こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第十二章 ムシのお知らせ

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  今日、私は、心も高ぶるデートの日。レイコさんと県美へと、ご一緒する。

6月になり、県内の予備校では早や模擬試験や補講などが始まって、先生は浪人向けの平日枠のにキンゴとヨシノを受けさせることにして、テツオは畑で忙しいでしょうからと、私一人を課外授業という名目で、時おり連れ出してくれるのだけど、この日はご当地出身でタカラヅカにも縁のある『“中原淳一”企画展』ということで、私の方からお誘いした。

  私はこの日、初夏らしく、花柄ドットのヴィンテージ風ワンピース、赤や緑がよく映えるカンバスみたいな白を着込んで、肢体を風にまかせつつ、先生のお宅へと近づくと、海風にのってくるのかピアノの音色が聞こえてくる。竹の垣根に沿いながら、菩提樹のさしかかる玄関へと歩いていくと、先生のガーデンには、アナベルアジサイ、バラのほか、コスモスにマリーゴールドラズベリーらの花々が、ハスの長池ミニトマトのアーチのまわりを取り囲むようにして、赤やピンクやオレンジの色鮮やかさを咲かせているのが見えてくる。

「先生・・、私、初めて聞く曲なんですけど・・、ドビュッシー以上にドビュッシー的なようで・・。でも、和音は、とても和風な感じもしますし・・。」

「これはね、宮城道雄さんの『瀬音』といって、本来はお琴の曲で、私が聞いたのは二重奏。十七絃の音色はとても綺麗だったのよ・・・。これはそれを、ピアノへと編曲したもの・・。」

  レイコさんはそう言うと、もう一度弾いて下さり、弾き終るとピアノの蓋をパタンと閉じて、-じゃあ、出掛けましょうか-と、私を島の桟橋へといざなってくれるのだった。

  私たちは県の漁港へと着くと、そこからは鉄道で中央駅へ。そして高台の森にある県立美術館まではバスとなるが、ちょうど通り雨にあたってしまい、窓の大きなノンステップバスの中はまるで大きなクリスタルガラスのようで、進むにつれて、雨粒の斜めの線が窓ガラスの水玉模様を散らしていく。

「ユリちゃん・・、こんな雨の日の時でも、“行”はされるの?」

  先生はふと、アルトの声でそんなことを私に尋ねる。

「ええ、本来は。行は雨風に関係なくやるものですけど、私は雨天はさぼっています(笑)。オバアももう、見過ごしてくれているみたいだし・・。」

  先生は笑っていたが、-私もいつかは、やってみたいな・・・-と、ほとんど気づかれないような小さな声で、窓の外の雨に向かってつぶやくのが、私には聞こえてきた。

  バスは青い石畳の坂道を上がっていき、路面の雨も反射して、窓ガラスへと差し込んでくる光も青く屈折をしていくようで、それが彼女の装うペールブルー、そのモノトーンの波長のなか、二人の赤い唇が、雨降る窓の向こうから、ヴィヴィッドに映ってきそうな感じがする。

 

  バスが県美に着くころには、通り雨はあがっていたが、先生と私とは、そのまま県美の企画展へと入っていく。いっしょに絵を見てまわるのはこれが初めて。混み具合や絵の好みで、お互いに一緒になったり離れたり、その頃あいがまた楽しいのだが、でも彼女は、時おり私の方も見てくれているようで、私も絵を見ながらも、彼女をまるで絵姿を眺めるように、その横顔や後姿に目をやっている・・・。

  そしてこの日の私のお目当て、淳一画の『春をまつふたり』(1)の絵があらわれた。右の女性は姉役で、左の少女はその妹役といったところ。二人の真紅の装いが、壁のような質感のグレーを背にして、いっそうその鮮やかさを放っている。二人はともに足をくずして床へと座り、姉の方は妹へと大きく左へ身を傾けて慈しむその上半身を両手で支え、また妹は身も心も甘えるように腰をくゆらせ頭をたむけ姉にその身をまかせている。まるで一本の樹の根からあらわれた二人の女性-これは、ダヴィンチの『聖アンナと聖母子』の絵にいわれたことだが、それはそのままこの絵にもあてはまる。私はこの絵を見つけるとすぐ、まだ前の絵を見ていたレイコさんの小肘をとらえ、-先生、これを-と連れてきて、彼女といっしょに見入りながらも、その反応を見ようとする。レイコさんは微笑のまま、-幸せそうで、かわいいわねぇ-と一言つぶやき、私といっしょに、しばらくその場を離れなかった。

 

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  企画展を出た私たちは、売店で今日の記念のポストカードを購入すると、今度は先生からのお誘いで、美術館まむかえの県立図書館へと入っていく。実は毎年この時期には、来年度採用の検定済み教科書の閲覧会が別室で開かれていて、先生はそのチェックにと今月は図書館に通うという。

「以前から、歴史修正主義による改変とか、道徳の復古とか、教科書の問題がもち上がってはいるけれど、私は職員時代からずっとチェックはしてきているのね。私が思うに、権力=ファシズムは、古くは秦の始皇帝、近くはナチスがそれぞれ焚書をやったように、歴史・社会・道徳を攻めると同時に、やがては覚えるだけで考えない歴史とか、生徒が実はシラケている道徳よりも、その国の言語を支配しようとねらってくる。だから私は、必ずこの現代国語を見ているのね。」

  私はだから先生は、理系の後に国語の免許も取ったのかと理解した。この日、閲覧会の別室には人はおらず、たくさんの小・中・高の教科書が出版社ごとに並べられたテーブルを前にして、先生と私とが、まるで二人で検定をするみたいに座っている。いつもの教職員っぽいコンサバからは抜け出して、この日はシルクのとろみブラウスと、ゆれるシフォンのプリーツスカート、そして彼女には珍しく白いヒールのストラップと、フェミニンさを漂わせた先生だけど、教科書を見ているうちにいつもの顔に戻っていくのが、私にはおかしかった。そして私も先生に合わせるように何冊かを手にするうちに、ある興味深い文章に出くわした。それは、V・E・フランクルの『夜と霧』(2)、ナチの強制収容所の体験記録からの一文だった。

  -“・・・こうした人間の生命維持に直接に役に立たない全てのものの価値の低下は、人間自身にも、また、自己の人格についてもいえた。人間を根絶政策の強制的対象とし、その前に、身体的な労働力を徹底的に搾取する環境の暗示を受けて、ついには自らの自我も価値の低下を経験せざるを得ないのである。収容所内の人間は、まだ主体であるとの感情を失っていき、まして内的な自由や、人格的な価値をもった精神的存在などは尚更で、彼はもはや自分を群集の最小部分としてしか感ぜず、その存在は群の存在の水準にまで低下するのである。しかし、人間が強制収容所内において、外的にのみならず、その内的生活においても陥っていくあらゆる原始性にもかかわらず、たとえ稀ではあれ著しい内面化への傾向があったということが述べられねばならない。・・・私の目の前には、妻の面影が立ったのだった。よろめきながら進んでいる時、もはや何の言葉も語られなかった。しかし、われわれはその時、各々がその妻のことを考えているのを知っていた。・・私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける眼差しを見る。そしてたとえそこにいなくても、彼女のその眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのだった。私は生まれて初めてあの真理を味わったのだ。すなわち愛は、結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。私は今や、人間の詩と思想として、そして信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのだ。それは愛による、そして愛の中の被造物の救い-これである。”-

  私は隣の先生に、この文章をさし示した。先生は以前からこの箇所、そしておそらくは『夜と霧』の書物自体も読んでいたようだったが、改めてこの文章を読むうちに、両手を組んで何かを深く、考え込んでしまったようだ・・・。

 

  テツオはこの日、彼のかねてのプロジェクトを、ついに決行しようとしている。この日、島の皆はすべて出はらい、夕方までは誰も帰ってきそうにない。彼はこの日を、じっと待っていたのである。

  テツオは改めて朝風呂にて、入念にヒゲを剃り、また念入りにバラの香りのシャンプーとボディーソープで髪の毛と体を洗うと、自室に戻って自分用の足袋と襦袢を取り出しては、合わせ向かいの姿見の間に立って、レイコの着物と袴を試着し始める。彼はアラサー、アラフォー、アラフィフの、女性ファッション誌は常々チェックしていたので、着物の着付けも今や一人でできるのだった。

  そしてテツオは、出来上がった自分の着物と袴の装いを、改めて全身通しで姿見で、所々で身をそらしてポーズを取りつつ、ため息をつきながら眺めている。-もとよりスタイルもマスクも美々しい私・・、しかし和装は素材のよさをはるかに引き立て、思いのほか似合っているわ・・。レイコさんの着物と袴はともに“二藍”。それは藍に紅花をかけあわせ、藍は深い瓶のぞきから、はなだ色、紺色、褐色へと移ろって、紅は撫子、桜、桃染、紅梅、そして今様、唐紅と、色調を深めていくのよ・・-

  テツオはここで、“マーラーのアダージェット”をBGMに選曲すると、鏡の前にあらためて、袴の膝をそろえて座り、化粧品を取り出しては、今までの試行錯誤の彼自身の“お化粧”をし始める。まだ十代の美肌とはいえ、ヒゲ剃り跡は絶対隠さねばならない-これが彼の場合は女装の最大難所のようだ。それゆえ試行錯誤はこれからも続くのだろうが、まず当面の仕様としては、下地を兼ねた濃いファンデーションを、顔下半分、顎から首へと、クリィーミィーに塗りつけていく。そしてその上から、特にヒゲ剃り跡が青く目立つ口の周辺、顎まわりに、青の補色のオレンジ色のコンシーラーを、肌に直に押し込むように“置いて”いく。さらにその上、一番濃いいリキッドファンデを肌になじませるようにして、指先から広げていけば、一応これで土台は仕上がり、あとはチーク用のローズピンクの頬紅をうっすらと全体的にまぶしこんで血色良くふっくらと見せると同時に、ヒゲ剃り跡をごまかす効果をはかるのだった。これで頬紅が目立たぬかわりに、彼は指に口紅をつけ、それを直にチークに入れていくのだが、最後にルージュ-思いっきり極めつきのダークレッド*バーガンディーを、ティッシュオフを重ねながら、その唇へと盛っていく。耳の上までたくわえられた髪の毛は、あたかも女性のショートヘアー。仕上げとしてフレグランスを振るようにふりかけて、何週もリバースしたアダージェットのBGMをようやく止めて、彼の女装は完成をしたようである。アイメイクは目の焦点がぼやけるような感じがするということで、今日はまだやらないようだ。

  -・・・ああ、バラの香りがたちこめるなか、私は再び鏡の中の自分に見入る・・・。何て美しく、あでやかで、なまめかしいのか・・・。まさか自分が、ここまで綺麗になるなんて・・・。いや、ずっと思っていたとおりだったわ。私は、“私は美しい”のよ。花のように。だから私は、自分の美をさらに求めて、花のように、雌雄同体になっていくの・・・-

  彼自身のコンプレックス-男子にしてはややなで肩なのと細い首筋-これがむしろプラスに転じて、確かにもとの男の骨格と雰囲気とが全体的な線の太さを与えているとはいうものの、あとは手のこなし首のこなしで女っぽさを追求するしかなさそうだが、これがかえって女性に対する“あたしの方がきれいなのよ”みたいな、彼自身の女としての対抗心に火をつけるようである。

 

  “さあ! 美しい私よ! これから初めて、いざ太陽の下へと出よう!!”

  足には高めの草履をはいて、手には蛇の目の日傘をさして、意識的に腰高に、ヒップをゆらせるモンローっぽい“女っぽウォーク”に努めつつ、太陽の光のもと、いよいよテツオは女装としての第一歩を踏み出した。ペチャパイを矯正すべく、胸はあばら骨ごと前へと突き出し、一方お尻は大きく見せようと、左右の尻をあえて後ろに残すくらい突き出して歩くという、彼の女っぽウォークは、より内マタに見せるべく、左右の足を一直線を行くように補正をかけつつ、シャナリシャナリと進められてはいくのだが、テツオはこの女っぽウォークの筋肉痛の代償として、これがヒトの二足歩行の美の原点ではと思えたりもするのだった。

  -ともすると、ヒトの雌は、前にはバスト、後にヒップと、重量的にも顕示的にも前後に二カ所を大きくさせて、二足歩行のバランスとチャーミングポイントの二つの効果を兼ねようとしたかもしれない。そして雌のこのモンロー的なウォーク美の、その共進化の反射的利益として、雄の方は霊長類最大の、ヴォータンが握る槍(3)のような巨大ペニスを、持ちだしたのかもしれない・・・-

 

  テツオは通り雨のあと露も麗しい草花で、陽の光も七色に散らされているいつもの畑の通い道を、アダージェットのあとに続いて“露しげきの野辺を歩けば”(4)を口ずさみつつ、蛇の目日傘をかざしながら、草履ヒールを内八文字に器用に交互に踏み出させては、クスノキをくぐり抜け、彼の田んぼと畑へと向かっていく。彼は頭上を舞っている小鳥を見上げて、キンゴが前に話してくれた、小鳥の声の意味がわかる森のジークフリートというお話しを思い出し、まるで小鳥が彼にこんなことを話しかけているような感じがする。

  -“さあ、ここに、かつて楽園から追放された哀れな人の子孫の男の子が、バラ色の頬に笑みを浮かべて歩いてきたよ。君は花に導かれて、花のように美を装い、花のように艶やかな化粧をほどこし、花のような雌雄同体にその身を模して、再び僕らの自然界へと帰ってきたね。君は人の差別に絶望して、その始まりである男女の性差を乗り越えた。その君の意識は美意識そのもの。その美意識こそが君と僕らの心をつなぎ、命と命をあい結ぶ、生きる意識そのものなのさ。僕らは君に知らせよう。人間ではなく、“自然が知性をもっている”ということを。そしてそれに気づいた君は正しいということを。そして僕たち自然とは、美そのものであることを。人は花に目覚めた君に対して、ナルシストとか性的少数者とか言って、また差別し、弱い者イジメをするのかもしれないが、そんな人など捨てるがいいさ。もう、アホなホモ・サピエンスなど辞めるがいいさ。彼らは初めに差別ありきで、性を虐げ、生を愚弄し、進化に反して成り上がり、ついには核に寄生して、君のような子供たちを生きにくい方向へと追い詰めているじゃないか。今、君は、自然によって選択をされようとしているのさ。今、まさに、君自身から、新しいヒトの種が、分岐されようとしているのさ。アホなホモ・サピエンスらは差別意識とその究極たる核権力に隷従して、半減期とともに半減して、ついには滅ぶだろうけど、君らはまさにその中から、戦火の跡の灰の中から、まるで“紅の小さなバラ”(5)が咲くように、ヒトの種を“復活”させ、この人間のやむことのなかった業のカルマと苦の輪廻から、ヒトの種を解放するといいだろう。”-

  小鳥たちは輪になってテツオのまわりを飛び回り、女装の彼をまるで預言者を迎えるように褒め称えては、人間ども=ホモ・サピエンスをアホアホとさんざんに罵倒しながら、自由に空へと飛んで行った。

 

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「テツオ! テツオ!」

  ふいに彼の名を呼ぶ声がする。

「テツオ、ここだよ! あなたの目の前、花の上!」

  見ればそこには一匹のミツバチが、花から花へと蜜を吸い、花粉を集めて飛んでいる。

「あらァ!ミツバチじゃない! 何て可愛いんでしょう。でも、どうしてミツバチが、人の言葉を話すのかしら?」

  テツオが自問をするうちに、ミツバチはその音を地球の回転にあわせる(6)ように、ブンブンとうならせながら、彼の目前でホバリングして目と目を合わせ、さらに話しかけてくる。

「テツオ、私たちはあなたのお花畑から、ハチミツを作っているミツバチだけど、今日、あなたは、性が違うとの意識を超え、つまり、性同一性という悟りに達して、そして“自然には知性がある”との究極の悟りに達して、人間の迷いからの解脱を遂げ、それで私たち自然の道理に基づいて、こうして対話ができるようになったのよ。」

「それはそうかもしれないけれど、でも、それならどうして、悟りとか解脱とか、ハチが知らなさそうな言葉で話すの?」

  ミツバチはホバリングを続けながら、初めての人に対して丁寧に説明をしようとしている。

「もちろん私たちハチは、人に比べてボキャ貧かもしれないけれど、伝えたい思いというのは、“光”が全部あなたの方へと伝えるのね。あなたの脳はそれを受け取り、脳の中で人間の知識へと結びつけてしまうから、人間のイメージするような感じで聞こえてくるんじゃないかしら。」

  ミツバチは、不思議そうなテツオを見つめて、おもしろそうに飛び回り、また目の前で止まっては、話し続ける。

「私たちはボキャ貧かもしれないけど、本当はかなり賢いのよ。あなたたち人間がいう所の数学だってできるんだから!」

  自信ありげなミツバチに、テツオも興味をそそられて、より花に近い所でミツバチの話を聞こうと、花畑のゆるやかな傾斜へと、足をくの字の“女の子座り”で腰を下ろす。

「あなたも知っているように、私たちは尻振りダンスで仲間たちに花のありかを示すのだけど(7)、この尻振りと羽音はね、1秒で平均して1000mの飛行を表わし、また、巣の垂直真上へ走行する角度によって太陽の方角への往路の角度を表わすのよ。それで途中で燃料切れにならないように3~4倍もの燃料蜜を積載しては、5km~10kmほど離れた花の所へ飛んでいき、しかもそれを仲間たちに正確に伝えているのね。それだけじゃないんだから。私たちは冬の間も冬眠せずに越冬するため、1群あたり600wの発熱力を維持しながら、特に幼虫たちを冷やさないよう注意しながら、省エネにも努めているのよ。人間は原発でありあまる電力を作りながら、熱中症で人が死ぬ真夏でも子供たちの学校にはクーラーがないって聞いたけど、“ホモ・サピエンス=知恵ある人”のその知恵って、ある意味とても凄い知恵よね。それとね、私たちのハチの巣は、越冬するのに充分なハチミツを貯えるため10Lは要るのだけど、私たちは新しい巣穴の候補地をさがす時には、樹にあいた穴ぐらを飛んだり歩いたりしてその体積を測っているのよ。」

「えっ、それって、本当? でもどうやって、測っているの?」

  ミツバチは、ここで少しすましたように、人のテツオに解説する。

「ちょっと専門用語が入るのだけど(8)、いかなる空間でも、空間を横切ってすべての方向に引かれた線の平均自由行程長=MFPLは、空間の体積Vの4倍を、内部の表面積Aで割ったものに等しいのね。つまり、MFPL=4V/Aだから、V=MFPL×A/4となり、これで私たちは体積を推定しながら巣の候補地を選んでいるのよ。」

  テツオは、そういやこの話は、シーリー教授の『ミツバチの会議』という本で読んだことを思い出したが、まさか当の本人、いや本ハチから教わるとは、思ってもみなかった。

「でね、巣の候補地の情報を集めたあとは、分蜂の時期にそなえて新しい巣穴の選定をするのだけれど、これも多くの仲間が探索しては巣に戻ってダンスして、質の評価を積分しては民主的に決めるのよ。私たちは生まれつき民主的で、リーダーなしでも集団は機能するの。人間みたいに王も帝も、フューラーもドゥーチェも不要。女王バチといってもね、実際はテレサのようなマザーなのよ。」

  テツオはハチの、高等にして高尚な生きざまに感動を覚えているが、ミツバチはそんなテツオがおもしろいのか、ここでまたもう一つ、話しかける。

「そういやテツオ、あなたフィボナッチ数列に興味あるでしょ。私たちの雄バチは雌の働きバチとは違って、未受精卵つまり母親しかいなくても生まれるけれど、この雄バチの系図(9)というのは、1,1,2,3,5,8・・・と続いていくから、これもまたフィボナッチ数列のあらわれの一つなのよね。」

「でも、どうしてこんなに難しいことを、文字も数字もないミツバチが・・」

「学習できて、伝えられるのかってことだよね。これはすべて“光”が教えてくれるのよ。フィボナッチの数列や美の黄金比がお目見えするのも、光がそうしてくれるからよ。脳みその大きさなんて全然関係ないんだから。その証拠の一つに、さっき言った私たちの幼虫への気遣いと、あなた達人間の子どもたちへの気遣いの違いがある。テツオ、あなたはダーウィンがこう語った(10)のを、覚えているでしょ。“なぜ思考が、脳の分泌物が、物質の属性たる重力よりも素晴らしいというのだろうか? それは我々の傲慢さで、我々を賛美しているだけではないか。脳それ自体が思考するなど馬鹿げている。ミミズがトンネルの入り口をふさぐ時、ただの盲目的、本能的な行動ではなく、ある程度の知能を示すように思われるのには、さらに驚かされる。いろいろな葉や葉柄、三角形の紙などで円筒形のチューブをふさがなければならない時に、彼らは人がするのとほとんど同じやり方で行動する。ミミズは体制こそ下等ではあるけれども、ある程度の知能を持っている。”って。」

  テツオは陽の光に照らされて輝きながら、得意そうに宙を舞うミツバチに見とれていると、ミツバチはまたホバリングの姿勢に戻って、あらためてテツオに向き合う。

「テツオ、私たち自然はね、みんな賢く知性をもって、この地球上を生きているのね。そんななか、私たちには人間は脅威だけれど、ほぼ自然のままのこの島で、農薬も化学肥料も使わずに、遺伝子操作のタネも持ち込まなかったあなたには、お礼を言うべきだと思う。・・・私たちは毒ガスやら化学物質で、あちこちで大量に虐殺されて・・・。もう、安心して暮らせる所は、ほとんどないのよ・・・。それは実は、あなた達も、同じでしょ・・・。」

  テツオは目の前にいるミツバチの、小さな目に大きな涙が光るのを見て、メイクのことなどすっかり忘れて、思わずもらい泣きをしてしまう。

「じゃあ、私はもう今日の蜜を集めたし、そろそろ巣へ戻らないとね・・。」

  と、ミツバチが飛び立とうとする所を、テツオは思わず呼び止める。

「あ、あの、ミツバチさん・・、今日は、お仕事で忙しいのに、私こそ本当にありがとう・・。」

  ミツバチはもう一度、テツオの前まで飛んでくると、ニッコリと微笑みながら、こう言った。

「テツオ、私たちは働きバチなどといわれて、人間には労働してると見られているけど、労働なんて、ハチもアリも、だれもそんなこと思ってないよ。そういう苦役を思うのは、“人間だけ”! 私たちは集団で生きているのが便利だし楽しいから、ただそうするだけ。そこには上下の別もなく、当然差別も何もない。テツオ、今日はあなたとお話しできて、本当に楽しかったわ。人間に汚されてない花を育ててくれるあなたのお陰で、おいしいハチミツができるのよ。あのクスノキの奥の茂みの左から三番目の樹に私たちの巣があるから、時々あなたに分けてもいいよ。仲間たちも、あなたなら刺さないし・・。」

  そういうとミツバチは、テツオの頭上を空高く飛び上がり、まるで別れを告げるように大きく八の字を描きながら宙を舞って、自分の巣の方角へと、飛び去っていったのだった。

 

  ミツバチが飛び去ったあと、テツオが女の子座りのまま、一人で涙ぐんでいると、今度は草ムラの下の方から、何やら少々、野太い声が聞こえてくる。

「兄弟、兄弟! 泣くなよ兄弟。泣いたら目尻に茶殻がつくぜ(11)。」

  テツオはあたりを見回すが、人影はどこにもない。

「兄弟、お前さんの目の前さ。さっきのハチの花の下ァ!」

  するとそこには、一匹のゴキブリがいる。

「あらァ、ゴキブリさんじゃない。こんな所で珍しいわね。泣いたら目尻に茶殻って、あたしはアイシャドウはつけない主義よ。」

  意外にも好意的な反応に、ゴキブリは少し驚く。

「へぇ。ゴキブリさんときやがった。こいつァ“珍”だね。女に化けりゃあ、もっとキャーッと騒ぐのかと思いきや、まるで荘子万物斉同、対等に接しやがる。ほうよ。オレァ、たしかにゴキブリよ。でもな、エサが欲しさにタカリに来たってわけじゃァねえんだ。兄弟、お前さん、珍しいって言ったけど、オレ達ァ前から部屋なじみ、寿の初対面じゃあ、ねえんだぜ。」

「えっ、それじゃ何、あたしの個室に住んでるの?」

  テツオは着物の襟もとへと、さっと手をそえ身をのけぞらす所作を見せる。

「へへぇ。借り物の着物袴で、役者気取りの女形よりうまい具合にはまっているぜ(12)。ほうよ。お前さんとの同居虫よ。しかも家族ぐるみでな。料理人見習いのお前さんにつき従い、時々厨房の中へと入って、塩噌に困るところから腹いっぱい食いてぇと、どなたもまっぴらご免なせぇってな感じで、うめぇものも食ってんのさ。」

  ゴキブリは、こげ茶色のその身をテカらせ、得意そうに物語る。

「やっぱりゴキブリが来てたのね。でも厨房内は気を付けなさいよ。あたしはいいけど、ミセス・シンに見つかっちゃ、ヤバイわよ。」

「ああ、あの鼻メガネの女だろ。いいよ、あいつが入ってくる時は、体内時計でズラしてっから。でな、兄弟。今日はお前ェさんに、一言礼を言おうと思って、ここィ来たんだ。」

「お礼って? あたしは何もしてないけれど・・。」

  するとゴキブリ、花の下の影の内から、長い触角フリフリさせては、テツオに向かって話しかける。

「お前さん、この前あの厨房で、ウチのセガレが干物箱で引っかかってもがいてたのを、そのまま外へと放り出し、助けてくれたろ。」

「まあ、あれって、ゴキちゃんの息子さんなの?」

「ほうよ。でな、セガレが無事に生還してきて、こう言うんだよ。“父ちゃん、あの人間のガキってやっぱ変だぜ。” “ガキって、おめぇもガキじゃねえか。で、何であいつが変なんだ。厨房に行くだけあって、おカマなのかおナベなのか?” “だってよ、ふつう人間って、オレたちゴキブリ真近に見れば、ブッたたくか突ッ殺そうとするじゃねえか。だけどあいつぁオレを見て-何て綺麗な茶羽根だろう。まるで午後の光にあてられたアフタヌーンティーのようだ-なぁんて見とれて、そのままポゥイと外へと解放してくれたんだ。” “バッカヤロウ。お前は干物箱ン中、アタフタの体のところでバレたんだぞ。あの人間野郎、善行ぶって、ここやかしこの寺島で似ぬ声色を使っては、父子ともどもそれ菊(聞く)うちに梅え(うまい)とばかりに騙されちゃあシャレにならねえ(13)。念のためこのオレが、あいつの本性確かめる”って、今日はお前ェさんが朝っぱらからおめかしをして、いささか普段の袴をはいて、弁天小僧みたいに化けて、伊勢屋の気障ァな歩きっぷり、雨降り、腰振り、尻振るあとを、こうしてつけて来たってわけさ。」

  と、ゴキブリは、足が長くないだけに、歩き疲れているようだ。

「それはまあ、お難儀ですこと。でも、本性とはいってもね、あたしはこれでご覧の通り、今日一日は女の子よ。」

  と、テツオが口元を袖で隠して微笑むと、ゴキブリも花の下から触角を震わせている。

「だけどゴキちゃん、えらく古風な江戸前のもの言いをするけれど、どうしてそんな風に話すの?」

  やさしいテツオに安心したのか、ゴキブリも地に腹をつけ、リラックスして話し続ける。

「そりゃァな、地球が生まれて46億、ゴキブリ生まれて3億年、男はだまって1億円っていわれる通り、オレ達ァ最古の生き物さ。んで、オレ達にゃ“自我”って意識が希薄だからよ、先祖代々、素人から玄人へ、ウナギの秘伝の甘ッたれを、継ぎ足しつぎたし引き継ぐように、その時々の思い思いを、寿限無のように長々と、DNAへとつないで共有してきてっから、たいていの事ァ知ってんだよ。3億年に比べたら、何万年の人類の歴史なんざ、昨日の今日みてえなものよ。特に吉原(ナカ)と楽屋は四六時中、あったかくて食い物にもありつけたから、オレ達ァみんな、しょっちゅうそこにいたってわけよ。」

  ゴキブリは少々往時を、懐かしんでいるようだ。

「吉原って、廓話じゃあるまいし。美しい女郎さんのお部屋で何を瓶覗き、してたのかしら・・・。ねえ、ゴキちゃん、あなた達には失礼かもしれないけれど、美は自然にあるとはいいながらも、あなた達は人間には、どう見ても美しいって気はしないのね。」

  テツオは3億年、3億年と自慢げなゴキブリが、さらに苦界の女郎に寄生して、おいしい思いをしてきたのを僻んでか、少しイヤミを言ってみる。だがゴキブリは、なぜかいっそう得意げに、はいつくばってはいるものの、ここは腰を定めて説明しようとするようだ。

「そりゃァな、兄弟、これは自然の美というよりも、お前さんたち人間の、オレたちゴキブリへの嫉妬心によるものなんだよ。兄弟、お前さんも“牧畜”てぇのを知ってるだろう。人間が、牛や羊を飼いならし、その見返りに連中の毛やら肉やら乳やらを搾り取るってことなんだが、何もこれは人間の発明じゃなく、例えばリはアブラムシなど液汁を吸う昆虫を乳牛のように変えたといえるし、またアブラムシはアリを酪農者のように変えたといえる(14)。これだって古くからの生物界の持ちつ持たれつ=お前さんらがいう所の共生あるいは共進化の一つなんだよ。ちなみに“農耕”っていうのもな、例えばハキリアリが落ち葉を巣へと持ち帰り、そこにキノコを植えてるように、人間だけの発明じゃねえ。それでオレ様が言いてえのは、お前さんたち人間も、実はオレたちゴキブリに牧畜されてきたってことさ。」

「エエッ、ウッソオ~! あたしたち人間って、食物連鎖のトップに立ってるハズだけど・・」

「兄弟、お前さん、自然界の一大法則=万物斉同ってぇのをわかってるみたいだから、ここは素直に言うけどよ、お前さんたちヒト属が獲物をしとめて巣へ持ち帰り、火をくべ出したその頃から、エサがあるやら温いやら居心地よくて、オレ達も一緒に暮らしてきたってわけさ。コレってさっきの“牧畜”と、原理的には同じだろ。他の生き物には人間のフトコロに入ろうとする度胸がねえのか、万物の霊長ってウヌボレている人間の牧畜にトライしたのは、オレ達3億歳のゴキブリと、2億歳の同属のシロアリ君ぐれえなものよ。だからお前さんたち人間の美意識は、コオロギと黒アリは受け入れても、たとえそれとは似ていても、ゴキブリとシロアリだけは悔しいから絶対に受け入れたくねえってわけさ。」

  ゴキブリの言い分に一本取られた気になって、テツオは思わずうなってしまうが、ゴキブリはなおも触角フリフリしながら、このまま語ってくれそうだ。

「まァ、そんな具合でよ、同じ共進化といってもな、人間との共生はどの生き物も難儀してんだ。ゴキブリとシロアリは汚れの象徴あつかいだし、同じ牧畜といってもだな(15)、ウシやウマは夕べ格子で勧めた牛が今朝はノコノコ馬になるっていうほど、朝から晩までこき使われる。偶蹄目といってもな、何もグウタラのテイタラクってわけじゃねえんだ。シカは春先に角を落とせばイヌとされて殺されて、ラクダはたとえ砂漠で重宝されても、死んだらカンカンノウを踊らされる。人を騙せるキツネやタヌキも今や逆。キツネは王子で女に化けりゃァ逆に男に騙されて半殺しの目にあうし、タヌキは逆に男に化けて若い女をはらませりゃァ男に撃たれて殺される。そればかりじゃねえ。人が朝寝をしたいと言えば三千世界のカラスは殺され、ネコは隣にいるだけで鯛やら酒を盗み取ったと濡れ衣を着せられる。そんななか、イヌはすすんで人間の下僕となったが、ご先祖様のオオカミが絶滅へと追い込まれた屈辱をサラリと忘れ、鰻の太鼓じゃあるめぇし、幇間みてぇに芸まで覚えて人間のご機嫌とるってあさましさだ。こいつァまるで、お前さんらとアメリカにそっくりだ。もっとも前者は鰻代を払わされ下駄を取られてすむからいいが、後者は思いやりで何億円も払わされ、集団的自衛とやらで戦地へ出向けばそこで高下駄はずされる。お前さんたち人間が、オレたち生きとし生けるものを殺生するか虐待ばかりするからよ、因果応報でこうなるんだ。だからよ、兄弟。お前さんらがこの島へ来た時も、オレたち自然の生き物は、進駐軍をむかえるみたいに恐れてたんだ。これは権力の自己都合で国民をビビらせておくサル芝居の“北朝鮮の脅威”より、はるかに現実的な脅威だったぜ。」

  テツオはここで反省して、すまなさそうにうつ向いている。ゴキブリは、そんなテツオに淡々と話し続ける。

「たしかにその首謀者たるお前さんは、大地を一度はキリングフィールドへと化したし、コメが欲しいばっかしにバッタ殺しもやらかした。でもな、しょせんオレたち生き物は、よその命を食いつないで生きてるわけで、これくらいはお互いの生存権の範囲ともいえるのさ。お前さんは悔い改めたし、また連れ合いのあの女の子、白装束に身をかため健気に行して懺悔しながらまわるじゃねえか。それにお前さんらは農薬も化学肥料も遺伝子操作も持ち込まず、田や畑に新たな命を芽吹かせてくれている。だからオレたち自然界も、お前さんらを受け入れることにしたのさ。」

  テツオはそれを聞きながら、心の中でノロのユリコに感謝の両手をあわせている。

「それによ、オレ達ァお前ェさんらがこの島へとたどり着いたその由来を、東からの風のたよりで聞いたんだよ。どこの馬の骨だか牛の骨だかカラカサの骨だか知らねえが、また人間どもがやってくる。しかし彼らは、放射能やらセシウムやらに汚染され、オレ達みたいに家も土地も奪われて、家族までも引き裂かれて、行くとこなくして流れてきたっていうじゃねえか。それでまだ作物がとれねえうちは、イモっぽりのカブっかじりで冷メシの残りを食って細く短くその命をつないでいやがる。お前ェさん達まだガキだっていうのによぉ・・、オレぁそれを見ていると、何だか悲しくなっちまってなぁ・・・。」

  ゴキブリは花の下で、触角を八の字にたらしながら、涙に声をつまらせているようだ。

「ゴキちゃん・・、あたし達のことを思って、泣いてくれるの?・・」

「あたぼうよ。」

「何、“あたぼう”って?」

「あったりめえだ、べらぼうめ-の略さ。オレ達ァずっと虐げられてっから、他人の苦しみ悲しみってえのがよくわかるんだ。」

「ゴキちゃん、ありがとう・・。人間よりも、やさしいのね・・。」

  テツオも思わず涙ぐむ。

「人間よりって・・、情けないねえ。人情なんて消えたのかい? そういやこういう人情噺は、圓生はうまかったねえ・・。」

圓生って?」

「何でぇ、お前さん、この国の人なのに、圓生も知らねえのか。情けないねえ。圓生つッても六代目、六代目つッても菊五郎じゃねえんだから。だいたい言葉を使う人間がよ、話芸ってのを忘れてら。あのな、兄弟。老婆心、いや、忠告つーか虫告として言っとくけどよ、そもそも人間つーのはな、楽園=自然界を追放された落伍者だから、落語っつーのを自ら作って自分自身を救済する宿命にあるんだよ。オレ達ぁ言葉はなくてもな、フェロモンやら匂いやらで、必要な情報は種を超えて伝えられっから、お互いにバランスとれて、支えあって生きていけんだ。人間は命をつなぐ食物連鎖を正しく見ないで、自然界は弱肉強食って思い込んでいるけれど、弱肉強食っていう野蛮さは人間だけで、花と虫たち、植物と昆虫あるいは多くの動物との関係をよく見ていればわかるように、実際にはオレたち自然の本分は“支えあい”だよ。それにな、こうした生きとし生けるもの達の共生が成り立っている大本は、“光”がすべての生き物を、母なる地球も父なる宇宙も含めてだな、つなげてくれいるからなんだよ。だってオレたち生き物は多岐で多彩で複雑だから、それらをつないで調整し、互いに生きとし生けるようにさせているのは、“光”以外にあり得ねえだろ。自然界の一大法則-因果応報が成り立つのも、光がこうしてはたらいてくれてるからさ。」

「ゴキちゃん、あなた、何でも、よく知ってるのねえ・・。」

「あたぼうよ。こう平たく見えてもな、知性ってえのは高いんだ。」

  ゴキブリはその物語にプクイチをしようとするのか、触角をていねいに嘗めはじめる。

「あぁ、そうそう。今話してるのは、お前さんたち人間への、3億年の先達たるオレ達からの虫告だったな。まぁ、お前ェさんにはセガレの難儀の恩義もあるし、話のわかる人だから言うけどよ、お前さんたち人間は言葉があるだけ真実を、見ていないのか、それともあえて、見ないようにしているね。」

「えっ、真実を見ないって、例えばどんな?」

「たとえを上げりゃキリがねえが、オレが一つ思うのは、あの吉原(ナカ)のことだ。あそこは温くくて白粉のいい匂いやら福助の今戸焼ってな食いものにも恵まれて・・、おぅ、それで思い出したけど、昔は白粉で立てなくなった女形がいたんだそうな。」

  テツオには勃てないと聞こえたので、すこし自分の気に障る。

「ゴキちゃん、それって女形だから勃てないってシャレ言ってるの?」

  するとゴキブリ、触角を大いに振って反論する。

「ちがうよ、兄弟。白粉の鉛毒で立てなくなった女形てぇのはな、五代目中村歌右衛門のことを言ってんだよ。まッたく、今の君たちは、文化てぇのを知らねぇなあ。でな、あの吉原てぇのはそもそも何だ?江戸文化の華咲く不夜城などといわれても、結局“苦界”つまりは“性奴隷の収容所”だろ。暴力とカネで雌を囲って、火事でもなけりゃ長い年季があけるまで大門からは一歩たりとも出られやしねえ。揚巻、八橋、高尾に喜瀬川、名だたる御職を番づけて、よろず虚飾にまみれさせ、性差別の汚辱を背負わせ、品川に浮く河竹の勤めの身、その板頭に痛わしい思いをさせて、それでそんな所が文化の中心なんてこと、おかしくないか?! 人間の文化って、いったい何だ? 3億年も生きてきたけど、一方の性がまたもう一方の性をだな、これほど騙して虐げて、暴力づくで支配して搾取するって生き物は、お前さんたち人間だけだ。勃つって、いったい何が立つんだ? 一方の性に種の性進化の大きな負担を人柱みたいに背負わせといて、それを煮え湯で責めさいなみ、茶柱でも立てようッてえのかい?」

  今日一日は、男より女になりたいテツオには、この指摘はグサリと刺さる。しかしゴキブリ、ここからは積年の恨みつらみを晴らすみたいに、触角をおっ立ててしゃべりまくる。

「それとオレが何より思うのは、他ならぬ“戦争”だよ。あれはまさに“殺し”だろ。夏祭りに浪速の鏡、待つ血祭りに花輪の騙りみてぇによ、人は殺しを美化しやがる。“殺戮”をさも勇ましげに“戦い”と言いかえて、“侵略”を“自衛”というのはお手のもの、“虐殺”をまるで清掃するかのように“浄化”とさえも言いかえる。吉原で百人斬ったら犯罪だが、百万人を殺したら英雄になれるってぇのが人間だろ。お前さんたち人間はだな、だいたい殺しが過ぎるんだよ。さっきのハチもオレ達も、いや全ての虫や細菌たちは、どんどん効き目が強くなる毒ガスで世界中で日々大量に虐殺される。人間てぇのは農業などの口実つくって本当は、ただ虫や生き物を殺したいだけじゃねえのか? 毒ガスだってもとはといえば、大戦や収容所で人に仕向けたその余りを、戦後もますます儲けるために、虫へと転用したってことは、かのレイチェル・カーソンの『沈黙の春』にも書いてあるだろ。それだけじゃねえ。人間が虚栄心を満たそうと、より肉食化してくると、ニワトリは一生ゲージやコンベアで、卵っからブツ切りの肉のパックに至るまで工場で量産されて、ブタは身ィ一つ分の鉄柵に閉じ込められ、スクラップみてぇに殺される。虐殺は食用ばかりじゃねえんだぜ。アフリカではハンター向けに、もう天然のじゃ間に合わねえからライオンやサイたちが飼育されては野に放たれ、ハンティングというレジャーという名で虐殺される。その他にも人間の女どもを支配するため、またそんなヌケ六みたいな男どもの自慢のため、そして女自身の虚栄のために、どれだけの生き物がエリマキにされたことか! どれも生きるためじゃなく、人間の虚栄とレジャーのための虐殺だ。つまりお前さんたち人間ってのは、言葉で言うのは口実で、本当は“殺し”そのものを楽しんでいるんじゃねえのか?! 人間ってのは“性”もレジャーで、“生”もレジャー、カネで遊んで楽しんで殺して捨てるという循環が、人間のいう所の“循環型社会”っていうヤツだろ!」

  テツオはもう一言も返せずに、ただ下をうつ向いている他はない。そんなテツオの様子を見ながら、ゴキブリはトーンをゆるめて言葉を発する。

「兄弟・・、今日は礼を言いに来たのに、すまなかったな。じゃあ、オレァもうここらで、失敬するぜ。」

  と、ゴキブリがモソモソと帰り出そうとする所を、テツオはそのまま呼び止める。

「あ、ゴキちゃん、ちょっと待って・・。ね、3億年も生きてきて、この世界を見てきたんでしょ。少し質問させてもらっても、いいかしら?」

「ああ。言いてえことがあるんなら、言っちまいねえ。」

  と、ゴキブリは向き直り、また花の下、草葉の陰へともぐり込む。

「私たち人間って、こんなに罪深いんだけど、やっぱり神は、最後の審判、下すのかしら?」

「まァ、そうだろな。自然界の大法則-万物斉同、因果応報に照らしてみれば、お前さんたち人間は、“お前たちの血、すなわち生命の損失には、その責任を追及する(16)”っていわれる通り、いくら何でももう潮時だ。」

  テツオはさらに尋ね入る。

「ね、ゴキちゃん。私たちが唯一のヒト属となる直近まで姉妹種だったネアンデルタール人って知ってるでしょ。彼らはどうして絶滅したの?」

「それって、どんな野郎たちだ? お前さんらとまた別の人類ってぇのがいたのかい? なら、お前さんらは、何て名前だ?」

「“知恵ある人”っていう意味の、ホモ・サピエンスよ。」

「“知恵ある人”って・・・。それ、オチやサゲにも、ブラックジョークにもならねえよ。いっそ“ホモ・サクリファイス”とでもいえば?」

  ゴキブリは、どうやら細かい分類までしてないらしく、テツオはネアンデルタレンシスを簡潔に説明する。

「・・そういや、思い出してきたぞ・・。その連中ってヨーロッパから中東ってぇ所にかけて、狩りで暮らしを立てながら、ホラ穴ん中にこじんまりと住んでいた、あのズングリムックリ野郎のことか。そういやあのタイプって、しばらく見ねえと思ったら、絶滅済みだったてぇことか・・。へえ・・、ヒト属ってのは他を絶滅に追い込むだけでなく、自ら絶滅するってのもいるのか。でもよ、あの連中ならオレ達にもいっしょに住んでたのがいるからよ、そういや確かに思い出したぜ。」

「ゴキちゃん、あなたずっとこの国にいたくせに、何でそんな遠くのことまで知ってるのよ?」

「そりゃ、生物は進化のなかで同じ種が地域をこえて同様の進化をとげるという“平行進化”ってぇのがあるだろ。これも互いに光でつながってるから、オレたち地球の裏側まで知ってんだ。で、彼らがどうして絶滅したかって? あの連中もオレたち同様、氷河期を乗り越えてるし、それなりに広い地域で何十万年も生きてきたから、ただの気候の変動や食糧不足みたいな環境変化が原因とは思えねえな。あの連中が絶滅するくらいの環境の変化があれば、同じ時期にもっと多くの種の絶滅があっただろうし、体力も体格も大差なかったお前さんたちサピエンスも絶滅をしただろう。恐竜みたいに体が特に不自由していたとも思えねえし・・・。ということは、ひょっとして、あの連中だけ頭ん中が、どうかしちまったんじゃねえか?」

「頭の中が、どうかしたって?」

「ほうよ。だってあの連中の最晩年の見た目といえば、だんだん元気や生気が失せてって、ホラ穴に引きこもり、よろずにつけて無気力状態だったようだぜ。そこはお前さんたち今日のサビレンスとよく似てらあな。頭ん中っていうのはな、お前さんたちヒト属は環境に適応し体を変化させるより、火をくべ服を着ることからもわかるように、逆に環境に加工しようとするだろよ。だからヒトってえのは知恵つかうから頭ん中が肝心なんだ。つまり体よりも知恵に依存してるんだよ。だからその依存のもとに変化が起こって、それに対応できなくなれば、まるでハシゴをはずされたみたいに宙ぶらりん状態になり、精神がポッキリと折れてしまうということさ。」

  テツオがここは肝心と、女の子座りをきちんとして聞こうとすると、ゴキブリも、はいつくばってはいるものの、姿勢を正して語るようだ。

「あのな、兄弟。オレたち生き物ってえのはな、基本“光”がベースなんだよ。たとえばお前さんは今ニュートラルだが、性=SEXっていうのがあるだろ。あれだって生物の太祖高祖のバクテリアが、互いに己のDNAを複雑そうに交換しあってつないでいたのを、そこから進化した生き物たちが、“光”に深く関係のある電気のプラスとマイナスと、磁気のNとSとをもとにして、基本的に引きあったり離れあったり、こりゃ習性的に便利じゃねえかということで、雄と雌ってことにしたらしいのさ。面白いのは、電気のプラスとマイナスは別にできるが、磁気のNとSとは磁石をいくら分割しても必ずNとSのセットになる-モノポールが存在しないということに、性=SEXをあてたことさ。つまり、性=SEXは人間は“分ける”と言ったが、自然はあくまで“分けられない”と言うわけだ。」

  テツオは思わず-なるほど!-と、ゴキブリにまた一本取られた気になってくる。

「それで光というのはな、お前さんらが言う所の数学の諸相ももってるからよ、それでミツバチらは巣の体積も測れるし、フィボナッチ数とやらも自然の随所にあらわれてくるんだよ。花の色ももとはといえば光の色だし、第一、植物たちが光合成で光を養分にするからこそ、すべての生き物は生きてけるんだ。そんなわけで生き物たちはみな光に依存をしているわけなんだが、光にもいろんな要素があるからよ、花が色に依存するのに似て、光のどこに依存するかが問題なんだよ。それでお前さんが気づいたように、“自然は知性をもっていて、それは光が担っている”ということは、その当のお前さんたちヒト属が知恵に依存するってことは、すなわち光に全面的に依存する=光に頼りきっているってことなんだよ。脳はおそらく、その光との交信をするセンターみたいなものなんだろな。」

「知恵のもとの光に頼りきっているだなんて・・。じゃあ、どうして私たち人間に、その自覚がないのかしら?」

「そりゃ、お前さん、目ェは外は見られても、目ン玉の中は見れねえだろ。それと同じさ。だからよ、兄弟。そのネアンデルが絶滅したというのもな、3億歳のオレなんかが思うにはだ、依存していた光の方に何らかの変化が起こって、それが連中の脳みそに対応できる術がなくて、それで頭ん中が変になって、無気力ってな形であらわれたんじゃないだろうか。」

「でも“光”って、気候のように、第一、変化をするものなの?」

「兄弟。オレはさっき、自然界の一大法則=因果応報っていうのを言っただろう。因果応報ということは、万物は流転するということさ。つまり、環境は必ず変化するということで、これは地球も宇宙も生きているって証でもある。それで光も変化するってことだと思うよ。」

「でもね、ゴキちゃん。光はその速度が不変なように、恒久不変なものじゃないの?」

「兄弟。そいつァ今一歩だったな。光の上にもう一段、神様ってぇのがいなさるのさ。この神様や仏様が永久に不変なのさ。ここはいくら3億歳のこのオレでもわからねえが、神様や仏様のレベルというのは、“存在”や“意思”そのもののレベルであって、光のように人間に見られたりはしないと思うよ。だって“ヤハウェ”とは“我在り”っていう意味(17)と聞いたし、仏様も“如来”つまり、かくの如く来るっていうだろ。お前さんたちこの国の国民も、今はダメだがかつては仏様についてもだな、かなりイイ線で接してたんだぜ。だってホラ、“是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減”って、八十八カ所巡礼で唱えてたりするじゃねえか。」

「じゃあ、ゴキちゃんが思う所の、ネアンデルタール人絶滅のナゾに対する一仮説-光に関する変化って、たとえば何が思い当たるの?」

「“光”も変化するってことは、光は電磁波でもあるからな、電気や磁気が変化する-ということも含まれるってことだよな。ということは・・、オレはヒトじゃねえからよ、お前さんらの頭ん中は推測するしかねえけどよ、ひょっとすると、“磁気の変化”かもしれねえな。」

  女の子座りのまま、興味シンシン身を乗り出して聞くテツオを前に、ゴキブリはまた触角をフリフリさせては語り続ける。

「お前さんも知っての通り、地球ってのは大きな磁石でもあるんだよ。だから有名な伝書バトから小っちぇえ細菌に至るまで、この地球の磁気=地磁気に依存する生き物ってぇのがいるわけさ。この地磁気ってのは常に一定なんじゃなく、部分的にも全体的にもよく変わるし、まるで狂言みてぇにな、南北つるッとひっくり返るってこともある。だから磁気に頼る細菌なんかで-地球がまっさかさまになったぁ!-てんで、絶滅したヤツもいる。で、電気と磁気とは電磁波でもある光とゆかりが深いからよ、ヒト属で知恵のために光に頼るネアンデルが、磁気の変化をこうむって、頭ん中がヘンになったってシナリオは、あながちハズレてないと思うぜ。」

「でも、そんなことが私たちサピエンスにも起こるのかしら。磁気の変化は電子機器への影響はあるっていうけど、私たち人の頭に直接影響するなんて・・・」

「いや、お前さんたちサギデンスは、ウソばっかしつきやがるから、磁気の変化ぐれぇなことは、屁ぇみたいなもんかもしれねえ。でも最近のお前さんらの無気力さって、まるでネアンデルの末期のようだぜ。毎日毎日奴隷のように、学校や会社という名の収容所に囲われて、選挙も行かず、自分の意思ってもんがねえから、言葉の意味も解体していく。大人は子供を守らないし、第一、自分自身も守らない。そして何より全体的にゾンビみたいに生気がなく、なぜか己の手相ばかりを見てるんだ。」

「ゴキちゃん、それは多分、スマホという電子機器を手にのせて見てるのよ。」

「へえーっ。またお前さんたち、テレビのような魂のお吸いもの、こさえたのかい。これでまたもう一つ、“阿片”が増えたね。」

「磁気ではないというのなら、私たちに影響する光に関する変化って、いったい何があるのでしょうね?」

  テツオが考え込んでいると、ゴキブリは最後の持ちネタ探るように、静かに問いかけてくる。

「兄弟。オレはずっと気になっていたんだが、お前さんたち、いつか人間同士でよ、あの原発の事故について話していた時、A判定とかB判定とか、α線とかβ線とか、その中で“光”のことにも触れていたよな。あれっていったい、何の話だ?」

「ああ、多分それは、“γ線”のことじゃないの。原発事故で最も大量放出されたセシウム137などの放射性物質から、よりによってどうして光で一番エネルギーの強烈なγ線が放たれて、生物が傷つけられる因果があるのか-という話だったと思うのだけど・・・。」

  ゴキブリはいろいろと考えを巡らせていたようだが、ふいに触角の先っちょをちょいと丸めて、ポンと地面を打ったのだった。

「そう! それだよ、それ! そうか、これでついにわかったぞ。」

  ゴキブリが興奮気味に、滅多に見せない茶羽根を開いてバタバタさせては、喜んでるのを不思議に思うテツオを前に、ゴキブリは落ち着きを取り戻しては、語り続ける。

「いやな、オレたち3億年も生きてはきたが、最近何か正体はわからねえが、今までになかったようなある異変が起こったことには気づいてたんだよ。それで後輩のシロアリに聞いてもな、“こいつは何か光線みたいだ。とても人が作れるものじゃねえ”って所までは意見が一致したのだが、それで野郎が言うにはな、“なぁ、兄ィ、お前さんたちゴキブリって茶黒いけど、それって太古に紫外線が多かった時代の名残だろ。それでオゾンに穴が開いても生き残れっから、まっ白な俺たちにゃ、うらやましいねぇ”って。で、オレはこう言い返してやったのさ。“べらぼうめ。光には紫外線よりもっと強い先があらァな。そしたらオレらもイチコロで、オゾンもボゾンも関係ねえや”って。そうか、これがγ線だったのか・・・。」

  ゴキブリはあらためて、深く納得したようだったが、ここでやや余裕が出たのか、引き出しが開いたのか、触角振ってテツオに何かを言いたいみたいだ。

「でな、このシロアリとの話には続きがあって、まず、オレが、“シロアリ。オレもお前も暗がり好みで、さほど光に頼んねえから、γ線など影響ねえだろ。”って返すとよ、野郎、ヘラヘラ笑いながらこう言いやがる。“兄ィ、これってもしやまた人間が、ヘマやらかしたんじゃねえのかな。しかも今度は思いっきし致命的なヤツをだな。そしたら今度こそ因果応報の理どおり、ついにアイツら自分で掘った墓穴にはまって自滅するかもしれねえぜ。そしてら俺たち毒ガスにジャマされずに、アイツらの家という家、思いっきし喰い放題だぁ”って、バカっ面を引ッさげて言うものだから、オレぁ、こう言ってやったんだ。“バァカ! お前はその名がシロップ有りに近いだけに、考えが甘ぇんだ。人間がいなくなっちゃあ、オレたち遊んで暮らせねえだろ。オレもお前もまだこの先、何万年も楽してホイホイ生きたけりゃあ、人間がダメになるたんびによ、新しいヒトの種が出てくれなけりゃ困るだろ”って。そしたら野郎は、こう持ちかける。“さすがは兄ィ、色が濃いだけ、人間に深煎り(入り)してるね。じゃあよ、兄ィ、次なるヒトの種がタイミングよく出るのかどうか、シロップじゃねえけどよ、ここは一つ、かけてみようか”って言うんで、オレは、“かけるってお前ェ、冗談いうねえ。オレァ甘ぇもんは苦手だし、ジョークといってもブラックしか受け付けねえんだ”と返すとよ、野郎、まだこだわって、“何だヨ、兄ィ、俺のかけのお誘いから、逃げようってえのか”ってきやがるから、“逃げんじゃねえよ。ビター一文、払わねえって言ってんだ”って、返してやったさ。」

  ゴキブリはここまで言うと触角を震わせて、一匹で受けては笑っているみたいだが、テツオは少々ムッとする。

「ゴキちゃん、やっぱりコーヒー豆を食べ散らかしたの、アンタでしょ! 本当にモウッ、あたしがシンさんに叱られたのよ。そんな小咄はいいとして、もし私たちが本当にこの先、このγ線による何らかのカラクリで、頭の中がおかしくなって、それを機に絶滅が現実的になるとしたら・・・。でも、絶滅をするとはいっても、きっと何万年もの先のことに、なるんだよね?」

  しかしゴキブリ、このテツオの問いには意外にも、あっさり答える。

「いいや。オレが思うに、わりと早く済むかもしれねえ。」

「えっつ、どうしてよ? 普通、種の進化って、何万年もかかるんじゃないの?」

  ゴキブリはNO,NOとでも言いたげに、触角を横に振る。

「たしかに、普通、種の進化には年数を要するんだが、お前さんたち人間は、少なくともここ1万年ほどさほど変わってねえんだよ。だって自分が環境変化に適応するより、自分の都合で環境を加工しようとするからよ。それを社会や文化や文明やらって、そっちの変化がはげしいから、それで人類は進化してると錯覚をしているんだよ。しかし生物的に見るとだな、実はとっくの昔に環境変化への適応を進化の途中で捨てたのが、他ならぬ人間なんだよ。だから今さら人間は、環境変化の適応なんてできやしねえよ。つまりお前さんたち人間は、今や最も“弱い種”なのさ。それに少子化が進んじまって、親2人から子1人しか生まれてこねえし、子ができても守らねえから、2から1や0へとつながり、500~600年ほど経てば、これだけで単純消滅するって所が出るんじゃねえの。」

  ここでゴキブリ、口調を少し上向きにあらためて、自分たちのことを語る。

「兄弟。さっきのコーヒー、失敬したお詫びにな、豆知識を教えてやろう。だいたいオレたち虫ってえのは、今いる連中の50%は、すでに2億5000万年前の昔っから生きてんだよ。オレたちゴキブリ3億年、ほとんどモデルチェンジなしで厳しい地球の環境変化に適応して生きてきたのは、基本的に何ものにも依存せず、もとから自前の能力で、独立して適応しようとしてきたからさ。オレたちいろいろ仲間はいるが、は休眠して-10度でも体液を凍らせないで乗り切れるヤツもいれば、エサなしの水だけで90日も生きていけるヤツもいる。この小ッちぇえ体はサイズ的にもすばしっこさでも最適で、羽根があるから宙も飛べるし、長い触角の感度は抜群、しかも繁殖力はたくましい。お前さんたち人間がいくら毒ガスあびせても、すぐに抵抗力をつけるから、抵抗性が何倍強いか-抵抗性比で示しても100倍ってヤツもいる(18)。だからオレたち、じきにダイオキシン放射能もクリアーできる日が来ると思っているよ。オレたち虫は毒ガスには抵抗できるし、エなんかで実験されて目をつぶされても、8世代後にはもとに戻った例もある(19)。」

  ゴキブリはここまでやや得意げに話してきたが、また冷徹な口調にもどる。

「だがな、これらはいずれも身体の器官の変化を言ってんだ。お前さんたちヒト属は、環境に適応すべく身体の器官を変化させるより、知恵を使って乗りきろうってことなんだが、知恵というのは器官じゃない。つまり、物質じゃねえってことだ。だから変化に対する質的な動かしにくさっていうのがよ、そもそもないのさ。だから、光にかかわる環境変化-それが磁気であれγ線であれ-が生じることによってだな、物質ではない知恵=光への依存に何かが起こると、それ特有の抵抗力でもない限り、おそらく復旧できねえし、物的担保がないってことは影響もすぐに出るっていうことさ。だからネアンデルタール人たちは、何十万年も生きていながら、あっけなく絶滅をしちまったんじゃねえのかな。」

「今の私たちって、まさにそのネアンデルタール人たちのような運命に、あるのかしら・・」

「仮説としてはあり得るだろな。ヒト属というのは知恵=光に依存しすぎてるから、光に関する大きな変化が生じれば、ネアンデルは磁気の変化で、お前さんたちサピエンスはγ線の放出で、身体の器官への健康被害もさることながら、そのメカニズムはわからねえが、頭の中がおかしくなって、それが無気力って形で表に出て、そう長くはかからずに種としては終わるってシナリオはあり得るだろな。しかもそのγ線は光だし、1秒間で地球を7周半も回るくらいの速さだから、それは世界中至る所で人間には“直ちに影響ある”ってわけで、今さらどうにもできやしねえよ。」

  ゴキブリはここまで話すと、いよいよ最後の審判といった感じで、はいつくばってはいるものの、ここからは腰をすえて物語る。

「兄弟。思い返してもみねえ。かつて神様がノアに箱舟つくらせて、地球のすべてを大洪水でぬぐい去り、箱舟の全生物が再び陸へと上がった時に、こう言ったっていうじゃねえか。“後、再び人間ゆえに地を呪うことはしまい。また、今度のように、全ての生命あるものを滅ぼすことも再びすまい。お前たちの血、すなわち生命の損失には、その責任を追及する。人間の生命の損失には、人間同士の責任を追及する(20)。”って。知恵の源としての光に、これほど依存をしているのは人間だけだ。だからγ線は人間のその知恵に直接影響するのだろう。つまり、大洪水みたいに全生物を巻き込まずとも、人間にその責任を追及するって神の言葉が成就するのさ。これがお前さんたち人間の、原爆と原発への天罰なのさ。お前さんたち人間は、光ゆえに知恵を貪り、そしてその悪知恵による悪業の報いとして、因果応報の理どおり、光ゆえに滅びていくのさ。」

  ゴキブリはここまで語ると、また静かにその触角をなめるのだった。

  テツオは深く考え込む。-やっぱり私たち人間は、核への依存と引き換えに、滅んでいく運命なのか-。しかし彼は落ち込むどころか、これでむしろ吹っ切れて、今までの閉塞感から、何かまた新たな出発点を見出した感じさえする。ゴキブリは、そんなテツオの様子を見ながら、彼の次なる一言を、待っているかに思われる。

「ねえ、ゴキちゃん、私、少し不思議に思うのだけど、あなた、どうしてそこまで詳しく、私たちサピエンスのこと、考えてくれてるの?」

  するとゴキブリ、花の下にいながらも、鼻の下をのばすような笑いを立てて、言葉を発する。

「そりゃぁよ、兄弟。『厩火事』じゃねえけどよ、お前さんたちヒト属が、ここで全滅なんてことになりゃあ、オレたち温けぇ所でよ、楽して遊んで食ってけるって生活ができなくなるだろ。だからよ、兄弟、オレァ是非に、お前さんらに、新しいヒトの種を、継いでほしいと思ってんのさ。」

  そしてゴキブリ、ついにこれこそ言いたかったか、触角の先端に矢印みたいな形をつくって、テツオに向かって差しむける。

「ちなみに兄弟、お前さんは、3億歳のこのオレ様が見込んだ所、ホモ・サピエンスの絶滅と引き換えに、新たに出てくるヒトの種の“その人”になるだろうぜ。」

  そう言ってゴキブリがその触角を一振り振るうと、テツオは思わず後ろにのけぞり、ここまで保った女の子座りをゆらりと、傾かせる。

「ハハハハ。お前さん、エロチックに女に化けても、革命のエロイカだけに、一振り振るうと、“振ると面食らう”(21)ってな体になるね。お前さん、“花”ってえのがわかってるだろ。つまり、花を愛するお前さんは、愛に満ちた生き方をしてるんだよ。神様はそういうのを見捨てやしねえ。お前さんは神様と愛でつながってるからよ、たとえ何が起こっても、生きて、生きて、生きぬいて、世代をつなげていけるんだよ。永久不変の神様とつながれるのは、ただ“愛”だけさ。」

  ここまで言うとゴキブリは、触角の先をこすり合せて、-ガラにもねえこと言わせやがって-みたいな感じで、少し照れているようである。

「じゃあよ、兄弟。オレァけっこう長居したから、ここらで帰るぜ。でねえとまたカカァとガキが、人間に殺られたかって、心配するしな。」

  ゴキブリが帰ろうとして、その茶黒い背中を向けた時、テツオは最後に一言だけ、声をかける。

「ゴキちゃん・・・、3億年も生きぬいて、人間が放射能をまき散らしてしまったのに、その罪深い人間の一人である私に、ここまで告げてくれたなんて・・・。あなたはもしや、神様の化身か、それとも使者なのかしら?・・・」

  するとゴキブリ、小さな体で、テツオの耳へと響くまで大きな声で笑いながら、彼の方へと振り返り、このように言うのだった。

「ハハハハハ。兄弟、お前さん、神様に愛されているだけに、人がいいねえ。いや、皮肉な意味で言っているんじゃあ、ねえんだよ。たとえ地球の南北が、つるッとひっくり返っても、オレァ神様の化身なんかにゃ、なれねえぜ。

  兄弟。お前さん、この先も(22)、この地球でメシを食うなら、オレたちの面ァ、またどこかで見るさ。オレたちぁね、ジュラ期をこえて今日まで、恐竜だろうがヒトだろうが、どこでも相手に不足のねえ、3億年も母なる地球に“居残っている”ゴキブリってぇもんだ。オレたちぁ人と暮らしてきたが、核と共存するアホ・サピエンスに見切りをつけて、お前さんを見込んでは、いっしょにこの島へと移ってきたってぇわけよ。お前さんみてぇな人なら、きっと生き残れるだろうって、きっと自然選択されるだろうって。つまり、オレたちぁあと何万年かは、また一緒に楽しく暮らしていけるッてぇこった。お前さんの仲間のみんなに一つよろしく言っとくれ。そんなら、兄弟、またどっかで会おうぜ! あばよッ!」

  と言うが早いかゴキブリは、スタコラサッサと目にもとまらぬその速さで、草葉の中をかいくぐり、走り去っていったのだった。

 

「ユリちゃん、ユリちゃん・・。読んでばかりで疲れたでしょう。一休みに、お茶しない?」

  県の郊外、小高い山の裾野を開いて、隣り合わせで建てられた美術館と図書館の間には、段々畑のような感じで喫茶スペースが広がっていて、そこからは市の中心部が遠く見渡せ、また海をはさんだ向こう側には、私たちの嘉南島も視界へと入ってくる。先生と私がついたのは、モスグリーンのテーブル席。足もとには花崗岩の青石板が敷きつめられて、それと初夏の山の緑とが、先生の今日の装い-ペールブルーの色調を、まるで北宋青磁のように、いっそう品よくエレガントに映し出しているようだ。

このスペースは本の持ち込みができるので、先生は手にした本を私に見せる。

「先生、それって全部“磁気”の本なのですか? どうしてまた、磁石や磁気を?・・」

「ユリちゃん、あなたこの前、ネアンデルタール人絶滅の謎について、気候変化やサピエンスに比べて彼らの知能が低いという定説には納得いかないって質問を、してくれたでしょう。たしかに、ネアンデルタレンシスと私たちサピエンスって、何万年か長期に渡って同時代を生きていたし、彼らの方が体格的にも体力的にも頑丈で、また脳容量も勝っていて、それにサピエンスの言語能力が優れていたのだとしても、狩猟暮らしのその時代に大した言語は要らなかっただろうから、この両者には絶滅と存続を分かつほどの大きな差があったとは思えないし、それで氷河期を乗り越えてきた彼らだけが、気候変化や食糧不足という外的な要因だけで絶滅という種の一大事をむかえたとも思えないのね。と同時に、私たちサピエンスが他の人類が絶滅するなか、なぜ唯一のヒト属として生き残ったのかも、また大きな謎なのよ。この両者が互いに争ったという形跡も残ってないみたいだから、サピエンスがネアンデルタレンシスをジェノサイドしたというわけでもないし、サピエンスの方が繁殖が勝っていって、数の多さでネアンデルを圧倒して交雑を重ねていったというのなら、もっと遺伝子的な共通点が伝わっているだろうしね。それで私もいろいろと調べてみたけど、その絶滅にはひょっとして、地球の磁気変化が関係しているのではないかと、思ったのよね・・・。」

「その“地球磁気説”っていう説が、進化論にはあるのですか?」

「うん。この本(23)にはね、“生物界の進化・発達における主な段階が、地磁気極性の変化と一致しており、ある種の生物の絶滅のようなカタストロフィー現象は、基本的には地磁気の方向や強さの変化によるもので、気候その他の影響は弱いと見られる。・・・例えば、ホミニド(原人)の化石が発見されたのは、ガウス期の終わり頃で、この頃巨像と恐竜の発生が起こっており、一方、地磁気は少なくとも4回逆転している。このことから、ある特別な時期における原人の発生は、地磁気逆転とヒトの突然変異との関係を示唆するものと思われる。事実、(地磁気逆転期の一つである)松山期におけるホモ・ハビリスの発生や、ブルーネス期におけるホモ・サピエンスの発生は、地磁気逆転の時期と一致している。”と書いてあるのね。」

ネアンデルタール人絶滅の原因として、地磁気の変化をあげた説って、あまり見た覚えがないのですが・・。」

「それがね、私が見てきたある本に、こんな記述があったのよ。」

  と、先生は、続いてまた別の書物を開いて見せる。

「この本(24)にね、“地磁気エクスカーション・・、ある時期に地磁気が逆転とまではいかなくても、90度くらい振れる現象で、地磁気の強さも数分の一に小さくなる・・、約3万年前にエクスカーションが起こっており、地磁気は全地球に変動したと思われる。・・これはちょうど、ネアンデルタール人からクロマニヨン人に、人類の代表が変わったころだ・・。”とあるでしょ。クロマニヨン人って、サピエンスのことだしね。でも、この本でもネアンデルタール人絶滅の原因は気候変動と言っているのね。だから地磁気変動説というのは、ことネアンデルタール人絶滅とサピエンスの存続の謎については、少数説にも至ってないかもしれないけれど、私はこれが仮説の一つになり得るのではと、思うのね。」

  と、先生は、持ってきた本を一式、私に手渡す。

「ユリちゃん、どう? この路線が使えそうなら、あなた達、ひとつ仮説を、つくってみては? 仮説は人の数だけあり得るもの。大人の定説などに満足せず、また遠慮せずに、自分で創造してみては。」

  先生は微笑みながらそう言うと、手の甲を裏返して、腕時計を少し見やる。

「ユリちゃん、もしよければ商店街までバスで戻って、書店に少し寄ったあと、無農薬でつくった紅茶の専門店があるんだけど、そこ行かない? あそこのイチゴタルトって、すっごくおいしんだから。」

「それって、兵庫街の入り口の、あのお店ですか?」

  そのお店は私が前から目をつけていた所だったが、テツオは一緒してくれないし、私も一人で行く勇気もなくて、ずっとお預けになっていた所だ。先生は、やや茶目っ気こめた眼差しでニッコリとうなずくが、私は彼女の小肘をとって、キスしようとするほど顔を近づけ、

「行く、行く、行く、行く! 連れてって、連れてって!」

  と、つい甘えて、はしゃいでしまった。

 

  私たちは本を借りだし、地階のバス停へと向かっていく。途中、建物の上空から、大型ヘリが発するような爆音が聞こえてきた。軍用機が飛び交うのはよくあることだが・・、いや、この爆音は、あのオスドロンのに違いない! 私たちがバスに乗るのと同じころ、爆音は遠のいていったけど・・、あのオスドロン、もしかしてまた嘉南島へと、向かって行ったのではないだろうか?!・・・。

 

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