こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第十三章 絶望の底

  そのオスドロンは、まさにテツオが留守をする嘉南島へと向かって行った。ゴキブリが走り去った方角の上空から、オスドロンが一機、爆音を響かせながらこちらへと迫ってくる。そして島の上空まで来ると、あの時と同じように、卍型のその機体を回転させつつ、まるでテツオを標的とするかのように、彼一人を中心にすえ、爆音をいっそう激しく響かせて、頭上を旋回し始める。テツオは自分がすでに標的とされ、銃口を向けられているのに気づき、急いでその場を逃れようとするのだが、立ち上がったその瞬間、まるで呪いがかかったように、レイコの着物の全体が鉛のように重くなり、全身が金縛りにかかったように身動きがとれなくなった。

  テツオは空を凝視する。太陽光がまっ白な閃光となり、彼の視界をさえぎって、目の前が激しくゆらいでいっている。

  -・・下降を始めるオスドロン・・。その機体からの熱風に晒されて、地表から水気が消え失せ、まるで全てが陽炎みたいに、焼かれては殺されていく・・。野菜畑も花畑も、着陸するオスドロンに焼きつぶされる・・。そして機体からは数人の兵士たちがあらわれて、私の方へと向かってくる。彼らは火炎放射器で樹や花々に火を放ち、私を女と見とめるや、狙った獲物を逃すまいと、ブーツで花を踏みにじっては、ニヤニヤと笑いながら近づいてくる・・。彼らは近づいてくるにつれ、私が女でないと気づいたのもいたが、それが逆に興味をそそったのか、彼らは動けないでいる私を取り囲み、面白そうに嘲笑い、ある者は銃口を向け、ある者は刀を抜いて、またある者は早や己のズボンを下ろしては、自分のモノを晒しつつ、私に手をかけようとする・・・-

  -太陽の閃光が過ぎ去って、オスドロンが島の遠くへ飛び去っていくのが見える。樹木は緑に広くおおわれ、花々は色鮮やかに風に吹かれて、鳥は歌い虫は飛びかう。すべて自然は美しいまま・・、そして私も美しいまま・・・。そう、私はただ、白昼夢を見ていたのだ・・・-

 

  オスドロンはどうやら上空からの偵察だけで、海の向こうへ飛び去っていったようだ。しかし、テツオは気持ちが悪くなり、花を見るのもそこそこに、急いでこの場を去っていく。動悸が激しく襲ってきて、呼吸も荒く、足取りも乱れたまま、彼はとにかく教会へと向かっていった。

  テツオは、ダンテの門を模したみたいな教会の扉に手をあて、それを両手で重々しく開けると、そこからは一筋の光が差し込み、正面のイエスの十字架・祭壇を明るく照らし出していくのを見て、とりあえずはホッとする。そして彼は祭壇下の特等席に、今日はいないはずのキンゴがなぜか、いつものように座っているのに目をとめる。   -・・・キンゴは、今日の模試だろうか、白い冊子を手にしながら、うかない顔でうつむいている。おおかた、模試の出来が悪かったので、早めに切り上げ帰ってくると、彼もまた今日は島で一人と思って、ここに座っていたのだろう・・-と、テツオは遠目に見ながら思うのだが、落ち込んでいるせいか、未だテツオに気づかぬキンゴの姿を、やや落ち着きを取り戻したテツオの方は、詳細に描写しはじめる。

  -トップスは、シャツというよりもはやブラウス。ほんのりと素肌が透けるピュアホワイトの光沢も麗しいシルクシフォン。前立てには大きくフリルが仕立てられ、オーロラみたいに胸元を波打たせてはラッフルのよう。デコルテや背中も少しあけられて、それでもやり過ぎでない肌見せからは盛り袖のパフスリーブが、シェルのようなプリーツが扇開きに施されたカフスへと流れている。そしてこの華ありディティールのトップスには、ボトムズはインディゴブルーのストレッチのききそうなスラリとした細身のデニムと、メタル感あるヒールのミュールがのぞいている・・・-

  キンゴも今や、テツオの姿に気づきはじめる・・・。二人の視界は互いの姿に集中していく。その視線は、扉から差し込む光と祭壇のステンドグラスからの光が互いに交わり、二人の輪郭がぼやけるのを貫くように、彼らの意思を代弁して、やがては結びあわされていく。そしてテツオは、この二人をつなぐ視線に沿って、扉からの光を背に受け、ここは再び女っぽウォークでキンゴのそばまで歩いていくと、テツオをじっと見つめたままの彼を横目に、両ひざと両足そろえて、近くの席へと着席する。キンゴはそんなテツオのなりを、張り付くような眼差しで追いながら、模試の悪さにうつむいていた姿勢を正し、スラリとしたデニムの足を伸ばしては、テツオと向き合おうとするようだ。

「・・・、テツオ・・、今日はレイコ先生とユリコと一緒に、課外授業の美術館に行ったのでは?」

「いいえ、先生とユリコは二人だけで・・。僕は・・、いえ、あたしは・・、島にいたけど・・。」

  テツオが女言葉を続けようと思ったのは、キンゴの首にネックレスと、耳に輝くイヤリングを見とめたからだが、どうやらそれだけではないらしい。

  -彼・・、あたしに負けず劣らず綺麗だわ・・・。あたしと違って、うっすらとほどこされたアイスブルーのアイシャドウ・・。それがピュアホワイトのトップスと、インディゴブルーのボトムズに陰翳の調和を与え、よく整えられた細眉と、その一重の目にもマッチして、とても艶めかしく見える・・。額にひさしができるほど、コシとハリと艶のある真ん中分けの前髪が、その細面のうりざね顔にストレートにほどよくかかり、男としても女としても形のいい輪郭を与えている。彼はもとよりシルクのお肌・・、少年みたいなピンクの頬と、モネの絵みたいな印象的な赤唇は、メイクなしでの天然の賜物かも・・。ああ、どうせ同性でも、ここまで素材のよさを活かすのなら、美しいと認めてあげてもいいけれど・・。でも、彼にあたしは、逆にどう映っているのかな・・? 彼のあたしを見つめる瞳は、麗しげに潤んでいるようにも、見えるんだけど・・・-

  そう。KYとはいえ、喜怒哀楽は正直にあらわすキンゴは、ここはプライドにはとらわれず、テツオに胸キュンみたいであり、はや片手でリモコンONにして、その感性でのベストマッチのBGMをかけ始める。

「これはね、キリストの最後の晩餐に供された、“聖杯”を守護する騎士の物語-ローエングリンの第一幕への前奏曲だよ・・・。」

  そう言って、キンゴは曲にあわせるようにゆっくりと近づいて、テツオの隣の席へと座る。教会中に響き渡るBGMの調べとともに、彼が発した“聖杯を守護する騎士”という言葉が、祭壇へと降り注ぐステンドグラスの七色の光とあいまって、よりロマンチックな雰囲気を醸し出してくるようだ。

  そしてキンゴは話しかける。

「テツオ、君はよく“美意識”とか“美の絶対性”って言うけれど、その源泉って、いったい何?」

  テツオはとても嬉しそうに、キンゴにこたえる。

「それはね・・、“花”よ。」

「“鼻”?・・」

「そう、花よ。花があたしの美意識の初めであり、また同時に終わりなの・・・。」

「・・・じゃあ、君のその美しい鼻にキスしても、いいのかな・・・?」

  テツオは少し不思議だが、この教会にも彼の花がいけてあるのを見回した。

「えっつ?・・、ええ、どうぞ。近くにあるし、いつだってお好きな時に・・・。」

  と、テツオが言い終るや否や、キンゴはまさにその通りに、テツオの鼻へとキスをする。

  -ああ、何て、彼らしいKYぶり・・・。でも、僕は、一度この身に刻印された、あのモネの絵みたいに印象的な、アネモネの花のような赤唇の、やわらかくて優しい感じが忘れられず、また、たまらなく愛おしくなってくる・・・-

  テツオは彼の鼻から離れていく、キンゴの赤い唇と、うっすら白いシルク肌、ほんのり灯るバラの頬、しっとり艶ある黒い髪・・・それらを見つめていきながら、彼とは違った趣の、美少年・美青年たるこの親友への、今まで抑えてきた恋しさと愛おしさが、ローエングリンのBGMで増幅され、白鳥が湖を打ち、その波紋が水面に広がっていくように、心の中から響きあって溢れてくるのを感じている。そしてテツオは、テーブルから引きあげられるキンゴの片手-その白磁のような艶やかさと繊細さ、ほんのり灯った指先と爪の朱るみ-に思わず手をやり、彼の方へと引きよせて、自分の頬を押しあてると、その白磁のような手の甲と、コスモスみたいなピンク色の手のひらへと、一つ二つキスをしていく。キンゴの手は冷たかったが、テツオはそれがより硬質で上品な白磁器のイメージへと、重ねられていく思いがする。

  彼ら二人は再び顔を寄せあって、今一度、互いの瞳を見つめあわせる。そして暗黙の合意でもあるかのように、お互いの衣装のなかより胸元をゆっくりと広げあい、その両方の小さな蕾と膨らみを、突起部を爪先で奏でつつ、まさぐりあおうとするのだった。キンゴの方が腰を浮かせて、ややテツオの目線の上にいるので、テツオは首を右へと傾け、喉笛のばして顎をあげ、上向きに唇を少し開きかけたまま、ゆっくりと瞼を閉じる・・・。

  -ああ、僕ら二人の、互いの薄い唇が、音もなく重ねられ、まるで葉と葉が触れ合うように、キスが施されていくのを感じる。僕らふたり美少年・美青年の、樹の実のように赤い唇・・・。二人のキスは、男子らしい頬の平たさ、触れあう鼻先、首すじから顎にかけてのシャープな感じとあいまって、鋭角的で硬質な質感さえも漂うが、また同時に艶やかで温かく、そして何よりお互いに優しかった・・-

 

 

  そしてテツオの中からは、とある声が聞こえてくる。

  -僕らはこれからお互いに、このまま下まで“脱ぐ”のだろうか・・・?-

  テツオはうっすら目を開けると、キンゴのピュアホワイトのトップスの開かれた襟の間からは、彼の華奢な胸元が、上気で朱く染まりながらも激しく鼓動を打つのが見える。そしてテツオは、県の中学校の水泳で見た、キンゴの海パン姿を思う。

  -彼はもとより色白で、肩幅せまく柳腰。お尻も胸もペタンコで、乳首のあたりを揉んだとしても、僕ほどムッチリしてないし・・、僕の方が男子の裸体美では勝る。だがしかし、彼のペニスは立派だった! 当時、僕は今日ほど、ペニスを研究しておらず、生えかけていたヘアにとまどっていたくらいだったが、すでにキンゴは巨砲を備えて、それをヘアで飾る余裕さえあったのである・・・-

  このわずかな一刹那に、テツオの在りし日の回想は、走馬灯みたいに脳裏を駆ける。

  -濃紺の学校既製の海パンに、肉体的にも精神的にも圧迫されて、所せましと横向きに仕舞い込まれた彼の太マラ・・。その女形みたいな可愛い顔とは裏腹に、男らしい太さと長さ、そして堅そうな質感までもが、あたかもフランクフルトのそれみたいに股間に刻印されている。それを彼は、“オレのよりでッけえのを持ってるヤツは、どこのドイツだ?”と言わんばかりに、腰に手をあて堂々と構えては、周囲に見せつけたかったのかな・・・-

  今やダビデ像ばりの裸体美を誇るとはいえ、性については早熟とはいえなかったと回想するテツオにとって、さらに追い打ちをかけたのは、最近彼が自分の長さが、ヒトのペニスの平均値に届かないと気づいたことのようである。

  -たしかにダビデ像のも大きくないし、俺はこれも、ウマは長いというものの、塞翁が馬のように短所は活かせるはずであると、女のショーツがはけるのかもと、そして実際はいてみて、文字どおり丸く納まったのを見て、むしろラッキーと思い込もうとしたのだが、こと男同士で対面する事態となっては、股間と沽券にかかわるだけに、話は別だ。・・・-

  -もし、彼のとここで“対面”して“鞘当”となり、あの長く太いのがブルンと一振り、それで俺のがナエたりすれば、シャレにならねえ・・・。だから俺は、決して脱がねえ!-

  やがてテツオは、“男のニオイ”を感じはじめる。それは彼の嗅覚によるというより、行為の端々、お互いの息づかいから漏れ聞こえる、男固有の暗号にも感じられる。それは彼自身にもキンゴにも、いやおうなく生じてきているもののようだ・・・。テツオは瞼をはっきり見開き、キンゴの愁うような長いまつ毛を真近に見るが、開かれたその視界には、テーブル上の模試と並んで置かれている男性週刊誌の表紙を飾る、エロい表題うたい文句の数々が、堂々と入ってきた。そして彼の脳裏には、忘れようとしていたはずのあの忌まわしい白昼夢の、自分に向けられ迫ってきた兵隊たちの赤黒いペニスらが束になって、まるでメドゥーサのヘビのように襲いかかってこようとするのが、よみがえってきたのである。

  テツオは今やキンゴとの口づけから離れると、開口一番、口走る。

「ねえ、キンゴ。あなたもあたしも男でしょ! あなたも女をレイプするのを、想像できるの?」

「何だってこんな時に、急にそんなヘンなこと言うんだよッ?! 君らしくもない!」

  テツオのこの一言が、キンゴをすっかり男へと戻してしまったみたいだが、それでテツオはテーブル上の、キンゴが見ていた週刊誌を開いて見せる。

「だって、この週刊誌の袋とじって、定規で切って開いた跡が、あるじゃないの。」

「そ、その雑誌は、医学部難易度ランキングと、医療ミスと抗がん剤副作用の特集があったからこそ、見てたんだよ。男性週刊誌って一見スケベみたいだけど、マスコミが封じるような真相話が時折あって、特に医療や税金、政権批判、相続問題なんかでは、けっこう役に立つんだよっ!」

「でも、それが、この袋とじの-乳ポロ、パンチラ、破れタイツに、トイレで目かくし隠し撮り-と、いったい何の関係が、あるっていうの?」

  テツオはキンゴを問い詰めながらも、-こんなので勃起が持続できるなんて・・、うらやましい-と、感じる自分も意識している。

「模試の出来が悪かったから、ムシャクシャしてついコンビニで買ったんだよ! 君も男ならわかるだろう!・・・。いや、もはや、そういう問題でも、ないのかな・・・。」

  そしてテツオは、図書館のある本棚の一角を指さして、気になっていたある事をキンゴに尋ねる。

「あの一連の書物って、最近あなたが持ち込んだんでしょ。あの類の書物というのは、意図的に集められたと思うのだけど・・・。」

  と、テツオはここで、今日オスドロンがまた飛んできて、あの忌まわしい白昼夢を見たことを、キンゴに説明するのだった。すでに衣服を正した二人は、今や考えモードに入っている。

「ああ、そうか。これでわかった・・。その白昼夢を見たというのは、君があの書棚の本を読んだからだろ・・。あれは僕が実家から持ち込んだものだけど、僕の母方の遠戚に中国大陸に侵略した元軍人がいて、あの一連の“元兵士の証言集”ともいうべき書物は彼が生前集めたもので、母が離婚をした際に実家に置いていったのを、僕がこの図書館へと移したのさ。この島はこれからも、核に追われ社会に捨てられ、僕たちみたいにノアの箱舟に乗ろうとする若者たちが来るだろう。これらの書物はそういう次の世代の人達にこそ伝えられねばと思ってね・・。・・しかし、女に化けたその途端、レイプの恐怖に怯えるなんて、僕たち男も罪なこと、してるよな・・・。」

  キンゴの愁いを帯びた眼差しは、相変わらずも美しかったが、彼は気勢が失せたようにテーブル席に腰を下ろすと、以前から何か考え事をしていたのか、テーブル下から何冊かの本を取り出し、週刊誌の上へと置いて、テツオに向かって開いて見せる。

「これはね、V・E・フランクル氏の有名な『夜と霧』(1)という本で、この書にある写真が載っている。・・・裸にされた女たちが、軍服を着た男の兵士らの前を、一列に走らされる。彼女たちは生前最後に汚辱と恥辱、一生分の辱めを受けながら、強制され、恐怖にかられ、反抗するすべもなく、死への入り口、ガス室へと向かわされる。そしてそれを制服姿の男たちが、列になって、おもしろそうに、眺めているんだ・・・。あの書棚にはこの類の証言が、いっぱいあるのさ・・・。」

  呆然と見つめているテツオを横目に、キンゴは今まで悩みぬいた後なのだろうか、もはや恬淡とした感情のない表情で語り続ける。

「僕はね、君のその白昼夢に似て、この写真は最初は衝撃的だったけど、3.11から核との共存を受け入れて、僕たち子どもを捨てるような社会を生きて、また、君との進化論を経てきた今では、この写真にはある真実が映っているとも思うんだよ。」

「この写真に、どんな真実が映るというの?」

  キンゴはここでテツオの目を見て、確認をとるかのような口調で述べる。

「それは、僕たちホモ・サピエンスの、“正体”だよ。」

「私たちサピエンスの、正体って?」

  その顔色はすでに白く、血の気も失せてきているようだが、キンゴはそのまま語り続ける。

「こうしたレイプや虐殺は戦争にはつきもので、俗に“戦争は人を狂わす”とか、“戦場では人は野獣と化す”とか言われて、まるで戦争という特別な状況が原因であるかのような言い方がされているけど、僕は逆に、この写真の方が僕たち人間の真相をとらえていて、人間-特に男は-己をこうして解放したいがために、定期的に戦争を望んでいるんじゃないだろうかとさえ思うんだよ。もちろん逆に、女兵士が捕虜の男らにオナニーさせて楽しんでたって話もあるけど、圧倒的に少数だろうし、それにだいたい野獣たちは、こんなことしないだろ。」

  キンゴはあくまで冷静に語っているが、テツオには彼の秘められた緊張感が伝わってくる。キンゴが出した本の中には、『元兵士が語る・戦史にない戦争の話』(2)というのもあって、そこには誰がつけたのか付箋とマーカーが印してあり、それはテツオの記憶にも深く刻み込まれたようだ。-・・・強姦、輪姦、略奪、放火、そして虐殺・・・人間は兵士となって戦地に臨むと、インテリも、無学なものも、上流階級、労働者階級にあるものも、何ら違うところはなかった・・・兵士の任務は人を殺すことであり、だから兵士は平時にあっても人を殺す練習をした・・・強姦も斬首も、一種の流行みたいに行われた。なぜそんな酷いことをと問いかけられても、明確な答えはできない・・・好奇心、見栄張り根性、戦場心理、嗜虐心など、兵士間での競争意識と出世欲、ハッタリをきかせたいという気持ち、連帯感・・・他の者が人を殺したと聞くと、自分も負けじと人を殺し、女のレイプの自慢話を聞かされると、自分もレイプをしなければ恥ずかしい心持になったのである・・・。このように、もし現代人が当時のような国情で兵士となって戦場へと臨んだのなら、必ず同じような蛮行をすると、私は断言できるのだ。蛮行をするしないは、自分の意思だけで、どうこうできるものではないのだ・・・-

「これらの本を残してくれた元軍人という人はね、タオルをバサッと振る音が首切りの音に似てるといって、家の者は誰ひとり、タオルを振ることはなかったと、僕は母から聞いたんだよ・・・。」

  キンゴは大きくため息をつきながら、ここからは自分の意見を述べるみたいだ。

「こうしたレイプは戦場だけのものだろうか? 僕は書店やコンビニに行くたびに、女の裸が商品化され、甚だしきは、ボンレスハムみたいに縛られたり、吊るされたり、また、イヌみたいにはわされたり、そんな写真が繰り返し青少年の目につく形で再生産されているのを目にするたびに、これはレイプのイメージトレーニングと同じじゃないかと思うんだよ。これは性欲なんかじゃない。これは“嗜虐心”-虐待を嗜み味わうという心の産物なんじゃないだろうか。つまり僕たち男の性は、君がいう美意識よりも、日常的に恒常的に、こうした潜在的な商品レイプや合法レイプの強迫観念に晒されて、あたかもそれが男性固有の生物的な特質であるかのように、また、女性に対する一種の治外特権であるかのように、思い込まされているのではないだろうか。だいたい女性が夕暮れ以降、一人で安心して外に行けないということ自体、おかしいだろ? これは差別による脅迫を受けているのに等しいことで、ユダヤ人、中国人、あるいは僕らも、自転車に乗るな、公園に入るな、バスや汽車の席に座るなということと、同じことではないだろうか。

  テツオ、君はよく花は美しいって、そして花は本来“生殖器”だって、言ってたよな。では、なぜ、僕たち人間は、同じ生殖器である母なる女陰、性なる、生なる、聖なる女陰から生まれながら、まるで花を踏みにじり、炉に投げ込んで捨て去るように、女性や女陰を汚し、さげすみ、愚弄して、嬲りものにすることを、嗜み味わい楽しもうとするのだろうか?!」

  やや涙目になりながらも、熱心に聞こうとするテツオに対して、キンゴも彼を信頼して語り続ける。

「僕らが話し合ってきた“性=SEXによる進化論”に基づいて考えると、絶滅した他の人類たち-ホモ・エレクトスやネアンデルタレンシス等-はわからないが、僕らホモ・サピエンスというのは、こうして一方の男の性が、もう一方の女の性を、不当に差別し虐げて進化してきたんじゃないだろうか。それは僕らサピエンスの雄のペニスが、自然淘汰の原理ではあり得ないほど、弱点である腹部とともに前に出て、四足動物に狙われやすい急所であるにもかかわらず、しまい込まれず恒常的に露出して、しかも霊長類最大に極大化したことにも表れていると思われる。なぜなら、それは、雌に対する自己顕示=見せびらかしとこけおどし、槍のような暴力性の象徴と解釈すれば説明がつくからさ。つまり、僕たちホモ・サピエンスの雄の祖先は、そもそも自然に一定の傾向がある雄が雌より大きいという性的二型の特質を利用して、愛よりも力による支配の方を確実にしようとしたんじゃないだろうか。そこで己のペニスを、威嚇と虚栄、力の誇示の象徴として巨大化させ、雌に対して、“これが俺様の力をあらわす。俺がお前を守ってやるから、俺に従え”としたのだろう。そしてこれがいわゆる“安全保障”の始まりでもあったのさ。・・フッ・・、だから僕は、でっけえチ○ポが、時おりアホくさく思えるのさ・・・。」

  もとより綺麗なキンゴの顔が、アイスブルーのアイシャドウで憂いを帯びつつ、それが今の自虐的とも思われるセリフでもって、ますます憂いを増していくのが、テツオには愛おしくなってくる。

「キンゴ、ごめんね。あなたのそんな気持ちも知らずに、フランクフルトなんて陰口言って・・。」

「何だよ、そのフランクフルトって?」

「い、いや、これは、もう過ぎ去った中学校の事だから・・・。ね、キンゴ、あなた決して、それで自分を卑下しちゃダメよ。うらやましいことでもあるんだし・・。」

「卑下してないよ。何だよ、そのうらやましいことって?」

  -パンツじゃないけど、またボタンのかけ違いがあったみたいだ-と思ったテツオは、ここで話題の転換をはかろうと、今日一日、ハチやゴキブリたちと話したことを、かいつまんでキンゴに話す。もちろん、自然からの霊感ということにはしたが、キンゴは納得しながら聞いてるようだ。

「そうだ、そこだよ、そこなんだよ! 従来の定説では、愛を知り、愛しあうのは人間だけで、知恵を持ち、理解しあうのも人間だけだということになっていた。しかし、現実に人間は、戦争をやってなければ気がすまないし、ジェノサイドも繰り返すし、原爆と原発で核権力に依存・共存するかわりに僕たち子どもを犠牲にするしで、とても知恵や愛に根差している生き物ではないんだよ。この真相は、今君が言ったように、人間ではなく、“自然が知性をもっている”ということなのさ。あの黄金比の1.61にせよ、それが多くの物理的現象にあらわれていることから、それを“美の作用量子”と呼ぶにせよ、自然がヒトに先んじて、本質的に美と美意識とをもっているということは疑い得ないと思われる。美意識とは意識そのもの、それは知恵であり知性であり、意思であり意志でもあり、要するに“愛”そのものでもあるわけさ。自然はこれらを分別しない。我々ヒトも自然の一部に違いないから、人間ではなく、自然のおかげ、神様の愛のおかげで人間も、どうにかこうにか全滅を免れて生きてこれたというわけなのさ。むしろ真相はこうだと思う。この自然に反抗する形で、僕たちホモ・サピエンスは、差別と暴力と権力の意志というのを、まずはその性=SEXの男女において基礎づけながら、進化のなかでこの自然への反抗を、ますます募らせ培ってきたんじゃないか。“差別と暴力、そして権力への意志”-むしろこれこそが我々ホモ・サピエンスの正体で、それは、つまり、“奴隷”だよ!」

  力をこめて“奴隷”と言いきるキンゴにつられて、テツオも深く納得している。

「だから、僕は、人間の正体はこの写真につきると思う。“蛮行するかしないかは、自分の意思でどうこうできるものではない”という言葉にもあるように、人間の意思や判断、また俗にいう“自我”なんて、本当は“無い”んだよ。あるのはただの“奴隷性”だ。だから、この写真にあるように、女を裸にしてガス室へと走らせている兵士たちは、人間のあらゆる組織の原型たる軍隊の制服を着ているだろ。どんなに自我を破壊して蛮行を繰り返しても、組織への帰属心と忠誠心は、このように不変にして不動なのさ。このように自我ではなく、奴隷こそが本質であり、そしてこの“奴隷性”こそ、我々サピエンスという人間の正体なんだよ。」

「では、なぜ、私たちサピエンスは、生まれながらの“奴隷性”をもっているの? 私たちの進化の中で、そうならなければならないような特別の理由なんかがあったというの?」

「そう。そこが肝心な所なんだ。我々サピエンスが、なぜ、知恵でもなく、自我でもなく、奴隷性に根差しているか-ということだろ。その原因を探っていくと、それは昔から仏教がいうように、“執着”に行き着くだろう。ここが同時にサピエンスの始まりにして、終着でもあるように。

  そう、僕ら人間=サピエンスは、まさに、初めに“執着”ありき-だったんだよ。執着があるからこそ、自分の体に執着して“自我”が生まれて、その反作用たる“他人”が生まれる。執着があるからこそ、身の回りの“モノ”に対する“物欲”と“所有”が生まれ、自我への執着が他人との絶えざる“比較と差別”を生んで、他人より勝りたいとの“欲望”が際限なく再生産され、他人に対する“支配欲”から“権力への意志”が生まれる。これで“奴隷性”が始まって、あとはこうした永劫の苦の輪廻が再生産されつづけて、ついには最終的な破壊力たる“核権力”へと人間は行きつくわけさ。

  テツオ、君と僕とは、3.11より考えに考えぬいて、ついにここまで来たんだよ。ここが我々人間=現生人類=ホモ・サピエンスの、正体にして終着点さ。つまり、ここが僕たち人間の“底”であり、“絶望のしどころ”なんだよ。3.11直後の頃に、“まだ絶望が足りないのでは”(3)との言葉を聞いたが、僕は自分たちの正体を奴隷と知った今こそが、まさにその“絶望の底”だと思うよ。」

  と、ここまで語り終えたところで、キンゴはまた別の書物を取り出しては、テツオに見せる。

「これは僕の独り言かもしれないけれど、僕ら人間=サピエンスの根本が“執着”ないし“執着力”であることは、次のことにも関係してるんじゃないだろうか。ほら、いつか、レイコ先生が授業で言ってた、物理学が目指している大統一理論がいう所の宇宙を統べる“4つの力”-すなわち、重力、電磁力、強い力、弱い力の“力”って、いずれも引き合う力を中心に考えてるだろ。これってもしや、人間が執着力をもつからこそ見出そうとする、執着力に由来する人間特有の自然の見方かもしれないよ。だって、この定説にしてみても、宇宙や自然が最終的にこの4つの力に集約されるなんてこと、普通に自然を観察しても、これって何かおかしいって、思わないか?

  以前、レイコ先生が、このセント・ジェルジの『医学の将来』(4)から引用して教えてくれたろ。

  -私の研究室ではまもなく2種類の分子を分離するのに成功した。・・それ以来、20年間も研究を続けたが、結局前進しなかった。私の見逃していた一つの重要な点は“構成”であった。すなわち、自然が何か意味あるように2つのものを組み合わせると、その構成要素の性質からは説明できない新しいものが生ずるということなのだ。このことは、原子核や電子から巨大分子や完全な個体に至る複合体の全領域にわたって真実である。つまり、私が2つのものを分離した時、すでに何かを捨ててしまっていたのである。・・分子間のその力は、近距離のみにはたらく力で、広がりや大きさのある膜や層状構造の意味を説明するものではない。・・どのようにして、分子の次元からより高次の細胞への次元へと進むのだろうか。・・この相互作用こそ、最高次のすべての機能を生ずるもので、意識、記憶、追憶あるいは学習等の精神現象として現れるものである。-

  ということはさ、こうした感じの“構成力”というべきものが、自然界にはあるはずなんだよ。つまり、電子、原子から元素、分子へときて、なぜ、それからより高次の段階である、たとえば、種から芽、芽から苗、苗から葉や茎、そして花、またさらに花から実、そして再び種という命のめぐりは、それらを取り巻く大気や気候、風や虫たち、微生物に至るまで、すべてを含めた何らかの“構成力”みたいなものが自然界にはあるからこそ行われると、テツオ、君だってそう思うだろ!」

  テツオは、これらのことは全て畑の観察からキンゴに話してきたことなので、全く深く同感する。

「だから、互いに引き合う力ばかりに目がいくのは、僕ら人間=サピエンスがその根本に“執着力”をもっているからじゃないか。それだけじゃない。執着は自己の身体へと取り着いて“自我”が生まれて、その自我をもとにして“他人”が生まれ出るように、“執着”は自と他のような“相対知”のもとなんだよ。アダムが食べた知恵の実の、善と悪とを知るという相対知は、この執着から必然的に生まれてくるのさ。物理でいう相対性や対称性も、この相対知からくるものだろう。ということは、ともすると、人間の自然科学というものは、自然を客観的に見るとはしながら、実はホモ・サピエンスに特有の執着力と、それにともなう相対知というある一面、ある窓の一角から自然を垣間見たにすぎないものかもしれないよ。そして、この執着と相対知とは、まさに創世記において、神が“善悪を知る知恵の実は決して食べるな。食べたが最後、死ぬことになる”(5)と言った通り、結果的には致命的なものだったのさ。それはその初めから、自然に対する反抗を秘めていて、いっさいの生、性、美、愛、そして真実や真理というものに対して、もとより“相反する”ものとして表れるんだよ。」

「では、なぜ、人間は、“執着”をもつように、なったのかな?・・・」

  考え込むテツオの顔をじっと見ながら、キンゴは何かに気づいたようだ。

「テツオ、さっき君は、“自然は知性をもっていて、それは光が担っている。知恵を扱う人類は、実は光に依存している”と言って、ネアンデルタール人の絶滅の原因には、ひょっとして、“光”に関する環境変化-たとえば光は電磁波でもあるのだから、その電磁波に関連して、地球磁気の変化など-があり得るのでは、と言ったよね。生物の進化とは、地球における環境変化の適応によるものが多いだろうし、また、たとえば紫外線に対して体表を黒くするみたいに、適応にはこうした一種の“抵抗”も含まれると見ていいだろう。それで何千年か長期に渡って同時代を生きていたにもかかわらず、ネアンデルタール人が絶滅してサピエンスだけが生き残った理由というのは、もしかするとサピエンスは、この地球磁気の変化に対する何らかの“抵抗力”を持ってたからで、この“抵抗力”がそのまますなわち“執着力”の原因になったんじゃないだろうか。つまり、我々サピエンスは、ネアンデルタール人とは違って、地磁気が多少変化してもビクともしない強い力を、大脳にエネルギーを結集させて抵抗力として維持し続けた。だから我々サピエンスは生き残りはしたのだが、今度はその抵抗力が執着力へと発展して、人類とはいえ皮肉にも自ら奴隷に転落し、またこの抵抗力は、知性を担う“光”への抵抗でもあるのだから、必然的に自然に対して抵抗・反抗するものとなり、光=自然に対して相反するものとなる。だから我々人間は、戦争も環境破壊もジェノサイドもやめないし、ついには原子爆弾をつくり出し、最終暴力たる核に依存し共存する。そして原爆・原発で、地球にほとんどないようなエネルギーの強烈な電磁波であるγ線を大量に放出させることにより、あのネアンデルタール人と同じように、γ線という“光”に関する環境変化に適応できずに絶滅し、これで“光”を原爆・原発で、自然と命を破壊するのに利用した人間への、同じ“光”によるその因果応報は、こうして完結するのである-こんな仮説に、なるんじゃないか。」

  ここまで言われて、テツオはむしろ絶望を越え、感動さえも覚えている。

「キンゴ・・・、すげぇよ、すげぇよ、この仮説って! この理路整然ぶりは美しくさえもある!」

「テツオ、有難う、褒めてくれて・・。でも、君は今、すっかり男に戻ってしまった・・・。」

  感動に打ち震えているテツオの両手は、再び愛するキンゴの両手を握っている。キンゴはそんなテツオを見つめて、またもう一つ、話を進める。

「テツオ・・、僕が思うに、この話はここで終わりじゃない。・・以前も言ったことだけど、僕らはもう言わずもがな、お互い“LGBT”・・だろ。」

「キンゴ・・、そうよ。あたしたち、これでお互い、カミングスーンよ。」

「・・いや、カミングアウトと言うべきだろな。それで僕が思うのは、これで我々ホモ・サピエンスが、核の因果応報で当然ながら絶滅をするとしても、生物進化で人類は何百万年も生きてきたから、人類はすべて絶やされるのではなく、絶滅をするサピエンスから、きっと新たなヒトの種が、生まれる=分岐するってことなんだよ。僕はこれが“核と共存する人類に、次の世代の子供たちが生きる意味”というものを示していて、僕はここに僕たちLGBTの究極の存在意味があると思う。つまり、僕たちLGBTは、この核との共存という人類最悪の危機の最中で、今まさに、人類の次なる進化の扉を開けようとしていると、思うんだよ!」

 

  図書館を出発して県の中央駅でバスを降りると、先生と私の二人は、先生が寄りたい書店と、おすすめの紅茶のお店に通じている商店街へと歩いていく。この商店街は、西の“ライオン通り”に対して東の“ドラゴン通り”という名前だったが、市に山のような脅迫状が来たとのことで、“旭日通り”と改称されて、おまけにパン屋さんたちは、軒並み和菓子屋へと入れ替えられたということだ。

  私は先生と、商店街の交差路にある大きな書店へ入っていく。この書店は再開発にともなって首都圏から進出してきた書店であり、先生は以前から“忖度書店”と嫌っていたが、専門書がそろっているのはここだけだからと、しぶしぶと入っていかれる。

先生が専門書棚に行ってる間、私は入り口付近で雑誌を見ながら、先生を待つことにした。この書店の新刊雑誌コーナーは、入ってすぐの一番目立つ所にあって、3.11直後の頃の脱原発本がそろって一掃されたあとは、いわゆる嫌韓・嫌華本がズラリと並び、またそれと並行して、自衛隊から国防軍へと数多くのミリタリーブックスそしてグッズの類が並び始めた。その内容は、もはや化石のような関ヶ原の戦記本や、ノスタルジックに演出された第二次大戦、そしてそれらと対称的な今風の“血を見ないで済む戦争”を期待させると謳われている無人機などの最新兵器の写真集やプラモデル、はては兵器の“ゆるキャラ”やミリメシそしてミリタリーファッションに至るまで、実に豊富に取り揃えられているのだった。そして最も目につくように置かれているのは、国防軍の広報誌、その名も“スパルタ”というグラビアである。

  この“スパルタ”誌はその名の通り、軍事教練で鍛え抜かれた選りすぐりのイケメンが、“国防のエロイカ”たちとの特集でタレントまがいに毎号の表紙を飾り、ページをめくるやめくるめく続々と同じような筋肉質のイケメンたちが、制服姿だけでなく、自室でくつろぐ私生活や、テツオが好きなミケランジェロの絵や彫刻みたいな教練中の体操や水泳姿であらわれて、そして次に同様の“国防のマドンナ”たちという女性兵士の特集が続いている。軍権力は、これが女性兵士だけ表に出せば、オヤジたちの週刊誌に似てポルノまがいと批判されるのでそれを避け、また一方で“この素敵なお兄さん・お姉さんたち先輩が、君たちを待っている”とのフレーズで、若者たちをより幅広く引き寄せられるということを、ちゃんと計算しているのだ。これが写真を中心として、さらにアニメチックでコスメチックに描かれるものだから、銃や戦車、戦闘機などの兵器を含めて、すべてはゲーム感覚のヴィジュアル世界の枠に納まり、イジメや暴力、血の匂いはどこにもない。この広報誌は、学校・図書館・駅舎など青少年の目につきそうな至る所に配布され、また学校で、県知事・市長・教育委員会そして学校長らの推薦・推奨・肝いりで行われた、国防軍勧誘ポスターコンクールや、運動会や体育の授業の延長として位置付けられた軍事教練の一部取り入れ等々を、広く深く浸透させる役割を担っていて、それらすべては“徴兵制”につながっていたことは言うまでもないことである。

  しかし・・、若い子たちはこんな銃や戦車や戦闘機を、ラジコンを操るみたいにカッコイイと思うのだろうか? そして今まで所構わずスマホを触っていたその手で、本当に銃や戦車や戦闘機を操縦し、あのボンヤリした目で攻撃したり、殺戮したりするのだろうか・・・? 今、私の目前の通りにて、スマホしながら前も見ないで歩いているゾンビのような人たちが、本当にできるのだろうか?・・・

 

  ・・・兵士としての父を亡くした私にとって、その死は未だ実感できない。そればかりか、私は未だに悲しくもなく、涙のひとつも流していない。私にあるのは“絶対に納得いかない”という思いと、兵士を戦地に追いやって無関心を決め込んでいる世間に対する怒りと恨み、そして呪い、それらが総じて私に結集した“怨”の思いだけである。それは私があの島のノロとなり、自然のなかで回峰行を行じるようになってからも変わらない。いや、それどころか、繰り返し地固めがされるように、ますます強く私の心の奥底に根付いていくのを私は感じる。

 

 父は戦場から帰らなかったが、それはある意味、幸いだったか

 世間は煽り、巷には敵意があふれ、兵士を戦場へと送ったあとは、

 人々は平和主義者の仮面を被る

 兵士はレイプ、虐殺の罪を負わされ、加害者はPTSDの被害者ともなる

 他人の眠りを奪ったものは眠れずに(6)、兵士は人の原罪の最前線に立たされる

 そして被害者同様に、彼らもまた棄民される

 しかし、もう放射能は容赦しない

 加害者も被害者も、国民も非国民も、敵も味方も見えない所で襲ってくる

 暴力に飢えるものも、無関心なものたちも、権力者も、偽りの平和主義者も、

 善人も悪人も関係なく万人に、公平に、差別なく、襲いかかる

 戦争とは人々が日常から起こすもの

 その意味で放射能=核戦争とは、人間の原罪の最終的な“鏡”といえる

 

「ユリちゃん・・、ユリちゃん・・・。」

  私の耳の下の方から、優しそうなアルトの声が、少し低めに聞こえてくる。

  先生、いつのまに、戻ってこられて、いたのかな・・・。

  私は急いで、目元をぬぐった。

「・・・ユリちゃん・・・、荷物・・、持とうか?・・・」

「い、いえ・・・。これは私のものですから・・。私こそ、先生のを、持ちましょうか?・・」

「いいえ。これは私のものだから、私が持つのが当然ですよ。じゃあ、紅茶のお店に、行きましょうか。」

  短い会話の一瞬だったが、私はこの時、あらためて、救われたような気がした・・・。

 

  そのお店は、書店を出て商店街の交差路を曲がって少し歩いた所、大通りの入り口の二階にあった。こじんまりした店内は乳白色の壁に囲まれ、マホガニーの調度品が落ち着いた雰囲気を醸し出し、いかにも善良そうで物静かなご夫妻が営まれていた。私たちは窓側の、表通りと街路樹がよく見える白いソファーに腰を下ろして、お茶とお菓子を嗜んだ。先生は、定番のダージリンを頼まれたけど、私が今回選んだのは、アールグレイをベースにしてブランデーに漬けたオレンジ一切れを入れたもの・・。飲み心地がよく、口をグラスにつけるたびに上品な香りが漂い、うっとりしそう・・・。でも、きわめつきは、私がずっと望んでいたこのお店のイチゴタルト。見た目も味も超一品で、イチゴの赤とクリームの白、そしてパイ生地のベージュで囲まれたその造形は、甘くせつない味わいともども、芸術的な感じさえする。お口にするや、まるで体中の全細胞が生き返っていくような、甘さと優しさ・・・。

「おいしいでしょう! 無農薬の紅茶もお菓子も、ここでしか食べられないのよ。」

  先生も、私以上に嬉しそうだ・・。

「先生、こう言ってはなんですけど・・、やっぱり女性に生まれてきてよかったと、思いませんか?」

  私は、この時とばかり、こっそりと尋ねてみる。先生は、白地にバラの花柄のティーカップをカチャリと置いて、

「本当、そう思うよねえ・・。特に、こうしている時にはね・・。」

  と、しみじみ共感してくれた。そしてその上こんなセリフも、つけ足してくれたのである。

「この時ばかりは、人間に生まれてよかったとさえ、私は思うよ・・。」

  ユーモアなのか皮肉なのか、こんな時、レイコさんは少女のようなお茶目な笑みをこぼすのだった。

午後の紅茶琥珀色の表面が、私たちの笑い声にあわせるように、やや波打っているかに見える。微笑をたたえた彼女のその黒い目が、窓の外へと誘うように流れていき、それで私もようやく解き放たれた気持ちになって、表通りを行きかう人と街路樹とを照らしている、午後の光を、感じはじめる・・・。

 

「キンゴ、私たちがLGBTだからこそ人類の進化の扉を開くって、それはいったい、どういう理由によるものなの?」

  そう問うテツオに、キンゴはまた別の書棚から本を取り出し、自分のノートもたずさえて、テツオの目前に持ってくる。

「テツオ、以前も君と話していたけど、そもそも何で生物に“性”があるのか-ということなんだよ。定説は、性があれば交配により遺伝子の交換ができ、DNAの損傷の回復や、また環境変化等による突然変異を次世代にも伝えられる等々を、性があるメリットとして強調しているようだけど、でもこの定説では世代の縦の系列しか語れないだろ。つまり、この定説では、たとえば竜の大型化といった、生物のある方向性をもった進化=定向進化が語れないし、また、隔たった地域でも同様に生じる進化=平行進化(7)も語れないのさ。たとえば僕ら人類は、の形が、幅と長さ、左右と前後の比によって長頭型と短頭型とに分けられるそうなんだけど、この短頭化が人種を問わず世界共通に起こっているといわれていて、これも遺伝子の交換は行われていないだろ(8)。また、体の突然変異から、それが自然淘汰や自然選択などを経て、集団の変化へと至るまでには気が遠くなるほど時間がかかるし、それに突然変異の出現率は10~100万個体に1個と低く、生物に有害な変異だって少なくはない(9)。それに、る生物の進化にあわせて他の生物も進化する=共進化という現象も、遺伝だけでは説明できない。また、自然選択とはいうけれど、選択されるその単位は何かという問題があり、それは生物個々の個体なのか、家族なのか、あるいはもっと広い群なのか、それとも最小の遺伝子なのか(10)といったことも、遺伝だけでは十分に説明できない。つまり、遺伝は性の交配によるものだから、縦の系列には及んでも、共進化などの横のつながりには及ばないから、性には遺伝やDNAの交換の次元を超えたもっと大きな役割があると見るべきなんだよ。」

「では、生物の進化において、その種をも越える横のつながりをもたらすものとは、何だと思うの?」

「それも君が言ってた通り、つまり、“光”さ。」

「“光”・・・。」

「そうさ、光さ。光はあらゆる生きとし生けるものにとって、縦であれ横であれ、つながりと調和をもたらし、生物界のバランスを保ちながら、互いに生きとし生かしめる役割をも担ってるんだよ。だから光は、生物の進化をも担うのさ。そこで生物の“性”というのは、実はこの“光”に対する生物のセンサーなんじゃないだろうか。ほら、近年、人間の雄の精子が50年で半減したとか、ある地域のカモメの中でメスどうしのつがいが増えたとか、オスの精巣が卵巣の特質を持っていたとか、雌雄同体も生まれていたとか、あるいはワニのペニスが委縮したとか、そんな報告がなされていて、その原因は、ある種の環境ホルモンや、ある種の化学物質と記している本もある(11)。そして僕らに縁のあるこの『チェルノブイリの被害の全貌』という本においても、“性における男性ホルモンの濃度の上昇、思春期の発来の遅れ、第二次性徴の発達異常、月経の周期障害、精子数の減少、生殖器系疾患の増加、生殖力や性交能力の低下”等の報告(12)がなされている。

  このように、放射能など有害物質による環境汚染が生じると、性と生殖器系はその影響を免れ得ないと思われる。その理由は、いわゆる環境ホルモン等による複合的な要因もあるけれど、もとより“性”が環境変化のセンサーで、その大本は、“性”が地球を含めて生物界をつないでいる“光”のセンサーだと解すると、説明がつくんじゃないか。このことは、また次の事象の説明にもなると思う。たとえばサカナの性転換は有名だけど、これは水中は陸に比べて光が届きにくいから、あらかじめ性を多様に変化させて、より光に効率よく反応しようとしているのかもしれないし、また、植物=花に雌雄同体が圧倒的に多いというのも、彼らは光合成を行うから、まさに光とともにあるわけで、光を体現しているからこそ、性そのものである雌雄を同時に備えていると、考えることもできる。」

「なァるほどォ!」

  テツオはゴキブリのつぶやきを、今目の前でキンゴがヒトの言語でもって次々と理論化するのを、感嘆の思いとともに聞いている。

「ということは、あたし達はLGBTだからこそ、光のセンサーたる“性”に、もっとも敏感に反応できるというわけね。」

「そう!そうなんだよ! LGBTのシンボルが虹色の旗というのは、まさに光が虹の七色だからで、シャレでも何でもなかったんだよ。だから、つまり、要するに、僕たちLGBTは、実は“性的少数者”でも“性倒錯者”でもなく、いわんや病名をつけられる存在でもないんだよ。いや、それどころか、僕たちLGBTこそは、実は常に進化の過程にある生物の“基本形”そのものなんだよ!! 生物は地球とともに協調して進化しあって生きていくから、まさに光と反応すべく、その“性”はむしろLGBTでならなければならないんだよ!!」

  テツオには、感極まって語調を強めるキンゴの赤い唇が、メイクもないのにそのバラ色の頬をともない燦然と光って見えて、キンゴはまた、その赤い情熱に乗じたまま、熱弁をよろしく振るう。

「そう! まさに、そうだったのさ! 人間は文字を持ち、文明を持ってこの方、どの時代も世界中の至る所で、ずっとLGBTを記録してきた。だって同性愛こそ、文学・絵画・彫刻の“花”にして“華”じゃないか。ということは、僕たち現生人類=ホモ・サピエンスは、みんな昔から争いばかりに明け暮れている自分たち“人間”に、内心もううんざりしていて、常に新たな進化に向けて、実はずっともがき続けていたんだよ。」

「キンゴ、あたしたち、LGBTだからこそ、この奴隷本位のサピエンスの、“絶望の底”から上がり、この人類の進化において、新しいヒト属を分岐できると-あなたは、きっと、そう言いたいのね!」

「そうさ。人類の始祖のアダムが、神に反して知恵の実を食べて以来、僕たちホモ・サピエンスは執着と相対知の苦の輪廻に沈んでいたが、僕らはついにその原点=原罪を、僕ら自身のやり方で直視したのさ。そして今この原点に、あらためて“原初の光”が宿りはじめる。それはおそらく、あらゆる生きとし生けるものと同様の“光の知恵”そのものだろう。そして僕らはまさに、ここから新たな人類の“復活”と“独立”をはかるのさ。こうして僕らの“革命”は、まだこれからも続くんだよ。」

 

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「ヨシノちゃんもキンゴ君も、模試の方はもう終わって、無事に帰ったころなのかな・・・。」

  紅茶もケーキもすでに終わって、先生は裏返した手首の時計を見つめたあとは、窓向こうの大通りへと視線を傾け、しばらく時が止まったような眼差しで、人の流れを見つめている・・。

「・・あそこにね・・、私がかつて勤めていた会社のビルが、見えるのよ・・。」

  先生のアルトの声が、また調がかわったように、一段低く聞こえてくる。

「私ね・・、お昼の休憩時間は時々、このお店にいたのよね。一日中あんな所じゃ、窒息してしまいそうだし・・。・・みんな夜遅くまで残業してたわ・・。女子で8時、男子で10時はザラだった・・。体調を崩したり、ウツになる人もいたしね・・。」

  レイコさんは視線を外へと向けたまま、その口調はモノローグへと近づいていく。こんな時、私は彼女の横顔を見つめながら、お話しを聞くのだった。

「・・私の同期で肝臓壊して亡くなった人もいたのよ・・。彼女の上司は脳ミソまで筋肉バカの体育会系たたき上げで、上にはヒラメ、下にはキツメ、外にはキツネの、忖度づくしで搾取づくし、騙しづくしの社内外営業でしか数字が上げられないような男だったそうだけど、会社では英雄扱い。だから部下を深夜に長時間残業させてもだれも文句が言えなくて、私の同期はそんな男の出世欲の犠牲になった・・・。その男は定年近くなってからは嘱託でも“指導役”と優遇されていたという・・。また、私がいた部のある男子で、脳に関する疾患なのか、外回りに出ると時々戻ってこない人がいてね。それなら内勤に変えてあげればいいのにさ、会社は辞めさせようとしむけたいのか敢えて無理やり外回りをさせ続け、結局辞職に追い込まれた人もいる。それでその時の部長というのは、後に人事部長を経て役員にまでなったのよ・・・。」

  レイコさんは遠くの方へと目をやりながら、一人そしてまた一人と、会社から出掛けていく社員たちを数えるように眺めている。私は彼女が、教師の前のOL時代においても、恨みつらみの感情を持っていて、時よりそれがトラウマみたいに蘇るのを知っている。でも私には、それがかえって私にとってのこの人への親近感を増させていったように思う。

「先生は・・、そんな会社で、大丈夫だったのですか?・・・」

「私みたいに厚かましいのは、定刻が来るやいなや“お先に失礼シマース”って、サッサと一人で帰っていたのね。もとより私は理系ワクの採用で、男子総合職でも女子事務職でもなかったし、一人で完結する仕事で誰はばかることもないし・・、まあ、一応、祖父母の介護があるからって理由はつけてはいたけどね・・。それよりも私の同期があんな形で、なかば死に追いやられていったというのに、誰一人として上司や周囲の責任を問おうともせず、むしろこの過労死が仕事の邪魔になりはせぬかと、人の死をそんな自己都合に置き換えるのが当たり前なこの国の“社風”に対する怒りと怨念の思いが強くて、私はそんな社員たちとは決して心を通わせたくはなかったのよ。」

  レイコさんは、頬杖したりはずしたりされながら、その横顔を見せたまま、ただ外を向かれている。

「私は皆が信じているように、この国の国民が “勤勉”だとは少しも信じていないのね。敗戦後の高度成長にしてみても、朝鮮戦争ベトナム戦争そして水俣病など、大規模な環境破壊と大量傷害・殺戮なしではあり得なかったし、要は勤勉というよりも、ただみんなで一緒のことを苦しんでしていないとお互いに気が済まない-というだけのこと。仕事の効率やその内容の精査より、集団への服従とその反作用たる個人の犠牲こそが美徳で、それを互いに“和と尊ぶ”と上にへつらい競い合う。昔は田植えがその典型で、滅私奉公的な集団欲と、その反射としての人柱や村八分といった“生贄”の捻出こそが、常に私たちこの国民の集団の伝統的な本質だと、私は思うよ。」

  私は、若いころの彼女の様子を、まだ20代のころ、今日の日と同じように、一人会社で孤立しながら、この席へと座っていた彼女の姿を、想像してみようとする。そしてレイコさんはモノローグの口調のまま、こんなことを口にされる。

「・・それにまた、それに輪をかけ女どうしの世界ってね・・、陰険で、陰湿で、いやらしいものなのね・・。男よりも序列意識が激しくて、何につけても、妬みっぽく、恨みがましい・・・。」

  レイコさんの怨念も、私と同じく相当強いようである。

「先生、でも、それって、父も男社会について同じことを言ってましたが、結局、人である以上、男も女も同じなんじゃないでしょうか・・・。」

  私がそんなことを言うと、レイコさんは少し笑って目をふせる。

「そうよねえ・・・。でも、私が思うに、結局だれもが“貧困”なのよ。自分自身の生活と人生を犠牲にして、四六時中、奴隷のように働いている。こうでもしないとお互いに、社内外のヒエラルキーを維持できないのね。だから地中へ奥深く、次から次へと資源を掘り返していくように、数字=売上競争という口実で、貪る先を半永久的に開拓していかねばならない。だからこそ人間は、戦争を止められないのよ。そんな中では必然的に、自分自身の精神もお互いにただ貧困へとメルトダウンしていくのね。結局、人間が経済という名のもとで生産し再生産しているのは、本質的には“財”ではなく“貧困”でしかないと思う。会社の社員というものは、自分たちは勝ち組と装って、いくらいいスーツを着ていても、本質的には奴隷と同じ。だから彼らは、脱原発や脱被ばくなんて発想は持てるはずがないのよね・・。

・・ゴメンね、ユリちゃん、またこんな話をしてしまって・・・。」

  私が-いいんですよ-という風に首を振ると、レイコさんはまた少し微笑んで、話をつなげる。

「でもね・・、OL時代も教師の時も、“私は出世をしないことで自らの出世とする”(13)の言葉の通り、かえって私自身のためには、むしろこれでよかったのよ・・。虐げられたものの方が、差別をされたものの方が、結局は強くなれる。なぜなら、彼らはそれにより“真実がよく見える”から。出世や金持ち、社会的ステータスや先進国の国民などというウヌボレは、その人をすべからく見下す側へと、人を差別する側へと追いやっていく。だから、結局、一生何も見えずに終わる・・・。」

  そしてレイコさんは私を見て、一瞬、少し心配そうな目の色を浮かべたが、またすぐに微笑み直して、静かな口調でこう付け足されたのだった。

「・・人ってね・・、いろんな仮面を装うものよ。いくら知識を持っていて、善良そうで、善人ぶって、口では良いことを言う人でも、注意して見ているうち-特におカネの流れを見ていくうちに-必ず馬脚をあらわすもの。そういうのは経験しか教えてくれない。自分を騙す人なのか、自分を利用しようとする人なのか、それとも自分の味方になる人なのか-これらを常に見分けていくのは本当に難しい。特に若い人たちは純粋であるだけに狙われやすい。それに最近、なお一層困難なのは、本人が悪い事とは意識しないで平気で悪事をしでかすこと・・。全体的に幼稚化が進んでいるというよりも、すでに人は、善と悪との区別自体が、もうできなくなっているのでは-とさえ思うよ・・。アダムが食べた知恵の実の賞味期限が、切れたのかしらね・・。こんな人の世の中で生きていくのは至難だけれど、結局、“疑うものは救われる”(14)といわれるように、自分自身の頭で考え、自分の言葉で意思表示して、自分で行動していくしかないのでしょう・・・。」

  レイコさんは直には言われなかったけど、言外に、私たち4人のことが心配でならないのだ。特に来年卒業後、外国へと行くテツオと私の二人については・・・。だからこんな、彼女にとっても敢えてしたくもないようなお話をされるのだろう・・。

  かなり長居をしてしまったが、窓の外の街路樹に、夕日がさし掛かり始めた頃、店長からお土産のクッキーをいただいて、私たちはお店をあとにし、島へと帰る船に乗るため、シンさんたちと待ち合わせている駅の方へと戻っていった。

 

  結局キンゴとは握手で別れ、皆が帰ってくる前に寮へと戻ってきたテツオは、夜をむかえて、今や一人でいつものように今日の余韻にひたっている。実はテツオの女装は少し前から始まっていて、おこづかいの範囲ながらも古着や量販店の安売りで、ささやかながらもシーズンの着回しができるまでにコレクションも充実してきた。それで全方位から見られるように2枚に増やした等身大の姿見で、彼は時々“一人で出来るファッションショウ”を楽しんでいたのである。彼は今日の、初の和装を姿見であらためてため息つきつつ堪能したあと、レイコの着物と袴を大切に仕舞い込み、ようやくメイク落としへと入っていく。-ああ、クレンジングのほのかな苦みが、バーガンディーの口紅あとの唇に甘くせつなく感じられて・・、今日一日幸せだった僕自身の女性との、またしばしの間の別れを告げる・・-

  そしてテツオは風呂からあがり、また2枚の合わせ姿見に囲まれて、ねじったりよじったり、座ったり立ったりしながら、美青年モードに戻った自分の裸体を、矯めつ眇めつ耽美しはじめる。

  テツオは女装したての頃に、ブラウスのVネックから覗き見た己の胸毛にゾワッときて、それで一度、入浴中の髭剃りついでに胸に刃をあて、それでその際勢いあまって、二つの乳首とその間を十字のように生えていた胸元から下腹部そしてヘソまわりの全ての毛を、そっくりそのまま剃ったのだった。その時彼は、まっ白な自分の胸に、ピンク色の小さな乳首とややふくらんだ乳房とを見て、-ひょっとして、少女の胸ってこうなのかな-とも思いもしたが、しかしそれより“毛”の喪失感の方が大きく、再び生えそろうまでの約2か月間、直視できないほど落ち込んでしまっていた。だがその反面、テツオはここで、また新たな仮説を考えてもみたのである。-失って初めてわかる毛の悩み・・、というのは何も頭のハゲばかりではない。あの剃ってしまった僕の胸毛は、実は僕の胸飾りで、つまりヒトの体毛には、他の動物たちと同様に皮膚の保護や体温調節ばかりでなく、装飾の役目というのもあるのである。それでヒト-特に我々サピエンスは、性感を高めるために毛を細く短くしたあとも、雄は尊大ぶろうとして雌より毛を目立たせようとしたのだろう。それで男のハゲについては・・、これは立ち上がったペニスの大型模写ということで、自分の頭を文字通り“亀頭”に見せかけようとしたのかも・・。-

  しかし、そうはいってもテツオは女装をする以上、中途半端は職人気質が許さないと、Vネックで見えそうな胸の一部と、足と手の毛は-皮膚の保護には大事だから女性は脱毛しなくていいのにな-と思いながらも、特にすね毛は名残惜しさを感じながらも剃ったのだった。

 

  そして今や、一部の毛は例外として、再びそろった完全な自分の裸体を、テツオは慈しむように姿見に見つめている。彼は自分で名付けた“Yライン”-両足を前後にそろえて両腕を斜めに掲げ、背筋を伸ばしてしならせて、上半身をより前面に出させるという得意のポーズ-をとりながら、左右に全開にした腋毛と、それに連なるように続いていく二つの乳首の間をむすび胸から下腹部そしてアンダーヘアーへと至る黒々とした体毛を艶やかにうち眺めつつ、さっきまで湯船の中で波打っていたヘアーとペニスのコラボめいたたゆたいを思い返して、これらすべてが美しいと思うのだった。またそれらと並んで、女のようにすべらかになった自分の足も、また同様に美しいと思うのだった。

  テツオはここで自問する。-女装を行いメイクまでする自分がなぜ、それらを重ねていくごとに男子の象徴たるペニスと毛とを、より慈しむようになるのだろうか?- しかし彼にはすでに明快な答えがあった。-それは男女の相対的な区別より、“美の絶対性”が優先するがためである-と。

  そしてテツオはこのYラインと、直立ポーズのIラインまたAライン、そして自ら名付けた椅子に腰かけ尻つき出して足を組む“Rライン”を、それぞれ十分堪能した後、姿見の1枚を床の横へと寝かせ掛け、裸体のまま白いシーツに横たわる。彼はこれから引き続き、今度は横臥する自分の裸体を、生身と姿見双方からうち眺めては耽美堪能しようとする。-ああ、月の光を受けながら、この身も心もラフな姿勢で、西洋画の一大テーマ“横たわる裸婦”ならぬ“裸夫”像を、僕はマネやモネの絵をまねするみたいに姿見の中へと見出す。今、僕を見ているのは宙と月だけ・・、もう誰はばかることもない。今から私は時間をゆるめて、完全な自由と私自身、そして美そのものへとかえっていくのよ・・・- 

 

  -ああ、私は、私はついに私にかえった。私はついに私のこの身を手に入れた。生物の進化の上では“男性”とされたこの身は、潜在的にも将来的にも、そして何より基本的には多くの“女性”で成っているのを、私はすでに知っている。身を横たえた私は頬を、枕がわりに二の腕に寄せ、そのやわらかなふくらみに口づけしては目を閉じて、片手で髪をかきあげながら長いまつ毛に憂いつつ、腋の毛に唇よせてそのフェロモンの香りを味わう。完全に自由に戻った手と指先は、ややふくらんだ乳房をまさぐり、二つの乳首を愛撫しては私の女性を覚醒させて、それが性感を高める以上に将来再び乳をやる日につながることを、私は秘かに予見するのかもしれない・・。そして手は下腹部の黒々とした艶やかな茂みをはって、指をその毛にからませながら、一方で剃りあげた二本の足は、月の光に照らされながらお互いの滑らかさを確かめあっていくように、その朱みを帯びた足裏そして足指先を、太腿から膝、ふくらはぎ、踵から足の甲、そして指股から爪先へと、すべからく器用にいかせて愛撫させあう・・-

 

  テツオは生身と姿見のセルフヌードをうち眺めつつ、その目線の線上に、足親指の先端とペニスの先鋒とが並び、おのおのその僧帽みたいな造形を月の光に艶やかに照らし出すのを遠近法のように見つめて、手の平でペニスのカリからその先を撫でなでしながら、またいろいろと思いをめぐらす・・。

  -ああ、こうしてペニスをすべらかにすべからく愛撫するうち、足裏すべてに快感が電気のようにほとばしる。もしかしてこれは本当に電気なのかもしれないが、こうした性器と足の性感の交換を感じるにつけ、浮世絵のあることが思い出される。浮世絵-春画-は、乳房と乳首を“くくり枕と取っ手”(15)のようにそっけなく描くのとは対照的に、その絶頂=オルガスムスに達した際の、互いの陰部の誇示誇大化に負けず劣らず、まるで彫刻するかのように足をリアルに描き出す・・・すなわち足は、北斎の娘が指摘したといわれるように、絶頂時には足先を丸めるのであり、その他でも、浮世絵女性の立ち姿では、よく足先チラ見がされていて、これは今のファッション誌で、“爪先ヌードでフェミニンに”とか、“指股見せて女っぽく”とか、写真と文句で謳っているのと同じではないだろうか。つまり、ヒトの直立二足歩行とその性の進化とは不可分のものであり、それは性的快感と美意識とがこのようにつながることにも表れている。それはおそらく足の匂いにも言えて、ネコがヒトの足や靴の匂いを嗅いでマタタビを吸ったみたいに恍惚となっていくのもヒントになろうが、足の匂いは、その原因たるヒトの足に住み着いた特定の細菌との共進化をも含めて、本来は性フェロモンの側面もあるかもしれない。だから、視覚はもとより秘められた嗅覚でも“足フェチ”は、今日のLGBTの話と似て、実は本当は誰もが足フェチなのであり、これもまた、ヒトの進化の重要なアイテムなのかもしれないな・・・-

 

  そしてテツオは、ペニスを愛撫するうちに、俗にいう“寸止め”をするのだった。

  -・・・やがて僕は、女装を重ねていくにつれ、あることに気づいたのだ。これでこのまま射精でイッて、男としてのオナニーするより、敢えて留めておく方が、“自己愛=ナルシズム”が高まるということを・・。オナニーはついついやっていたけど、女性化するにははばかられると、しばらくしないで置いていたら、自分がますます愛おしくなっていった・・。オナニーは昔いわれていたような罪悪でもなく、するもしないも健康には問題ないということで、女はオルガスムスに達してからも快感がゆるやかに持続するっていうけれど、男は俗に“抜いて”しまったその後は、喪失感みたいな感じで、それはおそらく生き物でもある“精子”の、過度な喪失によるのではないだろうか。男だって女のようにオナニー後も快感を持続させ、余韻にひたってその幸わいを安らかに味わうすべはないのだろうか・・・。ヤリっぱなしで捨てっぱなしというのでは、あまりにも暴力的で、それでは自分を損なうみたいだ・・・。

  オナニーを“自慰”といって、これを自分を慰める、あるいは自分を慰みものにするというのは間違っていて、これはむしろ“自愛”というべき自分を愛する行為であり、本来は生殖器である“花”を愛でるのと同様に、花である自分の性器を愛でるのだ。だから、アダムとイヴが知恵の実を食べ、まっ先に互いの性器を隠したのは、ヒトが自然から脱落したのを象徴すると思われる・・・-

  テツオはこれより先にイカないようにと、勃ちつくした己のペニスをさらに優しく愛おしげにタッチしながら、またいろいろと思いをめぐらす。

-・・だから多分、俗にいわれているような、“男は性欲を抑えきれない”という風潮や定説は間違っているのである。このいわゆる“男子性欲抑性不可能”説は、生物的な根拠に基づくものではなく、平時には、オナ友としてのエロ本をはじめとする、よろず性産業の営業利益に貢献すべく流布された一種の利権誘導目的の仮説にすぎず、また戦時には、性暴力やレイプをいわば合理化するような、これもまた男尊女卑に基づく人間=サピエンスの悪習にして、その“ゆがんだ進化”のひとつなのだ。ヒトを除く生物界のその多くが、発情期という限られた時期において生殖をするように、ヒトがSEXとオナニーをいつでもやれるという方がむしろ異常で、これも自然に反抗したゆがんだ人為の産物なのだ。

  では、実際にオナニーをやめてみて、それでますます自分の体が愛おしくなっていったナルシズムの高まりは、どう説明したらいいのだろうか。これは、ひょっとすると有性生殖にはるか先立つ、生物界の生殖の原点である“単為生殖”に由来するのではないだろうか。つまり、自分が一人でもう一人の自分を生むというのは、自己に対する愛=自己愛なくしてできないだろう-ということである。その根拠は、マザーテレサの“だれもが神に望まれてこの世に生まれた、みな素晴らしい神の子なのです”との言葉にもあるように、生き物が“生まれる”のは“愛”あらばこそであり、あらゆる愛というものはすべて“神の愛”による-ということである。だからきっと、何かの理由で有性生殖ができなくなっても、生き物には単為生殖で生きぬく道が残されているのであり、つまり神は、われわれ生きとし生けるものを最後まで見捨てないのだ。だから、今日キンゴと二人で話したように、LGBTが生物進化の基本形であるのと同じく、ナルシズムもナルシストも性倒錯や病気ではなく、これも生物進化の根底になければならないものといえる。かくして、生・性・美・愛は、自然界の黄金比に象徴される“美の絶対性”の名のもとに、ここでもまた一致したというわけだ・・・-

 

  こうしてテツオは、LGBTのみならず、足フェチやナルシズムにおいてさえも、俗世間の定説の類のものを次々と覆した気になって、このまま行けばネアンデルタール人絶滅の定説をも乗り越えて、ゴキブリが言った通り、本当に自分たちがホモ・サピエンスに継ぐ新人類になるのかも・・と、やや畏れにも似た感情を覚えつつ、あらためて、月の光に照らされた足親指の起ち姿と、己のペニスの勃ち姿を、遠近法を見るかのように眺めている。そして彼は、寸止め間近の状態で、ドクンドクンと脈打ちながらも勃っている己のペニスを-その高さが男子平均に達しないとの人間界の相対的な比較の話はもういいとして-今や誇りをもってうち眺めては、やがてはナエて横たわっていくのを見送りながら、自分自身もまたやすらかに、思い出深い今日の日を、閉じていったようである・・・。