが、一見いかにも健康そうで、くったくも何もなく、笑い興じているのを見ると、僕はもう恨むどころか底なしの絶望感を覚えてしまう。それが彼らの青春の裸体美が輝かしいほど、この絶望的な悲しみはいっそう増幅されていく。なぜなら僕たちには、“もう希望がない”から。

  3.11、原発、原爆、核との共存、20mSvに100Bq、安保、改憲国防軍に戦争、日米同盟と、そしてその裏側で現実に着実に進行していた超1000兆円の国の借金、すべての社会保障の崩壊、そしてとどまらない環境汚染と、総じて総合的に再生産され続けるあらゆる貧困・・・。これを僕たち4人は生存権と生存圏の侵害と呼んだのさ。こんなので明日の希望を語れる人がいるのなら、ぜひとも会ってみたいものさ・・・。

  いや、もう、もっと、はっきり言っていいだろう。僕たちは人類史上、初めて“絶望”を生きている世代なんだよ。なぜ人類史上といえるのか。それは生存権と生存圏の破壊のために、未来永劫、子孫をつないでいくことができないという初めての現実を突きつけられているからさ。この前例として考え得るのは、アウシュビッツに収容された人々は、その時本当に絶望をしたと思う。3.11当初の頃に、“まだ絶望が足りないのでは(2)”との言葉を見たが、今のこの気持ちというのは絶望というもの以外の何ものでもないと思う。未来永劫、個人としてではなく種全体として子孫をつなげる余地があると思えるからこそ、希望というものが生まれていくと思うから・・・。

  大人たちは自分自身に責任があるこの現実に、向き合う勇気も知性もなく、僕たち次の世代のために、この現実を生き抜くための知恵すらも考えようとさえしない。だから僕はあくまで自分で考える。3.11が教えてくれた数少ない良かったことは、既存のものにはウソが多いということと、自ら初から考えるということの大切さだ。この国にもまだ良い所は存在していて、それは“考える”とはどういうことかを教えてくれるということさ。

  僕は最近、こう考える。3.11以後の世界が人類に突きつける現実というものは、低線量被ばくの中でも人間がどれだけ生きるかという半ば軍事目的の人体実験のそれではなくて、これがここまで自然を破壊してきた人類への自然からの報復だということさ。チェルノブイリも年追うごとに草ぼうぼうの自然へと帰っていった所もある。人間は生きてはいけぬが、自然はたとえ放射能に汚染されても、やがては人間よりかは生きていける術というのを、実はもっているのかもしれない。ということは・・・。

  人類は、すでに“淘汰”される時期へと入った!ということだろう。もし、僕たち以降の人類に、未来への道筋が根本的に示されるというのなら、それはもう、“失敗したこの現生人類=ホモ・サピエンスから別の種を進化によって生み出していく”ということ以外にないのではないだろうか。それこそかの恐竜から鳥が進化してきたように・・・。フッ・・、気の遠くなるような時間だけれど、ここまで考えられなければ、半減期24000年のプルトニウムに向き合うことはできないだろうよ。

  僕が今また考えるのは、では神は、または自然は、この今の人類からどのような人間たちを生き残らせて、選択して、このホモ・サピエンスという人類種から分岐させようとしているかということさ。そしてそれが現に今ある僕たち自身に、すでに何らかの生物的な兆候として、進化につながる何か見られる兆しとして、はたしてあらわれているのかどうか、ということさ・・・-

 

 

  その晩、今日の湯冷めもさめやらぬまま、いや、あまりの長湯で素肌のすべすべ艶やか感もおさまらぬまま、テツオはこの日の美の余韻に浸ろうと、購入してきたトップスはとろみ素材で盛り袖のアイボリーのドレスシャツを下着なしで身にまとい、ボトムズは細身のネイビージーンズで合わせてみながら、部屋の中、全身うつす姿見で、ただ一人、自分自身の立ち姿を見つめはじめる。

  彼は両手をそうっと腰にあてると、指頭が朱るむ素足の踵をすこし上げ、両足を半歩ずらして交差させると、腿を内へと寄せるように股をせばめて、上体をしならせながら首をやや右下へと傾けたモデルのようなそのポーズを、至極自然にとっていく。ほの暗い部屋の中、月からの白い光が姿見にかけて差し込み、そこに自分のIラインの全身像が、ボッティチェリのビーナスの誕生みたいに浮かび上がってくるのが見える。かしげた頭部は長くなった前髪がすこし垂れ落ち、その隙間から黒い瞳が、上気して朱るんでいく頬と唇とをいざないながら、ダヴィンチの絵の様な微笑みを投げかけてきそうである。

  -女たちより・・、ずっと綺麗だ・・・-

  彼は両手で女性のショートヘアほどの髪をかき上げ、唇を前へとさし出し、Yラインを描くようにゆっくりと脇を開いて両腕を掲げさせると、豊かな脇の毛から漂う男性の残り香を味わいながら、上体をさらにそらせて宙へと向かって、かすかな吐息をはいてみせる。

  -ああ、今、僕は、男から女へと、チョウのように脱皮していく・・・。それとももとより美のイデアというものがあり、女らしいポーズはそれを、単に模写しているのだろうか・・・-

  そして掲げた両手を頭部にまわすと、髪へと指をからめながら、指先を耳後ろから、うなじ、頬から顎の先、首筋へとはわせつつ、うつむきつつある自分の美貌が、漆のような黒い眉と長いまつ毛、またバラ色の頬と赤い唇、それらすべてが織り成している色移ろいと陰翳とをともないながら、対称的なまばゆさを放ってきているように見える。やがてその指先は爪先を月光に照らしながら、アイボリーのドレスシャツをすべるように伝わり降りては、胸元の第2、第3ボタンをゆっくりと取りはずすと、両手はそのまま首筋から鎖骨、両肩へとすべりこみ、両方の胸元を隠すようにXラインに交差させると、自分自身を慈しむかのようにしてその両肩をしっかりと掴むのだった。

  彼はすこしその姿勢のまま、これからの成り行きを逡巡しているかのようだ。しかし、高鳴ってくる内なる響きに、恥じらい抗する表の素肌も退いたのか、その指先に続く残りのボタンもはずさせ、カーテンの隙間から来る月光の白い余波をまねき入れるかのように、ドレスシャツのトップスは徐々に開かれていこうとしている。そのはずされたボタンのあとを追うようにして、再び素肌の恥じらいが戻ってくるが、指先はそのまま先へと、さらにシャツを左右へと開きはじめて、アイボリーのとろみ素材の服地の中から、ピンク色の梅の花みたいな乳首が、一咲き、二咲き、外気へと晒されていく。

  彼の頬は恥じらいあまって、ますます朱く染まっていくが、その指先はまるで独立した生き物であるかのように、その形のよい羽根を広げたように肩へと連なっている胸を、撫でては愛でを重ねては、梅の花とも戯れあって、恥じらいがときめきに奪われていくように感じながらも、その蕾の先は小鳥がついばんでいくかのように爪先ではじかれていく。そしてシャツは滑り落ちるかのように脱ぎ落とされて、彼は己のほの白い素足を見せたネイビージーンズの立ち姿、その上半身の裸体美を、前方から背面へと連なっている筋のラインにそいながら矯めつ眇めつ鑑賞した後、勃ちっぱなしの男性を圧力から解放すべく、ジーンズもブリーフも脱ぎ落とす。そして彼は今こそ自分の尻をこよなく見つめて、筋力こめてキュートにそれを引き締めては、あたかもこれをダビデ像のごとき裸体美と、讃嘆のため息をつく。

  -長い足が、こんなにも美しいとは・・・。そればかりでなく、僕のペニスが時間的にここまで長く、また生き生きと、勃ち続けてくれたなんて・・・-

  そしてテツオは椅子を引き寄せ、立ち姿ばかりではなく、それこそシスティナ礼拝堂の青年たちのヌードのように、さまざまな座りポーズを重ね重ね繰り返しているうちに、美貌への愛欲が抑えられず、また勃ち続けた己のペニスの愛おしさに、ついオナニーをやってしまった・・・。そしてその後にやがては落ち着き、性の余韻に浸りながら、なぜ自分がこんなにも美しく見えるのだろうとその理由を考えはじめる。

  -なぜって、それは僕がもとより美しいから・・。いや、それだけではない・・-

  彼は裸体のまま“考える人”のように、まさにこれから考える。彼は先にオナニーした時、ペニスの丸い先端から黒々とした毛の茂みをぬけ股間そして太腿へと流れていく精液が、かぐわしく、また艶やかに、窓から差し込む月の光と互いに白く反射しあっているように見え、それはまさに、あのコメの花を思い出させた。

  -僕が美しく見えたのは、僕自身も“花”を模していたからだ。いや、本当は、僕自身も、自分はまさに今“花”だと自覚して、それが自分をこれほどまでに美しく見せるのではないだろうか。花はもともと性器だし、そしてもとより雌雄同体。今の僕は身は男でも明らかに両性具有を志向している。このことは、やはり生、性、美、愛は一致するということを示していると思われる-

  そしてテツオはあの参観日に、レイコの物理の授業を受けつつ、ガリレオニュートンアインシュタイン、そして道元禅師の事例に則り、同じように落ちて身心脱落して(彼のその日の願望では花に埋もれる虫のようにレイコの胸のその谷間へと脱落して)、得たところの悟りである“美の絶対性”に、ますますその確信を深めていく。

  -ということは、もしかして、意識というのは、もとはといえば美意識だけがあるのであって、その他のたとえば真や善は、人間がそれより分けて派生させたにすぎないのではないだろうか-

  そしてテツオはまだ姿見を見つめつつ、自分の胸と乳首に手をやりながら、ある時読んだダーウィンの一説(3)を思い出す。“古くから脊椎動物界において、元来は一方の性に属するはずの生殖器系のさまざまな付属部分の痕跡を、他の性がもっているのが知られており、胎生期のごく初期には、両性ともにメスとオスの生殖腺をもつことが確認をされている。だから脊椎動物界の全てのもののある遠い先祖は、雌雄同性・雌雄同体であったらしい。哺乳動物網のオスは、その前立腺内に導管のある子宮の痕跡をもっていて、また乳房の痕跡もあるのである。それでは哺乳類のオスが乳房をもっているのを、どう説明したらよいのだろうか。それは哺乳類全体の先祖が雌雄同体でなくなってから後も、両性ともに乳を出し、子供を育てていたのではないだろうか。哺乳類のオスに見られる乳房と乳頭は、実のところ痕跡とは言い難く、これは未発達で機能を果たさないだけなのである。かつては長い期間にわたって哺乳類のオスは子供の養育にメスを助けていたのだが、生まれる子供が減ったなどの何か理由でメスを助けるのをやめたと仮定するなら、成熟期にこの器官を使わないことがその機能を失わせたと考えることができる。”

  テツオはこの一説を思い出し、また彼の新たなる仮説の萌芽を見た思いがした。そして自分がこの思春期に、女性の全体-特に尻-ばかりでなく、ペニスはもとより自分の胸にも愛着を持ち続けていた因果をも、同時に深く感じた気がした。

 

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  秋になり、はたして約束した通り、映像作家のイゾルデ・アイシェンチエラ=略してアイ氏が、この島にやってきた。ミセス・シンの通訳に介されながら、島の皆に迎えられるイゾルデ・アイ氏。年の頃はタカノ夫人とレイコ先生の間ぐらい、50歳代中ほどか。シルバーグレーの長い髪と擦れたデニムに赤と緑のコットンシャツ、背は高く痩せていて、外人らしくアイシャドウと口紅はよく目立ち、日焼けた肌はシミもシワも多かったが、その飾らない実用的な外見と考え深げな眼差し、そして落ち着いた物腰とは、テツオたちに好感を抱かせるには十分だったようである。アイ氏はミセス・シンの家族の家に滞在しながら撮影に入っていったが、撮影は独立国のありのままということで、この日は張り切る校長の出漁するシーンを撮り終え、漁船に乗ったヨシノの親子と校長とアイ氏らの一行が、桟橋へと戻ってきたところだった。

  その時、空の向こうから、何やら奇妙な飛行体が、爆音を立てながらこちらへと近づいてくるのが見える。それは機体が十字形にクロスしており、その各々の先端の4か所にはプロペラがついていて、それがエンジンのローターごと垂直と水平の両方向にモードを変えては、機体ごとグルグルと回転しながら、こちらに向かって飛んでくる。

「あれはきっと、“オスドロン”だ!」

  そう! これこそまさに国防軍の新兵器、名は単にオスプレイとドローンを合わせただけの平凡さ、だが、造形はとびきり奇抜な航空兵器なのである。各国の共同開発ということだが、実際はアメリカの赤字企業を救済するため、この国がGPIFなど国民の年金資産よりネコババして、はてはそれを国内最大の原発メーカーにして兵器企業の“カネダケ”に買収させて、ライセンス生産から製造させたかのオスプレイの後継機種とされているものらしい。ところがこのオスドロン、プロペラ回すローターの向きによっては卍形に見えたりして、空飛ぶハーケンクロイツとの異名をつけられてしまったせいか、NATOもロシアもイスラエルも買わないと言ってきており、また中国がよく似た仕様で外見だけ卍に見えないパクリ機種を発表したので、この武器商戦で原発不振を回復させたいカネダケの目論みは見事にはずれてしまったようだ。カネダケは、この形は決してナチスのマネでなく、この国の伝統である手裏剣のデザインなのだと、国際的には通用しない言い訳をしたのだが、旧憲法の9条もすでになく、日ごろから国をあげてナチスのマネばかりしていると見られているせいなのか、兵器の国際市場においてはナンセンス以外の何ものでもなく、カネダケはこのデザインこそ伝統美と愛国心のあらわれだとの主張をしたが、結局は何事も親方ヒノマル的な社風に浸かり、何事も自分の頭で考える社員がいないということを、改めて物語ってしまったようだ。

  しかし、このオスドロン、問題は見た目以上にその中身であるらしい。何せ回転しながら飛ぶものだから、操縦席も一緒に回るわけであり、こうした欠陥機種のためまた海に落ちて200億がパーになっては、今度はパイロットの目がまわったせいだとも言いにくく、カネダケは少子化東京ディズニーランドへの一極集中のため廃れていった全国の遊園地から、あの懐かしい一番チープな乗り物だった“回転するコーヒーカップ”をかき集め、それで訓練することで世界一の安全性を満たしているとしたらしい。しかし、同じカネダケ製の原発ベトナム、トルコ、イギリスで相次いで白紙となり、トラブル続きで同盟国のアメリカからは訴訟を起こされ敗訴して、多額の賠償を要求されていることから、この国が政府をあげてついにその重い腰をあげたようだ。それで政府は、オスドロンの在庫処分に困っているカネダケを救済すべく、その性能の一切を特定秘密に指定して、決して住民の情報開示請求に応じれないようにした上で、その飛行に反対する住民運動の一切も共謀罪で押しつぶし、さらに実戦配備の実績をつくろうために、いつ落ちても少数の犠牲者ですむであろう超過疎地のあちこちに専用のヘリパッドを設けることにしたのだそうだ。しかもその工事の一切もカネダケグループが請け負うのだが、これらのことはさすがに表に出せないので、何事も表に出せない安保による米軍への基地供出としたのだろうと思われる。

  そのオスドロンが今、この嘉南島の上空をグルグルと旋回しながら飛んでいる。モードはすでに水平となり、まさに卍が回るようだ。ドイツ系の血を引くアイ氏も、ヒトラー誕生記念日の航空デモンストレーションの映像を思い出したか、恐怖と怒りで顔が青ざめ引きつり始め、オスドロンへとカメラを向ける。浜辺で皆がオスドロンを見上げる最中、一人小麦の製粉をしていたテツオは、軍用機が飛んでくるのはいつものことと無視をしようとしたものの、しつこい異様な爆音に空を見上げてみたところ、オスドロンはグルグル飛行でフラフラしはじめ、もはや操縦不能となったようだ。そしてモードは急に垂直へと切り替わり、島の丘陵地の田畑をめがけて強行着陸しようとしている! これではローターから出る熱風で地表の田畑が焼き焦がされ、島の農地は作物もろとも全滅するのは必須である。

  ところが、まさに次の瞬間、聖なる小川を伝っては白い脱兎のようなものが駆け下り、オスドロンが降りてくる機体の真下で、両手を広げて地に足踏ん張り立ちはだかった。ユリコである! その黒い髪も白装束も強風に煽り煽られ、ついには下降する機体の下で骨ごと焼き潰されてしまいそうだ。

  “ユリコーッ!! 伏せろーッ!!!”

  テツオはそう叫ぶや否や一目散に走りだし、途中で大地を蹴り放つと、ユリコをめがけて飛び上がる。その時、強い横風が彼の体を勢いよく押し上げ、テツオはそのままユリコを抱きとめ、両手をまわしてその後頭部を支えたまま、横風に吹き飛ばされていくのだが、それは何か大きな、それこそ仏の手にすくわれているような感覚をともないながら、2人は花畑まで運ばれて、そこにドウッと落とされた。そして同じくオスドロンもこの横風に吹き飛ばされて、はるか沖まで運ばれてから、海に逆さに突き落とされ、その卍形はバラバラになってしまった。

 

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  二人の上にはたった今、風に吹かれた花びらが舞っている・・・。

  テツオは両手と腕とに抱いた、ユリコの頭部の感触から、まずその存在を確かめる。

「ユリコ、無事か、ケガしてないか?」 

  ユリコはうなずき、無事を知らせる。

「そうか、よかった。じゃあ戻ろう。みんな心配するだろうし・・・。」

  テツオがユリコを支えた手をゆるめて、一緒に立ち上がろうとしたところ、しかしユリコは逆に彼の頭部へ手をまわし、自分の胸へと引き寄せる。そしてそのまま、テツオを抱いた。

  -ユリコ・・・-

  テツオはその名を呼ぼうとするが、すでにその思いは声にはならない。

 

  風はやみ、舞い散っていた花びらも、二人の上へと落ちてくる。遠い海の波音ももはや聞こえず、うってかわった静寂が、二人をやさしく包みはじめる・・・。

  テツオは今、ユリコの胸の中にある。

  -想像していたよりあたたかく、またやわらかそうだ・・・。そして、たとえようのないその優しさ・・・。それは記憶からもたどり出せない、太古の昔、原初の泉からいずる、永遠に女性なるもの、からなのだろうか・・・-

  テツオはユリコの胸へと手をあてると、その襟を押し開き、じかに肌に触れようとする。

「テツオ・・・、ごめんね、これ修行中の白装束だし・・・。今これ以上は、ダメなのよ・・・」

  テツオは両手をユリコの背中へとまわすと、その両肩を慈しんで抱きしめる。

「ユリコ、いいんだ、そのままで・・・。そのままじっとしておいてくれ・・・」

  テツオは両目をつむったまま、彼女の胸にいっそう強く頬を押しつけ、涙声でむせびながら、言葉を発する。

「ユリコ・・・、どこにも行かないでくれ・・。もうこれ以上、一人はいやだ・・。俺はまた一人に戻るのは、絶対イヤだ・・・。」

  テツオはユリコにしがみつき、声をあげて泣きはじめる。ユリコは、テツオを抱いていたが、ふと白装束の胸元をゆるめると、彼の面をその懐に入れるのだった。

  -僕は今、彼女の乳房の中にある。自分の身とはまったくちがう、ふくよかで優しいラインが彼女の身をふちどっていて、襟元の陰翳にかこまれたハスのような胸のうち、そのふくらみから乳首の花がいとも可憐に咲いている。今さっきの緊迫のため熱せられた体温が、より熱気をともないながら、恐怖で噴いた汗水と、彼女のそのカヤツリ草みたいな澄んだ匂いと、早鐘のように鳴らされる胸の鼓動がいっしょになって、僕の五感を呼び覚まし、自分もまた生きているのを告げてくれる・・・-

「テツオ・・・、私はどこにも行かないし、そう簡単に死にもしない・・。ずっとあなたと共にいるから・・・。これから先も、ずっと、ずっと・・・。」

  ユリコのその言葉に安心したのか、テツオは赤ん坊のように、その胸に頬をあてたままでいる。

  -この確かな今の感触は、あれほど思い描いていた性なるものをはるかに超えた聖なるもの・・・。永遠の命の川、その久遠の流れは、水藻の緑も川底の砂金のように輝かせ、僕の胸へと流れ込み、封印していた乾ききった心の底を、あふれんばかりに満たしては、僕の新たな心の泉となっていく・・・-

 

  風がふたたび海の方から吹き上がり、波の音が聞こえてくる。その波音に呼ばれるように、テツオはゆっくりユリコから離れると、襟をただした彼女の手をとり、そして二人は立ち上がった。二人はそれから、自分たちを殺そうとした軍用機が飛ばされた海の向こうを、今一度確かめ合うと、お互いに支えあって、皆がいる浜辺の方へと歩いていった。

 

 

  オスドロンの来襲は、独立国に大きな脅威をもたらした。マスコミは政府の描いたシナリオ通り、オスドロンの墜落を今回もまた不時着として報じたが、独立国の皆にとっては、これが故意なのか機種の欠陥なのかはどうでもよく、あの沖縄戦と同様に、自分たち住民は軍隊に殺される存在だとわかっただけで充分だった。

  今や独立国の島のだれもが、国防軍は次は必ず上陸をしてくるだろうと予見した。そして同時に、今や取りざたされている“徴兵制”が、もうじき国会に上程されるに違いないとも予想した。少子化という前提のもと、原発-再処理-核武装をあきらめず、特定秘密に共謀罪集団的自衛権から改憲、そして国防軍という流れにそえば、徴兵制の復活は遠からず予想されたことだった。

  アイ氏はオスドロンの来襲もカメラにおさめて撮影をひとまず終え、夫のいる中国経由でヨーロッパへと帰っていった。テツオはアイ氏を見送った後、いよいよ自分の決意を固めて、その考えを整理しようと、いつものように教会のキンゴの所へと向かう。

「それで、テツオは高校を卒業したら、この島での百姓と、シンさんに教わった料理の二つの経験を生かした上でのオーガニックの料理人か、君がもとより好きだったギターを作る楽器職人、そのいずれかで実現をしそうな方から、外国で修業生活に入るんだね。」

  ミセス・シンに作ってもらったペットボトルのコーヒーを飲みながら、キンゴはテツオに念を押す。

「そうだ。俺はあの時、ユリコと一緒にあのオスドロンで殺されそうになったんだ。徴兵制とは殺し殺される要員となることを法律で義務付けるのに他ならない。俺たち次の世代の生存権と生存圏とを奪っておいて、その上さらに殺し殺されるのを法制化するなんて、絶対に絶対に許せない!

  どうせこの国にこのままいたって、20mSvや100Bqが基準値の環境で、一生派遣労働か、正社員でも低賃金の長時間労働で、税金と保険料だけ吸い取られ、こんな貧困層だらけで、21世紀の半ばには現役一人が老人一人を養うような、医療・年金・介護とも、超1000兆円の借金の下、そんな社会はもつわけないだろ。この国の国民で居続けるメリットなんて、一体どこにあるんだよ? だから俺はこの国を捨ててやるのさ。この国が俺たちを捨てたようにな。

  また徴兵制は、男女雇用の均等化とか女性が輝く社会とかヘリクツこねて、男女ともに適用するって話だから、ユリコも俺と一緒に外国に出るってことだ。レイコ先生とシンさんとが、アイさんにこのことを話してくれた。アイさんもシンさんの夫のブルーノさんも、俺たちの進路の先を真剣に探してくれるということだ。」

  キンゴはそれで納得したが、テツオは同じ心配を、キンゴとヨシノにしていたのである。

「キンゴ、お前はどうするんだよ? 差し出がましいようだけど、ヨシノは医学部受験するって言ってるし、いっそのこと、ヨシノと一緒に家業を継いで医者になったらいいんじゃないか。医者は軍にも利用されるが、この国では複合汚染や放射能で、非典型の疾患も増えてるようだし、医者不足も深刻だから、防大以外は徴兵にはならないらしいぞ。」

「それは父も確認している。しかし父は、もっと直接的な対策を用意している。」

  と、キンゴがテツオに見せたのは、一枚の写真なのだが、その写真には、少し年増ではあるが、金髪・碧眼・長身の堂々たる美人女性と、またブロンドの美少年とが写っている。

「だれだ、コレ? また、ワァーグナーの登場人物?」

「この人たちはね・・、女の人はエリザベートシュワルツコップ、男の子はタッジオっていうんだよ。」

  ここでキンゴは、大いに照れて赤くなる。

「今のは冗談。この人たちはね、実はボクの、新しい母と、弟なのさ・・・。」

「ハ!?」

「いや、だからさ、父が再婚するんだよ・・・。」

「お前、マジかよ、それぇ~。」

  キンゴが言うには、キンゴパパのワタナベ医師はチェルノブイリの関係で、外国へもたびたび出向く機会があったのだが、この女性と少年は、そこで子供たちの被ばくを守ることで意気投合した仲間の女医とその連れ子だそうで、パパはこの女性と結婚したら、キンゴとヨシノも結婚させて医療を継がせ、この継母の母の国籍に変えればいいと考えているのだそうだ。

  そこでテツオは、ワグネリアンでKYで、ブログでは飽き足らず小説を書き続けるほど空想的になっていくキンゴの話を確かめようと、ここは浜辺で作業をしているヨシノをつかまえ、尋ねてみる。

「・・・、まァ、何ッつーか、彼はあーいう人だからさ、結局、あたしが彼にあわすしか、ないように思うのヨ。」

  ヨシノは毎日漁で鍛えた、はち切れそうな筋肉を男のようにみなぎらせて、浜辺にある漁船に乗ると、少しおどけて銛を握って、ヤリ投げみたいなポーズを決める。

「ホラ、お酒のおつまみにも出てくる、キュウリを割るっていう、アレよ。」

「ああ、それって多分、“ワルキューレ”のことなんだろ?」

「そうよ、そのワルキューリよ。でさぁ、キンゴが言うにはそのワルキューリにもいろいろあってぇ、彼が特に好きなのは、ブルーのヒトデ、ブリキで切ったニクソン、そして、切り捨てのフライングスタート・・、あたしには同じように聞こえんだけど・・。で、キンゴは同じ女でも、男っぽい女武者、ワルキューリがタイプらしいの!

  でもさ、テツオ、あなたも同じ男としても、まぁ、遠からずの結婚相手だとしても、いきなり入ってくるってさあ、向こうも初めてとはいっても、こっちは女の子なんだから、心の準備もまだなのにぃ、もうとっても恥ずかしくってぇ、これってちょっとトートツ過ぎると、思わないィ?」

  テツオはヨシノのこの発言に、少しゾワッと感じてくる。

「・・い、いきなり入ってくるったって・・・、そりゃ確かに、唐突だよね・・・。」

「でしょオ! まぁ、でも生まれも育ちも違っても、心は同じ人だから、ここはあたしも一発ドーンと受け入れようとしたんだけど、あたしん家って魚屋だからサ、酒の肴は事欠かず。でさあ、出されたキュウリを見てみると、それが太くて反り返っててぇ、それをそのまま口に入れようとするものだから、あたしの方が気を利かせて、一口サイズに切ってやろうと・・、」

「ち、ちょっと待って! ヨシノ、今、いったい何の話をしてんのさ!?」

「だからぁ、彼のパパのフィアンセが、あたしん家にまでご挨拶に来てくれたのよぉ。前もって言ってくれたら家を掃除しといたのに、いきなり入ってくるもんだから・・。で、何のお接待もせずには悪いと、パパもママも魚やなんやら、キンゴパパとも釣りで釣ったありったけの魚や食べ物出したんだけど、その中にはキュウリもあって、外人だから慣れないお箸で一本丸ごと掴もうとしたところ、途中でポッキリ割れちゃってぇ、これがホントの“ワルキュウリ”って、オチなのよオ!」

  ヨシノはここで、浜辺の波にも響かんばかりの大声で、一人で受けて笑うのだった。

「・・・。ところで、ヨシノ、医学部への受験勉強、進んでるの?」

「そう、そう、そのお受験のことなんだけどぉ、まぁ、浪人は仕方なくても何年もチャレンジしようと思うのよ。浪人中はワタナベ医院があたしたちを医療事務実習生って肩書で採用しては徴兵制を逃れさせつつ、受験勉強し続けるって作戦なのね。だって内部被ばくは絶対やらなきゃいけないし、安定ヨウ素を配るにしても医師免許って要るじゃない。だから別に偏差値の低いトコでも何でもいいのよ。キンゴのパパも新しいそのママも応援するって言ってくれるし。それで最近キンゴ自身も、彼が夢見る魯迅の道から医学の道へと、シフトチェンジするらしいし。」

「そうか、魯迅にならって作家になるって言ってた彼も、やっぱり父の家業を継ぐか・・。」

「イイや。それが彼の場合は、魯迅だとかヒポクラテスとか、そんな次元じゃなくってさ、彼はあたしに言わせれば、ちょっと不純な動機からパパの医業を継ぐ気になったらしいのヨ。テツオ、ここは何でも男同士、どーせ彼はあなたに話すだろうから、その時はまぁ、聞いてやってちょんまげよ。」

  -そうか。キンゴが医者を継ぐ気になったそのワケは、写真のあのシュワルツコップ似の継母と、タッジオ似のあの美少年のせいなんだな・・・-

  テツオはここまで鑑みて、彼ら4人の進路がようやく、見えてきたと感じたようだ。

 

 

「でさ、テツオ、この前君の言っていた“進化”についてなんだけどさ。」

  気が付けば、今日もテツオは野良帰りに教会に寄り、キンゴのかけたワーグナーのBGMに気が遠のいていた所を、キンゴはすでにBGMを止め、話題を変えんとテツオにせっついていたようだ。

「アッ、あれか、あの話は・・・、」

「いや、僕も受験勉強の準備がてら、調べ始めているんだけど、進化論ともなると、時間軸が何万年と長いじゃないか。とても僕らの一世代や二世代ではすまないよ。何でまた、“3.11の真の意味を知るためには進化論を語ることだ”なんて、言い出したのさ?」

  ということは、受験が本格化するまではキンゴもつきあってくれそうだと、テツオはやや前のめりに語り始める。

「そりゃァな、俺たちはこの革命と独立を試みて、今やそれは経済的にも精神的にも軌道にのったと言えそうだ。しかし、お前が以前言ってたように、またお前のブログや小説の根底にもあるように、3.11それ以降に明るみに出た“人類と核との共存”、これが何を意味するのかを考えていくことが、俺たち次世代以降の者には絶対に必要なんだ。」

「そうだ、そうだ、その通り。有名な『チェルノブイリの祈り』(4)の本にも、“チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界、前の世界はなくなった。”ってあるように、これは単なるエネルギーの問題でも政治の問題でも民主主義の問題でもなく、もっと根源的な人間の存在の問題だと思うんだよ。」

「だろ! それでそのチェルノブイリでは、たとえ人がいなくなった所でも、放射能のダメージを受けてはいるのだろうけど、草木や森が生い茂っている写真を見たりするじゃないか。ということは、人間は生きてはいけぬが、自然はそれでも生きていけるのかもしれない。」

レイチェル・カーソンの有名な『沈黙の春』(5)って本には、“自然は逆襲する”という言葉があって、新しい殺虫剤にも次々と抵抗力を増していく虫たちの話が書かれている。ダーウィンは自然選択、自然淘汰ということを説いたけれども、この抵抗力というメカニズムもその一つだと思うんだよ。」

  いよいよダーウィンの名前が出て、テツオの舌もまわってくる。

「そうだ。それに生物の大前提として、人間以外のほとんどの生き物たちは、“子孫を残す”ということに、生死をかけた最大限の営みを発揮する。しかし、あの3.11後のこの国と国民とは、あのヒロシマナガサキを経験したにもかかわらず、空間線量は20mSv、食料品は100Bq、ゴミの基準は8000Bqというように、核廃棄物に適用レベルのこれらの数値を“基準値”として、チェルノブイリであれほど子供の健康被害が出ているにもかかわらず、俺たち子供に適用するのを法とした! しかもこの国の国民は、自分の子供を放射能汚染から守るために避難した母子たちに、当然の権利たる賠償としてではなく“支援”という名目での家賃・居住費さえも打ち切り、貧困に陥れ、俺たちが経験したように“自分だけが逃げ出して、風評被害を拡散し、復興を妨げた非国民”と、逆にバッシングをする始末だ。何でヒロシマナガサキの被害者がいるこの国で、我が子を放射能汚染から守る親が世間からバッシングされるんだよ?? 子を守るのが生物の基本じゃないのか?」

「人間は、子供よりも核が大切なのだろうさ。人間は、核暴力と核権力を、子孫よりも優先するのさ。核はまさしく現代の“ラインの黄金からなる指輪”(6)で、それを所有する者は世界を手にする権力を得るのだろうが、その代償として愛を断念せねばならず、そしてその者にはやがて死がおとずれるのさ。」

  キンゴはここで、テツオがもう何回も聞かされているラインの黄金BGMを、改めて鳴らし始める。  テツオはヨシノも、きっとこれと同じようにワルキューリを延々と聞かされたのに同情しながら、ここで彼が確信に至ったことをキンゴに伝える。

「あらゆる生きとし生けるもので、種としては人間だけが子孫を守らず、しかし、自然は人間なしでも生きてはいける。ヒロシマナガサキチェルノブイリから3.11、今日へと至る過程で俺たちは、まさにこの人間を含む生物の種の現実を観察した。これは何を意味するのか。これはすなわち、ここまで自然と生態系を破壊してきた人間への、自然からの回答ではないだろうか。つまり、人類には、かつて恐竜がそうであったというように、自然による“淘汰”がすでに、始まっているのではないだろうか。」

「聖書の『ヨハネによる黙示録』(7)には、このような一説がある。“地の1/3が焼け、木の1/3が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。・・殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものを悔い改めようとせず、また悪霊の類や、金、銀、銅、石や木で造られて、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようとはしなかった。・・わたしは、もう一人の強い御使いが、雲に包まれ天から降りてくるのを見た。その頭には虹をいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようだった。”」

「なあ、キンゴ、その最後の箇所って、実は原爆のことを、言ってるんじゃないだろうか?」

「君もそう思うだろ。この黙示録の有名な次の一説、“たいまつのように燃えている大きな星が空から落ちて、それは川の1/3とその水源の上に落ちた。この星の名はニガヨモギと言い、水の1/3がニガヨモギみたいに苦くなって、そのため多くの人が死んだ。”・・・このニガヨモギチェルノブイリの暗示だという説がある。これってまさに、終末だよな。僕らは今、終末を生きているのかもしれない。」

  キンゴはまたBGMを切り替えるが、曲も同じく、“Ende!Ende!”と叫んでいる。

  しかし、テツオは、まんざらEndeでもなさそうだ。

「でもな・・、俺も当初は絶望をしていたんだが、何の因果か進化論を読みだしてから、何も絶望だけじゃないってことに気づいたのさ。かの恐竜でも全てが絶滅をしたんじゃなくて、一部はトリへと進化して生き残ったといわれている。ということは、俺たちヒトもともすれば、その一部は進化によって生き残れるんじゃないだろうかと思うんだよ。だってそうでも考えなければ、半減期24000年のプルトニウムに抗することができないだろ。俺は核の現実に俺たちヒトが完全に負けるのが、いやなんだよ。」

「なるほどね、それで進化ときたわけだ。・・・でもさ、テツオ、ここまでは理解できても、僕たちこのホモ・サピエンスっていう現生人類は、数百万年以上も続く直立二足の人類種の唯一の生き残りなのだそうだが、これからまた新たなる人類の種を進化させるといってもだよ、じゃあその進化って、何で起こると思うのさ。つまり、進化の原動力とは、いったい何だと思うんだよ?」

  テツオはいつものように事もなげに述べるキンゴに、-そこがこの問題の核心だと思うからこそ、こうして相談に来てんじゃねえか-と、やや不満げに思うのだが、今までの話の流れでとりあえずつないでみる。

「そりゃァな、さっきの『沈黙の春』みたいに、虫たちが殺虫剤に抵抗力をつけるように、人間も放射能に抵抗力を進化によって身につける-というのはさ、ちょっとムシがよすぎると思うんだよ。そんなことになってもさ、人間はまた放射能を超える害をつくっては、地球を攻撃するだろうから。

  俺はこうして話をしていて、今ふと思いついたのさ。俺たち人間=ホモ・サピエンスっていうのはさ、“知恵ある人”って意味なんだろ。だがその実態は、生物のだれもが行う子孫を守るということを放棄してるし、すべての命を滅ぼすような核兵器をつくっては、言葉や文字で経験を伝えられるにもかかわらず、いつまでたっても戦争をやめやしない。これでは到底、知恵ある生き物とは言えない。

  だから、俺は、人間のこうした“知恵”の正体を突き止めたいとも思うのさ。それとお前が今言った、進化の原動力ってもの、進化は環境変化によるものだから、当然そこには抵抗力というものもあるだろうし、ひょっとすると、人の場合は、これらが混然一体で進化したのかもしれない。それでこれは俺の仮説なんだけど、この進化の原動力のひとつとして、“美意識”があるかもしれない。」

  テツオはここで、やや恥ずかしそうになりながらも、キンゴに言ってみようとする。

「美意識ィ? それって君が言っていた、“美の絶対性”に続く話か?」

「まあ、聞いてくれ。ダーウィンだって自然選択の一つである雌雄が異性を選択する“性選択”に、有名な雄クジャクの羽根などの、各個体の美意識がはたらくことを唱えているけど、俺はアラサー、アラフォー、アラフィフのファッション誌を垣間見ながら、時々こう思うのさ。江戸末期や明治の写真に見てとれる我が国のずんぐりした美男美女と、昭和の戦後、特に80年代以降の美男美女とは、顔の大きさ、背の高さ、体格からスタイルの均整まで、白人や黒人みたいな要するに外人風になっただろ。食生活や栄養の変化のせいだとされているそうだが、それだけならただ単に太っただけでも済んでたはずだ。俺が思うにこうなったのは、美意識自体に変化が生まれて、皆だれもが背が高く、上に細くなりたいわぁって、意思し続けた結果でもあると思うよ。」

  キンゴはテツオの言い分に何かを思い出したのか、図書館の本棚からダーウィンの『種の起源』(8)を取り出してはページを開いて、テツオの隣に寄り添うと、文章を指さしながら読み始める。

「君が言っているのに近いものとは、例えばこれかな・・・。望ましい変異・・、変異の源について・・、ここだ、この付録にノーダンという学者の意見が載せられている。“彼(ノーダン)は、終局目的の原理と名付けたものを強調している。それは神秘的な、はっきりとは定められない力である。・・生物へのその不断の作用が、世界が存在する限りいつの時でも、それぞれの生物の形と大きさ、寿命とを、それが一部となっている万物の秩序における運命に従って決定する。各々の成員を、自然の一般的体制の中で、それが果たすべき機能すなわち、それにとっては存在理由である機能に適合させて、全体に調和させるのは、まさにこの力である。”・・・、つまり、この神秘的なその力を、美意識と解釈できるのかもしれない。今の進化論はわからないけど、ダーウィンは美意識を、特に意識していただろうし。」

  キンゴがテツオの隣でページをさしつつ話すうちに、テツオはこれもサルから進化した、キンゴの白く指頭の朱るむその華奢な手に見とれている。そして彼も同じく手を置くと、青年たちの美しい二本の手は、まるで磁石のNとS、また電気の+と-みたいに、徐々に近づいていってるようだ。

  ところでキンゴは、そんなテツオにこんなことを尋ねてしまう。

「ねえ、テツオ。以前から聞きたいと思ってたけど、君は何でそんなに美や美意識に、こだわるのさ?」

  テツオはキンゴも美形のうちに入るかなと思っているので、この発言はフェイントかもよと思いながらも、ここはまずは当たり障りなく答えようとするみたいだ。

「それはな、花を観察していると、自然に美や美意識に、惹かれるようになっていくのさ。」

「そうか、鼻・・、か。」

「そうさ、花・・、さ。」

「そうだ。僕の好きなショスタコビッチのオペラにね、『鼻』っていうのがあるんだよ。その物語は、鼻が離れて独り歩きしていくらしい。今からそれを聴かせてやろうか?」

「い、いや、いいよ。BGMはもういいんだ。俺まだ畑仕事が残っているし・・・。じゃあな、また。」

  と、テツオはキンゴの手のそばから彼の手を引っ込めると、教会を出てそのまま畑に行ってしまった。

 

 

  さて、それからしばらくして、アイ氏から編集未了の段階でのドキュメンタリーのDVDが送られてきた。アイ氏からは英訳文の確認と画面選択の相談があり、皆さんの意見も聞いたうえで編集の完成版を作りたいとのことである。DVDは複数あって、各自好きな時に見て、意見を集約することにした。タカノ氏は夫妻の二人で、ミセス・シンはご家族で、釣り友にして飲み友の校長、ヨシノとキンゴのパパらはヨシノの家で酒と肴と一緒に見て、ユリコはオジイとオバアと3人で、そしてテツオはスリーシスターズの面々とお茶とお菓子をたしなみながら、喫茶室で見ることになったのだった。

  ドキュメンタリーはその始めに、全ての発端でもあったあの3.11、原発が次々と爆発していく映像を映し出す。そして放出された放射能の汚染状況、それもチェルノブイリと相い比べ、ドイツなど海外でも観測されたデーターも交えながら、国内での信用できる計測値-地表から約1mの空間線量Svと、土壌汚染Bqとを解説していく。そしてこの国が公に適用している空間線量:年間20mSv、食料品:1kgあたり100Bqなる基準値が、そもそも国際標準が年間1mSvで、かのチェルノブイリ法が5mSv以上は移住義務とし、ドイツでは食料品の基準値が大人8Bq、子供4Bqであることと比較して、それが異論をはさむ余地のないほどいかに異様なものであり、特に子供に対する内部被ばく等の危険性を全く無視ししていることを、非常に厳しく批判している。

  そして続いてドキュメンタリーは、テツオたち4人が暮らす嘉南島を映し出す。ここは彼らにとっては当面の約束の地、不思議なことに未だ空間線量は年1mSvを下回り、島でとれた作物も島周辺でとれた魚も、すべてBqはND(とても低く設定した検出限界値以下)を示すのだった。

  カメラはそして嘉南島=子ども革命独立国の全景から、船着き場のある納瑠卍の浜へと上がり、木造校舎と教会とを左右に見つつ、校舎の一室、独立国の中枢である喫茶室へと入ってくる。カメラは最初にこの独立国のエネルギー事情を説明するが、最も電気を消費するクーラーと冷蔵庫は共用となっていて、島ではこの喫茶室にしかないのであった。ここだけが島外からの自然エネルギーによる電力で賄われており、あとは各家の太陽光パネルによる電気である。スマホ、携帯はいっさい使わず、テレビはすでに受信機すら無く、情報源はインターネット、これも喫茶室での共用と、あとはキンゴのブログのために教会に置かれているだけである。また風呂と暖房とはマキで賄い、島内の交通は車はもとより自転車すらなく全て徒歩。島と県との往来のヨシノの漁船一隻だけがガソリンを消費している-そんな事情がナレーションされていく。そして島の経済事情については、現金の収入として、ヨシノ家の漁業の売り上げ、テツオが農作業がてら手がけた花苗、そしてキンゴが時おり獲得してくるインターネットのBGM選手権の賞金以外に、キンゴパパがこの程出した内部被ばく防御本の印税や、行政書士である理事長タカノ氏からの寄付、あとミセス・シンの夫のブルーノ氏からの寄付などがあげられ、要は島外からの寄付や助成に頼らない、経済的にも自主独立であることが語られていくのだった。

  そしてカメラは、このドキュメンタリーの主人公たる4人の紹介、インタビューへと入っていく。テツオは田畑で、ヨシノは漁船で、キンゴは図書室、ユリコは白装束の装いでと、各々の立場、役割、得意分野で、次々と思いを語っていく4人。アイ氏のカメラはそんな彼らを共感と賛意をもって撮影していくのだが、4人のインタビューが終盤を向かえる頃のタイミングで、あのオスドロンの来襲シーンが挿入されていたのだった。

  ここまでテツオは、スリーシスターズの面々-タカノ夫人とレイコ先生、そして英訳文を確認しているミセス・シンらの3人と、ドキュメンタリーをむしろ楽しく、談笑しながら見ていたのだが、オスドロンを改めて映像で見るに至って、あの時の、押しつぶされ焼き殺されそうになった恐怖に慄き、気分が悪くなってしまった。しかしそれは彼だけではなく、特にテツオは隣に座るレイコの様子に、尋常ではない変化を感じた。

 

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  レイコもその時浜辺にいたが、カメラが撮った一部始終-オスドロンが島の向こうに降下して、強風に吹き飛ばされて海に落ち、その後しばらくしてテツオとユリコが無事で二人で歩いてきたのを改めて映像で確かめると、彼女は両手で口元をおおったまま、身をガタガタと震わせているようである。

  そしてレイコは、もう耐えられないと思ったのか、ガタンと席を立つとそのまま、喫茶室を足早に抜け出して、廊下へと行ってしまった。パンプスの靴音がやや硬質の響きを聞かせて、校舎のすみへと消えていく。テツオも急いでレイコの後を追っていく。そして廊下の片隅まで来て、壁際に向かいながら、むせび泣くレイコの後姿を見つめる。暗がりにうっすら差し込む窓の光が、彼女の白いブラウスとブルーのフレアスカートの色合いを、絞り込もうとするようにかかっている。

  -・・・姉さん・・・-

  心の中で、テツオはレイコの後姿へと、声をかけた。彼はレイコに、どんな言葉をかけてよいのか、わからなかった。体だけは大人になっても、精神的にはどうしてよいのかわからなかった。

  彼は初めて、自分がとてももどかしく思われた。廊下の隅の暗がりが、はっきりしない今の自分にあっているような感じさえした。

ややあって、彼はようやく一言を、発することができたようだ。

「・・先生、・・・ごめんなさい。こんなに心配、かけてしまって・・・」

  レイコはその一言を耳にすると、後ろ向きのその背中に一瞬何かを走らせたかに見えたのだが、急いで涙を拭き取ると、テツオの方へと振り返る。そしてまだ涙目であるその眼差しを、彼の目線にあわせると、今やかぼそい小さな声を震わせるようにして、しかし非常に強い気持ちで、テツオに向かって言うのだった。

「テツオ・・・、ユリコと力を合わせてね、生きていくのよ・・・。この国を出て、世界のどこに行ったとしても、しっかり二人で支えあって、生きていくのよ・・・。」

  テツオはもはや言葉も出せずに、ただゆっくりとうなずく他なく、じっとレイコの黒い目を見つめている。彼は口の形だけで、もう一度-姉さん-と、あらわした気がしたのだが、レイコは言葉を続けてくれた。

「私はもう、安易に死について言ったりしない・・。あなた達はこれから先も、世界のどこかで、生きていくしかないのだから・・・。」

  テツオはレイコを見つめ続ける。厳しいレイコの表情が、少しばかり、あの優しかった姉の目に、帰ってきたような感じがした。そしてこの時、心の奥から、あの『夢』がピアノの音で、よみがえるのが聞こえた気がした。そしてレイコは、少しばかり微笑むと、-もう戻らないとね-と彼をいざない、戻りつつ、喫茶室へと入ろうとする。その時レイコは、扉の柱に手を掛けたのだが、これが彼には門に手を掛けるかのように見え、レイコは再びテツオの方へと振り返った。

  古びた校舎の板ガラスを透かして差し込む日の光が、板張り廊下の黒光りを反射させつつ、レイコのその全身を、奥へと通じる廊下から遠近法で浮かび上がらせ、白く、青く、照らしている。窓から流れる海風が、一瞬レイコの髪をすき上げ、唇へと赤く触れさせ、通り過ぎていったようだ。そしてテツオがもう一度、彼女の黒い目を見とったその時、レイコは部屋へと入っていった。

 

 

  喫茶室では皆同様に涙ぐんではいたものの、ドキュメンタリーにはあともう一遍、タカノ氏へのインタビューが残っていると、ミセス・シンが言うのである。

「これはね、オスドロンの襲撃を受けアイさんが、是非にも安保を取り上げたいって、予定の撮影終了後に、通訳のあたしとの3人で撮影したものなのよ。」

  タカノ氏へのインタビューは木造校舎の理事長室で行われ、その冒頭では日米安保条約地位協定の解説が少しだけなされてから、アイ氏がタカノ氏に向き合う形で進められていくようだ。

「Mr.タカノ、このドキュメンタリー収録の終盤に、突然のオスドロンの来襲があったのですが、私も以前、沖縄の米軍基地の映像をいくつか見てはいましたが、こうして目の前での襲撃を経験すると、改めて日米安保体制の不条理と恐ろしさに、激しい怒りを覚えます。貴国はあの3.11後も、かつての三国同盟国のドイツ・イタリアなど原発をやめる国がある中でも、当事国にして地震国であるにもかかわらず、またヒロシマナガサキでの被害国であるにもかかわらず、核武装の懸念の高い再処理と原発の再稼働を中止せず、それどころかその真逆の集団的自衛権の容認と憲法改悪、戦争放棄のシンボルだった9条放棄と、気が違ったかと思えるような愚かしい政治的漂流の中にあります。私はその根本原因として、日米安保体制と、それを基軸とした貴国のあり方-その国体そのものに問題があるのではと思うのですが、それについて国民の一人としてどのように思われますか?」

「まず、“9条と日米安保”についてお話ししようと思うのですが、1945年の敗戦を機に生まれた旧平和憲法とその9条とで、この国の国民は植民地帝国主義と歴史を分かち、平和国家・民主国家として生まれ変わったとの錯覚をし続けてこれたのだと思います。というのは、この時同時に世界最大にして最悪の軍事国家であるアメリカと、安保条約という名の事実上の軍事同盟体制をスタートさせていたからです。その後、この国は主に沖縄県の犠牲のもとに、朝鮮戦争ベトナム戦争、湾岸・イラク戦争と、すべてアメリカ軍の側に立ち、たとえ経済的という立ち位置を演じ続けるにせよ、アメリカの戦争遂行に常に加担し、アメリカを中心とした戦争利権の分配にあずかってきていますので、平和憲法も9条ももとより体をなしていなかったと思います。」

「それでも世界の人々で、9条のその反侵略的で非武装を尊しとする内容には、評価する声も少なくなかったと思うのですが?」

「文面上は確かに立派なものでしたが、結局は平和・民主憲法も9条も理念法に終わったという気がします。国民自身が自分自身のものとせず、自分自身のものとも思っていなかったのが原因でしょう。

  9条は、もとはといえばマッカーサーの三原則に由来します。幣原首相などの発案という説もありますが、マッカーサーのこの国を非武装化するという方針なくして、9条はなかったと思います。アメリカは中国利権の最大の邪魔者だったこの国を敗戦を機に非武装化し、安保条約で軍事的な支配権を握った上で、ユーラシア大陸にまたがるソ連を相手に対峙する、ペリー以来着々と進めてきた太平洋の帝国主義的権益を確立したというわけです。ちなみに余談ではありますが、私はマッカーサーは秀吉によく似ていると思います。秀吉は民を刀狩で非武装化し、検地で民を水田にしばりつけてその奴隷性を活着させ、マッカーサーも“永遠の12歳”などと言ってこの奴隷性をよく利用し、二人とも朝鮮半島に侵略しました。問題は、秀吉のつくった体制が、その後長きに渡ってこの国を支配したのと同様に、マッカーサー時の体制が、再びまた長きに渡ってこの国を支配すると思われるという事です。

  では当時、これに対してこの国民がどう反応したのかといえば、あれほど鬼畜米英と言っときながら、ほとんど全ての国民が、つい昨日の大空襲や原爆での大量破壊と殺戮を顧みることもなく、マッカーサーアメリカも、憲法・9条・安保条約の3点セットも、大きな混乱なく受け入れました。これは国内のパルチザン活動等でファシスト政権を倒したイタリア、そしてナチスの残党を政治的には一掃したドイツでは考えられないことですが、私がこれは、主に次の理由からだと思います。

  一つは、これはこの国の“政治的権力更新の慣習”にかなうものであったからです。マッカーサーは自分自身を天皇の守護者と見せかけ、天皇の権威を利用し、新たな征夷大将軍となったわけで、それはとりわけ反共反ソの大将軍ともいうべきでしょう。日米安保体制とは、マッカーサーを初代とする幕府にも似て、自民党政権とは要するに徳川家とその取り巻きのようなもので、だから彼らはあらゆる不正や不祥事を国民から免罪され、アメリカ相手に国を売るようなことをしても、見せかけの民主主義を超越し、永遠に権力を“ただお家の力”で世襲できているわけです。歴史を見れば、中国・ロシアは革命後も、専制帝政の慣習にあるように見えますが、それとよく似てこの国も一応の民主化の後も、天皇の権威を背後した足利家以来の幕藩体制の慣習にあると思えます。

  二つ目には、対中国そして対アメリカと、敗戦しては忌まわしく、負けるに決まっているのに敢えてやった無謀極まる戦争を、天皇より強い覇者のアメリカが、この国を反共防波堤と位置づけ、この国の軍産共同体=権力基盤と統治機構を温存したその上で、精算してくれたと見たからです。具体的には、あのナチスの如き731部隊を追訴せずとも東京裁判でミソギをすませ、侵略で多大な被害を与えた東南アジア諸国への賠償も、金銭ではなく現地インフラ支援なる経済利権のヒモ付きとさせ、自衛隊という装いでの再軍備も容認し、この国の財界と権力すじとの利害が一致した形でもって、アメリカがやってくれたと見たわけです。世の中で誰が強くて、誰の下にいたほうが己の利益にかなうのかを、人々は常に空気を読んでおり、それはことに我々の国民性には顕著なのです。事側の論理よりも立場の強さが常に決め手となるわけで、個人よりも集団的奴隷性が優先する社会なのです。それでかつて平安京の昔からは中国のマネをして、それで江戸時代まで来て、中国が植民地化され始めると今度は欧米帝国主義-特にドイツのマネをして、大戦でそのドイツとの同盟で敗れると、今度はアメリカの傘下へと鞍替えしたというわけです。これがもし先にソ連に支配されていたのなら、この国はきっと北朝鮮以上に“主体的”な共産主義国になっただろうと思います。

  三つ目には、ではなぜ平和憲法と9条を受け入れたのかということです。朝鮮戦争ベトナム戦争の主力となった在日米軍、また大量破壊兵器の保持などのウソでイラクに侵攻した米軍に対しては、思いやり予算だの何億ドルの支援だの、世界有数の協力者であるこの国が、3.11原発事故後の安保法で骨抜きとなるまでの約70年間、9条にしがみつくことで平和国家という偽善と欺瞞を続けたその真意は何かということですが、それは9条で本当に戦争を放棄したというよりも、この9条が朝鮮半島や中国大陸、そして東南アジア諸国に対して行った残虐な侵略行為に対する“免罪符”として使えると、思ったからではないでしょうか。朝鮮・ベトナム戦争をむしろ経済的な特需ととらえ、湾岸・イラク戦争を検証しようとさえしないのを見ると、この国民が本当に平和を希求し戦争を放棄したとは思えません。また司法においても、植民地の朝鮮人や台湾人が、戦後に社会保障や死傷者への補償を求めた裁判でも、今さらもう国民ではないからとの国籍条項を持ち出しては応じなかったなど、非人道的で冷酷な判例(9)が目について、従軍慰安婦のことも含めて、この国の国民が植民地や侵略地に対する加害行為を正しく認識しているとも思えません。」

「この国は帝国主義列強の覇権争いという世界大戦で、負けて死んだふりをして、逆に勝者のアメリカの懐へと入り、戦後それを利用し続けたということでしょうか。」

「結果的にはそうだったと思います。“虎穴に入って虎児を得た”というわけで、いわばこれで“国体を護持できた”、あるいはゾンビのように国体を復活させた-というわけです。この国が一億玉砕をやめにして敗戦・終戦を認めた真の原因は、原爆ではなくソ連の侵攻だといわれています。なぜなら共産主義では絶対に国体は護持できない。だからアメリカへの降伏ならまだマシだろうと読んだわけです。敗戦が濃厚になってからも、膨大な若者たちを無駄死にさせた当時の権力すじの者たちで、戦後も生き延びた連中は、絶対に許してはならないと思います。

  旧帝国憲法はその中で、“天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス、天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス”としていましたが、しかし軍自らそれを無視して、実際は“統帥権干犯”という脅しをちらつかせておきながら、軍人は上は独断専行、下には私的制裁という形で、好き勝手なことをやっていました。例えば、満州事変とそれに伴う朝鮮からの侵攻、北印侵攻など、天皇の裁可なくして行った国境外への武力行使も少なくはなく、そのため政治的には国際連盟を脱退し、対米戦争も不可避になってしまったのです。しかしそんな軍人たちには後に首相になったのもいる。要はアンタッチャブルな最高権威を護持することで、無法制と無責任制を共存・温存させるのが、この国の組織と権力の基本なのです。戦後はその天皇の不可侵の統帥権が、米軍ならびにアメリカへと禅譲されたというわけです。このことがフィリピンやイラクでも米軍を撤収させている中で、この国だけが血税を費やしてまで米軍を居すわらせる根本的な原因だろうと思います。

  もっとも、常に対米隷属・従属とは簡単に言えない所もあるわけで、例えばかつてーター氏が、この国の再処理等の核燃政策にストップをかけようとしたことがありました。しかしこの国はここは従属することはなく、珍しく驚異的な交渉をし、1988年の日米原子力協定にてアメリカ側から包括的事前同意を得ることにより、六ヶ所村での再処理事業が可能になったといわれています。この国の外務省は、これを戦後外交の最大の勝利と言ったとか(10)。これだけのことができるのなら、沖縄の米軍基地はアメリカ側が撤退をほのめかしたその時期に、解消できたのではないでしょうか。対米隷属・従属が、都合に合わせてカムフラージュされることを、見抜いていく必要があるといえます。」

日米安保と同盟は“抑止力”という、よく言われている論理についてなのですが、それについてはどのように思われますか?」

「この国は歴史的にも地理的にも、中国・ロシア・アメリカという大国に囲まれた島国であり、大国のパワーゲームはマキャベリズムしか通用しない冷酷なものであり、それゆえ大国に囲まれれば一種の緩衝地帯として大国同士の戦場か代理戦争の場にさらされる。だからこそ軍事力が必要だ-というのが抑止力というものの発想だろうと思います。

  しかし、この抑止力とは結局は、人々が暴力に虐げられない力であると言えるのですから、それは暴力に対する暴力としてではなく、人々の賢さに基づく他はないのではないでしょうか。人々が常に学んで考え賢ければ、国内外のどの暴力や権力にも屈することはありませんが、そうでなければ結局は、国内国外かは問わず、暴力や権力に利用され、隷従を強いられることになるでしょう。

  また抑止力とは、単に軍隊を抑止すればいいものではなく、それは“戦争”というものが、時代を超えてその残虐な普遍性を保ちながら、巧みにその形態を変えてきている今日では、抑止力とはその全てから身を守るものでなければならないと思います。例えるのなら、私は今現在この国で進行している核汚染こそ、今日の戦争-しかも核戦争-だと思っています。そして目に見えるレンガ塀や有刺鉄線などではなく、目には見えない20mSvや100Bq等の基準値や、人々の棄民精神・無関心が、今日の戦争の収容所だと思います。そしてこれらに対する抑止力とは、軍隊や兵器ではなく、人々の自分で学んで考える賢さ以外の何物でもないと確信をしています。

  ロシアがウクライナを侵略し、虐殺を始めた時、この国でもこの抑止力が問題となり、核武装とより強固な軍備増強論が出て、“9条は空想論のきれいごと”とか評されました。しかしこの“きれいごと”を持ち出さなくても、核武装を表向きに堂々と公認すれば、核兵器原発は不可分なので、この国の全原発と核関連施設は永続することとなり、地震国であるがゆえに戦争の脅威どころか日常的に24時間放射線漏れの脅威を背負うことになるのです。また現にロシアが原発の攻撃をしたことから、原発等の核施設の存在自体が国防力と抑止力を著しく損なうことにもなるのです。

  では一層の軍備増強ー具体的には集団的自衛権=米軍との一層の同盟強化ーについてはどうでしょうか。20世紀の中国やベトナム、そして21世紀のウクライナが示したように、侵略者にレイプ、奴隷化、虐殺されていくよりは戦って死んだ方がマシというのが、個別的自衛権の究極だと思うのですが、これは(芦田修正があるゆえに)もとより9条でもカバーできていたものです。しかし集団的自衛権ともなると、アメリカが結局は存在もしなかった大量破壊兵器という因縁をつけイラクを侵略し虐殺をしたことに、加害者側として共謀し協力することになるのです。

  集団的自衛権ということで安保条約と米軍基地の存在自体がロシアや中国あるいは北朝鮮への抑止力になっているという意見というか解釈に関しては、例えばロシアが“北方民族はすべて大ロシアに抱合される”という屁理屈を掲げながら、第二次大戦で取りはぐれた北海道に侵攻を始めた時、肝心の米軍が新ガイドラインにあるように後方支援に徹することで安保条約を果たすといって基地内に引きこもり、ロシア軍との直接的な衝突を避ける場合を想像すると、安保と基地が抑止力というのは9条空想論に負けないくらいの空想論になるのではないでしょうか。“思いやり予算”は“おめでたい予算”というような、改竄あるいは書き換えが必要となるでしょう。

  第一、強い国が弱い国と集団的自衛権の名の下でグルになる時、強い国は弱い国を自国の軍産共同体の利益のために代理戦争の舞台とし、また、前線においては弱い国の軍隊を自分たちの防弾代わりの二軍としてこき使おうとするのであり、決して弱い国の国益にはならないのです。米露中といった大国・強国連中は、互いに矛先を交えることのなく、互いの暗黙の了解のもと代理戦争で儲ける先を常に探しているのです。ですから、このような米露中のただ中に存在する我々は、永遠の12歳や5歳や7歳ではなくて、真の意味で“独立”し、お互いに賢くなって民度を上げていくしかないのです。

  このように戦争や軍事力といったものは、“きれいごと”を持ち出さなくても、政治的にも戦略的にも結局は国防力や抑止力には貢献しないものなのです。“力による支配よりももっと賢明な方法がある”とは、聖書や仏典の言葉ではなく、ナチの宣伝相ゲッベルスの言葉です。アメリカはもっとも南方の沖縄に70%もの米軍基地を集中させているだけで、国土すべてに駐屯せずともこの国全体を属国化することに成功をしています。それは同じ侵略と虐殺でも、アメリカによるイラクのそれと、ロシアによるウクライナのそれとに対するこの国全体の反応の差異によくあらわれているのですが、より平時な次元で見てみても、おにぎり屋よりはマクドナルド、唐揚げ屋よりはケンタッキーが全国チェーンとして展開され、手塚治虫ランドやドラえもんランド、あるいはゲゲゲの鬼太郎ランドの方がよっぽど面白そうなのに、東西の二大都市には外来マンガのディズニーランドとユニバーサルランドがあります。人々は浄瑠璃よりもジャズを好み、歌舞伎の再来とも思われるタカラヅカにしてみても、筋書は和風でも音楽はすべて洋風と決まっているとのことです。つまり、軍事力よりもっと強く有効な力とは、以上の例から見られるような実は“文化”の力なのです。ですから、真に国防力と抑止力を高めたいとするのなら、これは文化を高めるのが一番賢明な方法だと思います。そのことを我々に教えたのは、実は世界一の軍事力と核兵器を持つアメリカであり、我々はこのことを現実に学習できたーある意味では恵まれたポジションにあったーともいえたのです。

  また、この“学習”に関しては、私は次のことを思います。ウクライナ危機でロシア軍による民間人へのレイプ、拷問、虐殺といったジェノサイドが発覚した際、ロシア側はそれを強く否定しましたが、同時期に検定という名の検閲により、この国の教科書からは“従軍慰安婦”の記述が消えていきました。

  私はこの二つのことは同じ原理によるものだと思います。私はこうしたジェノサイドの映像あるいは生存者の証言を体験する時、南京大虐殺も、慰安婦という控えめな表現で示されている性奴隷というのも、まったく異なった場所や時代のものではなくて、むしろ同時並行のもののように思うのです。これを単にロシアが悪いといって片づけるのは何も知ろうとしないのと同じで、現実や真実は、こうしたレイプや虐殺は世界中で日常的に起きていることであり、私たちは男尊女卑や人種差別というヴェールを自分自身にかけることで、この現実と真実をただ知ろうとしないだけなのです。

  人間は知恵の実を食べたことで知恵を得て、ものごとを知れるようになったとはいいますが、それはフィクションあるいはフィクションを想像する能力を持っているにすぎないもので、本当は人間はこのようにして現実や真実というものをまったく知ることができない、あるいは徹底的に知ろうとしないというのが真実であり、人間の知恵や自我というものは、ただ“あらゆる差別”の堆積物にすぎず、所詮はその程度のものなのだというのが現実なのではないでしょうか。」

「先ほどウクライナ戦争のお話がありましたが、この戦争を受け、貴国もかなりの影響があったと聞いていますが、それについてはいかがでしょうか。」

「日本はロシアによるウクライナ侵略戦争に便乗して、国が滅びるような首都圏250万人もの避難さえ検討された原発の重大事故から10年ほどしか経ておらず、その中で、この重大事故をなかったことにしての60年超老朽原発稼働を含む原発への最大回帰、また専守防衛をなかったことにしての大軍拡に舵をきり、しかもそれらを超1000兆円をまたさらに更新する国債発行や増税で行おうとしています。すべて歳入や歳出でファイナンスしているのならまだしも、今やこの国債の半分以上を日銀が買い上げていますから、事実上、日本は印刷機に紙幣と国債の双方を印刷させて、それらを交換している自転車操業状態であり、原発、軍拡、財政破綻と、まさにすべてが国家国民的な発狂状態にあるといえます。

  日本の5年間で43兆円にも及ぶ日米軍産共同体を大いに潤す大軍拡については、中国を仮想敵国とするもので、かつての侵略戦争と残虐行為を踏まえれば、これが倫理的に許されないものであることは勿論のこと、今やある意味で米ロに並ぶ軍事大国である中国を仮想敵国とすること自体が、かつての日米開戦と並ぶほど戦略的にもあり得ないことです。中国は言わずとも日本の最大貿易相手国であり、戦後のアメリカの戦略もあってこれほど自給率の低い日本は、中国からの輸入品が締め上げられれば、原発へのミサイル攻撃に比べると時間は要しますが、別に戦わずとも勝敗は最初から明らかです。

  ウクライナ戦争でよく言われるようになった“抑止力”について言えば、日本はこの抑止力が十分でないどころか、ゼロあるいはマイナス状態とさえ言え、それは既にアメリカに占領され続けているからです。ロシアのプーチンウクライナ侵略の当初つきつけたウクライナの非武装化という要求は、アメリカのマッカーサーが1945年に既に日本で実行したことでした(日本を反共の不沈空母とするため後に撤回しましたが)。私はこの“抑止力”という概念を、それを本当に“戦争にならない・させない抑止力”という意味で使うとすれば、むしろそれはアメリカが日本を台湾有事などとけしかけ、米中の代理戦争に日本が戦場にされないための“抑止力”として使うべきだと思います。

  よく日本の防衛力強化の口実として、北朝鮮の脅威なるものが挙げられますが、かつて不審船の騒ぎの後で周辺事態法が速やかに成立できたのによく似て(11)、北のミサイル発射で北海道に落ちるだの何だのとJアラートで大騒ぎをした直後に、沖縄の南西諸島に速やかにPAC3が配備されたのを見ると、この北への抑止力なるものの本当の狙いは何なのかを考えなければならないでしょう。同じ国民の生命と財産を守るというなら、なぜ北朝鮮のミサイル発射で原発を止めないのか? 違法な低空飛行を行い空から物を落としている米軍機にもJアラートを出すべきではないのか? ロシアでさえミサイル発射の資金の枯渇が噂されるというのに、北朝鮮の異様に潤沢なミサイル資金はいったい誰が提供をしているのか? 第一、政府発表というのなら、本当に北朝鮮のミサイルは発射されているのだろうか? その証拠はどこにあるのか? つっこみどころ満載ですね。金正日氏のミサイル発射を繰り返す瀬戸際外交が本当に“瀬戸際”と見られたのは、彼が自分の利用価値をアメリカの軍産利権に認めさせるまでの間だったわけであり、今では日米の幹部の誰もが北を瀬戸際とも脅威とも思っていないのではないでしょうか。でないと同じ朝鮮半島を母体とする宗教組織が、これほど日本の政治風土に根付いている現状と辻褄が合わないような気がします。勿論こうした事柄は立証できるものではないのですが、我々はみな同じ人間同士なので、お互い考えることは同じでしょうから、類推なり洞察なりが必要なのです。

  世界史的な視点で見れば、ウクライナ戦争で米英仏といった核大国、特にアメリカが注目しているのは、核大国間での21世紀における新たな“代理戦争の形”をいかに構築できるだろうかということではないでしょうか。それでおそらくアメリカが想定するのは、かつて第二次大戦の開戦後まもなく、ルーズベルトチャーチルが大西洋上で、独ソ戦によりドイツ人とロシア人がいかに多く消耗しあうかを模索しあったと言われるように、東アジアで中国人や日本人といったアジア人同士に戦争させて、それで自国の軍事産業をいかに潤すかということだろうと思います。ヒトラーは独ソ開戦にあたり、優秀なゲルマン人が劣等なスラブ人を支配するのは当然だと思っていたようなのですが、これと似た文脈で見るのなら、ゲルマン・アングロサクソン人より劣ったスラブ人同士の戦争、そしてアジア人同士の戦争を、彼らは高みの見物というわけです。ヒトラーやナチの発想というのは、何も彼ら特有の異常なものというよりも、同様なことが繰り返される歴史を見れば、これはかえって広く“一般的な”ものとさえいえるのかもしれません。人間=ホモ・サピエンスの行動原理というのは、一に差別=男女差別と人種差別であり、二に権力闘争とマキャベリズムであるというのが私の人の世に対しての見方です。」

「先ほど“国家国民的な発狂状態”という言葉を使われましたが、では、なぜこのような状態が現出するようになったと思われますか?」

「ロシア、ウクライナ、日本に共通するのは、これらの国でレベル7の最悪級の原発事故と国土の核汚染が生じたということです。それで我々当事国の国民が肌感覚で体験したのは、一度原発事故が起こり核汚染された国家には、ウソと強権とでもって、まるで“核こそ我が命”といわんばかりに、真実から国民を遠ざけ黙らせることに血道をあげる一種の“文化大革命”が生じるということです。そして国家権力がそれをするのみならず、多くの国民が積極的にそれに忖度し追従するということです。

  ロシアのウクライナ侵略を支えたのは、国民に広く洗脳的に行きわたった政府のプロパガンダといわれていますが、これと同じことは日本でも起こっていて、核汚染と被ばくという科学的な現実と真実がほとんどすべて“風評被害”という官製用語に置き換えられ、それを語ろうとする人々を“非国民”扱いしているのがその表れの一つといえます。それは国がさほど強権的なキャンペーンをはらずとも、多くの国民が自主的に“空気”を読んで、同調し、共鳴し、批判し、罵倒し、沈黙したのは、我々が経験し体験してきたとおりです。だからこれは一種の“文化大革命”といえるのです。

  結局、原発事故と核汚染がもたらしたのは、関東大震災の直後の虐殺事件に見られたような、国民=人間の集団に本質的に潜在する相互排除、お互いに敵対的なエネルギーに対してなされていた“瓶のふた”を外したということであり、いわば人間の“暴力の解放”なのです。これがいわゆるこの国の“新しい戦前”を生み、新しい発狂状態を生んだのだと思います。

  これに“軍部”が反応しないわけがない。戦前、関東大震災、2.26、5.15、満州事変等々、第二次大戦、太平洋戦争に至るまで多くの軍事があったように、戦後も、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争イラク戦争ウクライナ戦争、JCO、スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと多くの軍事と核の事件とが相次ぐなかで、戦後自衛隊と称していた日本軍は、戦前同様、日米安保と米軍の傘下という“権威”のもとで、着実にその勢力を拡張してきたと思います。日本の場合、憲法上は“軍隊は持てない”ことになっており、そのために専守防衛を旨とする自衛隊となっているわけですが、これを理屈に日本国が軍隊を持てないから日米安保で米軍の駐留を認め米軍が日本の安全保障を担うというフィクションが通用し、それをいいことにこの国は米国に太平洋・東アジアの重要な軍事拠点を提供し続け(12)、それで米軍はアフガニスタンや湾岸・イラクに出撃し、ロシアがウクライナにしたような侵略をやってきたわけです。そして自衛隊と称している日本軍は、こうした米軍の虎の威を借りながら、日本政府がアメリカの属国状態でシビリアンコントロールがまったくのフィクションであるのをいいことに、周辺事態法、共謀罪、土地規制法、安保法、防衛費の二倍増等々、隠れた形ではあるが実質的には2.26や5.15なみの破壊力のある“軍隊組織の勢力と利権拡大のクーデター”をし続けて来たのではないかと、私は歴史的なそうした視点で見ています。

  かつてマッカーサーは、日本を“極東のスイス”とすることを理想としたようなのですが、皮肉なことにこの国はむしろ“極東のミャンマー”に近づいているのかもしれません。」

「ありがとうございます。Mr.タカノへのインタビューもいよいよ終盤となりました。私は映像作家として、多くの次世代、若者たちを取材等で接していますが、若い人々-特に10代、20代の彼らに対して、政治活動、あるいは社会運動の側面で、どのようにかかわっていけばいいと思われますか?」

「同じ人間である限り、どこの国でもいえることとは思いますが、以上申しましたように、この国でも根本的に決定的な欺瞞が進行していたわけです。欺瞞には常に犠牲がつきもので、安保には主に沖縄、高度経済成長には朝鮮・ベトナム戦争や、水俣事件など公害という名の大量傷害・殺戮がありました。国民は時の都合でより立場の弱い者を棄民して切り捨てては、何とか多数者の“和”を保ったように見せかけてきたのですが、それはツケを先送りしたにすぎず、堆積した欺瞞とツケは必ず因果応報となり、社会に矛盾と不条理が耐えがたいほどのレベルで噴出するようになります。しかし例えは悪いがこれはガン細胞にも似て、気づいた頃にはすでに大きく手遅れであり、100Bqに見られるように、人々はもう見て見ぬフリ、無視するか無関心を決め込むしか選択肢がないのでしょう。

  祖父と父とそれ以前の何世代にもまたがって、このような欺瞞とツケの先送りを、惰性で垂れ流してきた私たち旧世代は、次世代の若者たちに、いったい何を伝えられるというのでしょうか。この国の3.11以降でも、世界ではフランスや香港などで何百万人もの大規模抗議行動が、政府の動きを変えさせるまで続きましたが、史上最悪の原発事故の当事者であるこの国では、最初の原発再稼働の直前の一瞬だけで、大規模抗議は権力がさほど弾圧しなくても下火になって、自然消滅していきました。この違いは大きいとは思いますが、その原因の一つには、やはり今までの欺瞞のツケが耐えがたいほど堆積して、だれもが自分が信じる拠り所を持てなかったからではないかと推測します。

  ただ私は、市民たちが権力に対して感じるいわゆる“無力感”というものに関しては、何も無力感にさいなまれて絶望することはないと思います。ヒトラースターリン、ブッシュあるいはプーチンといったいわゆる巨悪が行った一連の巨大な犯罪群といったものは、彼らの人格や性格によるよりも、彼らが登場するはるか前から醸成されていた無数の普通の人々や市民による人種差別などあらゆる差別や金儲け・貪りが堆積した結果として表面化したものであり、その意味では無力な普通の人々が、巨大で巨悪な暴力の無数の源泉を成していたといえるのです。だから私たちは、自分自身の無力感の源泉をよく見つめなおす必要があり、これらを通じて人間というものの真実を知るべきだと思います。

  しかし、現実はもうこのような次元を超えて、もっと深刻なのかもしれません。全ての命を断つ原爆の罪深さの延長上にある原発が、核を放出したら最後、どの国でも3.11以降のこの国と同じことが起こるのかもしれません。それは人間は核を守っても自分の子供を守らないという事実で、これが目には見えない放射能があえてこの目に見せてくれた、見たくもないもっとも大きな現実なのです。だから問題は、政治的・社会的なレベルを超えた、われわれ現生人類=ホモ・サピエンスの種の保存、生物の一種としてこの地球上で生存する“生存適格”に関わるものなのかもしれないと、最近、私もテツオ君4人たちと話をするなか、思うようになりました。そしてここに、神の創造に相反し、全ての命を絶つ原爆と核を世に放出した、私たち人類への何らかの“因果応報”が、あるのかもしれません。」

  アイ氏によるタカノ氏へのインタビューは、ちょうどここで終わっていた。

 

  やがてドキュメンタリーは編集を終え、DVDの完成版をたずさえて再度来島したアイ氏とともに、皆が見つめるなか喫茶室での試写会が行われた。試写を終え、テツオたち4人はひとまず安堵したようだった。これで彼らの『子ども革命独立国』は、世界の同世代の人たちへと語りかけるツールを得たのかもしれない。4人はそれが水面下を行くように、決して表に大きく出ることなく、静かに伝わっていけばいいと思った。そして4人は世間に出る卒業までの残りの時間を、この島で有意義に過ごせることを、切に祈ったようである。