こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第十五章 不屈の抵抗大作戦(前)

  テツオたち4人にとっては、高校3年、この島でともに過ごせる最後の真夏がやってきた。セミの声も甲高く、天をも貫く勢いで、それが真夏の命の躍動を、いっそう高めていきそうだ。

  たびたび飛来をしてきたオスドロンはもはや見られず、ともすれば権力は、この島の軍事基地化を見逃しているかに見えた。

「いえいえ、この国のやることですから。ねらった弱者は何が何でもタタキ潰す構えでいますよ。しかも改憲後のこれからは、いきなり治安維持を銘打って、暴力=軍事力を行使の形で・・。

  ボクが思うに、彼らは空からの攻撃には失敗したので、次は必ず海からやって来るハズです。」

  そう言うタミは、テツオが操る小船に乗って、彼と一緒に島の周囲を確認している。彼らは所々で小船を止めては、島の形を改めて確かめまわり、嘉南岳を中心とするこの島は絶壁で囲まれてるので、海からの攻撃=上陸作戦がなされるのは、やはり県に面している納瑠卍の浜しかないと思うのだった。

 

  あのオスドロンの来襲以来、島のだれもがタミが確信するように、権力は己にはむかう者に対して、何が何でも潰しにかかってくるはずだと予見した。だからこの嘉南島の防衛策は、非暴力での抵抗を基とはしながら、アイ氏プロデュースのDVDの印税や、キンゴが発した“発狂した官僚”のインターネットBGM選手権の賞金などを経費としながら、着々と進めてこられたのだった。

  そして真夏がやってきて、この島の“不屈の抵抗作戦”と銘打たれた防衛策のDデイが迫ってきた。それは島のオバアが、“狸が化けたというサイコロ”(1)を振り、その賽の目から、“七転び八起きの末に、三度まわってバンザイの千手観音‘五’で止まった。さすれば来る8月15日、あの敗戦の因縁の日に国防軍がやって来る!”と予言した、まさにその日が近づいた-ということなのだ。

「その日はちょうど恒例の、放射能汚染地からの“夏休み保養キャンプin嘉南島”の真っ最中。しかも今年は“子ども革命独立国”の3周年記念の節目、ブルーノ氏によるチャリティーコンサートin納瑠卍浜の当日にもあたっている。だから、なじみの参加者も多いうえ、いつも応援してくれている漁村のみんなや、周辺各地の原発差し止め裁判の原告やサポーターたち、反戦反核・反原発・反米軍基地の活動家の志士たちや、ボランティアも大勢来る予定だから、国防軍を迎え撃つには不足はないな。」

「また、このブルーノさんのコンサートは、あたし達のDVDをプロデュースしてくれたアイさんも、インターネットで世界に配信するというし、ともすればこの“不屈の抵抗作戦”が世界中の有志のメディアに中継されて、世論を味方に同時行動“連帯”が、期待できるのかもしれないよ。」

  理事長タカノと英訳ブログ発信役のミセス・シンのこの言葉が、Dデイに首尾よく卒なく備えてきたこの島の、自信と矜持をよく物語っているようである。

 

  その防衛策を仕切ったのは、ヨシノの弟タミである。タミは、テツオたちの卒業と入替に、他の数名の自主避難者=原発難民の子たちとともに、来年この島へと転校してくる予定である。だからテツオにとってタミたちは、まさに第二期生の後輩たちということなのだが、タミがここに来るまで紆余曲折はあったものの、最終的には転校を決意してくれ、しかも受験準備で忙しい姉ヨシノと義理兄のキンゴにかわって、自ら“本島防衛”の参謀役をかって出てくれたのだった。テツオたちには、この島を継ごうとするタミのこうした成長ぶりに、多いに期待したい所なのだが、これはオタクの気のあるタミにとっては、その軍事オタクぶりを優位に活かせるイイ機会でもあるようだ。

 

  南方系と思えるくらいクッキリとした目鼻立ち-タミは姉のヨシノに似るよりもより端正な美を放ち、弟とはいえ背はすでに姉と並んでテツオよりやや低いほど、自主的な筋トレで体格的にも充実し、しかも利発で物怖じせず、はっきりもの言う性格で、シャレのセンスも不足はない。

  だが、3.11のトラウマはタミにとっても例外ではなく、それは姉のヨシノより深刻らしく、汚染で漁場を追われたせいか、両親の漁師という生業と心身の故郷である海そのものに、トラウマを持ってしまったとのことで、これが姉ヨシノには大きな悩みなのだった。ヨシノはそれで、学校にもなじめず、一人で居勝ちなメランコリーな弟タミを面倒見ながら、時おり島に連れてきては、テツオにもそれとなく相手をしてもらっていた。テツオはテツオで、ヨシノの仲のよい姉弟ぶりを羨ましいとは思いつつ、最初は他人に用心深げなタミに対して、テキトーに相手をしていたようなのだが、不思議とタミはテツオには好感を持ってくれたようである。そしてそれは、テツオがある時タミに対して、

「学校に行きたくないなら、行かなきゃいいさ。友達なんか要らないのなら、無ければいいさ。」

  と、彼がやってきたままの本音を語ったことにより、ますます確かになったようだ。

  だからテツオは、今年は島へと来るタミに、時おり田畑を手伝ってもらいながら、自分が手掛けた島の農を継いでくれたらと思い始めていたのだった。それである時、タミに-島に転校する気はないか-と、それとなく彼の思いを尋ねたところ、タミは意外にもこう答えた。

「兄さんのそのお気持ち、とても有難く思います。ボクも本当はこの島と島の学校が好きなんですけど・・、でも、ボクには今、カノジョがいるんです・・・」

  それで話を聞いてみると、何でもタミの彼女とは、彼と同じ高校の女生徒なのだが、タミはできれば彼女と同じ学校にいたいんです-と告白をしてくれたのだ。しかし、タミの悩みとは、彼の今のヘンサ値では、彼女が進む進学クラスに到底入れそうにない-ということらしく、実はこれが彼のメランコリーの本当の原因なのではと、テツオには思われた。

 

  でも、テツオは、実の姉にも義理兄にも打ち明けてないこんな話してくれた、タミがいっそう愛おしく感じられた。それにテツオは、タミにこの時も自分のことを“兄さん”と呼んでもらえて、これがまたとても嬉しい気がするのだ。テツオは母から一人っ子だと言い聞かされて育ったので、“兄さん”と呼んでもらえること自体が、彼の喜びなのである。最初タミは、テツオさん、キンゴさんと呼んではいたが、二人で農をするうちに、タミは自然とテツオのことを“兄さん”と呼ぶようになっていた。

  今年の初夏から夏にかけて、テツオは彼が苦労してきた畑作業や田植え仕事を、タミの是非にという希望で時おり手伝ってもらっていた。タミはどうやら島のブログを熟読しているようだった。

「あれって、たしかにキンゴさんの文体ですけど、内容は“兄さんの思い”が多いと感じていました。それでこうして実際に農作業をしてみると、兄さんの考えがよく伝わってくる気がします・・・。」

  初夏の日差しと気温とが、上がり調子で夏へと近づく田んぼの中で、正午の陽を受けながら、テツオと同じ麦わら帽子に白い長袖シャツ姿で、中腰に苗を手にして振り返りつつ、タミはテツオに話しかける。タミがテツオに投げかける、信頼と好意に満ちた眼差しが、陽の光と、その水田の反射とともに、それが純粋であるだけいっそう、テツオには眩しく感じられるのだった。そしてテツオは、自分はタミに、どれだけ応えてあげているのだろうか-と、そんなことも自問した。テツオはかつての彼と同じように、3.11で故郷を追われ、友を失い、慣れない先で差別とイジメと孤独とに耐えてきたタミのことを思うほど、そしてタミが自分を慕えば慕うほど、彼のためになってやりたいと思うのだった。

 

「兄さん、ここは用心して下さい。父も以前、この辺りは浅瀬とはいえ、所々で深くなると言ってましたし。クラゲには、くれぐれも気を付けて・・・。」

  島を巡ってきた二人は、上陸作戦が予想される納瑠卍の浜を前に、浜に面した遠浅の深さを確認してまわっている。小船の上で心配そうに見守っているタミを背にして、テツオは素潜りを繰り返し、水深を測りつづける。それで何とかこの遠浅の水深変化の裏付けができたところで、二人は浜辺へかえっていく。そして海面ごしにキラキラと砂地が透けて見えてきた所で船を止めると、テツオはもう一度海へと入り、船上にいるタミの方を、見上げるように振り返った。

「タミ。もし君さえよければ、俺といっしょに、今から海に入ってみないか? ここなら深さもせいぜい膝まで。安全だし、海流も淀んでないから、見てのとおり、そんなに汚染はないと思うよ・・。」

  計測と記録係りに徹するタミは、海水パンツにTシャツを着たままだったが、正午の陽に砂地も輝く海面から、輝くような笑顔で誘うテツオを見つめて、何かを逡巡するかのようだ。

  タミは、今日のこの本島防衛=上陸作戦に備えての計測作業というものが、テツオの協力を前提とした自分からの提案であることを、あらためて意識した。そして彼は、おそらくは姉ヨシノからそれとなく言われたテツオが、自分の海へのトラウマを何とかしてやりたいと思っていたのも知っていて、兄のこうした優しさが、身に染みてもくるのだった。

「タミ。もう俺の言ったことは気にするな。自分の考え、思うことを第一にな。じゃあ、これから帰って、計測結果をまとめようか・・。」

  タミが海に入らないと思ったのか、テツオが小船の縁にかけていた自分のシャツを取ろうとした時、タミは着ていたTシャツを脱ぎ、テツオに向かって上半身の裸体を見せた。その鼓動の高まりに胸元が波打つように見えたテツオは、さすがは漁師の息子だけ、海でなくとも鍛えられた綺麗な体をしていると、大空を背にした船上のタミの姿を、その目で眩しく感じ取る。

「兄さん・・、じゃあ、今からボクを、そこで支えてもらっても、いいですか・・・。」

  そう小声でささやくタミに応えて、テツオは望外の喜びといった感じで笑顔でうなづき、両手を広げ、両足を踏みしめながら、船から乗り出してくるタミの体を上半身いっぱいに抱きかかえると、彼を無事に船から降ろした。彼ら二人の足裏に、浅瀬に広く打ち寄せられた玉砂利をつかもうとする音が、互いにギリリと響いてくる。

  テツオが抱いた腕の力を緩める前に、タミの小声が、静かに彼の耳元へと届けられる。

「兄さん・・、一度だけ、一度だけでいいんです。もう少しこのままで、いてくれてもいいですか・・・」

  テツオにとっては・・、未だパンツはあるとはいえ、これが裸のまま二人で抱き合う初めての経験だった。おそらく、タミもそうだろう。だがテツオには、今までタミが寄せてくれた彼への好意と信頼のことを思うと、これは特に違和感なく、むしろ自然に思われた。

「わかった・・・。いいよ、タミ・・・。ありがとう・・・」

  二人はその体温の暖かさと、しなやかな筋肉のうねりとうずきを、お互いの腕と胸とに感じ取る。波打ち際に打ち寄せていく波の音が、はねあげる飛沫とともに、いっそう小高く聞こえてきそうだ。

  やがて二人はお互いに力を緩めて、目と目を合わせて向きあった。互いの目に涙の光を見とめた二人は、そのままゆっくり唇と唇とを重ねていく。正午の陽が、二人の頭上へさしかかり、波打ち寄せる甲羅模様の水面と、その底でひしめき合う玉砂利の光とを、交互に反射させながら、青年二人の向き合う鼻筋、唇と唇とのシルエットを、まるで切紙の影絵のように鋭角的に映し出す。

  二人はそれで、互いの背筋から首筋へと、背面から手をはわせ合い、テツオはここで思い余って、タミの後頭部から髪の毛へと手をやっては、風とともに、とても優しく、撫でてあげた・・・。

  匂うような潮の香りが、辺り一面にたちこめて、二人を包み込んでいこうとするなか、二人は互いのペニスとペニスが勃ち上がり、その圧力がパンツを押し上げ、竿と竿とが先端の亀頭にかけて、触れ合い押し付け合っているのを感じる。二人は互いにパンツを下ろして、足もとまで脱ぎ落とすと、タミはパンツを海面から拾い上げ、小船の中へと放り込む。水しぶきが、サッと二人の顔にかかった。

  青年二人は、互いにもはや抗する術なく、赴くままに、抱き合いながら波打ち際までいざり進むと、玉砂利を背に倒れ込む。かさね合う体と体、こすれ合う乳首と乳首、手の指先から腕を通して背筋から太腿そして長い足の爪先に至るまでからませ合って、二人はもつれにもつれていく。

  タミは先輩テツオが、“ここをああしてこうして”と求めるのに応じていくうち、その黒い毛の茂る脇から脇腹さらに太腿、そして両胸の筋肉をもみさすっていくうちに、テツオが今まで聞いたことのないような甲高い声を上げ、どんどん女のようになっていくのが、まるでまな板上をのたうち回るサカナのように思えてくる。タミはこの時まだ女というものを知らなかったが、彼はもとより漁師にして魚屋の子供。だからおそらくそのように見えたのだろう。

  そして二人は、寄せ打つ波と玉砂利との戯れが耳にこだまし、互いの激しい息づかいが喜びの叫びへと昇っていくなか、互いのペニスを、足らなければもう手と手で補い合おうとするのだが、テツオが“ここがあたしのトドメなのよ”といった感じで指してきた彼の乳首を、タミが舌先でそのまわりの毛をからませながら、そしてその乳頭部を転がしながら、右や左と丁寧に吸っていくうち、テツオは、この時ばかりは勃ちに勃った彼のペニスがタミの茶色く逞しい太腿にわずかに触れたそれだけで、青天をつんざくような金切り声を上げると同時に、先にイッテしまったのだった・・・。

  これは先輩としてなのか、あるいは情けないことなのかと、テツオの目に当惑の色を見とめたタミ。テツオはテツオでタミのその目が“兄さんだけ先にイってズルいっすよ”と言っているのがよくわかる。

  タミは同じゲイあるいはゲイの要素のある男でも、女形と男役といったような温度差があるのを悟って、今や恥ずかしがるテツオの右手を取り上げると、その筋ばしった手の甲にキスをしてから、自分自身の玉の浦から亀の先まで愛撫させるとそのままイッて後を追い、テツオの顔を立てたのだった。

  寄せては返していく潮が、二人が互いに下腹部へとかけ合った精液を、もとへと戻していくように洗い流して、海の中へと還していった。

  ふいにタミが、小船が沖へと流されていくのに気づいて、テツオが呼び止めようとするより早く、キュートなお尻の残影を映したまま海の中へと飛び込んだ。タミは、すっかり海へのトラウマを払拭したのか、クロールで小船まで追いつくと、器用に船へと乗り込んで、浜辺にいるテツオのもとへとかえってくる。タミが振るう青と赤の二人のパンツが、太陽の白色光にはためいて、船上に立ち上がった彼のヘアーの黒点が、そのトリコロールに差し色的な効果をほどこし、同じく浜辺で立って待つテツオのそれと対称となり、空と海とをカンバスに、青年二人の裸体美の画竜点睛が成されたようだ・・・と、テツオには感じられた。

 

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  その晩、テツオは自分の部屋で、ドビュッシーの『海』-その第二楽章-を聞きながら、彼とタミとの今日一日を回想している。テツオは、これが今さら“罪”なんて、考えさえも及ばない。彼はむしろ、-今日一日僕ら二人は、これが輝かしい青春の一ページであることはいうまでもなく、今聞いているこの曲みたいに、空と海、風と波とに、あらゆる自然というものに、まさしく生・性・美・愛は一致するというように、祝福されていたのである。二人にとって今日のこの日は、あまりにも自然のままの“人生の正午”であったことは間違いない-と、自分はもとよりタミもそう思っているに違いないと、確信をするのだった。

  しかし、テツオはまた思う。

  -では、ユリコのことは、そしてタミにとっては彼女のことは、互いにいったいどう考えればよいのだろうか? 僕らは童貞を捨てたのだし、これでもう“処男”ではないのだから・・・-

  しかし、彼はタミとの行為が、お互いの彼女に対する裏切りとも思えなかった。同時並行でされ続けるのならともかく、これはタミが言った通り、“ただ一度だけ”のことなのだから。

  でも、ということは、同性の性愛よりも異性の性愛が優先されるということは、やはり性は“生殖”のためなのか・・と、テツオは思う。しかし、今や彼には-性は生殖のためだけにあるのではない-と思われるのだ。それは彼らの進化論の“性は光のセンサーにして環境変化のセンサーだ”ということにもよるが、こうして実際やってみると、同性との性愛あるいは性行為は、それが人猿のみならず陸上や水中の他の多くの動物たちにも見られる通り(2)、とても自然なものであり、それどころか自然に祝福されるものでさえあると感じられたからである。

  それに彼には、男は-婚姻前に買春なんかで筆おろし、童貞なんか捨てちまえ-といい加減なのに対して、女には厳密な“処女”が要求されるのは片務的な不平等だし、また、レイプでも法的に不起訴や無罪となるような、サピエンスの因習や悪弊は受け入れられず、この性=SEXゆえにゆがんだ進化を遂げてきたサピエンスの観念はもう参考にさえもならないと思われるので、彼が今考えているような同性・異性の性愛の倫理的なものについては、新人類ニアイカナンレンシスへの進化に向けて、また新たに考え出す必要がある-と、テツオには思われた。

  また、テツオにはもう一つ、気になることが残っていた。それはタミが別れ際に、彼が“ただ一度だけ”と言ったのを振り返り、“ただ一度だからこそ、かえって永遠になれるのです”と言い残したことである。テツオはタミのこのセリフを、-お互いに彼女がいるので僕らはただ一度の関係なら許されるのでは-との意味に受け取り、それで互いに納得して最後までイッたのだった。そして互いの性的関係をただ一度だけとすることで、もうこれ以上やりあって互いに執着することも、飽きたり汚したりすることもないのだから、一番いい時の思い出だけが永遠となる-と、その意味にも受け取れた。

  しかし、“一度の相互の関係は永遠である”とのタミの言葉に、テツオはなおもこだわっている。

-タミがこの言葉を、どこまで深い意味で言ったのかはわからない。だがこれは、性愛以外にももっと広い意味があるかもしれない。いや、もしかして、これを示す何らかの自然の仕組みがあることで、そもそも“性”なるものが出現したのかもしれない。だからまだこのことは、これからも探求する必要があるだろう-と、テツオは思ったのだった。

 

  さて夏休みとなり、この島の恒例の“夏休み保養キャンプ”が始まった。自給のめどが立って以来、この島では放射能汚染地からの親子ともども保養を受け入れてきたのだが、今年は3周年記念のコンサートもあって、準備に何かと忙しい。木造校舎は宿泊施設に、喫茶室は食堂ともなり、掃除や設営、食事の準備やなんやらで、島は大いに賑わっている。いつも応援してくれる漁村の人たち、そして今やブログを通じて知り合った多くの支援者・ボランティアらが手伝ってくれるのだが、その中には、タカノ夫人が共同代表つとめている“Veni女の会”の面々の姿もあった。

 

  -あの女、また来てやがる・・・-

  ボランティア支援のため、表立って文句は言えない。しかしテツオたち4人にとっては、どうしても受け入れられないある人物がいるのである。

  その人物の名は、“羅衆夫人(らすふじん)”。年の頃はタカノ夫人の年下の、中腰中背のオバサンである。だが、彼女は自作のお名刺に、やれ環境保護だのライオンズだのジェンダーだの循環型社会だの市民による政治改革=野党団結の代表だのと、狭い紙面にゴテゴテとつらねるほどの広いお顔で、自ら県の“市民運動家第一人者”を自称している。そのくせ中央駅前一等地で、明らかに金持ち相手に、美白、シミトリ、シワトリの、ビュウティーサロン“マダム・ラッスゥ”を経営するだけ、化粧がブ厚く、総白髪を金パツッぽく染めた髪、段腹も隠しきれない金銀ボタンのダブルジャケット、光沢めいたゆるゆるパンツの派手はでコーデ、そして古代エジプトに見るような黒塗り縁取りアイメイクが、テツオには気に入らない。彼はそんな外見チェックを入れるのだが、4人にとっては、彼らは騙され続けてきたので、人を見る目が研ぎ澄まされて、怪しく、ウサン臭い人物は、ファンデやコーデに関わらず、それ特有のニオイがする-ということなのだ。

  しかし、こんな羅衆夫人、よりによって“Veni女の会”のメンバーである、“プチブルマダムの会”の代表でもあるという。テツオは何でこんなクサイ人物が、Veni女の会を通じて自分たちのこの島に来るようになったのか-そこんところが知りたくて、ある日喫茶室にて準備の最中、こうした事情に詳しいらしいミセス・シンに、それとなく聞いてみた。

「テツオ・・、あなた達は卒業に向け、渡航や受験の準備やらで大変だし、心配をかけたくないから黙ってたけど、あなた達が察する通り、あの羅衆夫人、お化粧以上にクサイのよぉ!

  説起来話長、話せば長くなるんだけど、あの3.11以来、烏合離散の市民運動、それを小異を捨てて大同につかんと、いろんなグループ参加型の、いわゆる“ゆる~いつながり”で、“Veni女の会”ができたのだけど、それに“プチブルマダムの会”略して“プチダム”が、加わってきたのよね。」

「“プチダム”・・ですか? ポツダムではなく・・?」

「そう、プチダム。あたし達はもう“ポチダム”って言ってんだけど・・。要はこの会、市民運動とはいっても、所詮は羅衆夫人が経営するビュウティーサロンに出入りするカネ余り有閑マダムの、被災地支援や途上国援助と銘打った“あら可愛そう、あたし達もイイかっこうしたいから、余りものを恵んだげる”-というみたいな、よくあるいわゆる“自己満足的ほどこし趣味”の一団なのね。それがだんだん、実家は資産家、夫は落ちぶれたとはいえ弁護士の、一番のカネ余りである羅衆夫人のカネがもの言う私物化集団になってしまって、何でも羅衆夫人いいなりのポチダムってなったわけ。」

「いいなりなんて、家畜じゃああるまいし・・。まるでニワトリ、いや、シワトリ、あるいは、シミトリ、とでもいうのでしょうか・・・」

「羅衆夫人ってさ、地もピーでもないくせに、県のあんな超一等地で金持ち相手に店を構えて、そこがプチブルマダムのたまり場となっていたのが、夫人がプチダムへと入り、市民運動家を自称するきっかけとなったそうよ。そして彼女の夫の羅衆武人っていう弁護士、かつては人権派っていわれていたのに、坊ちゃん育ちで脇が甘いのを見透かされたか持ち上げられて、変に色気づいちゃって県議を何期かやったあと、シワトリ、シミトリ、ドミトリどころか、“鼻”こそは落ちなかったが(3)、髪といっしょに生気も精気も抜け落ちちゃって、今や原発差し止め裁判の電力会社側の弁護士に雇われてるっていうんだから、人権派も落ちたもんよね。それに第一、市民運動家を自称しながら、その夫が原発稼働の電力会社側にいるってこと自体がさ、大問題だとあたしは思うね。

  でさあ、夫人はこの夫との仲が冷え切っているのをいいことに、夫の名前で勝手にいろんな法律事務所に声をかけては、数余りでヒマな弁護士はべらして、サロンで“サルでもできる憲法のお勉強会”なんかを主宰し、自分の権威づけに利用しようとしていたところ、弁護士からのこぼれ話か、どの地域にも必ずある“ゴミ問題”に首を突っ込み出したらしいの。

  それでぇ、この県も例外ではなく、各地のゴミ処理施設の老朽化にともなって、県がその財源不足を口実に、国が多額の補助金をちらつかせるのに飛びついて、近隣の市町村共同で、カネダケ製の“広域大型ゴミ処理施設”を、この島の対岸の漁村の裏山ひとつを越えた隣の県との県境に建設するっていう話、テツオ、あなたも聞いてるでしょ。」

「ええ、それは確かに・・。それで、漁村が施設の直の風下にあたっていると猛反対して、ヨシノのママが共同代表つとめている広域ゴミ処理施設建設反対同盟が結成されて、この島も賛同人になっているというところまでは聞いていますが・・・。それとあの羅衆夫人に何か深い関係が・・。ゴミを護美というだけに、ビュウティーサロンが隠れ蓑になっているとか・・?」

「実は、さっきの“サルでもできる憲法のお勉強会”は表向きで、この会の内容は、人権問題を環境問題へとすり替えたゴミ問題の勉強会らしくって、しかもその本命は、このカネダケ製の“広域大型ゴミ処理施設”の推進と売り込みにあるらしいのよ。つまり、羅衆夫人は、自分のサロンでタダでカフェ付きお菓子付きと、常連以外に多くのマダムを呼び寄せておきながら、やってることはゴミ利権の一翼を担っているということなのね。それは彼女のサロンが駅前の超一等地、あのメラニー議員の夫が役員やっている不動産会社のビルにあることから探っていって、見えてきたことなのね。」

「なるほど・・。だから羅衆夫人は、メラニー利権の一環であるゴミ利権に関わってるってことですか。」

  と、話しがここまで進んだところで、ミセス・シンはその声をやや低めて、テツオに語る。

「でね、ここまではよくある話で、問題はむしろここからなのよ。

  この島は今、オスドロンのヘリパット-米軍への基地供給地として狙われてるってことになってて、あたし達は防衛準備をしてるんだけど、この島は風が強くて不安定な軍用機の発着には適さないし、また当のオスドロンはもう偵察にも来ないじゃない。ということは、米軍への基地提供ということ自体が、実はダミーだったのではないだろうかと、あたし達は疑ってんのよ。

  つまり、軍事施設もゴミ処理施設も、最初は必ずほとんどの住民には反対される。だからまず地位協定を利用して米軍への基地差し出しとしておけば、法的には保護されないから工事着工強行できる。そこでゴミが多量に搬入できる護岸工事が済んだところで、軍事基地から本命のゴミ処理場へと転換させる。どちらもカネダケが請け負うのだし、カネダケが儲けるのには変わらない。それで周辺住民は、どうせゴミ処理場はいるのだし、米軍基地よりはマシと、これで反対派を半減させれる。

  この広域大型ゴミ処理施設の県境の予定地って、隣の県の水源地でしょ。だから隣の県民たちは反対する。しかし、その予定地が白紙撤回されさえすれば、水源さえ守ればいいと、また反対派を半減させれる。今は反対している漁村も、これでゴミ処理場の風下からは外れるからと、これでさらに反対派を半減させれる。

それでいよいよゴミ処理施設を、今や反対派激減の末、この島へと持ってくる。最初からこの島をゴミ処理施設の予定地としてしまえば、海洋生物や海の環境保護やらでややこしいから、四面楚歌となるように、わざとこんな迂回したシナリオを準備したってことなのよ。」

「・・つまり、各地のゴミ処理施設の老朽化を口実に、近隣の市町村共同という事にして、国の多額の補助金目当てのカネダケの利権のために、米軍への基地提供をカムフラージュに、その広域大型ゴミ処理施設を建設するため、最初からこの島に狙いを定めていた-ということですか?」

「そう、そういうこと。いや、実は、あたしもタカノさんたちも、ずっと不可解だったのよ。なぜ、あのプチダムのカネ持ちマダムが、被ばくはもう賞味期限切れというみたいに、被ばく問題を疎んじてるのに、どうしてこの島にボランティア面して、何回もやってくるのか。それで逆に探りを入れようと、あたし達はこうしてわざと羅衆夫人とプチダムたちを、泳がせてきたってわけね。

  それで、ヨシノたちの話によると、あの羅衆夫人、ボランティアで知り合った漁村のおばさま達相手に、99.9%シミトリ・シワトリできますメイクを宣伝しては、ビュウティーサロンにタダでカフェ付きお菓子付きで招待して、この広域大型ゴミ処理施設を、県の財政難のなか燃料費も建設費も運営費もバカ高いというのにさ、“最新技術でゴミをまさに資源化して再利用する、エコの時代に相応しい資源循環型ゴミ処理施設”と銘打っては洗脳し、反対派切り崩し工作も始めていたってことなのよ。

  それと、これはユリコの話だけど、あの羅衆夫人、あなた達とは今まで目も合わせようとしなかったのに、最近、なぜかユリコにだけは、ユリコちゃん、ユリコちゃんと、馴れ馴れしくも話しかける。ユリコはこれを-あの夫人は私をオバアの養女と思っているんじゃないだろうか-と推測している。オバアはこの島の地権者だし、養女には相続権があるからさ、羅衆夫人はそんな所まで探ろうとしているのでは-と、あたし達は思うのよね。」

  ミセス・シンはここまで話すと、じっと聞き込んでいたテツオに向かって、ここは決意をこめた強い目線で、新たな話を持ちかける。

「でも、この羅衆夫人のやり口は何も特異なものじゃなく、3.11後により顕著になった、“味方のフリして近づいて、敵の方へと売り渡す”という権力の常套手段の一つなのね。

あなた達もあたしらもすでに経験してきたように、3.11など国策の無策でもって多くの犠牲が見える化すると、今までパンとサーカスで飼い慣らされ、ボーッと生きてた人民も、怒りや告訴で結束し、権力に抵抗をし始める。権力にはこれが一番怖いのだけど、露骨に弾圧しちまうとかえって抵抗は友を呼んで、人民を強くしてしまうから、権力も学習して、力による弾圧よりも人民を懐柔したり分裂させる工作に重点を置くわけよ。人民に催涙ガスを浴びせても、それはアリに殺虫剤をかけてもかけてもまた出てくるようにキリがないから、アリ蜜でおびき出し、持ち帰らせてアリの巣ごと全滅させようとするのに似て、市民運動団体に、出所はよくわからないが多額の寄付金渡したりして、カネをめぐる内部分裂を誘発させたり、あるいはカネ持ちでヒマ持て余し、そのくせ世間への色気がぬけず、イイ恰好しいの目立ちたがりで実は頭はカラッポみたいなおバカさんに目をつけては、“地球温暖化対策には原子力こそ最適です”みたいな感じで洗脳し、工作員に仕立て上げ、市民運動にくさびのように打ち込んで運動自体を解体させる-羅衆夫人はその典型だと思うのね。

あたし達も羅衆夫人に、決してこのまま手をこまねいているわけではない。テツオ、あたしがあなたに言いたいのは、ここまで夫人に尻尾を出させたその上で、羅衆夫人の一派めらを、それこそ公衆の面前で、活動のウソと矛盾を一挙に暴いて一網打尽にしてやろうと、そしてこんな手口そのものが二度と使えないくらい徹底的にブッ潰してやろうじゃないのと、あたし達はこの島の防衛策に次ぐある作戦を考えてるッてことなのよっ!」

  ここまで話して親指立ててポーズするミセス・シンに、テツオは思わず賛同する。

「シンさん、この話、まったく素通りできません。僕も是非・・・」

  そんな訳で、卒業前にまたもう一つ、大仕事ができたようだ。

 

  そして、いよいよ、運命の日、オバアが国防軍が攻めてくると予言した、Dデイ=上陸作戦のまさにその日がやってきた。

  夏休み保養キャンプの真っただ中、この日はブルーノ氏のチャリティーコンサートもあって、保養の参加者、漁村などのボランティアの面々以外に、各地の反戦反核・反原発の志士たちも集まって、島はかつてない賑わいである。男たちは会場設営、女たちはお祭り気分で紅白おもちを作ったり、食事の準備で忙しい。だれもが“子ども革命独立国”の支援者・支持者で、この納瑠卍の浜のDデイに、不屈の抵抗作戦のため、義勇軍として闘志満々、はせ参じた人々である。

  テツオはこの日、クスノキ向こうの島の裏側、太平洋に面している小高い崖地で、海原からの敵艦の襲来を見張っている。それは、上陸可能な浜辺の方は、対岸が県の市街と漁港なので、軍の移動が目立つため、敵は太平洋から島の浜までまわり込んで攻めてくるのに違いないと、思われたからである。

  そのテツオが見張るさらにその上、嘉南岳を少し登った展望台にはユリコがいて、海原の水平かなたを見張っている。

 

  まさに真夏の真っただ中、燃えいずる緑の映える嘉南岳に、生命をたぎらすようなセミの声を背に受けて、テツオは午後の陽光をキラキラと輝かせている真っ青な大海原を見つめている。

  海風は凪へとはいり、海面はおし静まって、波も平たく、テツオが望む崖からはまるで金色の鏡のように、波間も何もとまって見える。

  -静かだ・・・。まるで時が止まったかのような静けさだ・・・。こんな平和な感じの日に、本当に軍隊なんか、攻めてくるのか・・・?-

  しかし、テツオがそんなことを思っているうち、頭上から“ピーッ”と険しい指笛の音が聞こえる。振り返ると、上の方からユリコが大きく手招きしているのが見える。

  急いで駆け上がってきたテツオに向かって、ユリコは遠く海のかなたを指し示す。

「テツオ、あれ見て! あの海の向こうの、はるか先!」

  テツオは手にする双眼鏡で、確認してみる。

  -あれは・・、タミが言っていたカネダケ製の国防軍の最新兵器“人工知能によるロボット戦艦”ではないだろうか・・?-

  実はこのDデイを臨んでの防衛会議で、タミがオスドロン以外にも、軍需企業のカネダケが世界の武器市場へと売り込んでいる最新兵器の数々を、逐一説明してくれたのだが、その中でだれもがあまりにバカげていると一笑に付し、問題外としたある兵器があったのだった。

「ユリコ、あれは確かに国防軍の軍艦だ。ついに来襲が始まった! 今からすぐに、作戦本部に知らせに行こう!!」

 

  二人はすぐに山から駆け下り、浜に向かって全力で走りだす。まず、木造校舎の理事長室に来襲を伝えるために。しかし、途中のクスノキで、ユリコは突然、テツオの片肘ひっつかみ、女の子とは思えない強い力で大樹の影へと引き込むと、テツオに飛びつく勢いで、熱いキスを投げかける。テツオは言葉を返す間もなく、ユリコと舌をもつれあわせ、激しい接吻を受けるのだが、やがてユリコは、テツオから唇を遠ざけると、彼の頬を両手で包み込むように押さえては、その燃えたぎる眼差しで彼の両目を一瞬捉えて、少しだけ頷いたかと思うと、すぐにその身を翻して、黒髪をなびかせながら、嘉南岳の麓の家へと駆け上って行ってしまった。

  炎天下の熱い夏・・、仰ぎ見る、クスノキの幹と枝先、幾重にも交わり合う緑の葉と葉の合間から、散らされる午後の木漏れ日・・。ユリコが放った、カヤツリ草のような澄んだ匂いに包まれたテツオはここで、再び耳をつんざくようなセミの音に呼び戻されると、浜に向かって走っていった。

 

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  テツオが理事長室へと駆け込むと、そこにはタカノ氏、校長と、参謀役のタミがいる。

「来ました! 敵の来襲です! まさに“この隻ひとぉーつ”(4)です!!」

  テツオはタミが言っていた、人工知能ロボット戦艦の写真を指さし、まさしくコレが現れたと言う。

  校長、この日はいつもの藍の剣道着でなく、りぬきに鶴をぬうたる直垂に、萌黄匂の鎧を着て、鍬形うッたる甲の緒をしめ(5)・・の武士姿。これはおおかた、軍事オタクのそれらしく、Tシャツに短パン姿でありながら、かっこいいナチス・ドイツの軍帽を被っている参謀役のタミにならって、校長もコスプレ屋から、ハレ着とばかりに借り出してきたのだろう。

「なんと、国防軍の来たりと申すか! 心得てあるぅ!!(6)」

  校長のこの一言で、“不屈の抵抗作戦”の火ぶたが切られる。

「あとは、事前に徹底の“防衛大綱・ガイドライン”マニュアル通り、この時ばかりはファシストも反面教師“心を一つに”(7)、各位行動するのみです!」

  参謀役のタミは早速、テツオに向かってハイタッチ。テツオは続いて教会へと走っていき、鐘楼を駆け上がると、国防軍の来襲を島全体へと知らせるため、これから長い先の鐘を一心に乱打する。

  島にいる男衆は、大いに気勢を上げながら、いざ鎌倉へと言わんばかりに浜辺へと集結し、女衆は紅白おもちの準備をやめて、子供たちを木造校舎に退避させ、着衣が乱れないようにと準備されたつなぎのデニムを着用すると、男衆の後に続いて浜辺へ集まり、前三列に後三列と各々が浜いっぱいに、座り込みの態勢を組み始める。

  テツオはタカノ理事長、校長ともども男衆の最前列へと座り込み、その後方にはタカノ夫人とレイコとが女衆の前列に座り込む。参謀タミとミセス・シン、その二人の娘とキンゴの5人は、教会の地下に設けたネット配信・中継室へともぐり込み、機器を起動させていく。

  実はこの抵抗作戦、非暴力を旨とするだけ、知恵と世論の味方が主力で、単に座り込むだけでなく、軍隊の暴力ざまを中継してインターネットで全世界へと発信し、国際世論に訴えて国家による暴力に抵抗せんとの作戦なのだ。浜のあちこちには隠しカメラが設置され、移動カメラはヨシノがかついで駆け回り、それを教会地下の中継室から、タミの解説、キンゴのルポと、また娘二人のサポートによるミセス・シンの同時英訳らをもって世界へと発信し、それを休日のローマで受け取るイゾルデ・アイ氏が、さらにまた世界各地の反戦反核NGOや良心的なカメラマン、ジャーナリスト、平和活動家などへとつないで、この“子ども革命独立国”の自由と独立、そして何より次世代の反戦反核への決意と意志を、国際的な良心で守り抜こうとするのである。

  そしてユリコは、当代のノロとして白装束に身を固め、オバアがこの日に呼び寄せた彼女の血をひく娘たち-同じく全員白装束に正装した歴代のノロとともに、この抵抗に参加する全員の無事と勝利を祈願するため、これより島で最も神聖な嘉南岳の麓にある御嶽にこもり、大護摩供へと入っていく。

 

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  さて、だれもが想定外だった、カネダケの“人工知能ロボット戦艦”。これはその名のとおり、人間型のロボットの上半身が、まるで一人乗りのカヌーみたいに、戦艦である船体の真ん中に突き出たスタイル-なのであるが、それが島の裏の太平洋より、県をはさんだ浜の正面へとまわり込み、今や白昼堂々と、納瑠卍の浜いっぱいに座り込む大衆の前方に、ついにその姿をあらわす!

  浜に設けた隠しカメラの数々と、ヨシノが手にする移動カメラが、この巨大なロボット戦艦の動く画像を次々と、教会地下の中継室へと送信してくる。これより参謀役タミは、その軍事オタクを活かして解説、それを作家のキンゴが渾身のルポを起こし、さらにまたミセス・シンが英訳して、世界に同時発信する段取りとなる。

  まず、タミが解説し始める。

「あれはカネダケが、武器輸出三原則の撤廃以来、開発してきた“水陸両用迎撃ミサイル戦艦”で、その名も“イージリ・アホカー”といいます。もとはといえば、アメリカが、北朝鮮のミサイル脅威を口実に、この国に一基1000億円と“言い値”で買わせたイージス・アショカーなどをネタに、その発展版と銘打って、カネダケはこれを世界の武器市場に売り込みたく、今日はさしずめお披露目として、この場に出してきたのでしょう。

  カネダケの経営陣はウルトラマン世代がいるのか、あのロボットの外見が“キングジョー”のパクリだとの指摘もあります。水陸両用としているのは、今は海面下に隠れていますが、あのロボットには足があり、船体を両手でつかんで持ち上げながら、下へと伸ばした足で立ち、二足歩行で陸上を歩くこともできるのです。」

  キンゴはタミの解説に、受験準備で鍛えている早書きでルポを打ちつつ、あの迫りくるロボット戦艦の来襲シーンに、BGM-ストラビンスキーの『春の祭典』-をあてはめる。彼はまた、インターネットで開催のBGM選手権に、今回の抵抗作戦を出品し、いずれきちんと編集しては『戦艦ポチョムキン』(8)みたいに映像化して、この中継システムへの投資を回収したいみたいである。

 

  浜辺に設けたスピーカーより鳴り響くBGM-その曲の流れにのって全貌をあらわした“イージリ・アホカー”。浜辺の座り込み隊が、恐れというより興味深げに見守るなか、ここで浅瀬に接したためか、迫りくるその航行が、ひとたび止まる。

  キンゴはパソコンの早打ちでルポを書きつつ、画面を見つめるタミに尋ねる。

「でさぁ、タミ。あの戦艦の迎撃用ミサイルって、いったい全体どこから出るの? 体の中から打つにしては、やけに安定悪そうだけど・・・」

「それは、あのロボット戦艦の、上半身のつけ根から、船首までの船体の前半部分に、タテに格納されています。」

  そこでタミは、座り込み隊へと語るべくスイッチを切り替える。タミの緊張した声が、浜辺のスピーカーを通じて、浜全体へと響き渡る。

「座り込み隊のみなさん、お疲れ様です。おそらく、これから国防軍は、まずミサイル一発、こちらへ向かって撃ってきます。でも、みなさん、ご安心を。このミサイルはその特有の外見による威嚇効果をはかるもので、もとより当たる落とすの類のものではありませんから。」

  タミが指摘するとおり、やがて停止中のアホカーの、ロボットの上半身のつけ根から、船首に向けて長々と、格納していたミサイルが、ムックリと立ちあらわれる。たしかにそれは、ミサイルといえばミサイルらしいが・・・、やがて浜辺はざわつき始める。

「・・あの形態といい位置といい、いい気な天狗の鼻よりも、はるかにリアルを極めとるで。」

「ピーンと勃って、先端もツルッと光って、ホンマもんとちゃうやろか?」

「ホンモンちゅうても、あれは鉄でできとろうが。血管に見えるのは、ありゃ配線か。」

「上へとあげていきよるごとに、チャリチャリいう音、聞こえてきよるで。」

「浜辺のカエルがみな大急ぎで、跳んで逃げていきよるで。」

「そりゃ、カエルにとっては青大将に、見えるんじゃろ(9)。」

  男たちはだいたいそんな感じだが、女たちは不快感やら拒絶感やらブーイングで、浜辺は一時騒然となる。だが、ネットの動画配信では、これで一挙に視聴率が上がったようだ。

  キンゴのパソコン打つ音も、一時とまる。

「タミ。あれって何? どうルポすればいいんだよ?! 下手すりゃ放送禁止用語に・・。」

「これは従来の安全保障のワクを超えた、海より深く、人間の業より浅いワケがあります。

  北朝鮮ミサイル防衛との口実つけても、飛んでくるミサイルをはたして迎撃できるのかは、あまりにも不確実。結局は役立たずでは、血税をまた利権のドブへと捨てただけで、迎撃どころか軽劇のお笑いにさえなりません。にもかかわらず、この国は、超1000兆円の借金や、社会保障費の高騰をも省みず、インドのように値引きの交渉さえもせず、“言い値”の1000億円をイイネと言ったか知らないが、アメリカからいつものように満額購入。売った側はアホカと思いっきりバカにしたとか。

  軍需の独占企業にして官僚たちの大口天下り先であるカネダケは、これに目をつけ、またそのままを商品名にこの新兵器を開発し、とにかくミサイル防衛とさえ言えば、前例どおり1000億でも政府がその値で買うことをすでに織り込み済みなのです。

  といいますか、これが軍産官共同体の実態であり、しょせん兵器というものは、ただ企業を儲けさせるためだけの張子の虎にとどまるもので、その国民がどうせ襲ってこないような仮想敵国の脅威でもってしょっちゅうビビるほどのアホでなければ、ただ国民を食いつぶしていくだけの軍需は成り立たないということを、カネダケは同じアホでも知るアホゥと、ちゃんと知っているのです。」

  タミの解説がそこまでくるや、イージリ・アホカはズドンと一発、ミサイルを発射する。それは島の上空を通り抜け、浜辺の皆が目で追うなかを、周辺グルリとブーメラン飛行をすると、ザブンと海へと飛び込んで、そのまま潜ってイージリ艦の船尾に達し、再びムックリ文字どおり、ロボット前部のもとのサヤへと納まったようである。

「なぁるほど。イージリ・いい尻というだけに、挿入-いや、そういうことか・・。しかし、タミ、それにしてもあのミサイル、撃って当たらず戻るのでは、ミサイルの意味も効果もないんじゃないの?」

「いや、そこん所が、キンゴさんらの進化論そのものなのです。つまり、そもそもミサイルとは、人間の威嚇と力による安全保障の最終形で、表現の不自由を突き破って表現した究極の男性原理=“人間のオスのペニス”の模倣物-といえるのではないでしょうか。

  つまり、北朝鮮の火星ミサイル、それが金星あるいは金玉という名になっても、しょせんは一発ワンスルー。それに比べてこちとらは何発でもデキるんだという、いわば男性能力の誇示なのです。迎撃といったって、どーせ当たるかどうかも分かんない。そもそも国内外の人民をビビらせて、権力が人民を搾取するのが目的なので、それなら相手をビビらせるため巨大化させた自らの男性に倣ったのです。」

「キンちゃん! よかったわねえ。英訳のあなた達の進化論を読んでいたアイさんが、休日のローマから、キンちゃん宛てにメールをくれたよ。しかも、習いたての母国語で。

  “おお道理。ベニス宮に立ったパワーも打破された。ファスケス(棍棒)はもう要らねえ!”って。」

  と、ミセス・シンもキンゴを励ます。

  ネットの画面をチェックしている二人の娘さんたちも、すかさず世界の反応を伝えてくる。

「ママとお兄さんたちィ~、世界中から怒りやら憤りが、メール、ツイートなどを通じて、どんどん政府に来ているみたい・・。ホラ、たとえば、これなんか・・。

  “世界中の権力と男性社会が、こうしたチンプなチ○ポの煩悩を、悔い改めようとしない限り、私たちの‘#MeToo’は終わらない”って。」

 

  しかし、このイージリ・アホカー、ミサイル一発撃ったあと、行為のあとでパンツをずり上げるかのように、ロボットの両手が下りて、船体の左右の縁をつかみながら船全体を持ち上げると、底から足が伸びてきて、前に後ろによろめきながら不安定さながらに、陸上仕様の二足歩行モードへと入ったようだ。

「おおーッツ!!」

  敵艦の来襲とはいえ、見た目のあまりのバカバカしさに、浜辺は物見遊山気分。歓声さえ上がりだす。木造校舎に避難した子供たちも、教育上は問題があるとはいえ、楽しそうに眺めている。

  だが、このイージリ艦、両足で立ち上がり完了と見れるや否や、船底が抜けたのか、さっきのミサイル一本まるごと、海へドブンと落としてしまう。

「あーあ、せっかく立ったのに、早や抜け落ちよったで。」

「あれならもう、役には立たんで。」

「まるで桶に落っこちた、ナスのヌカ漬けみたいやで(10)。」

  浜辺が拍子抜けするなかを、キンゴはかえって警戒している。

「タミ。あれはいったい、どう解釈すれば、いいんだよ??」

「あのミサイルの見た目というのが、大人のオモチャであることから、ミサイル内部に海兵隊を忍ばせて、突っ込ませては上陸させる-そんなトロイの木馬作戦かなと、見ることもできますが、これはより現実的に、いつものようなカネダケの欠陥商品と見るべきでしょう。

  というのは、見てください。あのアホカー、すでにいくつか部品を海へと落としていますが、本当に鋼鉄製なら沈むのに、その多くは浮いたままです。さっきの一発ミサイルでさえ、海にプカプカ浮いています。」

「本当だ・・。だから“海綿体”っていうのかな・・?」

「たしかに。こういう所に“#MeToo”を“to me”とさえ言い換えて、ますますセクハラ迫ってくる大企業カネダケの、男尊女卑に官尊民卑、ゾンビのようなその社風があらわれているのです。

  あれは品質管理に徹底的に手を抜きまくるカネダケ製鋼社のもので、おそらく中身はダンボール。カネダケは以前にもダンボールの混入が発覚した際、それは肉まんにも入れていた中国の中国製だと反論したとか。しかし、たとえ鋼鉄製だとしても、その品質たるやせいぜい広島から名古屋までもてばいい程度のものと、いわれています。」

  ところが、このイージリ艦、よろめきながらもズシンズシンと一歩ごと浜へと近づき、漁師たちが来襲にむけ、沖一列に停泊させた漁船の鎖を、やすやすと跨いで通り越してしまった。

「しまった! これで第1防衛ラインは、突破されてしもうたで。」

「いいや、何のこれしき。うちにはまだ第2防衛ラインが、ひかえとるがな。」

  そう、その通り。やがてイージリ艦は近づくうちに、漁師たちの第2ライン-沖一線に張り巡らせた漁業用の網につまづき、体を前に傾かせるや、ドスーンとそのままつんのめり、船首を浅瀬に突きさして、船尾を宙へと上げたまま、止まってしまった。

「プハハハハ。ぶざまにケツを上げよった! 尻ばっしょりにもならんじゃき。」

「わしらこの日に集まった、原発とめた阿波や土佐の男らをナメんなよ。」

憲法を改悪して法の網はすり抜けても、ほんまの網には引っかかる。彼らは今や軍隊=アーミーやからな。」

  しかし、このイージリ艦、船首を浅瀬に突っ込ませたまま、いっこうに動こうとしなくなった。

「タミ、あいつどうして動かないんだ? ミサイルもろともタマまで落ちて、はや“玉砕”とでも、言いたいのかな?」

「軍用兵器にあるまじきことですが、あのイージリ艦、実は後退ができないのです。」

「えっ?? それじゃ、あれ、イイシリとはいいながら、バックはダメっていうことなの?? じゃあ、前線出ても、全然役には立たないじゃん。」

  タミもさすがに困惑気味に解説する。

「カネダケは不正だらけで欠陥品を出し続け、技術大国の面目にドロ塗り続けるそのわりには、上層部が常に陰の“政治的”な金品のやりとりを欠かさないこともあり、万事親方ヒノマルで、愛国心を自負しています。ですから後退できないのは、欠陥品であると同時に、彼らにとっては愛国心のあらわれでもあるわけで、これはかつて撤退を転進と言い換えた皇軍や、あるいはさらに遡り、義経が“もとより逃げもうしては何のよかるべきぞ”と、船を後退させる“逆櫓”を不要とした故事(11)にならったものともいわれています。」

 

  しかし、文字どおり前進あるのみ、後退不能なイージリ艦は、そこで足を引っ込めて、船体を再び浅瀬につけ戻すと、いざり足かジリジリ前へとせり出して、船首をついに島の桟橋へと接触させる。

  第1、第2の防衛ラインを突破され、敵の上陸目前にして、物見遊山気分の浜辺も、緊張感が一気に走る。

  そしてイージリ艦の船首がパックリ開くと、そこからは迷彩服の兵隊どもが、次から次へと繰り出してくる。

「タミ、聞きなれない進軍ラッパの音頭にあわせて、兵隊たちが走ってくるけど、彼らが肩にかついでいる棒みたいなのって、いったい何なの?」

「まず、あのラッパは浜松の“遠州たこあげ祭り”のもので、彼らにとってこの上陸は、武力行使ではなくあくまでも“演習”という位置づけであり、これで世間の批判をごまかそうとしています。

  それで彼らが肩にかついでいる緑の棒のようなものは、銃剣ではなく、実はあれ“竹やり”です。」

「“竹やり”ィ~?? このステルス機や無人殺戮兵器の時代に、何でまた竹やりなのよ??」

「正式には、あれ“三八式竹槍”という、正気で平気かと疑いますけど、正規の兵器とされており、竹であるにもかかわらず、菊の御紋も入っています。

  国防軍に入隊した新兵たちは、足にゲートル、手に竹やりと、まずはしっかりゲートルを巻き、竹やりをピッカピカに磨きぬく訓練から始まって、少しでもホコリがあると、“陛下よりお預かりの誇り高きこの竹やりにホコリがあるとは惰弱千万”と上官のビンタがとんで、その一瞬、チク(竹)ッときて、その後、痛みがキク(菊)のだそうです。」

「新入社員の早めの募集を青田刈りっていうように、新兵に青竹って、これもシャレのつもりなの?」

  タミはこれより腰をすえ、納得がいくように、じっくりと解説する。

「いえ、竹であるだけ覗きにくく、また根の深いワケがあります。

  改憲で正式に発足した国防軍は、今度こそ本当に、戦後政治の総決算と、戦後レジームの総脱却を考えているのです。彼らは今や戦力なき軍隊とされていた出身母体の自衛隊を完全に過去のものとしたいのでしょう。で、その代わりに国防軍は、自分たちのルーツをまさに、あの1945年、本当は実現していたかもしれない本土決戦に求めたのです。つまり、あの時、本土決戦へと持ち込んで、ナゲヤリにならず、竹やりで戦えば、後のベトナム戦争みたいにアメリカに勝ってたハズだと、マジにそう考えているのです。だから、本土決戦の先陣を切るはずだったこの竹やりにこそ、国防軍はその健軍の精神を見るのでしょう。」

  タミのこうした解説は、敵に聞かれそうにない音量で、スピーカーより浜辺にも流れている。

「そんなわけで、この竹やり一本で、治安出動から敵機への突撃まで、何でもこなそうとする竹やり部隊への配属は、国防軍最高の名誉とされ、隊員には、竹細工師なみの細かい技能と、同調圧力なしでも進んで自己犠牲に向かえるほどの協調性とが求められ、それを彼らはバンブーダンスで身に着ける-ということです。」

「ねえ、タミ。しかし、これって単なる“竹”でしょ。防衛費は年々膨らみ、ずっと毎年5兆円を超えてるけれど、こんな竹まで軍需企業カネダケの、利権なの?」

「そうなのです! この竹やりでさえ、1本200万円もするのです! というか、この竹やりこそがカネダケの、水田のイネのごとき主産物、あるいは、本田のカブのごときヒット商品-なのだそうです。

  カネダケの創業者“金竹正”氏は、もとはといえば、四国は阿波の炭焼き職人。子供のころからその名のゆえに“コンチクショー”とか“キムジョンチク”とかイジメられ、そのトラウマが、長じた彼の青年期に、女性蔑視と家父長主義、人種差別と軍事礼賛、念仏ぎらいと権力への意志として結実した、立志伝を逸した人物といわれています。その彼が、太平洋戦争末期、本土決戦に備えると、吉野川流域の竹林を買い占めて陸軍に売却して財を成し、それで戦争利権に味をしめ、敗戦後も、朝鮮・ベトナムイラク戦争などを通じて、企業規模・売り上げともに急成長させ、同業他社の吸収合併を繰り返し、今日では、日用品から兵器まで-それこそ竹をいかしたトイレットの消臭剤から、トイレなきマンションたる原発に至るまで、一気に請け負う超多国籍企業へと相成った-というわけです。

  カネダケはそのロゴこそは“カネダケ”の一つですが、メーカー系の“金武”と、金融系の“金竹”という、ともに第二次第三次産業に君臨するこの二社の両輪で、系列その他の企業ならびに御用組合“連動”までいっさい含めて、この国をすっかり乗っ取り、国民を労働者としても消費者としても奴隷化をしていることは、今日でも男のスケベ週刊誌ネタぐらいには上がってきます。

  このカネダケ、法人税を消費税と同率の10%に改定させて、自分は研究開発費とか輸出による還付金とか大企業優遇税制を最大限活用しては税金タダを繰り返し、国は超1000兆円の借金があるというのにその内部留保は500兆円。賃上げ目標3%がいわれた時も、同じカネダケ出身の黒子氏を中央銀行総裁に起用させ、金融の異次元どころか多次元緩和と、あとはいつもの統計操作で、物価を無理やり3%上昇させては賃上げ効果を帳消しにするなどやりたい放題。3.11で原発が国内外で伸びんと見るや、今度は武器輸出で儲けようと、自衛隊国防軍に改めさせては、その海外派兵にともなってカネダケ製の武器をお披露目、世界市場へ売りつけようとの魂胆なのです。

  カネダケのこうした好戦的な社風や企業体質は、社員の人材育成-特に新入社員のそれに、もっともよくあらわれているといえます。なかでも“竹”は、破竹の勢いで前進してきた会社にとっては創業精神の権化であり、新入社員は国防軍への体験入隊などを通じて、竹のごとく猛々しく猛進し、竹のごとく根深いほどの根性をはれと、竹のごとくシゴかれる-とのことです。特に、孟宗竹なみにモーレツなのが、その高知県での合宿といわれるもので、社員らは、スポーツやゲームを通じてカツことだけをタタキ込まれ、辛いしんどい言おうものなら、“ヤキを入れ、タレはじめたら、塩をぬれ!”と、再度またカツォ、カツォとタタキ込まれるものだから、その暴力性は力士でもついていけない程であり、ウツや自殺も絶えないらしく、足摺岬の看板に“会社に殺されるくらいなら、会社を辞めてお遍路しよう”との新バージョンが登場したとか。

  しかし、そんな新人研修を生き残った社員たちは、今や別府や阿波の竹人形どころか、ゲップしてもアワもふかないターミネーター。竹のごとき我さきの上昇志向一色で、上は常に下からの突き上げくらい、社内はまるで常在戦場。好戦的で攻撃的、侵略的で植民的な社風がみなぎり、部下を斬るパワハラと、突くセクハラで社員はいつもハラハラして、またその部下が上司に密告するチクリや他人の企画や数字を盗み取るパクリも、シャックリみたいにクリ返されるといわれています。」

 

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  タミが解説しているうちに、国防軍の竹やり部隊は浜辺に整列完了し、波打ち際を背にしながら、前後各々三列と、浜いっぱいに座り込む不屈の抵抗義勇軍と、ほぼ同数で対峙する。

  座り込みの後三列の女たち、ここで黄色地に赤文字の“不屈”のボードを、両手いっぱい高々と頭上に掲げる。そして中から校長が、さっきの武士姿のまま、竹刀片手に一世一代の面持ちで、前へズイイと歩み出る。

「かように候者は、嘉南島の住人、安宅の左衛門にて候(12)。さても本国、原発事故後、空間線量20mSv、食料品は100Bq、廃棄物は8000Bq等により国民を被ばくさせたその上に、改憲につぐ軍国化と暴政の限りをつくし、子々孫々の生存権・生存圏の蹂躙をも省みず、保護養育の義務さえまでも放棄すれば、我々かく新しく独立の国をたて、それがしこの島あい守る。方々さよう心得てよかろう。」

  校長、名のりを上げたあと、竹刀をちょっと一振りあって、カメラを向いてキッとおさまる。

「見ればまた大勢の兵士たち。各々いかめしき姿にて、此度の上陸侵攻は、法の根拠のなきことはよもあるまじ。法的根拠を釈明されよ。これにて聴聞つかまつらん。」

  校長のここまでのセリフを受けて、居並ぶ竹やり部隊の中より、隊長めきたる男が一人、並み居る兵隊押しのけて、校長の面前へとまかり出る。

「いかにも。此度の進行は、先刻より通知のとおり、安保条約第6条の規定に基づき、地位協定第2条によることは、何の疑いもあるべからず。」

  しかし、ここで中継室では、ミセス・シンがタミに尋ねる。

「ちょっと、タミ・・。何であの隊長、よりによって校長のカブいた調子にあわせてるのよ??」

「もとより自衛隊時代から、国民は監視をされていたのですが、それが国防軍へと引き継がれ、この島にも工作員が忍び込み、校長のキャラクターとボキャブラリーとを、タレ込んでいたものと思われます。」

  校長、これより隊長ににじり寄り、さらに尋ねる。

「してまた、憲法の財産権の保障を無視し、米軍への基地供出のため、財産権第一の土地さし出せとは、いかなる義にや、ことのついでに問い申さん。ささ、何と。」

  隊長は、セセラ笑ってこう答える。

「事もおろかや財産権は、当のその憲法に“公益および公の秩序に適合するように法律で定める”とある(13)。“安保”こそわが国の最大の公益にして公の秩序たること言うに及ばず、空気のごとし。この島一つ踏み破り、基地へと化すのも何の難きことやあらん。この浜に集える貧民どもをことごとく打ち捕らえ、早々に官邸のご機嫌安んじ申すべし。」

  校長は語気を荒げて、さらに詰め寄る。

「またしても、宗主国のトラの威を借り弱いものイジメに徹し、ただお上におもねり、へつらい、忖度の奴隷根性。おのれもまたアイヒマンと知ったる上は、悪銃毒蛇はいうに及ばず、ここに並み居る国防軍の兵卒の一ッ人も通すこと、まかりならぬ!」

  隊長も言いかえす。

「ああらむずかしの問答無益。立ち退き渋って留まれば、一命にも及ぶべし。今や基地予定地のこの島に、いかように陳ずるとも、一ッ人も残すこと、まかりならぬ!」

  と、両人はげしく思い入れ、にらみ合う。

「言語道断! かかる不詳のあるべきや。この上は暴力に及ぶことなく、かのガンジーの行儀を受けて、これからは非暴力の限りをつくし、執拗に抵抗あるべし。方々、近う、渡り候え。」

  と、校長、座り込み隊に結束を呼びかけんとする所に、兵卒一人が走り出て、校長を逮捕せんと竹やりを振り上げる。

「いかぁに、そぉれなる侍ィ、止まれとこそーッツ!」

  校長、とっさに振り返り、それを竹刀で打ち払うと、続いて襲いかかってくる竹やり兵らも次々と、チャンバラよろしくパンパンパーンッと弾き飛ばして舞い上がる。

「校長センセー、がんばってぇぇーッ!」

「男伊達の総本山! 成田屋! 音羽屋! 高麗屋! おまけに松緑そっくりや!」

  浜辺の座り込み席からは、校長めがけて屋号が飛びかう。

  そんななか、これを世界に発信していた中継室で、ミセス・シンの娘たちが、また新たな海外からの反応をキャッチしている。

「ママとお兄さんたちィ~、今回はノーベル賞受賞者の三氏から、あいついで励ましのツイートが来てるから、順番に紹介しますね。

  まずは、チョーシ・ノムスキー氏。“酔いがさめるような感動。そしてまた酔いたくなる感動!”

  つぎに、ケララ・ムルギタリー氏。“スパイシーな感動に、またスパイスが欲しくなったわ!”

  そして、オーエン・カンザブロー氏。“中村屋!”・・・としか書いてないけど・・・。」

 

  浜辺では隊長が、校長へ意気込んで迫っている。

「やぁれ、非暴力とはいいながら、挑発にのり暴力ふるう煩悩鬼め。尋常に誅せられよ!」

  と、双方はげしく揉みあいとなる所を、校長、竹やり部隊に縄かけられて捕らえられ、浜辺の隅まで引きずられ、竹やりで作られた即席の仮説牢屋に蹴り入れられる。

  教会地下の中継室では、だれもがひとえに落胆のため息をついている。

「あーあ、校長、あれだけ見せ場を作ってあげて、世界に発信してあげたというのにさ、自分自身で発案の隊長に盗聴マイクを仕掛けるという肝心のミッションには、失敗をしでかすなんて・・・。」

「たしかに。先生、引きずられていく時に、“手もと狂ってはずされたーッ。あとはテツオ、よろしく頼むーッ”っていう声が、入ってましたね。」

「ということは、レイコさんがスペアのマイクを持っているから、あとはテツオが頼みの綱か・・。」

  校長のしくじりを受け、浜辺では座り込み隊後列のレイコがテツオを呼び寄せる。駆け寄るテツオは、レイコの手からスペアのマイクを渡されて、その手をまたレイコの両手でしっかりと握られる。そしてさらに耳元で何かを告げようとするレイコに、テツオは顔を寄せるのだが、隣の夫人に押されたか、はたまた不意の横風か、テツオがよろめき傾くと、その頬につけられていくやわらかな二重の印が、レイコの赤い唇に他ならないのを、彼の五感は感じとる。

  テツオはもうそれだけで喜び勇んで、ミッションを果たさんと、隊長へ突進しては体当たり。またも激しく揉みあいとなり、竹やり隊に同様に捕らえられ、続いて牢屋に蹴り入れられるも、-タミとは初キス、ユリコとはディープキス、おまけにレイコからは頬キスと、こんな来襲なら来週もまた来てほしい-と、彼は思っているのかもしれない。

  そして、中継室では、イヤホンをしたタミが、思わずここでVサインする。

「今度はうまくいきましたよ! 隊長の声、司令部からとおぼしき声も、彼についた盗聴マイクがこの中継室へとはっきりと伝えてくれます。これでこの不屈の抵抗作戦は、大きく勝利に近づきました!」

 

  陽はすでに西へと傾き、浜辺で焚かれるかがり火の炎は燃えて、対峙する座り込み隊、竹やり隊の各々の面魂を、夕日のなかで赤々と照らしはじめる。そしてこれより、キンゴはそのBGMを、ショスタコビッチ交響曲第11番の第2楽章へと切り替える。

  今や前面に出た隊長。ここで突如、“排除”の一声、号令を、轟かす。

  竹やり隊の兵士たち、いっせいに片手一指を宙へと突き上げ、“ハイジョ、ハイジョ!”と叫んでは、竹やりを担ぎながら、浜辺の左右すみからすみまでジグザグに駆け回る。だが、そんな威嚇は、

「あんたたち! いい大人のクセして上司に命令されたまま、まるでゼンマイ仕掛けの兵隊みたいに、ラッパにあわせて駆け回り、おのれの意思も知性もない! バッカじゃないの!!」

「税金つかって芸人みたいに筋肉きたえ、リゾートホテルに泊まりながら、土地を盗みに乗り込んで、やってることは暴力団以下のこと! 少しは恥を知りなさい!!」

「“公益によるハイジョ”って、“コイケによるハイジョ”と同じく、忖度男が集うもの。キボウの同盟、キボウの党と、安保をめぐる同じ“鬼謀”という口の、へつらいどもの行く果ては、アメリカ軍の二軍落ち! さっさとこっから出ていきなさい!!」

  と、女たち、ママさん、おばさんめいめいに、クソミソに貶されるがままに不発に終わる。

 

  しかし、次の“ハイジョ!”の号令で、駆け回っていた兵隊たちは素手をからめて、座り込みの最前列の男衆へと襲いかかる。

「テメー、コノヤロ、コンチクショー!!」

土人、シナ人、ハゲチャビン!!」

「ハゲーッ、ハゲーッ!!」

「座り込め、ここへ! いざ、ここへ、座り込めぇェ!!」

  そうした怒号の飛びかうなか、男衆、互いに組手と組足とを強固にして、重心落として腰をすえ、地表に根差して座り込むのを、いかに屈強な兵士とはいえ、素手ではとても動かし難し。兵士ども、ここは下がって竹やりを再度構えて一列になり、隊長の次の“カバヤキ!”一声、号令で、また同様に“カバヤキ、カバヤキ”と叫んでは、座り込んでる男衆の地面の下へと、竹やりを次々と突き入れる。

  タミはいよいよ緊張した面持ちで、画面を見ながら解説する。

「これからが、竹やり部隊の本領発揮となるところ。隊長の号令は秘密保持の観点から、すべて隠語でなされますから、我々の想像力も試されることになります。」

  兵隊どもは地面に刺した竹やりを、ジリジリとテコの原理で地表ごと持ち上げて、座り込み隊の体勢くずしにかかってくる。そして男衆の組手にすき間ができたと見るや、後列の兵隊がそこにまた竹やりを次々と突き入れて、座り込み隊の一列に竹やりが刺しそろったと見た所で、今度はそれをいっせいにひっくりかえすというふうに、人間を列ごと仮説の牢屋へと持っていこうとするようだ。

「なるほど・・、たしかにこれは見た目には、ウナギのカバヤキに似てるよね・・。」

  移動カメラマン役のヨシノは、ここで思いっきり浜辺の向こうに駆け抜けてまわり込み、その真横からの映像を配信してくる。見ればそれは竹やりがじかに人体を刺し抜いているかに映り、これはかつての“刺突訓練”を思い出させるかのようだ。

「ママーッ! 国連と各国からは批難轟々、雨あられの抗議が来ていて、中国首相の周来恩氏は、シャンシャンを返せって。その代わりにライオンをやるんだそうよ。」

「また、北京と上海の大使館や領事館には、市民による抗議デモで、次々と火炎ビンが投げ込まれ、デモの中にはこんな垂れ幕もあるんだって。“原発事故をゴマかすために、またセンカクを利用した。国有化する何億ものカネがあるなら、なぜ被ばく救済に使わない??”って。」

  しかし、ついに座り込み隊の一列目は、無残にも解体されて排除され、皆ことごとく仮説牢屋へぶち込まれる。だが、まだ座り込み隊には、男衆の二列目と三列目、そしてその後に女衆の全三列と残っている。

「隊長ぉオ! お前こそ地獄に落ちろぉオ!!」

「権力のイヌ、忖度のイヌ。まさにお前ら“イヌ、アッチイケー”だ! これを早口で言ってみろ!!」

  と、罵声と怒号の渦巻くなかで、竹やり隊はこの先も、このカバヤキ戦をやるのだろうか。

「いいえ。座り込み隊の一列目の皆さんには大変でしたが、この一連の暴力的非人道的住民排除が全世界へと発信されて、国際世論はこれで完全に我々の味方です。権力はもうこれ以上、いかに人権意識がないこの国とはいえ、手荒なマネは続けられず、カバヤキゆえに空気と匂いを読みながら、加減を調節してくるはずです。」

 

「“手荷物アライバル!”」

  隊長がまたヘンな号令を出すや否や、浜辺にいる兵隊たちは波打ち際に、仮説牢屋がある所まで二列に並んで整列する。そして竹やりを地面に置いて、それを二本の線路のように敷きつめると、またその上を転がるように横向きにローラー状に竹を置き、その両側の所々に二人一組で立ち並び、竹の線路をはさんでの整列が完了する。

「ちょっと、タミ。あれって何なの?? 解説なしではわからないよ。」

「あれは飛行場の到着時の、手荷物受取場をイメージした作戦と思われます。あの竹の線路のローラーに竹で作ったイカダみたいなトレーを置いて、その上に人間を乗せ、左右二人の兵隊たちが交互に順に押しまくり、まくりまくって仮説の牢屋に放り込もうとするのでしょう。竹やり隊はこのように、現場で臨機応変に精巧な工作技能が求められ、そのため竹細工で有名な別府や徳島出身の郷土兵士が優先的に起用されるということです。」

  やがて座り込み隊男衆の二列目も、カバヤキで体勢を崩されると、兵士らに取り囲まれて担ぎ出され、この即席の竹のローラーコースターで、次から次へと牢屋へと放り込まれる。このままで効率的にハイジョが進むと浜辺には不安が募るが、防風林の間から覗いていた子供たちには、何だか楽しい乗り物に見えてるようだ。

 

  二列目を排除し終えた竹やり隊、いよいよ男衆の三列目へとかかってくる。しかし、その中央には、何と迷彩服姿の体のゴツい外人の男たちが陣取っていて、ミセス・シンの娘たちは、その真ん中にブルーノ氏の姿を見とめる。

「ママー、パパがあんな所に同じナリのおじさん達といっしょに居るよ。パパは今隊長さんに何か言ってるみたいだけど、いったい何を言ってるの?」

「パパはね、“自分たちはアメリカ兵だ。だから排除はできないはずだ”って、ガンバってんのよ。」

「エッツ?! シンさん、夫のブルーノさんって、実は米兵だったんですか??」

「そンなことあるわけないでしょ。あの人、アメリカそのものは別としても、米軍と米国政府は大ッキライときてるんだから。あの人たちはね、ブルーノさんのコンサート仲間で、ゴスペル歌う北欧の人たちなのよ。たまたま来日している時に、親交のあるブルーノさんからこの島のことを聞いて共感し、彼といっしょに県のコスプレ屋で米軍に化け、いっしょに座り込んでくれているのよ。」

  しかし、一般市民の排除の最中、突如として出現した米兵たちを目前にして、竹やり隊は行動をいったん停止。隊長は、想定外ととまどいながらも、司令部とやりとりをしている模様。

「タミ、隊長の盗聴マイクで、何かひろえる?」

「隊長はですね・・、米軍への基地供出との成り行き上、ミュージシャンのおじさん達を本物の米兵と思い込んでるようですが・・、問題は、人民といっしょになって座り込んでる米兵が“公務中と見なせるか、見なせないのか”-その判断を司令部へと求めていて・・、司令部は、“仕事なのかバカンスなのかはわからないが、ここは迷彩服を着ているという外形標準説に従って、公務中と見なし得る”-との回答をしてきています。」

  盗聴マイクを慎重にひろいながら、タミは解説し続ける。

「隊長はですね・・、公務中の米兵を自分が指揮命令することはできない-と、司令部に訴えているのですが・・・、司令部が関連部門に問い合わせても、外務省も防衛省も、“米兵は酔ッパライならあり得るが、座り込みの米兵など、トモダチ作戦でも想定外”と逃げ回り、また在日米軍当局にも、“イースターか何かじゃないか”と、ただあざ笑われて切られたそうです。

  隊長はですね・・、今までは丸腰の一般市民を相手にしてエラソーにしていたクセに、これで早や怖じ気づいたか、撤退の可能性を司令部に打診したようなのですが・・、これも早や司令部に、“皇軍の栄誉を担う竹やり部隊の威信にかけて、米兵目前に一ッ人も退くことまかりならぬ!”との回答です。」

「ママー、隊長さん、わがまま達の板挟みで半泣きしているよ。憎たらしいけど、かわいそう・・。」

「アッツ! 司令部からの新しい回答です! “新ガイドラインの規定(14)によると・・、我が国に対する武力攻撃・・、国防軍島嶼に対する陸上攻撃を阻止し、排除するための作戦を主体的に実施する・・、米軍はこれを支援し補完するための作戦を実施する・・とあり、これを解釈するに、米兵たちはいかにも我々国防軍を支援し補完しているように見えさえすればよいのであるから、そう見えるようにミュージシャンのおじさん達をイージリ艦へと保護しご案内するように”-そう命じてきています!」

  にらみ合う国防軍の竹やり隊と米兵の、同盟国とされている双方の兵士たち。いくら米兵が暴力を繰り返す存在とはいえ、まさか米兵に乱暴なことはできず、カバヤキではない竹やり隊の次の手は・・。

「アーッツ! あれは・・。“竹やりホイホイ”の登場です! ついに出たか・・。」

  見ればテカテカと茶黒く光る竹やり一本、兵士に担がれ現れる。

「何だよ、タミ。その“竹やりホイホイ”っていうのはさ?」

「“竹やりホイホイ”っていうのはですね、いわゆる生物兵器なんですけど、生物兵器は国際的に禁止のはずで、僕はこれは特定秘密と思うんですけど・・。外人のおじさん達は北欧の出身ですから、見たこともないあの生物には、強烈に反応するかも・・・。」

  見れば担いだ兵士がその一本の竹やりをよく振ってから、外人たちの目の前にコトリと下ろすと、先端がパクリと開かれ、そこから多くのゴキブリたちが走り出る。

「WAHHHHH!!!!」

  外人たち、座り込むのを振りほどき、我先に逃げ惑うのを、竹やり隊の兵士ども“保護支援!”と叫びながら取り囲み、いつの間にか着いていたジープの後部に押し込んで、イージリ艦へと連れていく。

「お神輿!」

  隊長の次なるこの号令で、竹やり隊は一人残ったブルーノ氏のその巨体を、四方から竹を井の字型にして囲んで持ち上げ、底には竹の格子をあてがって、まさにブルーノ氏を仏像よろしく神輿のごとく担ぎ上げては、ジープの後部に押し込んで、連れ去っていったのだった。

「ママー、パパのことを本物のアメリカ兵と思っているのか、激怒したアメリカのトランポリン大統領が、いつもの跳んでるツイッターでこんなこと言ってるってさ。“リメンバー・パールハーバー横田基地から今すぐにも首都圏を制圧させる!”って。」

  そして、ミセス・シンの娘たちは、またもう一つ見つけたようだ。

「ママー。彼、今ゴルフがなくてヒマなのか、すぐにこんな追伸をアップしたって。“1945年、天から死の灰が降ってきた。そして今日われわれは、右手にオリズル、左手に核ボタン入りケースをたずさえ、再び天から舞い降りよう”って。」

「でも、それは、彼が悪口言っていた前任者が、すでにもう済ませたことよ。」

  だが娘たちは、さらに多くの情報が、続々と寄せられるのに追われている。

「ママとお兄さんたちィ~、この島って今世界に同時中継されてるからさ、国連や各国からの反応が続々来ていて、政府への抗議や批難がおさまらず、外交問題になっているのか、政府もついにコメントを始めるみたいよ。まず、いつものゾンビの眼差しのカス官房長官の発言だってさ。“一部に誤解があるようだが、我が国では神輿は神が乗るもので、まさにこの行動は、米軍こそは神様です-との我が国の総意のあらわれ”-なんだとさ。

  あっ、でも、トランポリン氏は、今はゴルフ場でファーストフードを食べながら、こんなツイート返したそうよ。“私はそんなお神輿みたいな宗教などには興味はない。だから私はエルサレムを首都と宣言できたのだ。それに第一、トウキョウが、いったいどこの国の首都だというのか?!”」

「あっ、今から始まる7時のニュースで、ちょうどこの島のことやるみたいよ。」

  と、中継室のパソコンには、TV画面が映し出される。

「・・いつものように首相がアップで出てきたけど、何やらメッセージのようなもの、発するみたいよ・・。

首相、今、口にしているのは、マイクかな?」

「いえ、あれは彼の“おしゃぶり”です。」

「じゃあ、今、手にしているのが、マイクなのかな?」

「いえ、あれは彼がお気に入りの戦闘機のオモチャです。・・どうも、こうしたものが、手離せないお方のようで・・・」

「あっ、それでも隣の秘書官がカンニングペーパーみたいなものを手渡したから、今から何かメッセージ、発するみたいよ。-“わ、わぁ国は、べ、べぇ国と、緊密ゅうに連携をとりぃ、というかですね、言われる通りに言うこと聞いて、Qィた朝鮮の脅威に対して、最愛げんの圧ぅ力を、加計つづけてまいぃますゥ。”-・・・何だ、いつものセリフで、この島のことじゃないよね・・。

  アーッ!! でも、ここ! この画面の下の方、ちょっと見てえッ!!」

  ミセス・シンが指さした画面には、上空から撮影中のこの島と、そこに漂着したような木造船みたいなものが、ドアップで映し出される。

「エッ?! これって確かにこの島ですけど・・・。アァーッ!! この画面、よぉく見て下さいよ。この映し出された木造船って、竹やりを組み合わせたダミーですよ!

  きっと兵隊たちは竹やりで、座り込みの男衆を閉じ込めた牢屋に接した船形を、急ごしらへにこしらえて、いかにも北朝鮮の木造船が漂着して不法入国しようとするのを、海上保安庁が取り押さえているかのように、メディアがそのまま言われた通りに全国放映してるんですよ。」

「首相、それでアイツ、今、何言ってるのよ? -“こ、このよおに、Qィた朝鮮は、わぁ国の美ゅくちぃ領海と領土とを、またしても不法ぉに侵犯しィたものと思われ、わぁ国としましては、引ぃ続き最哀の恫命国であぅ、べぇ国と連刑しあって、Qィた朝鮮に対しても、また、ジジィソミアを放り出した隣のバKAN国に対しても、Qィ然とした圧力を、加計つづけてまいいますゥ。”-

  首相、いつものように何でも北朝鮮の脅威のせいにし、また、何かにつけて韓国の悪口さえ言ってれば、選挙に勝てるし支持率も上がると思ってさ、こいつ、本当に、アホだよねえ!」

「しかも、このメディアって、かつて“政府が右なら左に寄れぬ”みたいなこと言い、きわどい所で右にばかり寄っていると、また八百長って疑われるから、攻められるのはやはり北と、これでまた政権に忖度したかもしれません。」

  しかし、中継室がそんな話をしているうちに、座り込み隊の男衆は三列目までついに全員排除され、あとは防風林前に座り込む、全三列の女衆を残すのみとなってくる。

 

  男衆をことごとく片づけた国防軍の竹やり部隊。あらためて、浜辺いっぱい横一列に勢ぞろい。ここで竹やりを前へと突出し、女衆の座り込み隊列へと、いっせいに突撃を開始する。

  女たちは一様に“ヒャー!”と言って顔を伏せるが、不思議やふしぎ、次の瞬間、突撃してきた竹やり兵士、まるで異次元へといったみたいにフゥッと消えて、一人残さずいなくなる。

  女たちが、ただボーゼンと打ち眺めるなか、浜辺にはただ海風が、ビョーッと吹きすさんでいくばかり・・・。

「ヤッターッ! これで完全一網打尽。竹やり部隊は全滅よぉッ!!」

「これぞ第三防衛ライン。浜辺に掘られた横一列の大落とし穴。アイツら女性と見くびり油断したのか、全員みごとにこの浜に、ハマりましたね!!」

  そう! 国防軍竹やり隊は、浜の東西一列に掘りぬかれた塹壕みたいな大落とし穴に、部隊全体ゴッソリと、落っこちてしまったのだ。

  しかも、このお堀のような落とし穴、ただの落とし穴じゃない。その中には、白い粉が敷きつめられて、兵隊どもは顔も体も粉だらけ。そして穴の上からは、防護服姿の女たちが、兵隊めがけて次から次へと白粉を投げ入れる。

「これがお前たち権力が、あたし達を被ばくさせた“死の灰”だァーッ! これでも喰らえーッツ!!」

  そして最後にガイガー計とおぼしき物が放り込まれ、計測限界はるかに超えて、針も宙へとぶッ飛んで、“ピィイーッツ!”と激しくつんざくように鳴り響く。

  堀に落ち、白粉まみれの兵士たち。これで自分も“ただちに影響する”ほど被ばくしたと、阿鼻叫喚の地獄絵となり、次々と、オゥト、オゥトと吐きまくる。

「シンさん・・・、あの白い粉って、まさか、ホントに、“死の灰”ですか?」

「いーえ、あれは紅白おもちのカタクリ粉で、ガイガー計はキッチンタイマー。あんなのにダマされちゃって、網でなくても軍隊は、よくかかるのねぇ。」

「でも、カタクリ粉で、まるで急性放射能中毒みたいに、何であんなにオウト、オウトと自動的に、吐くのでしょうか?」

  そこはタミが解説をする。

「あれはおそらく、不安定なイージリ艦の船酔いのせいなのでしょう。船から下りて薬がきれて、だれか一人がもどしたら、かえるバスでもよくあるように皆ゲロゲロとやりまくるのと同じです。

  しかし、ひょっとするとあの兵士たち、給食にもBqがあるのだから、ミリメシでもしょっちゅうBq食っていた-のかもしれない。でも、隊長は、ここでも本気にしているようで・・・。」

  見れば隊長、浜辺に一人立ちすくみ、取り残された面持ちで、不安げにも司令部へとSOSを発しようとしている模様。タミは盗聴マイクから、隊長の訴えをひろいあげる。

「隊長はですね・・、司令部に安定ヨウ素剤の緊急配布を求めていますが、司令部は、“ただちに健康に影響はない。100mSv以下は安全安心、外で遊んでいてもよい。笑っておれば放射能の方から来ない!”と回答していて、隊長は、“そんな国民ダマシのこと、我々軍には通用しない!”と、ここで初めて司令部に反論をしています!

  しかし、司令部は、“ガダルカナルインパールの教訓どおり、軍隊は国民はもとより兵士でさえも守らぬもの。貴官もこの国の文化と伝統、前例そして忖度をわきまえながら出世した軍人ならば、ここは天皇陛下のために、竹とはいわず桜のごとく、戦地の花と心得て、いさぎよく散って死ね!”と命じています。」

「ママとお兄さんたちィ~、隊長さん、また泣いてるよぉ。あーッ、それで隊長、堀に落ちた兵隊たちに、何か水のようなもの、かけ始めたよ・・。」

「まさか、ガソリンかけて、トリ・インフルエンザみたいに、焼却処分する気かしら?」

「いいえ。あれは別れの盃を振りまいているのです。司令部からの命令は、殺処分ではなくて、兵士たちに、“ただ竹やりでもっと深く穴を掘れ!”と言っているにすぎません。

  おそらく司令部は、被ばくした兵士ら全員、放射性物質と化したと見なして、彼ら全てを指定核廃棄物として、あの落とし穴を深く掘らせて生き埋めとし、そのままここを中間処分場とするものと思われます。いわばあの兵士たち、ここを己の死に場所として、文字どおり自ら墓穴をボチボチと掘らされているのです。」

 

  ということは、竹やり部隊はこれで全滅。非暴力をつらぬき通した市民側の全面勝利と思いきや、イージリ艦からまた続々と、二軍とおぼしき竹やり兵らが、進軍ラッパの音頭にあわせて走らされてやって来る。

  隊長、ここで改めて、再び波打ち際を背に並び終えたる続・竹やり部隊の面々に、号令一声、打ち放つ。

「“七つ橋”!」

  新部隊、竹やりを組み合わせ、七つの足かけ即席“橋”をただちに作る。そして、自らここ掘れワンワンと、イヌのごとく上の言うままただ墓穴堀りにまい進している先輩兵の頭上を越えて、堀をまたいで橋をかけ、次々と渡っては、女たちの正面へと、また一列に並び立つ。

  ここまで来れば、座り込みの女たち、今や第三の防衛ラインも突破され、絶対絶命となってくる!!

 

 

第十六章 不屈の抵抗大作戦(後)

  浜の夕日はすでに沈んだ。座り込みの男たちはすでに残らず排除され、仮説の牢屋に入れられている。しかし、侵略してきた国防軍も、第三の防衛ライン=大落とし穴にはまり込み、その兵力の半分は失われた。

  今や浜のあちこちに灯されたかがり火が、赤々と燃え立ちながら、防風林の前三列に座り込む女たちと、それに向き合う二軍の竹やり兵らの面々を、ツラ明りのようにメラメラと照らし出す。

  女たちの最前列には、漁村のおばさん達などの支援者らが座り込み、その中央にはタカノ夫人とレイコ先生、腕を組みあい肩を寄せあい、寸分のすきもなく座り込む。その後列には保養の参加者、二列目は中堅どころのママさんたち、三列目はより若いママさんたちが座り込む。

  この全三列の女たち、竹やり兵があらたに整列完了するや、またいっせいに黄色地赤字の“不屈”のボードを、両手いっぱい持ち上げながら頭上に高くさし掲げる。浜辺に設置の隠しカメラと、ヨシノが映す移動カメラが、向かい合う女たちと兵士らの表情を世界へと発信するなか、女たちは自分の思いを次々と、兵士へとぶつけ始める(1)。キンゴはこれよりBGMを、ショスタコビッチ交響曲第5番の第3楽章に切り替える。

 

「ここの“保養”は、私たち年5.2mSv以上の放射線管理区域のような所に住む者には、真実を知る最後の砦。この国ほど経済大国でないベラルーシウクライナでも、年5mSv以上は強制避難、年1~5mSvは避難の権利が認められ、また子供の保養として年1回約1か月のサナトリウムの提供や、被災者への医療費無料、給食にはより安全な食材が提供されるなど、さまざまな公的施策がなされているのに、3.11後のこの国では、最大の電力消費地トウキョウで何兆円ものオリンピックはやるくせに、こうした被害者への公的保障は何もなく、ただ民間のボランティアがあるのみです。

  特に“自主避難”とされた者には、賠償も補償も何もないまま、汚染地への帰還施策が復興予算の支援のもとに次々と打たれていくなか、避難先の住宅支援が早々に打ち切られ、初期費用の敷金だけでも36万、仕事を失い子供もいるのに、それが支払えなければ被告として、原発事故を起こした張本人の電力会社の責任者に無罪を言い渡すようなこの国の裁判所へと引きずり出される。

  私たちは原発事故で家も土地も仕事も奪われ、それでも子供たちのためにやむにやまれず故郷を捨てて放射線被ばくを逃れ、避難先から一から出直し、子供を養っていかなければならないのに、なぜ子供を守る私たちが、経済的な兵糧攻めと、復興を妨げる非国民とのバッシングを受け、これほど惨い目にあわされ続けねばならないのか?!!」

「子供たちは頻繁に鼻血を出した。3.11事故後の4月から10日に一度が週一度に、さらに3日に一度から6月には毎日というように鼻血が出た。西に行くと週2日に減ったものの、東に戻るとまた毎日、昼も夜も鼻血が出た。言論やマンガの表現の自由はつぶせても、鼻血の事実はつぶせやしない。翌年ついに移住して、子供の鼻血はやっと止まった。

  その他にも、原因不明の体調不良や関節痛、毎月1~2回の嘔吐、その中に血が混じっていたこともある。頭痛や血便、膀胱炎になり、下痢が続いて1日に5~6回シャーッと出ていたこともある。また、アトピーが酷くなった、心臓が痛くなった、髪の毛が束で抜けた、同時に3人の子が骨折したなど、出る症状は実に様々・・・。そんな話を何度も聞かされ、その代表例の一つとして、100万人に1人といわれる小児甲状腺ガンの異常な多発があげられる。

  医者に連れて行ったとしても、放射能を口にするなり鼻で笑われ、おまけに怒鳴りつける医者までいた。医者たちは、自分に知恵も知識もなく、また現実に向き合おうとする勇気も何もないことを、すでに見てきた私たちに見抜かれるのが怖いのでしょう。

  そんななか、子供の靴の裏側から、高いガイガー値が出る最中でも、学校は子供たちに畑作業をさせてみたり、裸足でプールを掃除させたり、0.8~1μSv/hの所をマラソンさせたり、3μSv/hと伝えられた所もある学校は、すでにあり得ぬレベルの被ばく場と化していた。給食には511Bq/kgや、719Bq/kgの汚染が見つかり、しかもそれを3か月後に知らされた。8歳の小学生が“先生は僕たちがガンになってもいいのか!”と訴えても、それでもまだ学校は、10~30Bq/kgでも100Bqの基準値以下ということで、給食に出すと言った。

  本来、子供たちを守るべき学校がこんな状態だというのに、私たちはいったい誰を信じて、どこに行けばいいというのか?!!」

「3.11以来このかた、政治家たちは、“ただちに健康に被害はない”と公言し、政府と電力会社とは、“わたしたち人類は昔から放射能と共存してきた”などとうそぶく。冗談じゃない! それはもともと進化の過程で克服してきた自然放射線の話であって、核兵器由来の人工放射線の話じゃない。私たちの被ばく量は、3.11前はゼロBqだったのであり、1Bqたりとも食べ物にはなかったんです!!

  世界最悪レベルの原発事故が起こった時、いったい何人の医者や科学者が“すぐ避難しろ!”と言ったのでしょうか。それどころか、“放射能は100mSv以下ならば安全・安心、外で遊んでいても大丈夫”と言いながら、一部の医療関係者らは自分たちだけ安定ヨウ素剤を飲んでいた。

  そもそもなぜ、放射線管理区域のような線量下で、どうして勉強したり部活をしたりせねばならないのか。進学や就職やインターハイを目指すような環境が、どうして放射線が飛び交って被ばくをさせられるような環境なのか?!

 “ただちに健康被害はない”と公言しておきながら、もし将来、子供に健康被害が出た場合、いったい誰が責任を取るというのか?! 原発事故を起こした張本人の電力会社の責任者が、司法で無罪を言い渡され、結局だれも責任を取らずにすむこの国で、空間線量20mSv、食料品は100Bq、廃棄物は8000Bqが公的基準と化せられたこの国で、自分は騙され保護されないということを、見抜く子供はいると思う。そして彼らは精神的に、取り返しがつかないほど傷つけられる。

  子供たちに対するこの責任を、いったい誰が取れるというのか?!!」

国防軍の兵士たち! 私たちは今ここであなた達に聞いておきたい。

  あなた達が守るのは、私たち、現に被ばくをさせられている国民ですか? それとも、アメリカ軍ですか? それとも、あなた達の血で儲けている軍産官共同体ですか?

  あなた達国防軍は、二言目には中国と北朝鮮とが、おもにこの国の“脅威”だと言う。中国と北朝鮮とが、現実に私たちを被ばくさせたり、私たちに核汚染物質をさらしたりしていますか? 中国軍と北朝鮮軍が現実に、上空から落ちてきたり、低空飛行で日常を脅かしたり、地上で市民を暴行したり、殺害したりしたのでしょうか?

  現に行われている“脅威”というのは、いったいどこの集団、どこの軍隊による脅威ですか? あなた達が国防軍と名乗るのなら、なぜその集団や軍隊から私たち国民を守ろうとしないのですか?

  あなた達が自分の命を預けている司令官-特に、最高司令官はだれなのですか? この国のアメリカには何も言わず、沖縄県をはじめとして国民を守ろうとする意識のない内閣総理大臣なのですか? それとも戦場現地のアメリカ軍の、一司令官なのですか?

  あなた達国防軍は、愛国心に満ちている-と思います。では、なぜ、現に放射能にさらされているこの国の子供たちとその母親とを、守ろうとしないのですか? あなた達国防軍改憲で合法化されたとはいえ、結局、いったい、“何のための存在”なのですか??」

 

  夜の帳が下りた浜辺に、一抹の静けさが漂いはじめる。母親たちのこれらの言葉が、彼女らの表情をともなって、世界に中継されている。

  しかし、向かい合うこの二軍の兵隊たちは、さっきの一軍とは違って、まだ年端もいかぬ十代そこそこ。入隊したての少年兵であることは、かがり火が照らし出すその朱るんだ童顔を見るまでもなく、やがて明らかになってくる。

  最前列中央に座り込むタカノ夫人は、しかし今や、そんな彼らに、語りかけようとするのだった。

「あなた達も大変ねえ。お互いにもう、何時間もこの浜で頑張ってるけど・・。きっとお腹もすいたでしょうに・・・。まるで孫のようなあなた達、こうしてこの場で出会えたのも何かのご縁・・・。

  私たちは、あなた達が、好きでこうしているのではないことを知っています。あなた達が好きで武器を手にしているわけでもなく、ましてや好きで軍隊に入ったわけでもないことを知っています。

  あなた達は、こう言っては失礼だけど、おそらく家が貧しくて、親に楽をさせたいから、それがシングルマザーであればなおさら、自分が大きくなってまで親に苦労をかけたくないと思うから、自ら進学をあきらめて、また安い非正規就労も避け、免許も取れて正規なみの給与もある軍隊へと、入った人も少なくない。だから今あなた達は、自分の親の年齢の人たちに武器を向けてはいるけれど、本当は心の優しい、親孝行な人だって少なくないのを、私たちは知っています。

  あなた達は、学校に繰り返し何度も何度もやってきた軍隊のスカウトたちの、さもカッコよく演出された軍隊への勧誘話法と甘言にのせられて、また学校の、そして教師の“ポイント”のため、誘導尋問にのせられて、本当はもっと勉強したいし、なりたい職種もあるというのに、こうした兵糧攻めの圧力に抗しきれず、軍隊に誘導された人だって少なくはない。

  あなた達は今、上官の命令で、私たち普通の市民に、武器を向けて対しています。これがいったい何を意味しているのかが、あなた達にはわかりますか? 

  上官たちは未だ実戦経験のないあなた達に、こうして度胸をつけさせようとするのでしょう。実際に武器を持たせて、生身の人の前に立たせて、声を上げさせ、まずは人を威嚇してみる。そしてこれが終わったその次には、あなた達は本物の戦場へと連れて行かれて、再び武器を握らされる。その時、上官はこう言うでしょう。“今後は撃て!”と。“撃ってみろ!”と。そして、“一度撃ってみれば気が楽になる”と。あなた達はもはや命令に背けずに、戦場を走らされ、戦場では自分がやられてしまうから、その前に必ず引き金を引いてしまう。あとはこの連鎖反応の繰り返し。あなた達は血で血を洗う道の上を屍こえて歩かされ、度手に染みついた血の臭いは落ちはせず、他人の眠りを奪った者は二度と眠れることはない(2)。

  あなた達、そうなってからでは遅いのです!

  でも、今なら、まだ間に合うはず。今ならまだ徴兵制ではないのだから、自分の意思で軍隊を辞めることができるのです。

  あなた達、自分自身のかけがいのない人生で、最初の、そして最後ともなる大きな勇気を出してほしい。大きな勇気とはいっても、それを実行するのはとても簡単。今、武器を握っているその手をゆるめて、武器を地面に降ろすだけでいいのです。」

  しかし、少年兵たちは、いかに童顔の少年とはいえ、その表情を鉄のように強張らせたまま、少しも反応を見せようとしない。タカノ夫人はそれでもなお、そんな少年兵たちに語り続ける。

「あなた達は、何の責任もなく、何も悪くはないのです。あなた達をここまで追い込んでしまったのは、全て私たち大人の責任、特に、私のような年代の大人たちの責任なのです。

  あなた達は、無責任な大人たちのむしろ犠牲者。あなた達、次世代の若者たちに放射能をあびせかけ、核のゴミを押しつけて、被ばくさせたその上に、非正規などで貧困に陥れ、軍隊に入隊せざるを得ないように仕向けておいて、原発で儲け損ねた営業利益を、武器輸出で償おうとする。そして原発事故の取り返しのつかない被害と汚染をごまかすために、本気で戦争しそうにない仮想敵国への脅威を煽り、軍国化をすすめてきたそんな政治に背を向けて、堕落した生活をただ惰性で貪ってきた私たち大人こそ、全責任を負うべきなのです。

  だからこそ、私たちは今この座り込みをやめることはできないのです。私たちが今ここでまた諦めてしまうのなら、またあなた達のような犠牲者を出してしまう。

  私たちは、死んでもここを、動きません。

  あなた達が、もしもこのまま行くというなら、あなた達は今ここで、私を刺して、私の屍を踏みこえてから、行きなさい。」

 

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  タカノ夫人の発言を聞きながら、最前列に座るレイコは、目の前の、三人の兵士たちを見つめている。彼らはもはや少年ではなく、若手社員の年頃だが、未だ実戦経験なしとのことで、ここに連れてこられたのだろう。

  しかし、レイコは間もなく気づく。この三人の兵士たちが、彼女の教え子であることを。

  それは彼らの方が先に、気づいていた。自分たちが今、武器を突きつけているこの人が、かつて卒業した学校の先生であったことを。そして家庭事情と貧しさゆえに勉強する環境にない彼らが、成績を口実に進学をあきらめさせられ、軍隊に誘導されないよう赤点を取らせまいと、担任でもないレイコが、補習や補講のアリバイつくり成績に下駄をはかせてくれていたのを、彼らは思い出したのである。そして彼らは、レイコがそうした行為のために三年進級を止められて、担任をはずされたということも、また、卒業式の日、国防軍入隊を祝う式辞となった時、着物袴の晴れ着姿の他の先生らが微笑むなか、レイコだけがいつものスーツ姿のまま、震える手で式次第を握りしめ、怨念と後悔の入り混じった涙目をたたえていたのを、三人は思い出していたのである。

  今、レイコの瞳は、ようやく三人をとらえはじめる。三人は、緊張と疲労とで強張っているレイコの面に、教え子との再会の喜びか、懐かしさと嬉しさか、あかあかと笑顔が灯っていこうとするのを見てとるが、武器を手にする己が身の恥ずかしさか、レイコを正視できずにいる。

  三人は、それでもなお恐る恐る、今一度、あの懐かしい先生を、あらためて見ようとする。レイコはその青白い両頬に流した涙を拭こうともせず、何か言葉を発しているようだったが、彼らにはまだその言葉が聞き取れない。しかし、夜の帳から月の光が差し込んで、浜の砂の合間から水がしみ出てくるように、レイコのか細く低い声が、ようやく彼ら三人の耳元へと聞こえてくる。

  レイコはただ、“ごめんね。ごめんね・・・”と、言っていた。

  三人は、互いに顔を見合わせると、-もうこれ以上は先へはいけない-との内なる声を、互いに確かめ合った気がした。そして彼らは武器を手放し、地面に捨てて、そのままそこへと座り込んだ。

 

  隊長は、ただちに彼らに駆け寄った。

「貴様らーッツ! 何故そこに座り込むーッ?? この意気地なしの腰抜けめがーッツ!!」

  隊長はそう怒鳴りたてると、三人の背中をめがけ、ブーツオンザグラウンドの片足で、さんざんに蹴り入れる。そして腰に差した軍刀を、引き抜こうと構えてみせる。

  レイコは隊列を振りほどいて立ち上がると、地面に落ちた竹やり一本拾い上げるや、両手の甲を下にして、横向きに構えたままその竹やりの側面を前へと押し出し、隊長を思いッきり突き飛ばす。

「この子たちは私の教え子! 軍隊は一指たりとも手を出すなアーッツ!!!」

  突き飛ばされた隊長は、レイコのあまりに大きな声にも吹き飛ばされるかのように、白い粉でいっぱいの落とし穴へと転落する。

 

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  竹やりを構えたまま、目を血走らせ、肩で息するレイコを前に、怖気づく竹やりの兵士たち。前列の女たちも次々と落ちた竹やり拾い上げるや、こうなったら非暴力より正当防衛、各々自在に竹やり持って身構えて、一声啖呵を切りまくる。

「やいッ!隊長ォ! お前たちこそ、強い者の命令なしでは弱い者イジメも何もできないような意気地なしの腰抜けだ! そのお前のように安っぽい、コケ脅かしの竹ミツを、抜けるものなら抜いてみろ!」

「こんな丸腰の、無防備の女相手に、太刀かたなを抜こうとするとは、目だれ顔の振る舞い、臆病の至りかァッ(3)!」

「このタレミソ野郎のダシガラ野郎め、そんなお前の腰抜け竹ミツ、抜け、抜け、抜け、抜け、抜かァねえかぁーッ!」

  落とし穴に落ちた隊長、死の灰もどきの白粉で、鼻の穴まで粉だらけ。

「ペッペッ、プップッ・・、こ、これは、死の灰ではなく、カタクリ粉! 俺はダンゴ屋の小せがれだけによくわかる・・。オイッ! 竹やり部隊第一軍! ここ掘れワンワン穴掘りやめいッ!!」

  隊長が騙されたと、穴からはい出るタイミングに合わせるように、見るからにオンボロの木造船が浜辺へとたどり着く。

「タミ。何だ、あの漂着船のようなボロ船・・。ハングルまでが書いてあるぞ・・。今度こそ、本当に北朝鮮の登場かな?」

「いいえ。あれは竹やり部隊でも特にエリートとされている親衛隊-通称“竹やりSS”なる特殊部隊で、制服は黒一色、軍帽にはドクロのマークもついています。」

「エリートって・・、その割には年5兆円の防衛費で、何であんなボロ船に乗ってるのよ?」

「あれは確かにこの国の近海に漂着した北朝鮮の船なのですが、それらを回収したあとに、そこらで盗んだエンジンを取り付けて、再利用しているのです。

  防衛費5兆円のその多くは、軍需やその関連企業のフトコロへと消えていきます。たとえばとあるCEOのカネツキ・ボーン氏一人だけでもその報酬は年10億円といわれるように、非正規貧困労働を強いている企業の幹部連中が搾取している金額は億単位です。労働者と同様に兵隊たちは経済的徴兵制で入隊後も相変わらずの貧困のまますえ置かれ、あのSSの制服だってコスプレ屋のナチ・コレクションからの借り物です。軍としては前線に出る兵士らを、あえて貧困にさらすことで、より攻撃性と収奪心とを掻き立てようとするのでしょう。」

  このSS部隊、また何やら黒光りする竹やりを担ぎ出すのを、タミは続いて解説する。

「あの太い竹やりには、実はバズーカ砲が入っており、その名も“クロダ・バズーカ”といって、この国のアホ首相のおトモダチの名にちなんだということです。

  このクロダ・バズーカ、年2%のアップを目標に掲げていてもいっこうに達成できず、出口戦略はどうするのかとの懸念も強く、アホ首相の評価と逆に、市場の評価は下がっています。」

  そしてこのSS隊、バズーカ砲をまず宙へと一発ブッ放すと、次に女たちへと狙いを定め、隊長は、ここでまたその本調子を取り戻す。

「お前たち全員は、ただ今これより、防衛相より委嘱された司令部が指定する“特定秘密”とあいなった。お前たちの出生以降今日までの人生は、すべからく特定秘密のアンタッチャブル。もはや何人たりともお前たちの存在をたどることも知ることもできないのだ。今やお前たちはこの世に存在しないも同然。忍ぶ姿も人の目に、月影とどかぬ松まがり。今宵ぞ命の明け方に、消ゆる間近き星月夜。しかし哀れは身に知らぬ、念仏となえて覚悟せいッ(4)! バズーカ隊一同、構えーいッ!!」

  と、隊長が命ずるがままバズーカ砲に手がかけられ、ここで再び女たち、絶対絶命のピンチとなる。

 

  とその時、

「“暫く!”」

  との掛け声が、浜辺の闇夜の全域を、つらぬくように響いて渡る(5)。

「“暫く、暫く、しばらく、シバラク、しばらぁ~ぷぅ~ッ!!”」

  浜辺の一同、この甲高く、夜空をつんざく声主をさがすが早いか、女たち後方の防風林の松並木が、いっせいに浜辺に向かって歩き出してくるかに見える。

「バーナムの森が、動いたか(6)・・・。」

  動き出したかに見えた松並木の間からは、続々と白装束の女たちがあらわれる。

見ればまた大勢の女たち。鷺のごとき白の装束、頭には白鉢巻、黒髪なびかせ袖をゆらせて、素足の足も軽々と、“エファイ! エファイ!”と掛け声も高らかに調子をとって、横一列にやって来る(7)。

  白装束の女たち、順々に印を結んで頭上に掲げ、次々と横掘り穴にかけられた七つ橋を踏み越えて、兵隊ども全員を波打ち際まで押し戻す。そして再び浜の横幅いっぱいに一列にあい並ぶと、その真ん中から出た女たちは、先頭にオバアをいただき、四菩薩の型で四つ目をつくり(8)、その中に、草編みの冠かぶった白装束で正装の当代ノロのユリコをむかえ、各々印を結んでノットの体勢よろしくおさまる。

  実はこの女たち、オバアの子孫-歴代ノロをはじめとする元は島の女たちで、周辺に散っていたのを、島の一大危機を聞きつけ参集し、今の今まで嘉南岳の麓にあるフボー御嶽で護摩を焚き、当代ノロのユリコのその一身に、この嘉南島の全霊力と法力とを結集させていたのである。

  ノットの型におさまるユリコは、金剛杖を右手に握り、自らその身を不動明王の尊容にかたどって、高々と祝詞をあげる。

「それ、巫女、山伏といっぱ、役の優婆塞の行儀を受け、即身即仏の本体を、これにて打ち留め給わんことを、明王の照覧はかり難う、熊野権現の御罰当たらんことを、立ちどころにおいて疑いのあるべからず。」

 

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   バズーカ砲はいっせいに、ノロのユリコに向けられる。ユリコはそれで手にする杖を前に掲げて左右に振れば、突風たちまち吹きすさび、バズーカ隊をまとめて宙へと巻き上げて、海へザブンと投げ捨てる。

  ユリコはさらに取って返して、杖を宙へとなびかせば、突風はるかに吹きすさび、仮説の牢屋を兵隊もろとも次から次へとなぎ倒し、兵隊どもは一人残らず突風に巻き上げられて海の中へとたたき落とされ、竹やりはことごとくイージリ艦へと飛ばされて、その鋼鉄でできてるハズの船体に、一列に突き立てられていくのだった。

  仮説の牢屋を解放された男たち、イージリ艦から脱出したブルーノ氏らの一行ともども、白装束の女の指示で、座り込みの女たちを伴いながら、防風林の後方へと急ぎ避難を完了させる。

  白装束の女たちが一列に居並ぶなか、ノロのユリコが前に出て、杖を掲げて隊長へと迫りよる。

「まだこの上にもこの島に、留まる疑い候わば、天罰そら恐ろしく、風波に身をまかせ、屍を西海へと沈めようか。士卒の者ども引きつれて、とくとくいざない帰られよ。」

  しかし、竹やり隊の一群は、海水にズブ濡れのまま、隊長もろともよくあるように、とにかく上の指示がなければ何一つ考えようともしないまま、ただの木偶人形よろしく立ち尽くすばかりである。

 

「“撤収―ッツ!!”」

  突如として、浜辺のスピーカーより、司令部からとおぼしき声が響いてくる。

「“撤収”って、料理番組じゃあるまいし・・。正直に“撤退”って言えばいいのに・・。」

  そう、この声は司令部からの命令であり、タミがここで隊長に仕掛けられた盗聴マイクの音声を、浜辺のスピーカーへとつないで切り替え、盗聴していた内容すべてを白ばけにブチまける作戦に出たのだった。

「隊長! 聞こえないのか?? 撤収だ、撤収せよ!! 司令部と貴官との今までのやり取り全てが盗聴されてインターネットに流出し、ウィキリークスみたいな騒動になってるぞ!!」

  そしてタミは、すでにネットで世界へと発信した、隊長と司令部とが今まで発したやり取りの数々を、スイッチを切り替えて、浜辺のコンサート会場に設置されたプロジェクターからスクリーンへと、まとめて一挙に映し出す。

  それは、今の国際社会に稀に見る、差別意識むき出しで、あまりに酷くて非常識な、稚拙きわまる暴言の数々だった。たとえば・・・、“不潔で不埒な市民ども”、“土人、シナ人”、“売国奴プロ市民”、“左翼のクソども”、“出張ゴクロウサマ”、“白ブタを一匹捕獲”、“犯すといって犯すヤツがおりますか?”、“原発事故で死んだ人は一人もいない”、“それで何人死んだんだ?”、“放射能は集団的ヒステリー”、“私に責任はない”、“大きな音だね”、“結局はおカネでしょ”、“自主避難者は自己責任”、“まるで暴力団といっしょ”、“まずまずの災害だった”・・・等々。

「ママとお兄さんたちィ~、いよいよ各国元首からのクレームが来てますよ。たとえば、あの大統領。例のごとく上半身ムキ出しで、“俺もついにプッチンきた!”って怒ってて、その原因は、暴言録に“ハゲーッ!”と“ハダカの王様”ってあったのを、自分のことと思ったみたい・・。」

「それに暴言録にさ、“黒人奴隷の子孫らが大統領になれる国”っていうのもあったじゃない。その国の元大統領って、何か言ってる?」

「いや、現大統領の暴言もひどいから、“これで相殺、so,sigh”って、ため息をついてるみたい・・」

  そして中継室内では、キンゴがネットの別の画面をさし示す。

国防軍の撤収司令は暴言暴露もあるけれど、週明けの海外の株式市場で、ネットで中継されていたイージリ艦のダンボール混入疑惑で、カネダケ株がいっせいに売られまくられストップ安の大暴落。カネダケがこれで政府に圧力かけて、国防軍の侵攻を中止させたのかもしれない・・・。」

 

  そして国防軍の竹やり部隊は、粉だらけにズブ濡れのまま、浜辺から撤退して、イージリ艦へと引き上げていく。しかし、このイージリ艦、もとより後退不能なだけに、停泊したまま動けない。

「やっぱり! 連中は最初にこんな戦艦もどきの粗大ゴミを置き去りにすることで、この島を放射性ゴミを含んだゴミの島と化すための既成事実を作るつもりよ!!」

  しかし、ノロのユリコはそれを見破り、一身の臍を固め、その身に受けた全霊力と法力とを、いよいよ全開させていく。キンゴはここで、待ってましたと言わんばかりにBGMを、“ニーベルングの指輪”から“神々の黄昏”のフィナーレへと切り替える。

  ユリコは手にする金剛杖を、大地を突いて月に向け、天空をかき回さんと大きく振るう。すると、黒天にわかにかき曇り、雲霞のごとく雨雲が寄せてはたなびき、鳴門の海の潮のごとく渦巻きはじめる。

「“仏法王法に害をなす、悪銃毒蛇はいうに及ばず、たとわば人間なればとて、世を妨げ、仏法王法に敵する悪徒は、一殺多生の理によって、ただちに切って捨つるなり!”」

  ユリコがかく唱えれば、雷鳴はげしく轟いて、渦巻きのスピンにあわせて天からは竜巻が降り、それにつられて海面も竜の背よろしく盛り上がり、波という波ヘビのごとく竜巻へと巻きついていく。

「“そのとき急々如律令と呪するときは、あらゆる五陰鬼煩悩鬼、まった悪魔外道死霊生霊、たちどころに亡ぶること、霜に煮え湯を注ぐがごとく、げに元品の無明を切るの大利剣、莫耶が剣も何ぞ如かん!”」

  ユリコの呪文に伴って、竜巻海波あい合わさり、イージリ艦を浅瀬から沖へ沖へと押しやっていく。

  しかし、このイージリ艦、ヒビが入ればその耐用は広島から名古屋までといわれるレベル。沖へと押されていくうちに、あらゆるヒビが広がって、ついにその船体はまッぷたつへと割れていく。そして中にいた竹やりの兵士たちは、予算のためか人命軽視のためなのか救命ボートの備えもなく、また竹やりでボートを作る時間もなく、このまま海へとことごとく投げ出されていくのが見える。

  今や兵士とその軍勢は(9)、海の中へと投じられ、深淵が彼らをおおい、海面は彼らをつつみ、鉛のように海底へと沈められ、イージリ艦もろともに兵士ら全員、葦の海の藻屑へと化されていく。

  しかし、ユリコはここで、白装束の女たちから一人飛び出て、波打ち際へと走っていく。そして膝下まで打ち寄せる波という波かき分けて、黒雲よりさし込める月の光を一身に浴びながら海の中へと突き進むと、金剛杖を天高く振り上げて、九字の真言を切ったのだった。

「“臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前!!”」

  すると雷鳴、三度轟き、ユリコが杖を海の上へとさし伸べると、海が二つに分かれはじめる。そして風がはげしく吹き寄せ、水を分けさせ、海が干されていくのだった。投げ出された兵士たちは、すでに乾いた海底へと足をつけ、水は彼らの左右にあって壁となる。

  ユリコはそこで、草で編んだ冠から、草の葉一枚、抜き取ると、海の中へと投げ入れる。風に吹かれた草の葉は、たちまち巨大な木の船となり、向こう岸へと閉じられていく分かれた海の合間をぬいながら、兵士たちをことごとく救い上げると、ついには県の対岸へと着いたのだった。

  ユリコは兵隊たちが、ただの一人も海に沈まず、海がもとの水位へと戻っていくのを見届けると、天に向かって一礼し、また振り返って島に向かって一礼すると、ひとすじの涙を流してそのまま息絶え、海の中へと倒れていった。

「たいへん! あの子を急いで、麓の御嶽へ!!」

  オバアのその叫びを受けて、白装束の女たちが急いでユリコのもとへと駆け寄り、彼女の身を担ぎ上げると、嘉南岳の麓の御嶽へ走り去っていってしまった。

 

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  終わった。“不屈の抵抗作戦”は、かくしてこの嘉南の島を守り抜いた市民たちの全面勝利で終わりをつげた。

  ネット上には世界中から賞賛の声があふれ、キンゴのセンスのBGMは映像ともども早や賞金にノミネート。不屈の抵抗作戦の立役者たる参謀タミは、島を救った英雄みたいに目されて、その人気ぶりは襲名当時の染五郎かと思われた。ブルーノ氏のチャリティーコンサートは予定どおりに行われ、保養の参加者親子ともども、またこの抵抗戦に加わったすべての人もお互いを祝福しあい、平和のシンボル=ゴスペルが月夜の空にこだましていく。

 

  テツオは会の進行をキンゴとヨシノとタミに託すと、自分はただユリコのもとへと、彼女が担ぎ込まれていったオバアの家の御嶽へと、月夜に一人晒されながら走っていく。オバアの御嶽をあらため見ると、そこには初めて来た時の大広間の建物が、嘉南岳の登山道へと通じる樹木の合間から、浮き出るように再びあった。

  テツオが中へと入っていくと、白装束の女たちはすでになく、大広間の中央には、眠れるユリコと、それを座って見守っているオバアの二人の、白装束の姿があった。

  テツオもそこへと駆け寄っていく。ユリコの姿はきれいな様子に戻っていたが、顔色は、あの朱るんだ頬も口も、まっ白なままである。

「オバアッ! ユリコは? ユリコはいったい、どうなったんだよ??」

  オバアはテツオを見とめると、目を座らせたまま低めた声で、テツオに語る。

「テツオ、慌てて事をし損ずな。ユリコはな・・、今、医学的には死んでいるが、その実いまだ死んではいない。」

「オバア・・、それっていったい、どういうことだよ? ユリコは、どうしてこんなことに・・? あんな呪術を使ったからか?」

「ユリコの呪術はこの島の霊のはたらき。我々は真言でそれを呼び寄せノロへと託し、ユリコは当代ノロとして代弁役を果たしたのだ。しかし、あの子はそれを越えたことをやったので、自らそのカルマを受けることになる。」

「自分のカルマを受けるったって、ユリコが何を悪いこと、したんだよ?! ユリコは味方ばかりじゃなく、敵の兵隊たちが溺れるのも、助けたんだぞ!」

  だが、オバアはこれより、一段と厳しい口調で、テツオに語る。

「ユリコが海を分けてまでして救出した国防軍の兵士たち。その中にはすでに何人もの無垢な市民を殺傷した兵士らも含まれていて、その本人と遺族らがユリコのこの救出を呪っているのだ・・・。

  それと、あの子のカルマはもうひとつ、自分の父への思慕がある。あの子はいまだに父の死が受け入れられず、しかも更にその父が、人を殺したかもしれないとの罪悪感まで負っている。このせいでこんな時に、あの子は安易に自分自身を、死の淵へと追いやってしまったのだ。」

  オバアの真っ赤な縁の目に畏怖されたのか、テツオは何も言えずにただユリコのそばへと座り込む。

「テツオ、よく聞きなさい。お前たちがこの島を当面の約束の地としてやって来た時、虹が湧きたち、お前たちは再び神との“契約”をした。そしてお前たちはその契約どおりに、貪りをやめ、自給を成し遂げ、自分たちと次世代への愛、神の愛に生きることを実践している。神はそんなお前たちを見捨てやしない。だからユリコがこうなったのも神のはからい。これは、彼女がこれから“復活”を遂げんがための、そして次なるヒトの種の母とならんがための始まりであり、彼女は自身の復活のため、夫となるお前をまさに、今ここへと呼んだのだ。」

「オバア、俺、いったい、どうすればいい?? ユリコのためなら何でもするよ! 言ってくれ!!」

  オバアはここまで言い切ったテツオの目を見て、言い放つ。

「ならば、お前もただ今これから、死んでこい!!」

「・・・、いきなり“死ね”って言われても・・・。オバア、まさか今からこの俺を、“キューライス、テケレッツのパッ!”ってな呪文(10)で、死なしちまうのか?」

「そうではない。お前も今から死ぬことで、ユリコを冥界から連れ戻し、二人でともに復活を遂げ、新しい人類をお前たちから始めるのだ。神は復活をしたお前たちを祝福して、きっとこう言われるだろう。“お前たち、生めよ、殖やせよ、地に満ちよ”と。

  そのためにはお前も一度死ぬわけだが、お前たち二人の体は腐敗したりせぬように、オレが法力で守っておく。だが、リミットがあり、金曜日の午後8時までに、お前たち二人の魂、必ずここへと返ってくるのだ。」

「金曜夜の8時に集合って、どこかで聞いたセリフだけど・・、ドリフかな・・。でも、まあ、いいや。

オバア! 俺、ユリコのために、そしてこれから二人で生きてくために、ここでイッパツ、死んでくらあァッ!」

  テツオは床のユリコを目前に、“生ませよ、殖やせよ”と言ってもらえた嬉しさからか、あまり深く考えもせず、ヤル気というか死ぬ気マンマンになったようで、そんなテツオに、オバアは喜びの笑みさえ浮かべる。

「テツオ、死んだらな、お前は道を行くのだが、それはやがてユリコに通じる仮死の道と、本当に死にいく道との二手に分かれる。その時、お前は必ず“左”の道へと行くのだぞ。生前であれ死後であれ、ゆめゆめ“右”へと行ってはならぬ。」

  そしてオバアは、今一度テツオの瞳に見入ってから、励ますように力をこめて言葉を発する。

「テツオとユリコ、そして愛する子供たちよ。お前たちは復活を遂げ、お前たちの背につづき、また、世々つないでいく新しい人類へと、これから神の愛を伝えていけ! そのためにお前はこれからユリコと二人で生き返るという“聖金曜日の不思議”(11)の奇跡を、成し遂げるのだ!」

  そう言い終ると、オバアは消えた。

 

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  その場に残ったテツオは一人、じっとユリコを見つめている。ユリコの白装束の身体は、生気こそはないものの、月光でくまなく照らされ、白磁のように美しく輝いている。

  テツオはそんなユリコの姿に見とれながら、彼の心の奥底より、何かうずいてくるものが上がってきて、それが彼の口先から出ようとするのを感じている。それは彼が少年の頃、山で出会った回峰行者が授けてくれたお加持がきっと、この日のために取っておかれて、今ユリコの前に再びこの世にあらわれようとしているようだ。

  テツオは導かれるままに、ユリコの口へとキスをする。するとそれはテツオの中から魂を引っぱり出して、ともにユリコの中へと入っていき、テツオはユリコのかたわらで、そのままうつ伏し、倒れてしまう・・・。

 

  山のなかには霧がたちこめ、日は徐々に、西の方へと傾きつつある・・・。肉体から離れ出たテツオの魂、それは今、山道を歩いていくビジョンを見ている。

  行けば、オバアが言うとおり、道はやがて二手に分かれる。-オバアはたしかに左へ行けと言ったのだけど・・。しかし、右の道の樹木には、山道を導くような赤い印がたくさん見えるが、左の道には左というのにそれがない-テツオは、山で道に迷った時はより確からしい方へ行けとの教えのとおり、右の赤い印を道しるべとして歩いていく。

  しかし、この右への道・・、やがて、道しるべの赤リボンは途絶えてしまい、悪路につぐ悪路がアクロバットのように続いて、そのうえ、死後というのに一天にわかにかき曇り、雷鳴が轟きわたり、大雨が滝のように降ってきた。

  テツオは死して早々、七転八倒の憂き目にあわされ、死んでいるにもかかわらず、ここでもまた死にそうな気分になる。そして稲妻だろうか閃光がつんざくように飛んできて、吹き飛ばされブッ倒されたテツオはほとんど、死んでるうえに気絶しそうになるのだが、その時、彼の頭の上の方より、青、白、黄色と、さまざまな色の光を伴いながら、これはお経か真言か、人の言葉が厳かに流れてくるのが聞こえてくる。

 

“オー、けだかく生まれし者たちよ(12)。

    本性が空、生来の空、何ら形のない汝自身のその知性は、真の意識、全善なるブッダである。汝の体と心とが分かれている時、汝は純粋な真実の光を見るだろう。 

 この人の世の人生を溺愛するのに執着するな。畏怖や幻覚、恐れや怯え、どのようなビジョンがあらわれても、それらを汝自身の執着として認識せよ。

   人間界を溺愛するな。それは汝の激しい我執が集まった性癖の道であり、生老病死のあらゆる苦のもととなる。

   我執を捨てよ。性癖を捨てよ。それに幻惑されるな。怯弱であるな。”

 

「テツオーッ! テツオってばァーッ! 何やってるのよ? そんな所で?!」

  聞けば、このお経か真言がやんだ時、雷鳴や嵐の合間をぬいながら、ユリコの甲高い声がしてくる。

「ユリコ! いったいどこにいるんだよ? 君を助けにわざわざ死んで来たというのに、何でこんな目にあわされるんだよ?? 俺の方からまず助けてほしいよ!」

「オバアから、“テツオも死んで、もうすぐそっちへ行くからよ”って、テレパシーが入ったのに、いっこうに来ないから、心配して探していたのよ。」

「ユリコ、何だよこの山道の悪鬼外道は?? 俺は地獄に落ちたのか?」

「そうじゃないのよ。あなたが行ったこの道は、私が行った仮死の冥界に通じる道ではなく、本当に死にいく人が行く道なのね。この道は、その人の生前のカルマに照らして、これから無事に成仏するか、悟りを得て二度と生存の苦を受けない涅槃の境地=ブラフマ・ニルバーナに達するか、それとも迷いと執着が抜けきれず、再び苦の輪廻に満ちた生を受けるか-それらのことを見極める49日に達するまでの“死者への道”といわれているのよ。」

「じゃあ、何でこの俺が、よりによって山ん中で、こんな酷い目にあってんだよ??」

「テツオ、あなたは少年のころ登山で遭難したことがあるって話、してくれたよね。あなたの場合はカルマはないけど、その遭難のトラウマが強烈に残っていて、それがあなたの執着となり、死後、肉体を失った執着が、肉体という取りつく先を失って、こうして今度は魂へと取りつこうと襲ってくるのよ。」

「ユリコ、その理屈はわかったけどさ、じゃあ、さっきまで聞こえていたお経のような声っていったい、何なんだよ?」

「あれはオバアが、私たちの遺体のもとで真言を唱えていて、その出典は『チベット死者の書=バルト・ソドル』。オバアは私たち二人がこれから復活する時に、サピエンスのそれのように、二度と再び執着に汚染されることのないよう、祈ってくれているわけよ。」

  ここまで詳しく説明されて、テツオもようやく納得して、自分自身の救済を再び求める。

「ユリコ、わかったからさ、とにかく俺のこの魂を、この遭難のトラウマから、また、この死者への道から、抜け出させてくれないか? でないとこれ、本当に死ぬんだろ?」

  テツオの頭上のユリコの声は、まず落ち着いてテツオに語る。

「テツオ、あなたが山で遭難した時、幸いにも午後の日があたっている山の斜面の下を向いたら、河川敷とトラックとが見えてきたので、その方向へと山の斜面を転がり抜けて助かったって言ってたじゃない。今からそれを思い起こして、そのビジョンを執着のトラウマに打ち勝つほど強烈に呼び起こせば、そのエネルギーであなたはここから脱出できるわ! だから今から、是非そうやってみて!」

  テツオは今度は言われた通りにしてみると、あな不思議、少年の頃に見た遭難した山の下の河川敷とトラックとが本当に見えてきたので、彼はその時やったみたいに必死のパッチで駆け下りると、その魂は閃光に包まれるや、勢いよく運び去られていったのだった。

 

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   気づいてみると、テツオは今、お花畑の中に立ち、ユリコと二人で向き合っている。お花畑は春爛漫、色とりどりで香り漂い、虫も鳥もさえずって、温かく、平和さながら。その向こうには川が流れ、その水面は波もなく灰色で、時が止まったかのようだ。

  そんななか、二人はともに浴衣のような白装束で、互いの姿を見つめながら立っている。二人とも生前のまま、顔色もすっかり生気を取り戻して、頬も口も朱るんでいる。

「ユリコ・・、まずは会えてよかったけれど・・、ここっていわゆる死後の世界で、僕らはすでに霊なんだろ。それなのに、どうして生前同様に、人間として見えるのかな?」

  このテツオの素朴な問いに、ユリコは優しい笑みを浮かべる。

「テツオ、私たちはすでに体は失っているんだけど、眼耳鼻舌身意の感覚の余韻がまだ残っていて、今お互いに見ている姿は、その感覚の残影なのね。これがだんだん時間が経つと、感覚の余韻も薄れて、最終的には純粋な魂へと還っていくのよ。」

  そしてユリコはテツオに、ここは先達として解説する。

「テツオ、せっかくあなたも、こうして死後の世界へと来たのだし、ここはノロの私が知り得る範囲で、少し説明してあげるね。

  まず、このお花畑の向こう側に流れているのが“三途の川”で、そしてこちらの岸側の少し遠くに、人々が列をなして並んでいるのが、これから三途の川を渡って、向こうの岸=彼岸に向かっていく人たちよ。彼らもまた霊なのだけど、私たちにはまだ人のように見えるのよ。」

  見れば、そこには多くの人が同じ白装束の装いで、順々に送られていくように、三途の川を渡っていく。

  テツオはここで、ふとレイコが夢で語っていた“天国の門”を思い出す。

「じゃあ、あの三途の川を渡った向こうに“天国の門”っていうのが、あるのかな?」

「“天国の門”って、テツオ! あなた、それ、どういう所か、知ってるの??」

  ユリコは生前同様に、黒い目をパッチリさせて、驚いて問うてくる。

「い、いや、それは・・、天国の門というのは、生前に添い遂げれなかった二人が、死後、来世こそは一緒になれますようにって、待ち合わせをする所なんだろ・・。」

  そういうテツオに、ユリコはなおも不思議そうな、しかし照れて嬉しそうな、まるで二人がかつてそうであったかのように、恥ずかしそうな面持ちさえ、浮かべている。

天国の門ってね、よほど契りの深い二人か、血縁者でもない限り、死者でもそう知らないのよ。」

  テツオは、まさかレイコに聞いたとは言えないまま、三途の川の向こうに見えた、何やらいかめしい姿の門を、ユリコに尋ねる。

「ああ、あれはね、それとは逆の“地獄の門”といわれるもので、ダンテがデザインしたんだなんて言われているのよ。その中身は、このお花畑を少し行った所に“地獄めぐり”というのがあって、そこからもよく見えるよ。生き返った時の話のネタに、行ってみる?」

  何だか面白そうなので、ユリコに誘われるがまま行ってみると、そこにはまず“血の池”のようなものが見えてきた。

「ここがその“地獄めぐり”で、この“血の池地獄”を覗き込むと、地獄の門を潜らなくても、いろんな地獄がまるでモデルハウスのように見て回れるの。何でこんな施設が冥界にあるかというと、自殺者が増えてきたので、自殺で本当に死ぬ前に、その人の夢を通じてここを覗かせ、地獄の現状を知らしめておくことで、自殺を思い止まらせようとの、閻魔さまのはからいなのね。」

  テツオが興味深そうに“血の池”を覗き込んでみたところ、サラリーマン姿の3人の男たちが、赤鬼と青鬼に、蹴られ殴られ鞭打たれ、うめき声や叫び声を上げながら、原子炉のような所を雑巾がけさせられているのが見える。

「あれは“原発地獄”といって、あの3人の男たちは、津波対策を怠ったばっかりに原発事故を引き起こした電力会社の責任者たちなのね。あの男らは従業員にさんざん被ばく労働させておいて、また原発事故で何万という人々の人生を奪っておいて、会長や副社長の肩書で多額の報酬を得てきたくせに、裁判では“自分には責任はない”と主張して、人間界の司法では全員無罪となったけど、当然、閻魔様はそんな輩は許さない。だからあの男たちは、まずウソをついたということで舌を抜かれて、それでも舌は生えてくるからその度に引き抜かれて、自分が人にやらせてきた原子炉の雑巾がけを、鬼たちに殴られながらやらされる地獄に落ちたというわけよ。」

「で、でも、彼らも死者で身体を失って、すでに霊になってるんだろ。なら、いくら舌を抜かれて殴られても、痛くも痒くもないんじゃないの?」

「それがね、神様と仏様は実によろしく創造されて、因果応報の理どおり、彼らはすでに霊とはいえ、生前のカネと地位と出世欲の執着があまりにも強いために、死んだとはいえ生前の感覚の余韻が消えず、見たとおりの痛み苦しみを味わったまま、この地獄に落ち続けるの。」

「じ、じゃあさ、あの男らも自分自身の執着が途絶えたのなら、成仏できるということかな?」

「いいえ。地獄といえどもそうは問屋は卸さない。確かにあの地獄の苦しみは、彼らの執着=生前の業がまねいたもので、それが消えればなくなるというものだけど、一方ではあの男らの所業のために苦しんだ人々の恨みつらみや怨念があるわけで、その相関がある限り、つまりそれが最後まで消えない限り、彼らが落ちた地獄の業火も消えないのよ。だから彼らは半永久的に、この地獄に落ち続けるの。」

  つづいてその隣の地獄には、またサラリーマン姿の男たちが縛られたまま、鬼たちに蹴られ殴られ鞭打たれ、何やら紙や金属のようなものを無理やり口に押し込まれているのが見える。

「あれは原発地獄のその中でも“還流地獄”というものなのね。あの男らもまた電力会社の幹部たちで、“値上げは権利”などど言って、庶民から電気料を徴収し、原発マネーを操って、立地地元の工作資金にしておきながら、地元の有力者から自分たちに億単位の金品を還流させていた罪で、この地獄に落ちているのよ。従業員に低賃金で被ばく労働させときながら、自分ら幹部は高額の報酬以上に、こんな不正な金品まで億単位で貪っている。だから彼らは敢えて舌は抜かれずに、“そんなに欲しけりゃ死んでもなおも喰らわしてやる”と、金や札束あるいはスーツ券みたいなものまで、食べ物として食べさせられ、それでも彼らは執着ゆえに飢え続けるから、そんなものを味わいながら食べ続けるという地獄なのよ。彼らもさっきの3人同様に、生前の欲望と執着が捨てきれず、また人々からの呪いも強く、身体の感覚を残したまま苦しみを味わいながら、半永久的にこの地獄に落ち続ける。人間界の法律では彼らの罪は問われないけど、閻魔様は当然に許さないというわけなのね。」

  そして、その隣の地獄には、今度は黒い法服姿の連中が、また鬼たちに殴られ蹴られ鞭打たれて、叫び声やうめき声を上げながら、何やら際限なく書き続けさせられているのが見える。

「あれは“法曹地獄”といって、さっきの3人らを“無罪”とした裁判官や、原発差し止め訴訟等や米軍基地訴訟等で、自分の保身と権力への忖度のため、住民側を敗訴させ足蹴りにしたあらゆる裁判官たちが、この地獄に落ちているのね。彼らが鬼たちに殴られながら書き続けるのは、自分が住民側の訴えを小賢しいヘリクツで捻じ曲げてきたウソの判決文そのもの。彼らは法に基づく身でありながら、真実にウソをつき、またそうすることで住民の弾圧に加担したということで、その罪は裁判官ゆえ人間界では裁けないけど、閻魔様は特段に重い罪を課しているのね。彼らも己の保身と出世欲への執着と、敗訴させられてきた同様の裁判でのあらゆる人々の怒りや恨みや怨念が消えない限り、感覚の苦しみを維持したまま、半永久的に自分のウソを書き続けるこの地獄に落ち続けるのよ。」

  これら地獄の苦しみを見る一方で、また隣には、意外にも一見ほがらか、笑い続ける地獄がある。

「あれは“御用学者地獄”といって、“100mSv以下は安全・安心、放射能は笑っている人にはこない”と言ったその本人と、またはそれに追従し、あるいは黙認をしたことで共犯した、あらゆる医師や学者たちが落ちている地獄なのね。彼らももちろん霊だから、今さら何mSvでも放射能の影響は受けないけれど、生前の執着とその悪業、そして被ばくさせられた人々の怒りや恨みや怨念が消えない限り、死後でもその身体の残影は残り続けて、放射能の影響を感覚的に受けさせられるというわけなのね。彼らは自分が言ったとおり、“本当に100mSv以下ならば、笑っていれば安全・安心なのだろうか”ということを、身をもって報いを受ける-というわけで、彼らはこの地獄に特につくられた100mSv以下の環境で、鬼たちに殴られ蹴られ鞭打たれつつ、それでもなおも笑い続けて放射能をあび続け、本当はどんな健康への影響が起こるのかということを、身の感覚を維持したまま、半永久的に味わい続けることになる。

  テツオ、まだこの他にも、政治家地獄や官僚地獄、あるいは、マスメディア地獄とかニセ市民運動地獄とか、無関心な国民地獄とかいろいろあるけど・・、見てみたい?」

「い、いいよ、もう。今までの流れからして、だいたいどんな所かわかるし・・。見ている方も霊とはいえ気分が悪くなるからさ・・・。」

「そうね・・。ただ私は、いい加減な人間界とは異なって、神様や仏様は、ちゃんと因果応報の理どおり、宇宙全体、この世もあの世も営まれているということを、あなたに知ってほしかったのよ。」

 

  そして二人が、この地獄めぐりを離れようとしたその時、ユリコは三途の川の向こうに、ある人影を見とめたようだ。

「テツオ・・、父が・・、父が来てるわ!」

  しかし、ユリコがいくら指さしても、テツオには何も見えない。

「たぶん、私にしか父の姿は見えないのよ・・。でも、父は何かを私に伝えようと、天国から降りてきたみたいだわ・・。そして、父は私に、そこでそのまま話を聞けと、言ってるようよ・・・。」

  ユリコはその目を彼岸に向けて、ただ黙ってたたずんでいる。テツオは横から、そんなユリコをじっと見守る。

  そしてややあってから、ユリコは緊張が解けたように一息つくと、涙をぬぐって、深々と彼岸の方へと頭を下げて合掌する。

「ユリコ・・・、お父さんと、何か話した?」

  ユリコはこれで納得できたというように頷くと、テツオにだけはといった感じで、彼に様子を語りはじめる。

「父はね・・、私に、“お前はここに来るのはまだ早すぎる。地上でもっと修行しろ!”って、父らしい厳しい口調で告げてくれたの。私がノロだと知っているのか、少し笑っていたけどね・・。」

  そしてユリコは面を上げて、彼岸の方へと向き直り、意志をこめたその口調で語り続ける。

「父はね、私にこう告げてくれたのよ・・・。

   “案ずるな。私は人を殺していない。私はもとより技官であり、武器を手にする任務にない。私はその時、治水作業の途中だった。そこを敵か味方か、誤爆を受けて、絶命したのだ。

 だが、私の霊は死んではいない。

 むしろ身体を得ていた時より、私はお前のそばに在る。

 お前が私を思うのは、お前の記憶というよりも、私がそこに在るからだ。

 その時お前は、私と語り合っているし、これからも生前以上に、私と語り合えるじゃないか。

 私はゆくゆく神の愛へと還っていくが、お前が生存している間は、二人の相関は消えないから、私は常に、愛するお前のそばに在る”と・・・。

 こう告げてくれた父の顔は、生前にはなかったような、とても優しい顔だった。」

 

 不思議そうに聞き入るテツオに、ユリコは向き直って瞳をかえし、言葉をつなげる。

 

「テツオ、父はね、あなたのことも話してくれたわ。

 “お前が夫としたその若者は素晴らしい。お前を連れ戻さんがため、己の死をも厭わない。

 彼とともに復活を遂げ、生涯、二人で愛し合い、添い遂げるがよいだろう。

 お前たちの言う新しい人類に向け、生めよ、殖やせよ、そして再び地に満ちさせよ。

 お前たちの考えは間違ってはいない。

 お前たちは、自ら信じる自分の勤めを果たすのだ。私は天よりお前たちを守護するだろう。

 そしてお前たち二人と、お前たち四人、それからお前たちを愛し、またお前たちの愛を受けるすべての人に、神のご加護のあらんことを!”

 そう言って、父は再び天国へと、帰っていったわ・・・。」

 

 ユリコはここでもう一度、彼岸の方へと向き直り、深々と頭を下げて合掌し、涙をぬぐって姿勢を正した。

 テツオもまた息をつき、納得をしたようだ。

「ユリコ、わかった。じゃあ、これで、地上に帰ろう。オバアが言ったリミットも迫っているし・・。」

 

  天空の青さに加えて、金色の光が差し込み、二人がともに生き返り、復活を遂げんとする“聖金曜日の不思議”の奇跡が近づきつつあることを、二人はともに感じはじめる。

  そして二人は地上の時と同じように、白装束姿で向き合い、お互いをあらためて見つめ合う。

  しかし、その時、テツオは天上にいながらも、さらに仰天してしまう。

 -な、ない! ユリコの体・・、腰から下が、ものの見事に、なくなっている!?-

  テツオは慌てて、ユリコに尋ねる。

「あ・・、やばい・・。私たち人間も死んでからしばらくして執着を失えば、眼耳鼻舌身意の感覚の余韻が消えて身体の残影も消え、純粋な魂へと還るのだけど、あなたを探して連れてくる時、かなりエネルギーを使ったから、私の方が消えるのが早いのよ。」

  見ればテツオは、まだ足の先までしっかり見える。

 -幽霊に足がないのは、円山応挙の創作と聞いてはいたが・・、実はホントゥだったんだ・・-

  しかし、これはテツオにとっても、もう他人事ではすまされない。

「ね、ねえ、ユリコ、これ、このままの上半身の霊だけだったら、地上の肉体へと回帰する時、はたして首尾よく、復活できるの??」

「いいえ。“仏つくって魂いれず”の諺にも似て、“仏あれども魂ぬける”ってことになるから、仮に復活遂げたとしても、魂のない体に、つまり、気合が入らない体っていうふうに、なっちゃうのかな・・?」

「ユリコ、それって、ヤベェよ。シマリのない下半身も問題だけど、それ以上にフンバリきかない下半身になったりしたら、エッチもウンチもできなくなるよ。」

「んもう、何て品のない・・。だけど、きれいごと、言ってる場合じゃないわよね・・。

  でも、ここは私の想定内。テツオ! いよいよここから、あなたの出番よ!!」

  ユリコは自身の危機のわりには、やけに期待値、高そうだ。

「何だよ、僕の出番って・・。秘仏に魂、挿入するのか?・・・」

「あなた、生前、私と抱き合い、キスするたびに、腰やお尻や太腿を、しつこくしつこく撫でまわし、またそうでなくても、しょっちゅうその目で、私の尻から足の先まで、眺めまわしていたじゃないの。

  だから、きっと私以上に客観的に覚えているから、あなたがその眼耳鼻舌身意を込めて、私のパーツをイメージして再現し、肉体へと戻る前に霊的に十分な形にまで、ためつすがめつ、ためてすぼめて、仕上げていってほしいのよ。」

「い、いいよ。俺、職人を目指しているし、そういうの、喜んで引き受けるけど・・。でも、足は足もみなんかで覚えているけど、お尻の方は・・、まだ服の上からでしか見たり触れたりしてないし・・」

「そ、そこはいいのよ。おおむねのイメージがあいさえすれば・・。つまり、霊と肉との波長があえば、それでいいから・・。だからこのまま、白装束を着た状態でつくってくれれば・・。

  とにもかくにも、私は死後こうなることを予見して、こうしてあなたを呼んだのだし・・。」

  しかし、ユリコのこの説明に、テツオは少し不満のようだ。

「ユ、ユリコ。あの、男が愛で女を復活させる時というのは、ジークフリートブリュンヒルデ、あるいは、眠れる森の美女みたいにさ、もっとカッコイイもんだろ。それをおケツのために予備的に呼んだだなんて、それじゃ俺の役割って、何だかあまりに、軽くね??」

「じ、じゃあさ、テツオ。これで地上の肉体へと復活できたら、まず真っ先に、あなたにその優先権を、“先取特権”あげてもいいよ。」

  ユリコはやや微笑を浮かべて、テツオの袖にその手を入れる。

「そ、そうか、サキドリトッケン・・か。・・ということは、僕は再建者にして債権者。これでわざわざ死んだ甲斐があったというもの・・。

 わかった、ユリコ。では、ただ今これから霊的に再現し、地上へ戻って復活を遂げ、聖金曜日の不思議の奇跡を、二人でともに成し遂げることにしよう!!」

 

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  テツオとユリコは、地上での復活に備えるために、天上で白装束で立ったまま、再び二人で抱き合った。テツオはユリコが言ったとおりに、その腰からお尻、太腿から足の先まで、眼耳鼻舌身意を込めぬいて、また生前の、色声香味触法のイメージどおりに、霊的にして麗的に、アラビア中の幾何模様をあわせるように、かの黄金比をくまなく散りばめ再現せんと、もはや消えてしまった下半身をなぞるように、両手を駆使して触って触って撫でまわす所作をしながら、己のイデアを傾注していく。

  しかし、そうこうしているうちに、本来なら膨張気味になるはずの己の股間に、なぜかスゥスゥ、天上とはいえ透き間風が吹くような感じがするので、そっと片手をやってみると・・・、

  -な、ないっ! 俺のペニスが、また跡形もなく、なっている!?!-

  これはゆゆしき御大事。しかし、死後なくなったのか、あるいは、もとからなかったのかは別として、テツオはここで職人らしく、冷静に、また創造的になろうとする。

  -そうか。これでむしろ、フンバリ、いや、フンドシ、いや、フンギリがついたというもの-

「ね、ねえ、ユリコ。少し質問したいんだけど、今こうして霊的にプロポーションを作ろうと、イデアを傾注してるじゃない。ということは、理想的なイデアを込めれば込めるほど、理想的な肉体に復活できるということなのかな?」

「いいえ。生まれる前ならともかくとして、私たちには既存の体があるからさ、それを今から作り変えることはできないのよ。でも、理想のイデアを持つことはいいことだし、それはそれでやってみれば? ほら、彫刻や印鑑を掘る時にも“入魂”っていうじゃないの。」

「そ、そうだよな・・。特に印鑑は、同じ棒の形だしな・・・。」

  -そうか。とすれば、オレのもこれからイデアを込めて再現すれば、それこそ浮世絵春画に見るような、目方があるほど立派なモノへと・・・-

 

  二人がいる冥界の天空は、すでに一面の青みが薄れて、やや金色を帯びはじめる。もうそろそろ、聖金曜日をむかえるころだ。そしてユリコの消えていた下半身も、テツオの入魂イデアのおかげか、目に映るほど明確な外形を、霊的に取り戻してきたようである。

「テツオ、おかげ様で大分よく見えてきたわよ。私、自分の感度も感覚も、余韻を取り戻してきたようだから、これからは私もイメージ再現にエネルギーを注入できるよ。」

  ユリコが余裕を示してきたので、テツオは気づかれないように、お尻の方は右手にゆだね、自らのはオナニーでよく覚えている左手に託しながらも、おのおの外形をなぞるように、撫でるように、粘土をこねる手のこなしにて、イデアをしっかり結集しながら、整えていこうとしている。

  -よぉし! こうなったら、先にイクだの平均イカだの勃ってもすぐにナエるだの、こうした過去のコンプレックスと金輪際おさらばすべく、こっそりネットで垣間見た、そッくりかえったバナナそっくりのイチモツへと、この際再生してやろう!-

  しかし、天空の金色が増し、聖金曜日が近づいてくるにつれ、白装束の上からでも、地上の体に帰るにしては、二人ともまだ充分でない気がしてくる。

「テツオ、もう時間がないわ。天空が、神々の黄昏を見るように、金色に染めあがる時、聖金曜日が到来して、私たち、いよいよ地上へ戻るのよ。

  もうこうなったら私たち、この霊の再現と肉体への復活を、二つあわせて成就していく他はない。私たち、これから天上から地上へと飛んでいくけど、このまま二人で抱き合ったまま、つまり今の工程を続けたまま、ブッ飛んでいくしかないよ。」

  テツオとしても中途半端な終わらせ方は、職人気質とプライドが許さない。

「わかった、ユリコ。“未完成”から“復活”をする以上、“Shue、Belt(靴とベルト)”が着れるように、また“マーラー”と伸びないように、お互いしっかり作るとしよう!」

  そして、まさに天空の全体が、金色に輝き渡る時が来た。

「テツオ、もうタイムリミットよ! さあ、私としっかり抱き合って!

 私たち二人はこれから、天上から地上へと“光速”で飛んでいくから!!」

 

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  二人はそのまま閃光に包まれて、天上から地上へと飛んでいく。それはとにかくもの凄いスピードで、テツオはユリコに必死に抱きつきしがみつく。

「ユ、ユリコ、何だよ、この超ハイスピードは?? 何でこんなに速いんだよ?!」

「私たちはこれから地上の肉体へと戻るのだけど、今は霊の状態で命そのもの。だから質量がないために、自然界で最高の光速で飛べるのよ。」

  やがて飛んでる二人の目前には、漆黒の宇宙の中にちっこく浮かんだ青い地球が見えてくる。

「ユリコ・・、僕らの古里、青い地球が見えてきたよ・・。あれが万里の長城で、あの、電気で一番光っているのが、僕らの国だね・・。

  でも、光速って秒速約30万kmで1秒間に地球を7周半も回れるのに、何でこんなに悠々と、地球を眺めていられるのかな?」

「光がそんなに速いのは、地球にいる人間から見ているからよ。今、私たち霊魂は、命の属性たる光にのって、逆に光の方から見ているわけで、だからゆっくり見えるのよ。

  それとね、テツオ。今、私たちの目の前にもたくさんの光が走って、地球へと向かっていくのが見えるでしょ。」

  見れば、ユリコの言うとおり、無数の光が直線状に地球に向かって流れていくのがよく見える。

「あれはね、地上にいるあらゆる生きとし生けるものたちの“赤ちゃんの命”の光なのよ。あの光たちも、私たち同様に光速で地上に向かって、これから生まれる母体へと入っていくのよ。

  テツオ、ここで地上をよく見てごらん。」

  テツオがその眼で地上を見ると、生き物たちは一生懸命、交尾やSEXしているようだ。

「テツオ、それはあくまで“人間のものの見方”よ。もう一度、心の眼でよく見てごらん。」

  するとテツオの両目には、さっきまで交尾やSEXに見えていたのが、すべからく花という花、どこもかしこも色鮮やかで香り豊かなお花畑に見えてくる。

「テツオ、これはあなたが言ってたとおり、花は本来、生殖器で、愛し合う雌雄の象徴、神の愛の具現化だから、こう見えるのよ。ゆえに花は愛らしく、美しく、色鮮やかで、艶やかで、豊潤な香りもする。そして花は、そこにフィボナッチ数が繰り返し見られるように、命の属性-光のあらわれでもあるし、だから、花も光も、生・性・美・愛も、すべては神の愛のあらわれといえるのよ。

  今、私たちが目にしている命の光は、曜日ごとに放たれていて、今回は金曜日となったのだけど、これはフィボナッチ数が自然数をあらわすことと、光のエネルギーというものが整数単位でかわるというのと、何か関係してるのかもね・・。」

  ユリコはあたかも、これから二人で宿していく新たな命を抱くように、テツオを胸にいっそう強く抱きしめようとしたところ、テツオはスルッといなくなる。

 

「テ、テツオッ! ど、どこ行っちゃたの??」

「僕はココだよ!」

  テツオの声は、どうやらユリコの下の方からしてくるようだ。

「ココって、どこよ? どこにいるのよ??」

「君の“お尻”さ。まだ、感じない??」

  テツオは何やら、ツンツンと押しつける。

「テツオ、まだ、ダメだったら! 幽霊画がみな服を着て、それなりコーデをしているように、ちゃんと白装束を着てないと、復活はできないのよ。」

「ちがうよ、ユリコ。これ、僕の“花”ではなくて“鼻”なんだよ。君の下半身の霊的再現、これから既存の肉体へと戻るに先立ち、より確かなものとするために、こうしてお尻に頭をつけて、もう直接にイデアを注入することで、地上での復活に間に合わせんとしているのさ!」

  そしてテツオは、生前のあの“黄金屁”事件のリベンジを果たそうと、ようやく外形が整ってきたユリコの左右対称的なお尻の球面、そこに再び自分の両頬を押しつけていくのだが・・、やがて、自分の顔全面に、あのふくよかな質感と暖かさ、コシと弾力、ほの白さが、霊的に充分によみがえってくるのを感じて、ますます嬉しく、鼻にツンツン、頬にフカフカさせていく。

  -しめしめ、お尻がこれほどまでの仕上がりならば、見てのとおり、太腿から足の先まですべからく、上々の出来栄えになっているな・・。ならば、オレの尺八も、しなやかさと艶やかさ、指どおりと勘所がよろしいように、最終的な仕上げに入ろう・・-

  そして、ここまで光速で飛んできた二人の霊は、大気圏を突き破り、ついに嘉南岳の御嶽にある、各々の己の体を目指しつつ、降下していく。

「あれれっ?? 急にスピードが落ちていくぞ。そして何だか、やけに体が重たくなって、がんじがらめになってくような・・。」

「テツオ、いよいよこれから私たち、肉体への復活が始まるのよ。今、私たち二人の霊は、光速から急激に減速して、徐々に肉体へと戻り、質量を得ることになる。これからは生前同様、耳鼻舌身意と色声香味触法とが、無から有へと転じていって、感覚その他、受想行識(13)も取り戻して、地上での肉体への、復活を遂げるのよ。」

「で、でも、ユリコ、これって何だか鉛のような重たい鎧を着ていくようで、窮屈でしょうがないし、あちこち痛いし痒いしで、こんなのだったら自由な霊がよかったような・・・。」

「テツオ、それはもう生きてく上でしょうがないのよ。それがつまりは生存するということで、お釈迦様が言うとおり、生存とは基本的に“苦しみ”なのよ。特に私たち人間は執着が強すぎるから、眼耳鼻舌身意の感覚に執着し、感覚に引きずられ、感覚の奴隷となり、ただひたすら刺激を求め、つまり人はよろず“阿片”を求めながら、“生”を無意味に過ごすのよ。」

  そんなユリコの甲高声が遠ざかっていくように、一緒だった二人の霊が、各々の肉体を得ていくことでまた離れ離れになっていくなか、テツオは神のメッセージか、それとも自身の妄想なのか、ある幻想を見ているようだ。

  -もし、将来、僕らニアイカナンレンシスが、ホモ・サピエンスと交代してヒト属を継承し、あらたな『創世記』が記される時、新しいアダムとイヴの創造は、こう記されるのかもしれない・・。

“・・・神は、再びヒトをつくった。神は、ヒトが充分美しく、二足歩行ができるようにと、自然の黄金比にもとづいて、そのお尻-大臀筋を豊かにした。それでなお重量バランスがいいようにと、お尻にあわせてその胸も膨らませて哺乳を兼ねさせ、ヒトの原型としてまず女をつくった。

  そして神は、ヒトが似たもの同士だと笑いのネタがつきやすく、世の中から笑いが消えると、ヒトはまた暴力に走ってよくないからと、ヒトを眠らせ、そのお尻と胸の多めの肉から男をつくった。

  それで神は、出来上がった新たなヒトの女と男を前にして、こう祝福した。

  ‘お前たち、生めよ、殖やせよ、笑わせよ。お前たち人間がつくれるものは、せいぜいゴミと笑いぐらいだ。だから大いに笑わせよ’と。

  これが、ヒトの種がかわっても、落語家に男が多い所以である・・・”-

 

  テツオが幻想から目覚めてみると、彼は麓の御嶽の中にあり、浴衣のような白装束を身に着けて、最後までイデアを注入していたせいか、股間に手を入れペニスを握りしめたまま、横たわっていたのだった。

  -・・ど、どうやら無事に、復活を果たしたようだ・・。でも、こんな、まるで朝勃ちを握ったみたいな、性感モードで生還をするなんて、新人類の祖としては超カッコワルイよな・・・。

  横にいっしょに寝ていたはずのユリコの姿がないってことは、だれにも見られていないのだから、白鳥に乗ってあらわれたとか、もっとカッコヨク復活したってことにしよう・・。

  でも、同じく復活したはずの、ユリコはどこに行ったのやら・・・-

  テツオがムックリ起き上がると、御嶽の広間の中央には、復活して先に目覚めたユリコの姿が目にとまる。

見ればユリコは、月夜のような艶やかで長い黒髪、白磁みたいに輝く肌に、桜のような朱い頬、ベリーみたいな赤唇とで、見た目に見事に美しく、また内面の充実をもともなって、復活を果たしたようだ。そしてその大広間の深く青みがかった空間には、まるく開いた天井から、白くまばゆい月の光がさし込んで、あたかもスポットライトのように、浴衣のような白装束のユリコのその立ち姿を、細く長く照らし始める。

  -・・漆のように黒艶はなって流れる髪に、地に垂いて立つIライン。真珠のように輝くお尻に、脚線美がつややかに走り降り立つ。アラビア中の幾何模様を集めても、これほどの造形美を超えられようか・・・。

  見ろ、“ミロのヴィーナス”、そして下からのアングルもばっちしな“アングルの泉”にも劣らない、これぞ黄金比の造形美。このヴァイオリンのごとき腰のくびれも、チェロのごときゆるやかな曲線のふくらみも、ともにみな職人たる僕のイデアの創造物、いや、少なくとも加勢の成果。天上より成したとはいえ、技芸神にいるとはまさにこのこと!-

  テツオはその美的趣向の喜びもさることながら、自分の目指す職人としての技量についても、人体の復活ともども、また祝福したくなってくる。

  しかし、嬉しそうなテツオに気づいたユリコの方は、美しいけど早やクレームの顔。

「・・・ねえ、テツオぉ・・、あなたがイデアを注いでくれた私のお尻、どうやら左右の大きさも質感も、ちょっと違うようなのだけど・・・。」

  テツオの生還して朱るんできた顔色が、再び青みを帯びてくる。彼はお尻のイデアを結集する際、あの田植えの日と参観の日の後遺症か、ユリコのお尻に連れられて、互いに並んだレイコの大きなお尻もまた、そのイデアに混入させてしまったらしい。

「い、いや、外見的には大差はないし、左右のその対称性もやぶれてないよ・・・。で、でも、ユリコ、それそのままだったら・・、どうなるの・・?」

「うん・・。肉体は生前のまま変わらないけど、死んだ時とは逆の理屈で、霊が戻ってしばらくの間は、霊の造形とそのイデアの余韻が残っているから、霊と肉とがきっちりマッチしない限り、違和感があるらしいのね。でも感覚がなじむにつれて、違和感は自然に消えてしまうから問題はないのだけど・・・。」

  それでもユリコは、なおも両手で左右のお尻に手をやりながら、どうもキマリが悪そうだ。

「ウ~ン・・・。右の方は、たしかに生前の私のだけど、左の方は、何だか熟女っぽいような・・・。」

復活早々、ユリコが疑惑を抱かぬように、テツオはもうごまかす他はない。

「ユ、ユリコ、お尻の左右のミスマッチは、お尻だけに後で帳尻、あわせられるよ。それに若い実も熟した実も、ともにあってもいいじゃないか! 

でも、かのアダムは一つの実しか食べてないのに、僕なんかが二つも食べても、いいのかな・・・」

  テツオはそれでもう一方の、彼のイデア入魂の副産物たる己のペニスに、ユリコの手前、露骨に手をやれるものでもないので、ピクンと意志だけ、神経で送ってみる。

  -勃ってる! すでに充分、勃ってるよォ。しかもこの感覚って、生前の僕のそれより、はるかに雄々しく、猛々しい感じがする。ネットで見て一人羨ましがっていた、外国産のバナナのような・・。同じマラでも“復活”の後に“巨人”とは、順序が逆かもしれないけれど、せめてこのイデアの余韻がまだあるうちに・・・。ああ、こうして男は、再びヘビが導くままに・・・-

「ねえ、テツオぉ、あなた、一体、どこ見てるのよお? 目が左右に、泳いでいるよ・・。

  復活しても、生前のいつものように、私の方を見てほしいって、思うのだけど・・・。」

  そんなユリコのセリフを受けて、背を押されたと解したテツオは、ヘビに前を引っ張られるまま、GO!サインを得たと感じる。

「ユ、ユリコ、それじゃあ、君が言っていた“先取特権”、それを僕がただ今これから・・・?」

  ユリコがテツオの手を取って、微笑みかえしてきたところで、二人は自分の白装束の、帯を互いに、解きはじめた・・・。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

  漆黒の夜の帳に、月の白さがたなびく雲へと隠れていく時、二人の初夜は、終わったようだ・・。

  そして麓の御嶽のまるく開いた天井から、再び月の白い光がさし込める時、そこには復活したての全身で、美々しくポーズをとっていたユリコにかわって、裸のままでうずくまるテツオの姿が、ぽつんとあった。

  彼は広間の床に尻をつけ、両足を両腕で抱く体育座りの姿勢のまま、頭も髪もうなだれて、動こうともしないようだ。その尻から太腿、ふくらはぎへと連なる足、そしてそれらを支える両腕と背中をめぐる全ての筋肉、また脇腹からあばら骨への凹凸が、天井からの月の光で、まるで白亜の石像みたいに彫り込まれ、男性に特有の肉体の造形美をはなっている-と、少し離れた床から見つめるユリコには、確かにそう思われるのだ・・・。

「美しいテツオ・・、愛おしい私の夫・・。私がどれだけあなたのことを愛しているか・・・。

この気持ちは言葉でとても伝えられない。ああ、でも、私の心が、少しでもあなたに伝えられれば・・・。」

  男性として申し分のないほど美しいテツオの体・・、しかし、体で抱えるその中には、彼のもう一つの男性が、申し訳なさそうに垂れ下がっているのだろうか・・・。そう、テツオのそれは、またしても股の間に沈んでしまった。彼は結局、生前同様、勃ってはいたが、また途中でナエたのだった。それは同じ白いマットでも、リングに沈んだボクサーみたいに、リンガは二度と勃ち上がらず、チンチンという擬声音も、空しく響くようだった。

  疲れたせいよ、考えすぎよ、日はまた昇るし、明日があるさ-等の言葉は、むしろ男のプライドを傷つけるのかもしれないと、ユリコは声を掛けるにも掛けられそうもないのだった。確かに彼ら二人には、新人類のアダムとイヴとが担うべき子孫をつなぐ使命があるし、ただの普通のカップルのSEXがうまくいかないみたいなものとは、もとより違うものがある。しかし、これから先も長いのだし、いざとなれば私が全て吸い上げればいいのだからと、ユリコは新人類の母として覚悟をとくに決めていた。

  それよりユリコが気になるのは、テツオの-そのペニスより傾斜が下なのかもしれない-彼の精神的な落ち込みぶりであるようだ。彼女も彼に劣らずに、二人の有事に備えようと、女の子雑誌などから学習していた。しかし、よく言われているオーガニズムをめぐる説には、彼女は自分の意見があった。それは、-そんな性感覚の絶頂と、二人の愛の間には、もとより何の関係もなく、また、それを求めたいのなら、せいぜい一人で行う場合に限られ、二人で同時に達成するのは、生物的かつ精神的な差異ゆえに、ほとんどまずはあり得ない。現実は製作者と観客の欲望の反映である映画などとは違うのだから。そして人間のオーガニズムというものは、おそらくはその味覚と同じく、たしかに美味しく気持ちはよくても、人間の贅と欲、執着と妄想の、むしろ恐るべき副産物かもしれない・・-というもののようである。それに、-たとえ性的なものであっても、感覚は感覚であるにすぎず、すべては神が源の“愛”とは全く比較にならない-これが彼女の確信だった。だからユリコは、テツオが彼女を満足させてあげられないのを、あたかもそれが男の責任などのようには、思ってほしくはないのである。

 

  ユリコは再び白装束に身を整えると、テツオの衣を手に取って、そっと彼の背中から掛けてやり、そのまま彼を背中ごと抱きしめた。テツオもそれで、ようやく我にかえり出すと、衣を着込んで、ユリコがいざなってくれるまま、二人で床へと入り込む。テツオはそして、両手でユリコの上半身をもう一度抱きしめると、自分の頬をその胸元に寄せつけては擦りつけ、落ち着いていくのだった。

  ユリコは、テツオがこうするのを今まで何度か経てきたが、彼女は、-彼には母乳が出なかったので、母乳を求めるこんな仕草を繰り返すのではないだろうか・・-と、ふと思った。そしてユリコは、そんなテツオが、ますます愛おしくなるのだった・・・。

 

  ユリコの腕と胸とに抱かれるままに、テツオもまた落ち着きを取り戻して、再び彼の頭には、いろんな思いが浮かびはじめる・・。

  -そうだよな・・。そういえば、ミケランジェロのシスティーナの天井画でも、アダムのペニスはその堂々たる体躯にしては、ミミズみたいにちっちゃかったし・・・。

  ペニスを巨大に勃起させて、それを男の自信として、女をイカせ、自分のパワーにかしずかせようという発想自体が、僕たちが進化の仮説で克服してきた、いかにもアホなホモ・サピエンスの、チープなチ○ポの煩悩の産物だし、今さらこれに執着するとは、男心の赤坂だよな・・・。

  むしろ今回、僕は死後に冥界で、実は己のペニスには魂がなかったことに気づいたのだが、もしかすると、これが新人類の雄のペニスなのかもしれない・・・。

  なぜなら、率直にあえて言えば、これでレイプは物理的に不可能となり、また、もし曲りなりにも同意を装うものだとしても、女性の多大な協力なしでは挿入まではいかないので、男女によほどの信頼関係でもない限り、性的な交わりは持てなくなる。つまり、人間に特有ともいえた、男女の性の“不平等で不条理な片務的な関係”が、これでようやく終わりを告げることになる。そしてこれこそ、僕らが進化の仮説で唱えてきた、あらゆる差別と暴力の根本でもあったのだ。

  だから今回、僕のイデアにかかわらず、ペニスが不発に終わったのは、きっと神のおぼしめしで、だとすれば僕とユリコの復活は、性交には失敗してもやはり成功だったんだ・・・-

 

  テツオはここまで考えると、ようやく希望が、再び持てるような気がしてきた。そして今まで閉じていた両目を開けて、自分を抱いてくれているユリコを見上げた。

  ユリコはテツオを抱いたまま、不屈の抵抗作戦でのノロの勤めと、それにつぐ死と復活の疲れのためか、すでに寝入っていたようだった。テツオはそんなユリコを見つめながら、-ひょっとして、これで自分の孤独というのも、今度こそなくなるのかもしれない-と思いはじめた。

  -・・・幼少のころ、ずっと放っておかれていた自分の孤独・・・、夕暮れ時まで一人だった自分自身は、ただ自分一人を会話の相手にする他なかった・・・。そして孤独は自分が成長するよりも成長していき、やがては自分の心の奥底の、墓石のように敷きつめられた空間に、その影を細く長く降ろしていった・・・。自分に対する執着が、そのまま孤独になるのだろうが、それでも孤独は、できればないのが望ましい・・・。ともすればユリコだって、僕と同じく、孤独を続けていたのかも・・・-

 

  テツオはそんなことを考えながら、しばらくユリコを見やっていたが、眠りについたユリコの体を、またもう一度愛おしげに抱きしめると、その胸に頬を押しつけ、彼女に続いて自分もまた安らかな眠りへと、入っていった。

 

 

第十七章 討ち入り本番(前)

  真夏の保養と国防軍の来襲という“夏の陣”が終わって間もなく、ある日授業がはねた後、テツオとユリコはレイコに呼ばれる。

「この時期はね、担任の教師には進路指導で何かとあって、就職希望の生徒達にも就業先の情報が入ってくる・・。それでね、あなた達二人には、外国からのオーダーが来てるのよ。」

  レイコは一瞬、担任時代を思い出したか、やや懐かしそうな面持ちを見せたあと、テツオとユリコに横文字のパンフレットや資料などを示して見せる。

「あなた達にオーダーをくれたのは、いつか言っていた、チェルノブイリの事故以来、主に汚染地の子供たちを対象としたヨーロッパの保養事業団体なのね。ここは規模は大きくないけど、私たちと同様にいっさいの寄付に頼らず、自主独立の採算で運営していて、おかしなヒモつきカネつきの恐れがない。それとこれも私たちと全く同じく、問題の核心である“内部被ばく”をごまかすことなく真剣に取り組んでいる。あなた達が常に希望していた通り、私たちもこの二点だけは譲れないから、この団体は信用できると思うのよ。」

  レイコの話すところによれば、この団体はドイツとイタリアの国境のブレンネル峠にあって、ほぼ通年で保養を受け入れ、チェルノブイリ関連でキンゴのパパと再婚したママの女医さんもよく知る所で、二人も高く評価しており、また、アイ氏のドキュメンタリーにも登場したことがあるという。それでアイ氏も全面的な信頼を寄せていて、『子ども革命独立国』のDVDを送ったところ、核汚染とその社会を実際に経験したテツオとユリコに、ぜひ有給のスタッフとして勤務してその経験を活かしてほしいと、二人が徴兵制の危機に晒されているのなら尚のことと、正式にオーダーを寄せてきた-というのである。

  実はユリコの方は、レイコと時々お茶する中で、この話を内々に聞いていて、彼女にとってはこれで自分がしたかった多言語習得-この場合は英語・ドイツ語・イタリア語-ができるからと応じるつもりでいたのだが、テツオはテツオで、この保養所の農園で花と野菜ができるのと、ドイツ・イタリアの国境ならば、楽器づくりや料理人、あるいは彼が大好きな女性ファッションに至るまで、いろんな職人修業もできるのではと思っていたが、ブレンネルは寒そうだとの多少の不安はあるものの、テツオもやはり喜んで受け入れたようである。

  しかし、ユリコは、この時何かを不思議に思った。それはレイコが、内々に既にユリコに話したとはいえ、エコ贔屓をしない彼女には珍しく、じっとテツオの方だけを見て話し続けたことである。テツオは提示された資料を見ながら始終うつむき加減だったが、レイコははっきりした口調で説明をしながらも、これで無事に徴兵を逃れさせ、卒業と就業に導いた安堵と祝福とに満ちた目で、いやそれでもなおも心配ごとが尽きないような、そしてしばしば寂しそうな、愛くるしい者を見るような、厳しくも優しい目で、じっとテツオを、とらえ続けていたのだった。

 

  さて、あの因縁の敗戦日のDデイに、この嘉南島の本島防衛=国防軍との“夏の陣”に勝利したのも束の間か、ミセス・シンがテツオに語ってみせた通り、権力側の大本命=“この島のゴミの島化”が、残暑もあけぬ秋口までに、一挙に具体化しそうになってきた。それはそのDデイ=不屈の抵抗大作戦の本番に、いつもはボランティア面してくるはずの、羅衆夫人たちのグループ“プチブルマダムの会”の面々が、不思議と一人も来なかったので、当然、タカノ夫人もレイコもミセス・シンらの3人も、これで早や権力側の次の出方を察知したと、Veni女の会の幹部として作戦準備を急いだのだ。

 

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  そしてそれは、ある日の午後、急転直下でその具現化を見ることになる。なんと、ミセス・シン御本人が、自ら体を、いや、お顔を張って、羅衆夫人の本丸のビュウティーサロン“マダム・ラッスゥ”に隠密して、夫人のたくらみ一切を、決定的な証拠資料もゲットしたうえ、聞き出してきたというのである。それはまず、残暑しのぎにのどかにお茶を飲んでいたテツオとユリコのいる喫茶室に、ラッスゥから帰ってきたミセス・シンが、突如姿を現してから始まった。

  その衝撃は、同性のユリコより、メイクにはより女ッ気のあるテツオの方が敏感みたいだ。

  -こ、これは、七色のマンダラにマンデリンをブッかけたかのような不釣り合い・・・。もとからの丸顔に無理に面長をあてはめて、シェーディングをほどこしたものだから、それでファンデが全面的に浮き上がり、パウダリーがバウンダリーに顔面中に粉をふいてヨレまくり、また鼻高に見せようと、Tゾーンをテカらせるほどハイライトを入れるから、鼻が白いフンドシをしめてるみたいで、そこにアイシャドウにはアイスブルー、チークにチープなラベンダーと、場違いなトリコロールをきめている。それに何よりとどめの極みは、そのダークレッドに金粉を散りばめた“金夜リップ”で、これではまるで、蹴り入れたくなる金色夜叉だ・・・-

  テツオがあまりの衝撃にドンビキしたのを察したユリコは、ここは阿吽の呼吸で場の転換を試みる。

「シンさん・・、それでわざわざラッスゥに隠密されてメイクをされた代償に・・、いや、あくまでも金銭的な代償という意味ですけど・・、ゲットされた情報って、何でしょうか?」

  ミセス・シンは、これでピーンと張りつめさせていたメイクのお肌の緊張を解くように、はじけるように語り始める。

「そう! “虎穴に入らずんば虎児を得ず”、“墓穴に入らずんば墓地を経ず”ってな具合に、隠密した見返りに、こんなスクープ入手したのよ! 羅衆夫人ってメイクばかりに頼るだけに、ワキも匂えるその甘さか、よりによってトイレの前に、こんなクサイ情報を置いていたのよ。」

  と、ミセス・シンは、ラッスゥで回収してきた数々の証拠資料を示して見せる。

「・・これが言ってた最新の、“資源循環型広域大型ゴミ処理施設”、その名も“浄化ー(ジョーカー)”・・。

 まるでババヌキみたいなその名前・・。それなら、いっそ“トランプ”と、名付けた方が・・」

「でしょオ! 彼、“不潔な国の国民”みたいな暴言はいて、世界の鼻つまみ者だしね・・。」

  しかし、とうとう見つけた証拠資料に、テツオもユリコも身を乗り出して興味を示す。

「でさぁ、あたしもメイクを受けながら、ブラシでボカシを入れさせながら、そこは夫人が話にボカシを入れないように、彼女の本音をイロイロと聞き出してきたのよね。

  この一連のパンフや資料でわかるように、これが夫人があの店で、99.9%シワトリ・シミトリできますメイクと、タダでカフェ付きお菓子付きで、お友達のプチブルマダムをはじめとしておばさま達をおびき寄せ、憲法のお勉強会を隠れ蓑に、宣伝と洗脳とをはかっていたカネダケ製のゴミ処理施設の全貌なのよ。それで夫人は、この島にボランティア面して入り込み、ゴミ処理場の風下の漁村のおばさま達とも知り合うことで、無料でシワトリ・シミトリ・美白メイク体験などと銘打って、自分の顧客に取り込みながら、反対派住民の切り崩しと抱き込みを、すでに始めていたってわけさ。」

  と、ミセス・シンは、銀ぶちメガネのその奥の、アイシャドウにアイスブルーの眼差しを重たそうにまばたきさせつつ、口調はいつもの歯切れよさで、テツオとユリコに語るのだった。

「それにこれらの資料によれば、ゴミ処理施設の広域化と大型化が、従来の各市町村のゴミ処理施設の老朽化とその財源不足を口実にした、当初から国の何百億円もの補助金を当て込んだ、カネダケ製のゴミ施設を誘致する、いつもの利権の出来レースであったことが推察できる。カネダケはこの大型施設で、資源循環とかバイオマス発電とか謳っているけど、ゴミ施設に何百億も投資して、そもそも電力があまっているのに、なぜ電気が要るかということや、その投資に見合うだけの優良で再利用可能な資源が輸入するよりどれだけ安く効率的に循環できるのかということや、それらの過程で出されてくる排出物の健康被害の懸念については、まったく答えようともしない。

  また、この大型施設、建設費だけでも何百億とバカ高く、しかも運営は民間委託ということで行政から丸なげされて、カネダケクリーン社がすべて請け負い、その後何十年という運営コストも事業者秘密と不透明にされている。それにゴミ処理施設が大型化すればするほど、より多くのゴミを燃やした方が効率いいと、国内外のあちこちからゴミが持ち込まれることは大いにありで、そこには当然、今や公的基準となったクリアランス100Bqや食料品100Bq、そして廃棄物8000Bq(1)も相当量含まれると予測できる。カネダケは原発メーカーにしてゴミ処理メーカー、そしてゴミ事業一切をも請け負いながら、自ら出した核のゴミを国民の電気料や税金で循環させるという構図が、このように見て取れる。そしてこの国家はすでに、ほぼカネダケ利権の手中にある。

  羅衆夫人の夫の弁護士・羅衆武人氏は元県議だし、今では地域の電力会社の御用弁護士。それに夫人の店が入っている駅ビルだって、メラニー議員の夫の不動産会社のもので、周辺相場の8割引きで入っているという話。メラニーは知らぬ者なき地域利権の総本山で、ゴミ利権はその一角。羅衆夫人とメラニーとは、ともにその厚塗りメイクで持ちつ持たれつモタれがちな、キョーダイで肩を並べたこともある、入魂にしてゾッコンな仲のようだし、ここまでくれば夫人がメラニー利権の手先として、このカネダケ製のゴミ処理施設の推進役であることは、容易に推察できるよね。」

  と、ミセス・シンは、ヨレたファンデでホウレイ線にまた一筋を入れながら、ここは話のスジを通そうと、別の資料を取り出しては語り続ける。

「でね、ここまでの利権話は今までもよくあること。でも、こんな核汚染の世となっては、利権の推進側としてもさ、さすがに放射性ゴミを気にする人もいるらしくって、それで夫人が打ち出したのが、コレ、このチラシとレジュメ、このパワーポイントの“講演会”よ!」

  と、ミセス・シンは、シェフに似合わぬ湾曲したピンク地の付け爪の、メタルに光るネイルの先に、ある男の顔写真と、謳い文句のゴチック文字とを指し示す。

「“皆様の放射性ゴミに関する不安と誤解を、専門家がお答えします”って、この男が講演会を行って答えるというのですか?」

「この男の所属先は、“地球環境衛生研究所”、略してその名も“ちかんええけん”。環境省の委託研究団体ってありますね・・。彼はここの研究員で、その名前は“平目徹志”。こんな男が講演を?」

  ミセス・シンは、“そうよ”と大きく目くばせしながら、ネイルの先を食い込ませるほど指先に力を込めて、彼女がネットで調査した、また別の資料を指し示す。

「あれ?・・、この写真の男って、さっきの男と同じでは・・? でも、名前は違って“宇曽吹誠”。カネダケクリーン大阪支店の関西広域推進室・室長ってありますけど・・。」

「そう! その通り。これまったくの同一人物。さすがに世間をはばかって、身分と名前を使い分けて活動している。先ほどの研究所は、環境省が活用しているシンクタンクでカネダケマネーが運営していて、また官僚の天下り先。クリーン社はカネダケグループの焼却炉などゴミ処理部門のメーカーとメンテナンスを兼ね備えた、大手の廃棄物処理業者。この二つの回転ドアを出入りしているこんな男が、羅衆夫人とプチブルマダムの会を通じて、あたし達の市民運動に食い込んで、よりによってこんな“放射性ゴミの講演会”をやろうとしている。見てよ、コレッ!」

  と、ミセス・シンは下に隠れた講演会のパワーポイントを表に出して、その金夜リップの唇テカらせ、夜叉のようなコワい目で、パワポの挿絵と説明文字を切り刻まんとの意気込みで、その尖ったピンクの爪先で突き詰めるかのように指し示す。

「・・・“放射能はコワくない・・、ヒトはもとより自然からの放射線を日々あびていて、ガンならタバコの方が危険・・、むしろ適度な放射能はかえって体にイイくらい・・・”

  毎度毎度の原子力ムラらしい、チンプでカルトな言い分ですけど、今となってはこんなのを信じる方がバカですよ。」

「こんな言い分通じるのなら、あのヒロシマナガサキの犠牲者たちはうかばれません。こんな主張をする人たちって、本当の国民として恥ずかしくないのでしょうか?」

「あたし達は皆当然そう思っているんだけど、この国の国民はヒロシマナガサキの被害国で、レントゲン室が鉛で固く頑丈に覆われているのを見ていても、放射能は安全なんだぁって思うらしいの。

  しかし、何より許せないのは、あたし達の市民運動“Veni女たちの会”に属している“プチブルマダムの会”の羅衆夫人が、勝手にVeni女の会の名かたって、こんな“放射能は安全で体にイイ”みたいな主張をする男の講演会を、ゴミ利権の一環として主催するってことなのよッ!」

  そしてこれよりミセス・シンは、その怒りをいっそう高めて、チンプなチークのラベンダーも、ツバキのような真っ赤な真っ赤な極彩色へと、グラデーションを変化させる。

「それどころか、それにも増して、見てよ、コレ、この署名用紙ッ! 羅衆夫人はここでも勝手にVeniの名かたって、こんな放射能は安全男が主張している、つまりこの男がカネダケの利権のためと、自分自身の出世のために売り込んでいる“広域大型ゴミ処理施設『浄化ー』”を、採用せよと行政に訴える署名活動まで行っている。しかも、この署名依頼の文章には、この男を、このゴミ問題を機に県が新たに設置する“ゴミ問題を考える県民会議”のアドバイザーに、市民ネットワークとして推薦するって文言までも入っている! このようにして利権側は、いかにも市民・住民側の要請でやってますみたいな外形を取り繕って、己の利権の企みを進める手口を使うのだけど、羅衆夫人はまさしくその手先で、言ってみれば市民側の味方のフリした“権力のイヌ”なのよ。

  しかし、あたしが絶対に許せないのは、それにも増してこのことは、反戦反核・反原発に反被ばくを訴えてきたあたし達の運動への重大な背信行為でもあるし、それ以上に決して許せぬ被ばく促進活動とさえ言えるということなのよッツ!!」

  ミセス・シンは怒りの熱を大いに上げて、アイスブルーのアイシャドウも溶けて流れていきそうだ。そんななか、たまには受験準備のストレスを発散しようと、魚を届けに来たヨシノが、喫茶室にあらわれるや、文字どおりギョッとする。

「シンさんッ、何ですか、そのメイク?! 沖縄那覇市牧志市場で、そんな赤やら青やらのサカナって売ってますけど、ここら辺では見ませんからネ。あたしもう、ビックリしちゃったぁ、アハハハハ!」

  ヨシノの素直な物言いで、場の空気も凍りつき、アイシャドウのアイスブルーも溶け出さずに残ったようだ。しかし、女心を察するテツオは、場の冷え込みには耐えがたく、ユリコをチラ見し、-ここは女同士で何とかしてよ-というようなオーラを送る。しかし、こんな時のユリコというのは、そんな人間界の俗事には我関せずと、ただダンマリを決め込むばかり・・・。

「シンさん、それって“マダム・ラッスゥ”でメイクをされてきたんでしょオ! うちの周囲のおばちゃん達も、ラッスゥでシワ・シミ・美白で強迫されて、結果的にバカ高い化粧品を買わされて、何がお試し無料体験だって、みんな怒ってるんだから。あたしはこう言ってやったんですよ。“羅衆夫人のメイクってのは、‘face’に‘make’をするだけに、あんなもの‘fake’です”って!」

  -なんだ、それが言いたかったのなら、最初っからそう言えよ・・・-

  と、テツオがハラハラするなかを、ミセス・シンがこれらの話をヨシノにもしていくうちに、今度はヨシノの顔色が、怒りでコワばるコバルトブルーを帯びてくる。

「シンさん、そのマダム・ラッスゥがメラニーの駅ビルに、周辺相場の8割引きで入っているという話って、いったい誰のリークですか?」

  ミセス・シンは、そのフェイク・メイクの顔面を、コンシーラーで埋め合わせたホウレイ線を引きつるような笑みでゆがませ、語り続ける。

「あの駅ビルの手前にさ、あたしがかつて学生時代にバイトしていたうどん屋さんがあるんだけど、そこの店主が夫人の秘め事ネタの一つとして、コッソリと教えてくれたの。」

「えっつ? じゃあ、まだ他にも、夫人の秘め事マル秘ネタって、あるのですか??」

「あなた達、もう大人だから言うけれど、この放射能は安全男、国側の研究員とカネダケ利権の営業マンの二つ以外に、あともう一つの顔を持ってるらしいの。というのはね、このうどん屋さんは朝日も昇る頃あいから仕事をしていて、この男が早朝に駅ビルの出口から夫人と一緒に出てくるや、ハイヤーに乗り込んで去っていくのを目撃していて、その日はいつもこの男が大阪から出張してきて開催されるラッスゥでの勉強会の翌日ときてるのね。

  でさあ、店主が見たもっとも印象的なのは、早朝の、ビルの谷間の霧の中、朝日に少し照らされた、夫人のモネの絵のようなブ厚く真っ赤な唇が、霧中に夢中でブチュウ~って、男に迫ってくッつけられていく様で、店主はその日はうどんの具の明太子を、思い出したくもない、早く目の前から消えてほしいと、厄ばらいの意味も兼ね、タダでサービスするんだってさ。」

  ミセス・シンは、ここらで口が渇いたからと、テツオが入れたコップ一杯アイスティーを、自分自身の金夜リップをその縁に塗り付けながら、飲み干してはさらに続ける。

「それでまたこの男のハイヤー、何と瀬戸大橋を渡って大阪に至るまで、ドアツードアで使われているらしいのよ。というのは、このハイヤーの運転手、男がビルから出てくるまでの間、このうどん屋で朝一番の打ちたての“釜あげうどん”を食べるのが、この仕事での無上の楽しみらしくって、“大阪でもこんなうまいうどんはあらしまへんで。これが好きやからこそ、研究費と称しながらも税金を食い潰す、カネ喰い虫のボケ室長が大嫌いでも、遠路はるばるハンニバルというふうに、大橋渡って鳴門や丸亀経由して、所々でうどんハシゴをやりながら、ここまでやって来まんねん。どないだっか、もうかりまっか?”って、嬉しそうに店主に語るっていうんだから。」

  しかし、これを聞いてヨシノの怒りはなおも高まり、そのマナコはナマコのように妖しく光り、その顔にはウニのようなトゲさえ出そうだ。

「許せねえ! もしこの上にこの男まで、その上々の“釜あげ”を食べているとするのなら、許せないわよ、本当にィッ! せめてランクは一つ下、“湯だめ”を食わせて、そいつの人格、否定してやりたいもんよ。」

「ヨ、ヨシノ・・、釜あげが湯だめになって、何で人格否定につながるのさ?」

「それは“湯だめ”というだけに、“YOU,ダメ”っていうことに・・・」

  熱いうどんへの思いの最中、寒い空気がしてきたところで、ミセス・シンがいよいよそのフェイク・メイクのヴェールを脱いで、テツオたちに呼びかける。

「このチラシにある通り、この男の講演会は、近々県の県民会館で大々的にやるんだそうよ。だから、あたし達Veni女の会としては、この講演会に“討ち入り”して、羅衆夫人とこの男、そして利権の親玉メラニーともども、あれえざれえに白化けにブチまけて、この島のゴミの島化を葬ってやるとともに、こんな企みが金輪際できないように、一網打尽にしてやりたいのよ。あなた達、受験準備や渡航準備で忙しいけど、ここは修学旅行の思い出がわりに、この一揆打ちこわしに、参加してみる?」

  ここまでくれば、テツオもユリコもまたヨシノも、そしておそらくキンゴもタミも、いざ鎌倉と言わんばかりに賛同すること間違いない。ミセス・シンは、チークの色も落ち着かせて言葉を続ける。

「羅衆夫人はこの男の講演会も、いかにも市民団体がこの男を推薦すると見せれるように、ここでもまた勝手に会の名かたってさ、“県最大の市民運動ネットワーク:Veni女たちの会主催・プチブルマダムの会共催”って、ふざけたことを書いているけど、それをいっそ逆手にとって、それなら会に属する反戦反核・反原発に反被ばくの諸団体や、県をまたいだこのゴミ処理施設の反対派や、税金のムダ使いと行政を監視する市民の会の人たちなどの“Veni女の会”の相当多数を呼び込んで、この羅衆夫人の講演会をそっくりそのままVeni女の総会に変えてやろうと、あたし達はすでに行動開始している。またこの講演会には、まだ1か月ほど時間があるから、その間に会員たちの委任状を思いっきり集めておけば、講演会つまり総会当日、何があってもあたし達の反戦反核・反原発に反被ばくの意思と意志が、貫けること間違いなしよ。

  羅衆夫人が言うのには、この講演会には、行政の職員ほか、ゴミ行政に影響力を持っている、県議、市議、村議たちも来るってことだし、来賓として利権の親玉メラニーも出席する。それに夫人は県の教育委員会まで手をまわし、ここでも“放射能は安全教育”をしたいのか、中高生の学生たちも招待し、当日も多くの市民や学生たちの出席を、歓迎するということよ。」

「それなら、いっそ僕たちも、学生として参加すればいいってことに、なりますね・・・。」

 

  これで作戦開始となったところで、テツオは何か言い足りないのか、ミセス・シンとヨシノの2人もお茶飲みながら、落ち着いてきたところで、皆に何かを語りはじめる。

「だいたい僕が思うにですね、美白やシワトリ・シミトリって発想自体が間違いですよ。人の美貌は、美白に余白のシワやシミに関係なく、ましてや年齢・性別にも、関係なんかありません。」

  ユリコがやや心配そうに見守るなか、テツオはここで、彼の仮説を唱えたいようである。

「そう、僕が、アラサー・アラフォー・アラフィフの三代女性ファッション誌をためつすがめつ、右往左往の試行錯誤と思考実験を通じながら最終的に悟ったことは、人の美貌というものは、ただその人の“知性と姿勢”の二つによると思うのです。

  それで、“知性”の方は人それぞれですが、“姿勢”の方はこれ“歩く姿勢”のことであり、ここは百聞不如一見、百聞は一見にしかず、口で言うより実際に、ご覧にいれて見せましょう。」

  と、テツオは、何とここで皆の前で、彼自身が考案の“女っぽウォーク”を、展開してみせるのだった。ミセス・シンとヨシノの2人は、最初こそ“なにコレぇ~”と面白がっていたのだが、それでも少し見ているうちに、テツオが期待の美意識に気づいたように、見直しはじめる。

「テ、テツオ・・、あなたっていつの間に、そんなモデルのような歩き方、身に着けたよ・・?」

「これですか? これは女の体を持たない僕が、理想化された女性-というか人の歩みを、表現しようとしたものなんです。・・いや、というのは、僕は将来、ファッショではなくファッションの地のイタリヤで、服飾職人めざすこともあろうかなと思いまして・・・。それで靴を脱ぐとよく見えますが、ヒールでいえば7~8cmほど踵を上げて、それで目の前一直線に、まるで平均台に乗るように、爪先から蹴り出すように足を伸ばして歩き出します。それで上半身は頭の先までつり上げられていくように垂直さを貫くと、肩も腰もしならせくねらせ、腕も手も柳のようにしなやかに、風を切って歩くような感じになります。」

  テツオはこの女っぽウォークを見せながら、所々で、振り向き、見返り、立ち返りと、次々とポロネーズに乗ったようにポーズを決める。

「このヒトだけできる直立二足歩行には、必然的に三次元の空間認識が必要で、この認識のもと、ヒトは自然界にもとより備わる美意識により、その進化の過程で美を追求し、この特に女性の歩みに象徴される美しい二足歩行を成し遂げたと、僕は仮説をたてるのです。では、ここで、これを少し崩した形の二足歩行を、続いてご覧にいれましょう。」

  と、テツオは、そのモデルもどきの女っぽウォークから、故意にネコ背・ガニ股の、おっさんっぽいウォークへと変化させる。

「これが同じヒト属でも、その化石から推察されるネアンデルタール人の歩き方かと思われます。しかし、さっきのホモ・サピエンスの垂直二足歩行より、このネコ背・ガニ股は重力に反する面が少ないだけ安定的で、自然淘汰の理屈ではより自然なこっちの方が存続してもよかったはずです。では、にもかかわらず、重力的に苦労が多く、空を飛ぶほど難しかったのかもしれないホモ・サピエンスの垂直二足がなぜ残ったのか。僕は、それはやっぱりダーウィンも言うところの“美意識”にこそあったのだろうと思うのです。

  つまり、我々ホモ・サピエンスは、この美意識による進化の過程で、直立して垂直の二足歩行をしていく上で、ともすれば最初に女性の体形を形作っていったのではないだろうか。先に女性の体形で二足歩行をしていなければ、これほど美しい歩行には至らなかったのではないかと思うのです。人類はまず女性の体形を得ることで垂直二足歩行に至った-そのためには類人猿で最大のお尻の筋肉=大臀筋が必要だった-またその大臀筋との重量バランスをよくするために胸をあえて重くして哺乳を兼ねさせ、しかも常に大きな胸とした-というわけです。」

「ね、ねえ、テツオぉ・・、しかし、進化論の定説の一つとしてさ、女の前にふくれたバストと後ろにふくれたヒップというのは、男への性的アピールっていう説があったのではと思うのだけど・・。」

  しかし、この問いはテツオには想定済みで、むしろこの定説への反発が、彼のこの仮説を生んだらしい。

「僕もよく見ましたけど、その説は、男が女の体をパーツとして物象化し、品定めをするような、進化よりも後発の男性優位の思想的産物と思います。それよりむしろ、まず女性なみの大臀筋を得ることで直立二足歩行を安定させ、それと同時並行でシッポなしでもバランスをよくとるために両手を長くし、また哺乳を兼ねたその胸を常に重くさせることにより、さらにバランスをよくしたのではないだろうかと思うのです。というのは、僕は山歩きをやっていた頃、リュックはなるべく背の上に背負った方が歩きやすいという経験があるからです。僕のこの仮説の方が、さっきの男へのSEXアピール説よりも、重力的には合理的ではないでしょうか。」

  しかし、テツオが自説を長々しゃべくりながらも、女っぽウォークをしゃなりしゃなりし続けるのを、つけまつげをメガネにひっかけそうになりながらも見つめていたミセス・シン、何かをひらめき、金夜リップをきらめかせる。

「テツオ! あんたのそのウォークとプレゼンとで、羅衆夫人に洗脳された漁村のおばさま達だって、きっと挽回できるわよ!」

  ミセス・シンのひらめきとは、タダでカフェ付きお菓子付きでおばさま達を買収した羅衆夫人のマダム・ラッスゥに対抗して、そのおばさま達をターゲットに、ミセス・シンのカフェ付き菓子付きおまけにテツオの花苗付きで、“テツオ君のビュウティーウォーク教室”なるものを開催して、おばさま達を引き戻し、羅衆夫人に切り崩された反対派の漁村の一致団結を、取り戻そうというのである。

「いいよ、それぇェ!! あたしもゴミ処理建設反対派の共同代表の母ちゃんも、周辺のおばちゃん達が次々とラッスゥにおびき寄せられ、深海魚みたいなメイクになって帰ってくるのをニガニガしく思ってたんだし。ここは是非、テツオにやってもらいたいよ。その奥の手のウォークで、漁村だけに“魚奥(うおおく)”ってな感じで・・・。」

  あまりに無理な言い回しに、だれも気付いていないなか、ミセス・シンはこれで羅衆夫人への反撃の強力な糸口をつかんだと、厚顔メイクをボロボロとほころばせる。

  しかし、糸口をつかんだのは、ミセス・シンばかりでなく、実は見守っていたユリコもまた、何かをつかんだようである。彼女はウォーク教室開催するのを、恥ずかしそうではあるものの、嬉しそうなテツオを見ながら、-これで彼をもう一度、復活に導けるのかも-と、思っているのかもしれない・・・。

 

  さて、講演会まで1か月を切り、タカノ夫人らVeni女らが、その正当な会の趣旨に基づいた多数派工作を進めるなかで、ミセス・シンとテツオの料理人師弟コンビは、深海魚フェイクメイクのおばさま達をターゲットに、漁村の公民館借り切りで、“未来のカリスマファッション家*テツオ君のビュウティーウォーク・メイク教室&祝ご卒業・イタリア渡航修業記念壮行会”と銘打ったイヴェントを挙行した。この本人も引きそうな大げさな題のせいか、また、今や美々しい青年へと成長した中学生からよく知っている子や孫みたいなテツオ君の研究発表を聞きたいのか、あるいはミセス・シンのオーガニックコーヒー・紅茶と無農薬無化学肥料の食材でつくられたケーキやお菓子がお目当てなのか、当日は深海魚以外にも多くのおばさま、お姉さまが集まった。

  そんななか、テツオは自説の“美と美意識論”や“姿勢と知性の人の美論”、また“直立二足の進化論”などプレゼンしながら、チノパン姿でウォークして見せたあと、今度はホントに7cmのヒールをはいて、ピンクのプリーツスカートはいて、ひらりひらりと“女っぽウォーク”を展開したりするものだから、その色っぽさに、おばさま達、お姉さま達、ヤンヤヤンヤ、てんやわんやの大騒ぎ。

「テツオちゃーん、ステキよぉおッ!」

「小エビのようにプリプリの、キュートなお尻が可愛いわぁぁ!」

「いっそ“片岡テツオ”の芸名で、女形、役者デビューをしてみたらぁ!」

お姉さんたち、“松嶋屋ァッ!”って、叫んだげるッ!」

  そんなわけでプレゼンの開始早々、すっかり心をとらえられた女たち、その場で直ちに羅衆夫人の洗脳から目覚めたのか、悔い改めと、改心を口にし始める。

  テツオは、そんな女たちを見つめつつ、優しげに語りかける。

「皆さん、考えてもみて下さい。美白、美白という強迫観念、人のお肌は色々なのに、なぜ白だけを美しいと言うのだろうか。これって差別じゃないですか。それにシワトリ・シミトリだって、大きなお世話というものです。第一、ファンデでお肌を塗りつぶし、ハイライトで変なテカリを入れるより、生物としての人が持つ本来の地肌の輝き、これを活かした方が素敵なんじゃないでしょうか。その上でメイクといえば、ルージュ、チークにアイシャドウと、どれも控えめにする方がかえって品よく仕上がります。たとえばルージュの色を変えるだけでも、これだけ顔の印象が変化します。」

  と、テツオがまた自分の顔で実演したりするものだから、女たちは“カワイイ~ッ!”と大騒ぎ。

  テツオはさすがに照れながらも、ここは会のプレゼンテイター、徐々に議題の核心へと迫っていく。

「皆さん、ラッスゥでのメイクや宣伝されたゴミ施設より、僕はこれを提案したいと思います。それは、

 1、ムダな化粧で肌痛めない。2、ムダなゴミで地を汚さない。3、ムダな事業で子を苦しめない。

という僕たちなりの“三善戒”というものです。皆さんは、はたしてどう思われますか?」

  ここまでテツオに指摘されたおばさま達。タダでカフェ付きお菓子付き、無料メイク体験でおびき寄せられ、ラッスゥに行ってしまったといいながら、もとは海んちゅ、海の女であるだけに、魂までは完全に売り払ってはいなかった。

「そうよ。あたしもあの羅衆夫人とプチブルマダム、何だかヘンとは思っていたのよ。タダでお菓子を出す時だって、全部市販の安物で添加物だらけだし、そのくせ“これ、イギリスの味よ”とか“パリの香りよ”、“ベルギーチョコよ”って、それってただの西洋かぶれの田舎モンの言う事じゃない。」

「あたしが一番許せないのは、あの羅衆夫人もマダムたちも、子供の被ばく問題のチラシを渡そうとした時だって、“それ、よその人に配ってくれる?”って、バカにした目で受け取ろうともしなかった。自分たちは途上国の子供たちは貧しくてかわいそうって、支援してるといいながら、なぜ国内の甲状腺ガンをはじめとする子供の被ばく問題を、無視しようとするんだろうね?」

「あの羅衆夫人とマダムたち、何かといえば国連とか弁護士とか大学の教授とか、選挙とか政治とか、活動の内容よりもそういうブランド、ムードがお好きで、それで旧憲法の9条守れといいながら、集団的自衛権の安保法に賛成する有名議員が身近に出れば、平気で応援したりする。言ってることとやってることが合わなくても、何も感じないのかね?」

「結局さ、あの羅衆夫人とマダムたちって、心の底には常に“差別”があるんじゃないの。こんなのがカネとヒマにまかせてさ、市民活動・運動の一定勢力にでもなったりしたら、若い人はだれも入ってこなくなるから、運動も広がらないよね。」

  おばさま達がこのように、ラッスゥの洗脳から正気にかえってきた所で、テツオは一番言いたかったことを述べる。

「皆さん、考えてもみて下さい。あの3.11で私たちが学んだこととは、従来のエネルギー使い放題、公共事業でカネ使い放題の生活はもう限界だ-ということであったはずです。今回のゴミ処理施設にしてみても、人口が減少し、電力も余っているのに、なぜ、発電を兼ねるために大型化などという変な理屈が通るのでしょうか。また、建設費だけで何百億、維持費となればさらに何億と、すでに超1000兆円の借金が少子化の次世代に負わされるというなかで、いったいだれがこの責任を負うのでしょうか。さらにまた、本来ならば原発施設で厳重管理レベルである、クリアランス100Bq、食料品100Bq、廃棄物8000Bqなどの数字が公的基準となってしまった放射性ゴミまでもが、処理施設が大型であればあるほど大量に入ってきます。これはダイオキシンなど、他の汚染物質にも同じことが言えるでしょう。

  この大型施設でいい思いができるのは、請け負う企業と利権に巣食う連中だけで、僕たち子や孫の次世代たちは、借金と環境汚染と健康被害の三重苦を背負わされます。ゴミ問題は、ゴミそのものを減らすしか解決策はありません。また、放射性ゴミについては、処理施設の規模を問わず、僕ら市民がガイガー計で施設周囲を日々計測し、監視していくしかありません。」

  ここまで言われて納得できない人はいない。かくして、漁村はその団結を取り戻し、羅衆夫人の分断の企みは、ついには割れるメイクとともに、結局崩壊してしまった。

 

  さて、いよいよ、残暑も過ぎゆき秋の気配が漂うなか、羅衆夫人の企みの集大成ともいえる“最先端の資源循環型エコ社会をいく、市民による広域大型ゴミ処理施設推進&放射性ゴミの安全安心講演会”in県民会館の当日がやってきた。

  講演会は、羅衆夫人のお友達のプチブルマダムらをはじめ、夫人が招いたゴミ問題に影響力ある県議、市議、村議らその他、行政の職員たちや、教育委員会からまわされた学校教師と学生たちなど、すでに大勢、会場の大ホールの前半分、指定席へと着いている。そんななか、タカノ夫人らVeni女の会の女たち、そしてこのゴミ処理施設の反対派の各団体も、また大勢に押しかけて、会場の後半分をほぼ占めて着席を終えている。

  テツオたちは、コスプレ屋で似合わぬ学ラン・スケ番姿に身を変えて、当日参加の学生として、ミセス・シンとレイコとともに会場の最後列に陣取って、キンゴとタミは、各々のミッションを果たすべく、机の下にパソコンとプロジェクター、また盗聴マイクを隠し持ち、最前列にスタンバイ。これで用意は周到、準備完とあいなった。

  全席が満員御礼となったところで、今日の主催者にして主役面の羅衆夫人、講師役のその男と、来賓のメラニー議員とその秘書らしき人物を従えながら、会場の中央に開かれた一本通路を連なって、音楽が大音量で響くなか、堂々とご入場のようである。

  -“Veni,Veni、来たれ、創造の主たる聖霊よ(2)”・・・、こ、これは、Veni女たちの会の歌・・・。この壮麗な音楽の打楽器の連打にのって、段々腹々だんだんばらばら、ダプンタプン、ぼよんブルンと、あらゆるお肉を憎々しげに底上げのハイヒールで揺らせ震わせ、羅衆夫人とメラニーが入場してくる・・・。巻き上がった染めものの金パツに、ハエの複眼みたいなメガネ、RGB三原色の彩りよろしきフェイクメイクはもちろんのこと、コーデときたらトップスのジャケットもボトムズのスカートも、メタリックにエキゾチックにギラギラ光るウロコ仕立て。クロム・ランタン・コバルトみたいなその色合いは、ハデに匂える歩く元素の臭気にして周期表のようにも見える・・・-

  テツオが視覚でそのように描写をすると、夫人らが舞台の席や来賓席に着くやいなや、盗聴マイク担当の最前列の席のタミから、SNSでのSOSが入ってくる。

  “臭ッ、くッせえェ、臭すぎますよ、コレ。まるで二人の香水の、窒素で窒息するみたいな・・・”

  視覚から嗅覚ときて次は聴覚、いよいよこれから羅衆夫人の開会スピーチ、高らかにこそ読み上げられるようである。

 

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「みなさァ~ん、こォんにちはァ~。今日は、まぁるいお顔でハスキーのしゃがれ声のこのあたくし、ご覧のとおり、マルク・シャガールの絵みたいにコーデをまとめてみましたの。

  あたくし、本日この会の司会役をあい勤めます、県最大の市民運動ネットワーク“Veni女たちの会”所属、“プチブルマダムの会”会長、そして皆様方ご贔屓の最高級ビュウティーサロン“マダム・ラッスゥ”社長でもある“羅衆(らす)”と申します。本日は、常連のお客様方をはじめ、こぉんなに多くの皆様方、こぉんなに素晴らしい議員の先生方々や、学校の先生方、また学生のぼっちゃま、お嬢ちゃま方に、多数ご参加頂きましたこと、ホントに有難うございます。

  あたくしども“Veni女たちの会”、中でも特にあたくしが会長の“プチブルマダムの会”と申しますのは、関西広域にも渡る市民運動とも連携し、古くから、西国をまわって首尾も吉野山吉野川(3)、津々浦々に勝浦川桂川、そして嵐山に嵐が丘と、歌舞伎ばかりか小説にもなりそうなほど、いくたあまたの環境問題にも取り組んできた実績のある市民団体なのでございます。

  さて、皆様もご存じのとおり、本県でも県内各地のゴミ処理施設の老朽化にともないまして、各市町村共同による広域大型ゴミ処理施設を建設するとの計画が、もち上がってきております。あたくしどものプチブルマダムの会においても、これは得意の環境問題と、今までの実績を活かすべく、他の市民団体を率先して、この問題に主体的に取り組んで参ってきたのでございます。

  あたくしどもは、これを何でも行政お任せではなくて、市民自ら主体的に学習し、そして自ら主体的に行政に提案する好機ととらえ、逢坂の春もゆかしい大阪から、遠路はるばるハンタバルという風に、専門家の先生をお招きして、広く一般大衆向けにオープンカフェースタイルの勉強会を、あたくしのラッスゥを毎回タダで開放して行って参りました。それで、この専門家の先生のお話があまりにも素晴らしくッて、あたくしどもの知らない事でもカユ~イ所に孫の手が届くようにクスグッたいほどソフトたッちに教えて下さるものですから、この先生のお話をあたくしどもに、お口クチュクチュのどチュルンと飲み込ませて、ハイそのまま廃棄物ではもったいなく思いまして、今回の講演会とあいなった次第なのでございます。先生にとりましても、“主婦にこそ聞いてほしいゴミ問題”ということで、今まで同様、この講演会もタダで行って下さるとのこと。今日は先生、またとぉっても素敵なダンディーなお姿でいらっしゃいます。

ア・・、申し遅れてしまいましたが、先生は“平目徹志”さんというお名前で、国の省庁なども諮問するシンクタンク“地球環境衛生研究所”の研究員をお勤めでらっしゃいます。先生は、ゴミや廃棄物問題、またゴミ処理施設等の専門技術的なこと、さらに3.11後は問い合わせも多くなった放射性廃棄物に関しても、技術専門的なお立場から、“あるべきゴミ処理施設”、また“あるべきゴミ行政”、さらにまた“あるべき正しい放射能の知識”など、様々なアドヴァイスやご提言を展開されておられまして、今日は先生、あたくしどものこの県も、ひとつよろしくお願い致します。

  あたくしのどもの会のように、市民自ら学習し、市民運動自らが“ヤラセではなく、死ぬほど実現したい”という強い意識で取り組んでいるこの問題に、一般大衆ばかりでなく、行政職員の皆様方、また素晴らしい議員や学校の先生方、そして未来を担う学生さん達をお迎えして、今日のこの講演会を持てたことはホントウに喜ばしく、この講演会を通じまして参加者全員お互いに“あるべき信頼と友愛のキヅナ”みたいなものを深め合えればいいのかなァ~、なぁんてあたくし個人は主催者として念願しながら、この長時間にも及んだあたくしのご挨拶を、ここでようやく終わりにしたいと思います。

それでは平目先生、ご登壇をひとつよろしくお願いしま~すゥ。」

  と、羅衆夫人は演壇より下り、舞台前、ご来賓メラニーとその秘書の横、司会席に着席する。

 

  そしてこれより、かわって舞台にご登壇、いよいよその平目氏の講演が開始される。

「皆さーん、こんにちはッ! ただ今ご紹介にあずかりました、わたくし平目と申します。いやぁボクは、何も隠すことおまへんけど、ボクは何を隠そう関西生まれの関西育ち、根ッからの関西人で、ゴミ問題も放射能も今日はすべて完済して、皆さんに幸せになってほしいと、講師を勤めに参りましたッ。

  イヤぁ、しかし、便利になったもんでんなあ。ボクがまだ手クセの悪いガキの頃は、連絡船いうのんがありましたけど、大橋できてウン十年、こうしてわずか3、4時間、ドアツードアでも来れるようになりましてん。ボク、今日のこの講演会でも、ちゅるうどんに讃岐うどんと本場本場でハシゴしながら、大阪船場難波からここまで直行、お昼はまたこの県の半田うどんを食べましたんや。」

  と、この平目、講習の本旨に入る前振りを言うのだが、どうやらこれが怪しいようだ。

「だってさ、鳴門のちゅるうどんと香川の讃岐うどんでさ、どうやって大阪からここに直行するのよ。それに半田もここからはメッチャ遠いし・・。」

  しかし、この平目男、前振りもそこそこに、パワーポイント作成画面をプロジェクターにて映し出し、早速今日の本題の“ゴミ問題”へと入っていく。

「皆さん、ボクは先ほど司会の方に、地球環境衛生研究所の研究員とご紹介を頂きましたが、その通り、ゴミ問題を考えるのは、まずはこの“地球環境”を考えるのが第一やいう信念を持ってまんねん。それはすなわち“命の循環!”、そう、何事も命が大事や一番やいうことを忘れちゃアカンと思いまんねや。」

  と、ゴミ問題の入り口としては少々意外な“いのちが大事”が、まずは展開されていく。

「そんなわけで、地球が生まれて何億年、人類生まれて何万年、古今東西だれとはいわん、ギリシャタレスかロシアのイワンが言った知らぬが、宇宙と地球の万物は流転し循環してるってわけなんやけど、ゴミもその例外やないっちゅうことですわ。つまり、ボクがゴミ問題で皆さんに第一に知っといてほしいのんは、“ゴミも資源循環の一つなんや”いうことですねん!」

  と、平目はここで一息入れて、ココが話の最初のキモなんや-みたいな顔をつくる。

「ね! 皆さん、ここが話の第一のポイントでっせ。よろしゅうおまっか。今まで何気に捨ててた後は、ただ燃やして埋めるだけやったゴミいうもんから、まるで“掃き溜めからツル”、また“瓶覗きからカメの頭”が出るように、資源が循環・再生されるっちゅうんですから、資源の乏しい我が国がこれを活かさぬスベはない。ね、皆さんもそう思いまっしゃろ!」

  と、平目が最前列の指定席に座っているプチブルマダムのおばさま達に呼びかけると、おばさま達、しめし合わせたかのように、まるでパブロフのイヌみたいに条件反射でフンフン頷く。

「ほんでね、皆さん。ゴミから資源を循環させるっちゅうことは、より多くのゴミを燃やさないかんし、効率よくするためにもゴミ処理施設を大型化せないかん。で、ただのゴミを燃やすだけなら芸がないから、ここでついでに食品の廃棄物や森林の伐採なんかで出た材木を、県外からも多数集めて処理すれば、今流行のバイオマス発電いうエネルギーの循環にもつなげられるっちゅうことですわ。」

  と、平目がここでそのゴミ施設を拡大してスクリーンに映し出すと、そこにはカネダケのロゴマークがはっきりと目に入り、また大きく“浄化ぁ(ジョーカー)”との表示も見える。

「たとえば、ホラ、コレ、この施設です。これ我が国で最新鋭のものでっけど、これ一基で各市町村の広域化、資源循環、発電までもがワンセット。効率化によるコストダウンのその上に国の補助金まで付いてきます。まさにコレ、道頓堀に掲げられたランナーの看板みたいに、“一粒で何度もおいしい”思いができるっちゅうヤツです!」

  と、平目は自社の製品を自慢するのか、満面のドヤ顔つくり、“浄化ぁ”の写真を次々見せて、特にそのストーカー炉をストーカーをやるみたいに、しつこく、ねちこく繰り返し宣伝する。

「そんでね、皆さん。ホラ、最近、ゴミ問題の解決の基本はまず、“ゴミを出さない”とか、“ゴミゼロ運動”とか、言うてる人がいますやん。あれって一見、地球環境にええような気がしまっけど、ボクから見れば、ダメダメ、ちゃうちゃう、アカンアカン。あんなん言うヤツ、アホやがな。ゴミを出さん、ゴミゼロなんかを本気でやったら、ええかげん中国なんかに越されてしまったこの国の経済が、ますますダメになりよります。それをこれから説明します。」

  と、平目はここで画面を切り替え、ドヤ顔とはいえないだろうが、ある人物の顔を映す。

「この人物はだれあろう、ダレスではありまへん。この人物の名はJ・M・ケインズ。写真ではアルカイックスマイルやけど、話はこれからアカデミックスタイルへと入っていきます。

  皆さん、20世紀を代表する物理学者はアインシュタイン、と言われるのと同様に、20世紀を代表する経済学者J・M・ケインズ。そのアインシュタインの世界一有名な式である“E=mcの二乗”と同様に、ケインズのこの式もまたとっても有名です。

  “所得(Y)=消費(C)+投資(I)  所得(Y)=消費(C)+貯蓄(S)”(4)

  皆さん、ここで注目すべきなのは、ホレ、ココ。要は、この消費(C)が増えんことには、所得が増えんいうことですわ。せやから、なんぼ消費税を増やされても、消費はやっぱり増やさないかん、せないかん。これかのアインシュタインと並ぶほど超有名なケインズの言う事やから間違えおまへん!」

  と、平目は自分をケインズで、権威づけたいようである。

「皆さん、消費が増えるっちゅうことは、すなわちゴミも必ず増えるっちゅうことです。我が国が中国なんかに負けへんように、経済大国であり続け、国民所得が増え続けるそのためには、ゴミもどんどん増えなあかん、出さないかん。ゴミなくせやゴミゼロなんかは、経済人のボクらから見るとやね、経済わからんボンクラの言うことだっせ。そんなことより、消費を増やしてゴミも出して、その増えるゴミから資源を取り出し再利用して、経済を好循環させながら循環型社会を築いていくのが、この先進経済大国のわが国民に課せられた使命なんとちゃいますやろか?」

  再び大いに頷いている最前列のプチブルマダム。しかしこの頷きがウェーブとなり、会場の前半にまで余波が広がるようにも見える。

  ここで話の前半も終わりのようで、講師用の水差しから水を一杯飲む平目。今やその表情からは、“今まで同じような事を何度も言うてきたんやでぇ”というような場馴れの余裕と、コップごしにチラリと覗くその目からは、聴衆への露骨な侮蔑感までもが伝わってくるかに見える。

 

  水を飲みほし、さてその次、平目はこの講演の第二主題へと入っていく。

「では、皆さん。次にこのゴミ問題の原発事故後のニュープロブレムともいうべき“放射性ゴミ、放射性廃棄物”についてお話しようと思います。そのためにはまず“放射能とは何なのか”という話から入りたいと思います。

  皆さん、よう聞きますよね。“放射能はコワイコワイ”って。そりゃそうでんがな。だってうちら我が国民は、かのヒロシマナガサキ経験した唯一の戦争被爆国やというさかいに。“放射能はコワイコワイ”、それは確かにこのボクも、皆さんのそのお気持ち、よぉわかります。」

  と、平目はヒロシマナガサキから入り、いかにも放射線による被ばくリスクに共感をするかのような口ぶりで話し始める。

「でもね、皆さん、考えてもみて下さい。ヒロシマナガサキいうのんは、あれはあくまで悪魔の兵器“原爆”による被害であり被ばくであって、戦争でもない限りあり得へんことなんです。せやから、単に放射能やいうだけで、何もかんもヒロシマナガサキとゴッチャにされて“放射能はコワイコワイ”言うんやったら、この平和な世の中、X線もガンの治療もコワイコワイで、助かる命も助からず、こっちの方がよっぽどコワイんちゃいまっか?!」

  と、平目が会場前部を見渡すと、頷きのウェーブが所々で起こっている。

「せやから皆さん、ボクがよく講演会で言うてますのは、放射能はコワイコワイとカンジョー的になるのをやめて、これからはカガク的になろうやないかということです。ここで極めて大切なんは、大人でも子供でも“正しい放射能の知識”を持ついうことです。皆さん、よく言われます。放射能は五感では感知できんし科学やから難しくてわかりにくいと。せやけど、ボクの講演はそんな難しい放射能を、皆さん、サルでもヒルでもわかるように、わかりやすうに解説します。」

  と、平目は画面を切り替えるのだが、そこには確かに幼児向けとも思えるような、とても簡素なマンガ絵が表示される。

「皆さん、まず放射能放射線には、α・β・γ線と、3種類あるわけです。これジャンケンポンで、グー・チョキ・パーと3つあるのと同じです。α・β・γ=グー・チョキ・パー、簡単でっしゃろ!

  で、まず、このα線。これはヘリウムの原子核と同じで重さがあるから、そんなに遠くに飛べへんし、何よりただの紙さえも通りまへん。α線プルトニウムが出すいうからコワイコワイ言う人がいますけど、そんな飛ばんし紙さえも通らんもんは、パーに負けるグーみたいな、チリ紙出されてブーッと鳴るいうどころかグーの音も出やしまへんで。せやからこのα線、ぜんぜん心配ありまへん!

  つぎにこのβ線。これは電子線いうヤツで、要は電子が飛んどるわけです。電子が飛ぶいうたかて、そんなイメージわかんもんを解釈=ソリューションするためには、そう、素粒子の知識が要りまんねん。せやけど、そんな難しいこと言わんでも、電子が飛ぶのはミクロの世界で四六時中やってること。β線ストロンチウムが出すいうからコワイコワイ言う人がいますけど、電子が飛ぶからこそ原子、分子、元素って物質が出来上がるんです。せやからこのβ線も、ぜんぜん心配ありまへん!

  では最後にこのγ線。これはいわゆる電磁波で、ラジオやテレビの電磁波の仲間やから、すでに日常あふれとる。実はあの3.11原発事故で漏れ出たいうのが、このγ線を出すセシウムです。ちなみに、さっきのα線出すプルトニウムや、β線出すストロンチウムは、原発事故では“もれ出てません”。漏れ出たのはこのセシウム。せやけど漏れ出たいうたかて、たかが数kgほど、主婦がママチャリで米運ぶほどの重さにすぎんいう説もあり、60兆個の細胞をもつ人間がたかが数kgほどで何を騒ぐ必要があるんやと、ボクなんかは思うのやけど、何かにつけて放射能がコワイコワイとストレスを溜めたがる放射脳な連中が何でこのセシウムγ線で騒いどるかといいますと、コレ、この図のように、“γ線は人体を突き抜けて、遺伝子やDNAの分子を電離=イオン化して切断する”(5)と、まぁこう言いよるわけです。

  たしかに電磁波いうたらね、場合によっては危ないっちゅう話もありまっから、そのために“Sv=シーベルト”いうもんを測定してます。シーボルトとちゃいまっせ。オランダ医学はシーボルト、車に乗ったらシートベルト、放射能の人体用の基準値はシーベルト、というわけです。そこで超有名なのは、“100mSv未満は安全・安心。子供は外で遊んでいても大丈夫。笑っておれば放射能の方から来ない”というものです。せやから、原発敷地外ではまず100mSvはあり得へんから、このγ線も、ぜんぜん心配ありまへん。

  それにだいたい放射線いうのはやね、自然放射線いうのんが元々あって、宇宙はもとより地球にもずぅーとあったもんなんです。カリウム40いうような天然の放射性物質もありまんがな。せやからボクら生き物たちは、宇宙や地球の循環のなか放射線を日々浴びとったいうわけで、今さら騒ぐもんやない。

  それにね、ボクは今、シーベルト(Sv)いうのを言いましたけど、放射能の測定値として有名なのはもう一つ、ベクレル(Bq)というのもあります。この測定値が2つあるいうのんが、ますます放射能をわかりにくうにしてまんねん。たとえば長さにしてみても、インチとセンチと2つもあるから、だまくらかされてインチきされても、逆にセンチになったりする。ボクも講演するたびに、“先生ぇ、放射線にはα,β,γ線と3種類、その上さらに測定値にもSvとBqと2種類あって、もうわけがわからん、不安やわあ!”って言われますけど、ボクは毎回、こう言うてます。

  “ちゃうちゃう、ちゃうねん、ちゃいまんがな。そんなん気にせんでええ。気にしたら負けや。おばちゃん、ええか、覚えとかんといかんのは、『100mSv未満は安全・安心。クヨクヨ、ウジウジ、ストレス溜めるのよっぽどコワイ。タバコの方がよっぽどガンのリスクが高い』-こんだけでええねん。今日の講演の土産にな、こんだけ覚えて帰ってくんなはれ”って。

  皆さん、知っとくのはせいぜいシーベルト(Sv)だけでよろしおまっせ。シーベルトが同じであれば、被ばくの仕方が何であれ全部同じで、その基準値は100mSvやということです!」

  平目の“正しい放射能の知識”に関する話とは、どうやらここらで終わりのようで、そんなことより、彼にとっては本題の放射性ゴミ・廃棄物を処理する話に移ろうと、すばやく画面を切り替える。

「皆さん、そんなわけで、放射能は実はそんなにコワくないってわかってもらえた思いますけど、それでもやっぱり放射性ゴミ・廃棄物が燃やされるのは気色ワルイと、1%は思うもの。でも皆さん、これですら安全・安心いうお話をこれからしたいと思います。

  皆さん、この画面を見てください。これは“バグフィルター”という、ゴミ処理施設の煙突なんかに付けよるもので、これさえ付ければ放射性微粒子があったとしても99.9%取り除くことができます。99.9%取り除けるって、まるでマダム・ラッスゥのシワトリ・シミトリみたいやけど、あれは所詮は隠すだけ。でもこれは、隠すよりも大気中にはそもそも出さんいうことなんです。じゃあ、水に溶けたらどうすんねん-いうことやけど、それも施設内だけで水を循環させるというクローズドシステムを採用すれば、同様に川にも海にも出されへんいうことですわ。」

  と、平目はここで再び“浄化ぁ”の写真を出して、またくどいほど宣伝をするのだった。

「ね!皆さん、これで放射能はコワくない、また、放射能は99.9%取り除けるから安全・安心いうボクのお話、この県の皆様にもよォ~くわかって頂けたかと思います。

  それでそろそろ時間となりましたけど、ボクは講演の最後にね、毎回必ずこう言うてます。それはボクのこうした話を聞いて、“決めるのは、判断するのは、あくまでも住民さん、市民さん”やいうことです。ボクはプロの専門家として、ボクが知ってる事実を単に客観的に紹介したにすぎません。ここでボクが言う“事実”とは、あくまでも“相対的な事実”であって、“絶対的な事実”ではない、ということです。ボクも皆さんと同じように主観を持つ人間の一人ですから、当然、自分の主観で認識できる範囲内での相対的な事実までしか語れないという人間性の限界の中にあります。ですから、ゴミ処理施設の広域化も大型化も、放射能の安全も安心も、結局、決める判断するのは、あくまでも住民さん、市民さんやいうことです。そしてそれは住民自治、市民自治たる皆さんの権利である、ということです。」

  と、平目はここで余裕で笑うと、自分の仕事はやり終えたみたいな感じで、ドヤ顔も充実させて会場を見回している。司会者の羅衆夫人もにこやかに、“それでは会場からのご質問は?”と問いかける。

 

  早速、スケ番姿に扮したヨシノが手を挙げる。

  羅衆夫人が、見えにくそうに、またイヤそうに目をしかめつつヨシノを当てると、係りの者が渡したマイクを握りしめ、ヨシノは平目に問いただす。

「講師に以下の質問を、まとめてしたいと思います(6)。

  まず1点目。原発事故で漏れ出たのはセシウムだけで、プルトニウムストロンチウムも漏れ出てないとの明言がありましたけど、3.11原発事故ではプルトニウム239で32億Bq、ストロンチウム90で140兆Bq、セシウム137で1.5京Bqが放出されたとのデータがあります。講師はウソをついているのではないですか? しかも、セシウム漏れてもたかが数kgと言いましたけど、なぜきちんとBqで言わないのですか? あえて換算することで過小評価し、誤魔化そうとするのですか?

  2点目。α,β,γ線ともぜんぜん心配ないとのことですが、ヒロシマナガサキの“外部被ばく”と異なって、原発事故による場合は、人体が呼吸や食品等を通じて放射性微粒子等の放射性物質を吸収すると、核種によって親和性のある臓器がそれを長期間取り込むために、体内から恒常的に放射線を浴び続ける“内部被ばく”が起こるのです。その内部被ばくで、セシウムγ線放射線エネルギーが66.6万eV(エレクトロンボルト)、プルトニウムα線のそれが510万eV、これが人間のたかが数eVのDNA塩基結合に当たることでDNA鎖が切断され、ガンや白血病をはじめ、心臓、脳、肝臓、甲状腺、腎臓、脾臓、骨格筋、小腸などのあらゆる臓器に対する被害や、免疫低下が起こるのです。

  さらに、体内では低線量の方が高い確率で細胞が破壊されるという“ペトカウ効果”や、遺伝子の分子切断が生じると、放射線が当たっていないその周辺の細胞までもが変成を受けるという“バイスタンダー”効果というのも知られています。

  これらのことが、チェルノブイリ事故によりすでに知られているにもかかわらず、なぜ、これらの話が一つもないのに、ただ安全・安心と言えるのですか? 核を保有したいがために、都合の悪いことはすべて隠すつもりですか?」

  しかし、司会の羅衆夫人は、ここでヨシノの発言を中断する。

「質問は一人一つとして下さい! 一人だけでベラシャラベラシャラしゃべらないで。民主主義なんでちゅからね。あなた一人ではなくて、それぞれの選択や、いろんな人のいろんな意見がありますのよ。お嬢ちゃんはあたくち達が勉強会をやっている“憲法”を、ご存じないのォ?」

  だが、ヨシノは今日のそのスケ番姿よろしく、舌鋒するどく突き返す。

「はぁッ?? 民主主義ィ? 憲法ですって? それぞれの選択ゥ??

  ふざけるなッツ!! いい加減、子どもと思ってナメんなよ。100mSv未満が安全・安心なんてのは、赤信号でも安全いうのと同じでしょうが! 国際基準の空間線量年1mSvを勝手に20mSvに引き上げて、国全体が違法行為をやっといて、国民もほとんど反応できないし、選挙の争点にさえならない。それで何が民主主義だ、憲法だ! それで文句があるのなら、質問に答えてから言いなさいッツ!」

  会場後部のVeni女の席からは、この反撃にヤンヤヤンヤの大喝采。だが、意外なことに、会場前部の議員からも、同調する声が聞こえる。

「そうだよ。講師の説明、特定企業の製品ばかり宣伝して、おかしいよ。放射能の放出データがあるのなら、きちんと説明するべきだよ。」

「質問した女の子はグレてるのかもしれないけど、ここはグレタさんみたいに発言をさせるべきだよ。」

  議員たちには、よろず利権をファミリーとお友達とで独占するメラニーに反感を持つ者もおり、また差し迫る選挙のためにもイイ顔しようとする者もいるみたいだが、とにかくヨシノはそのまま続ける。

「では3点目。まさにこの“100mSv未満は安全・安心”なる悪名高いフレーズについてです。

  2005年のイギリスの『BMJ』に出た論文には、15か国の原子力施設労働者40万7千人の追跡調査で、個人の被ばく累積線量は平均で19.4mSvとあり、これにより20mSvが一般人にはいかに高くて異様な値かということがわかります。その調査の中でガン死した人の1~2%は放射線が原因との報告があります。また、2008年の米国アカデミーの報告では、5年間で100mSvの低線量被ばくでも約1%の人が放射線に起因するガンになるとしています。

  さらにまた、チェルノブイリの先例では、1986~1997年の診断例にて、ウクライナの小児甲状腺ガンの発生率の36%が50mSv未満、51.3%が100mSv未満との報告もあります。

  その他にも類似の例はありますけど、以上のことを見るだけでも、100mSv未満は安全・安心というのは、悪意に満ちたウソであり、人によって感受性や年齢差や個人差がある放射能には、少なくとも“安全・安心な値はない”というべきなのではないですか?

  それに第一、もし本当に100mSv未満が安全・安心なのだとしたら、どうして病院内の放射線管理区域が3か月で1.3mSv、年換算で5.2mSvで、その中では18歳未満の作業と飲食が禁止されているのですか?

  また、自然放射線と人工放射線の違いについても、そもそも人類が何万年もの進化の中で適応してきた自然由来の放射線と、それに対して原爆以来たかが100年足らずの間に突如出現した人工放射線とでは、Svが同じであれば全く同じと言えるはずがないのではないですか?

  4点目。シーベルト(Sv)と、ベクレル(Bq)の違いについて。1Bqとは1秒間に1個の原子核が崩壊して放射線を出す放射能の能力を表わす単位で、簡単に言うならば、1Bqとは1秒間に1本の放射線が出ると考えていいでしょう。だから10Bqの食品を食べれば、1日で10本×60秒×60分×24時間=86万4千本の放射線にもなります。毎日10Bq摂取すれば、1年後には約1400Bq程度の体内蓄積の状態となり継続し、これが体重20kgの子供からば70Bq/kg相当となり、90%程の人が心電図に異常をきたすという報告だってあるのです。

  このBqは物理的に測定できる単位ですが、人体への影響を統一的にあらわせる単位としてのSvは、Bqから実行線量係数というものを介して換算できます。したがってBqは物理量でも、Svは係数しだいで改変できる人為量との側面があり、ECRRは一般人の許容限度の年1mSvを年0.1mSvに、原発労働者のそれを年50mSvから0.5mSvに引き下げるべきだとの主張をしています。

  講師はこのBqを退けて、Svだけでいいと言いましたけど、今言った問題点を知った上での発言ですか? それともBqを排除してSvだけの表示とし、ゆくゆくは係数を改変して過小評価したいみたいな企みがあるのでしょうか?

  最後に5点目、バグフィルターについてです。99.9%回収できるという話、常識的に考えてバグフィルターの素材、未使用や使用の程度で回収の効果は変わるのではないですか? バグフィルターが未使用の状態では5μm(マイクロメートル)なら8割程度を集塵できるが、1μmを下回ると3割程度しか集塵できないとの報告があります。また、粒径2.2μmより小さいものは、セシウム134で63%、セシウム137で64%を占めていたとの測定もあり、これでどうして99.9%回収との断言ができるのでしょうか?

  それに、仮に99.9%回収ができたとしても、0.1%は回収ができないので、40万Bq/kgなら400Bq/kg、4万Bq/kgなら40Bq/kgは空気中に逃げていくことになりますよね。だから99.9%も外部に漏れないようにするためには、その施設内部を大気圧より低くするしかないのではないですか?

  でも、あたしなんかは、これだけ原発安全神話で騙されておきながら、今さら更にバグフィルターの安全神話で騙される市民の方もバカだと思いますけどね。

  これらの5点を見るだけでも、講師の以上の説明は、いずれもウソか、悪意に満ちたデタラメか詐欺の類で、あたしたち次世代の子や孫たちを、予防原則に基づいて保護しようとする考えは全く見られず、それどころか原発事故後もさらに二次、三次の被ばくにさえ晒し続けようとする。これはまるでナチ収容所の医師ヨーゼフ・メンゲレもどきの犯罪なのではないですか?

  以上、5点の質問に、今からこの場で、講師自身の責任ある回答を要求します!」

  と、ヨシノはその場で起立したまま、平目の答えを待つ構えでいる。

  会場後部のVeni女たちはもちろんのこと、今や前部の議員席のあちこちからも拍手が起こる。連れてこられた学生たちは、自分たちと同年齢のヨシノを見ようと振り返り、教育委員会や学校の先生たちは、自分の意見を主張する生徒の存在そのものが信じられないような顔だ。

 

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  さっきまでドヤ顔だった平目はここで、イヤ顔になりながらも渋々とマイクに向かう。

「・・あ、あのね、お嬢ちゃんね・・、あんたの質問、多すぎまんねや。しかもえらい早口で、聞き取れやせん。大人の会議や講演で、質問する礼節いうのを、知らんのちゃうか。」

  すると、最前列にいたキンゴが、隠していたパソコンとプロジェクターをいつの間にか起動させ、スクリーン横の壁へと映して、立ち上がって発言する。

「今の彼女の質問は、項目ごとに画面に映し、要点も記してますから、順に回答してください。まず、プルトニウムストロンチウムが漏れ出てないとの“ウソ”については、どうなんですか?」

  すると平目は、手のひらを返したように開き直る。

「君らえらい上出来やなあ! 人の言うことウソ言うんなら、証拠の数字を見せたらどうや? ボクはあくまで事実をやな、“事実”を言うとるんやさかいに。」

  するとキンゴは画面を切り替え、データーの一覧表を映し出す。

「これは表題にある通り、『2011年3.16までの大気中への放射性物質放出量』というもので、2011年6.6公表、原子力安全・保安院IAEA報告資料と記されているものです。この中に、放出量の試算値として、セシウム137は1.5×10の16乗Bq、ストロンチウム90は1.4×10の14乗Bq、プルトニウム239は3.2×10の9乗Bqとあり、また、甲状腺ガンの原因のヨウ素131は1.6×10の17乗Bqとありますよ。」

  画面を前にし、平目はわざと見えにくそうに顔をしかめる。

「・・たしかに、保安院って書いたるな・・。アイツら逃げくさってばかりのクセして、こんなもん残しやがって・・。上から読んでも下から読んでも“ホアンインゼンインアホ”(7)いうのんは聞いたことあるんやけど・・・。

  い、いやね、誤解をしてもろたらいかんねんけど、ボクが“漏れ出てない”言うたのは、“原発の敷地外には漏れ出てない”いう意味なんやで。そりゃ君たちは、原発のウチとソトとを混同してるわ。」

  しかしキンゴは、また次の画面に切り替える。それは『ストロンチウム90の測定結果』という表題の、複数の県に渡った広域地図で、そこには測定値がBq/㎡単位で点々と記されており、2012年9.12文科省報道発表となっている。そしてキンゴは付け加える。

「8000Bq/kg以下を従来の放射性物質の管理から外してゴミとするということにおいては、その対象核種はセシウムだけで、ストロンチウムは測定をされていません。しかし、このデーターが示す通り、実際に放出されたストロンチウムも測定し、その危険性を知らせるべきではないですか?」

  平目は初めて見るかのような顔をして、画面を見つめる。

「・・今度は文科省のもんかいな・・。アイツらこそ20mSvの張本人で、また業者のボロ儲けになるような受験制度を企んで、受験生まで利権の喰い物にしとるクセに・・。アイツらこそ“身の丈にあった”仕事をしろと言いたいわ・・・。

  あんな、誤解をしてもろたらいかんねんけど、ボクが“もれ出てない”言うたのは、こんだけ放出された以上、“もう、俺、手ぇ出ない”と言ったのが、ボクが関西弁で早口やから、君らにはいかにも“漏れ出てない”と聞こえたんとちゃうやろか・・・?」

  しかし、平目のこの発言には会場中から、“誤解、誤解って、政治家みたいな言い訳すんな!”と激しいヤジが飛んでくる。だが、平目はやはり開き直って、なおかつ逆ギレし始める。

「あんね、君らね、君らのような人たちがこんな事を言いよるさかいに、“風評被害”が起こるんやで! 君らのような発言が、風評被害や差別を生んで、“復興”を妨げよんやで。ボクがこんなに被災地のため国民のため頑張ってるのに、せやから君らみたいなもんは“非国民”や言われよるんじゃ!」

  ヨシノもキンゴも抵抗の意志を示したまま立ち続けるなか、今度は最後列のテツオが立って、マイクなしで声を大にし発言する。

原発事故で放出された放射性物質とその量とを聞いているのに、その回答がどうして“それを聞くのが差別を生み、風評被害をもたらして、復興を妨げる”になるのですか?

  放出された放射性物質による汚染とは、あたかも米軍基地のように特定の県内だけで納まるから、その県民さえ棄民して黙らせればいい、というように考えているのでしょうか?

  それに本気で“復興”を目指すのなら、なぜ次世代の若者や子供たちに対して、レントゲン室等年間5.2mSvの放射線管理区域よりはるかに高い20mSvに晒したり、100Bqまで食べさせたり、ましてや100mSv未満は安全・安心と言いくるめたりするのでしょうか? 次世代の若者や子供たちの生存権と生存圏を侵害しておきながら、予防原則に基づいて子供たちを守らぬ大人に“復興”を語る資格など、どこにあるというのですか?

  次世代と子供たちを守るより、核の保有原子力ムラ・安保ムラの利権を守るためだけに、人々の間にあえて“差別”を持ちこんで、人々をいがみ合わせて、自分は保身と出世とカネのためにウソつきとおす卑劣さを、あなた達はいったいいつまで続ける気ですか?!」

  このテツオの発言に、学生たちはまた振り返り、会場の大勢からは拍手が起こる。

  しかし、司会席から立ち上がった羅衆夫人、マイク片手に金パツとジャケットとを光らせながら、それらを遮ろうとする。

「皆さァん、不規則発言はやめて下さい! ここの司会はあくまで飽くまであたくしなのよ。それをどこの不良の生徒か知らないけれど、バイオレットな学生服に、バイオレンスなその言動。これ以上の私物化はソーリ、ソーリィと謝られても許ちませぬから。あたくしは司会者としてカタヨッタ見解や、暴力的な威嚇などで、乱れた秩序を取り戻さねばなりません。ここはあくまで民主的に、他の人たちにも意見を言ってもらいますッ!」

  と、羅衆夫人は前列で、おそるおそる挙手をしているプチブルマダムを当てて言わせる。

「こ、講師のセンセのおっしゃる施設は、ホントにホントに世界一で、ここで再び確かめたくて・・・」

  すると平目は喜び勇んで“浄化ぁ”の画面に戻し、それ自体が循環をするかのように、またも同じ宣伝をしようとするが、さすがに会場のあちこちからは、ブーイングの雨あられ

“議長ぉッ!公平にやりなさいよ! 何で同じメーカーの宣伝ばかりやらせるのよ?!”

“私物化はあんたでしょ。暴力で乱れた秩序を取り戻すって、あんたはまるでリンテイゲツガか?”

“あの女子の質問に答えなさいよ。答えないのはやっぱり自らウソでしたと、認めてるのと同じよ!”

  しかし、こうしたヤジが先制して起こるのを待ち受けていたかのように、会場前部の最後列に並び座った男たち、いっせいに振り返ると、コワそうな人相をさらに悪どくゆがませながら、ヤジ倍返しを仕掛けてくる。

「おらぁーッ、おどれらヤジやめんかい、ボケッ!!」

「お前らみたいなもんをやな、非国民いいよるんじゃ、タコッ!!」

「さっさとこっからいにさらせ、カスッ!!」

  だが、テツオはここは慎重に、男たちに落ち着いて、変化球を投げてみる。

「大恩教主の秋の月は、涅槃の雲に隠れ・・・、」

  すると、やっぱり、

「おら、おんどれ・・ボケ、・・非国民・・タコ、・・いにさらせ・・カス・・」

  と、オウム返しに返ってくる。

「シンさん、やっぱりただのバイトです。気にせず次の作戦へと移りましょう。」

  そこでミセス・シンは、クジャク羽根の帽子を被って立ち上がると、冊子を片手に“動議!動議!”と叫びつつ、ウェッジソウルの上げ底靴をバタリバタリといわせながら、ダンボール箱を手に抱えたヨシノママを従えて、舞台前方へと向かっていく。そして羅衆夫人が立ちつくす司会席にたどり着くと、マイク片手に冊子を開いて読み上げる。

「Veni女の会の会則・第24条に、“本会の名を用いた会は、全会員の過半数の出席ないし同意があれば、その会をそのまま総会とすることができる。”とあり、また同第25条には、“総会においては議長は複数選任し、また途中で交代せねばならない。”とあります。以上により、Veni女の会主催と名乗ったこの講演会を、これよりVeni女の会総会とし、また議長をわたくしシンが交代するという動議を、ただ今ここで提案します!」

  ミセス・シンのこの動議に、会場のプチダム以外の全Veni女の会員たちは“異議なし!”と唱和して、いっせいに立ち上がる。

「ち、ちょっと、何よ、あんたたち、そんなド派手なコーデして。過半数って、この会場のちょうど半分、後半席しかいないじゃないの!」

  と、反駁する羅衆夫人を前にして、ヨシノママがダンボール箱をドンと置き、その中に満載の“委任状”を開いて見せる。

  つづいて共同代表タカノ夫人が立ち上がって、宣言する。

「Veni女たちの会共同代表のタカノです。その委任状だけでもすでに全会員の過半数に達しており、またそこには“共同代表に一任する”との文言も入っています。したがって、私は本会に出席した会員の賛同の意志に基づき、この動議に賛成します。現議長は解任され、ただちに退かねばなりません。」

  これを受けてミセス・シンは、それでもどこうともしない羅衆夫人の横に立ち、マイクに向かう。

「それでは、先ほど質問された女生徒の方、もうここからはVeni女の総会ですから、自由な議論ができる場です。つづいて何かありましたらお願いします。」

  と、ヨシノは再びマイクを握り、では最後にと、述べ始める。

「あたしが読んだ『チェルノブイリ被害の全貌』という書に、こんな記述がありましたので紹介します。

  “チェルノブイリ後に緊急防護策が何もとられなかったブルガリアにおける被ばく線量は0.7~0.8mSvで、食料品への安全対策を行ったノルウェー人の平均と比して約3倍であり、ブルガリアの方がノルウェーより汚染の程度は相当低かったにもかかわらず、このような不均衡が生じたのである。・・・、放射性核種は、土壌から植物へと吸収され、食物連鎖と濃縮とをともないながら、自然の半減期等で放射能は減っていっても、人々の放射線被ばく量は増加し続ける。・・・、今後、少なくとも6世代から7世代に渡って、放射線被ばく線量を抑えるための特別な対策を講じなければならない。・・・、放射能汚染は、放射性崩壊や核種の変化に見られるとおり、動的な変遷をともなって、持続的なモニタリングと管理とを必要とする。セシウム137とストロンチウム90については、少なくとも今後150年から300年が要監視期間となり、さらに幅広い放射性同位体による汚染もまた動的に変化するため、不断のモニタリングと管理とが半永久的に必要となるだろう。”

  この会場にいる、特にあたしと同世代の学生たちに、あたしが敢えて言いたいのは、こんな話を今までどこかで聞いたことがありますか?ってことなんです。

  もし、どこでも聞いたことがなく、まったく初めて聞く話なら、原発事故後何年もたってるのに、ネットやいろいろあるというのに、知ろうと思えば真実を知れるというのに、あんたら今まで何やってんの? あんたら自分の身はだれが守るの? だれも助けてくれやしない。あんたら自身が自らを守るしかないんだよ。もう高校生にもなったらさ、甘えんじゃねーよ!と、言ってやりたい・・・。

  以上であたしの発言を終わります。」

  振り返ってヨシノを見つつ聞いている学生たち、その中には発言をメモする者もあらわれる。

  いきなりのクーデターで、その鉄面皮も面食らう羅衆夫人。しかし、夫人は司会席より仕方なく退くものの、不敵な笑みを浮かべつつ、何やら目くばせする様子。

  教育委員会と学校の教師たちは、ここでメモを中断させて、生徒たちにいっせいに退席するよう指示を出す。だが生徒たちにも抵抗する者がいて、小ぜりあいの声が聞こえる。

  それを見たテツオは再び立ち上がる。

「みんな、自分の頭で考えるんだ! だれも守ってくれやしない。自分で自分を守るしかない。そのためには自分一人で勉強して、自分の頭で考えて、行動するしかないんだよ!!」

 

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  その発言を受けたのか、抵抗する生徒の中から、一人の女生徒が立ち上がって言葉を発する。

「私はあの先輩方の言う事は正しいと思います。放射線の内部被ばくの健康被害は、チェルノブイリの先例により明らかであり、これを否定する方が不条理かつ不誠実であるのもまた同様に明らかです。

  講師が今まで言ったことは、原発安全神話をただ単に放射能安全神話にすり替えたにすぎないもので、二度も同じ原子力ムラ・安保ムラの利権のための安全神話に騙される方こそ異常です。

  皆さん方大人たちは、ヒロシマナガサキの同じ国民であるにもかかわらず、チェルノブイリと同レベルの最悪級の原発事故で放射性物質が大量に放出されても、放射能は安全・安心・問題ないとウソをつき、私たちに被ばく由来の健康被害が生じても、因果関係が証明されないと棄民する気でいるのでしょうけど、それってとっても卑劣で卑怯だと思いませんか?

  この講演会にしてみても、あの先輩方がいなければ、私たちはまた騙され続けていたのだろうと思います。どうして学校も先生方も本当のことを教えようとしないのでしょうか?

  今日のあの講師のように、ウソ・デタラメを言って騙しておきながら、“決めるのは住民・市民”と逃げ口上まで用意するのは、またとても卑劣で卑怯なやり方だと私たちは思います。」

  会場の大勢からは、この女生徒の発言を支えようとするかのように、大きな拍手が送られる。

  しかし、今度は、学校の教師の一人が立ち上がってテツオを指さし、恫喝する。

「そこの不良ッ! 善良でまじめな生徒を扇動するな! お前ら、どこの高校だ? それともどこの反対派だ? いくらもらってここに来た? 言ってみろ!」

  だが、これにレイコは即立ち上がり、腰に手をあて指さしながら、大声で怒鳴り返す。

「この子たちは、私ンとこの生徒たちで、私がその担任だ。今のあんたの発言は悪意にもほどがある!

  私たちはカネで心を売ったりしない。あんたたちと一緒にするな! あんたはそれでも教員かッ!

  謝れぇえッ! 今からすぐにこの子たちに、謝れぇーッツ!!」

  レイコの声があまりに大きく、その怒髪天をも貫ける怒りのオーラもまた凄まじく、広いホールは水を打ったかのように静まりかえるが、テツオはレイコを手と目で静止して、落ち着いて言い返す。

「“自分の頭で考えろ”ということが、どうして“扇動”に当たるのですか? 

あなた達は教師のクセして、自分自身で放射能もSvもBqも勉強しないし考えようとさえしない。国や県や委員会が“100mSv未満なら安全・安心”と言えばそのまま、ただ“上が言ってるから”という責任逃れを得ただけで、生徒に教えて従わせようとする。それでどうして子供が守れるというのですか? それでどうして教育者といえるのですか? 

  給食にBqを混入させ、放射能安全教育でウソを教えて、子供たちを被ばくさせておきながら、あなた達には職業教育者としての“良心”が、あるのですか、ないのですか?」

  ここまでテツオが言ったところで、会場前部の最後列のコワそうな男ども、またいっせいに振り返ると、今度は全員立ち上がり、揃いも揃って一列で、テツオらのいる最後列へと向かってくる。

  -ヤ、ヤベエ・・。俺、ついに、殴られるのかも・・・-

  しかし、男どもはテツオたちをすりぬけて、全員そのまま会場後ろの出口から、立ちさって行ってしまった。

「ち、ちょっと、あの男たち、今からが肝心なのに、何でこんな時に帰っちゃうのよ・・?」

「彼ら全員時間給で、これ以上は10分置きに割増料金いりますし、消費税の増税分も削減しないといけないので・・・。」

「でも、私はあんたに、こんな時のためにこそ手配が必要なんだって、言ったでしょーにッ!」

「・・しかし、追加料金は経費削減だからダメって、言われたのはセンセイですから・・・。」

「!、ちーがーうーだーろーッツ!!」

  男どもが出たあとを、埋め合わせるかのようして聞こえてくる不思議な会話・・・。実はこれ、最前列のタミにより、開場後すぐ人の来ぬ間に仕掛けられた盗聴マイクが、舞台付近の来賓席から拾ったもので、どうやらこれはメラニーとその秘書との会話のようだが、それがテツオの席に置かれているスピーカーから聞けるのだった。

 

  しかし、この会話のその他にも、今や舞台の袖で交わされているらしい羅衆夫人と平目との会話までもが、同様に仕掛けられた他のマイクから拾われて聞こえてくる。

「・・・なあ、おい、ラッスゥ。おまはん、コレ、話、ぜんぜん、ちゃうやんけ・・・。

  おまはんが言うてた話は、今日のこの講演会は、当社の“浄化ぁ”をこの広域ゴミ処理施設へと売り込むっちゅう“メラニー案件”をやな、県市町村の議員どもや、行政職員の連中らに飲ませてスタートラインに乗せるために、いかにも多くの市民らの強い支持を得ていると見せかけるハレ舞台いうことやったんとちゃうんかいな? これやったら、まるで左翼のクソども反対派の集会やんけ。

  ボクはこの浄化ぁの売り込みをやな、“メラニー案件”ちゅうことで特別に社の根回しして、何十何百億円もの稟議書とおして、今度こそカネダケクリーン大阪支店の支店長になれると思うたさかいにやな、今までこれほどクソ高いハイヤー代も研究所の経費からネコババして何度もこの地にやって来た言うたやんけ。

  ほんで今日の講演会も、メラニー以外の利権がらみの連中も来るやろから、ほんまに大丈夫なんかって念押ししても、おまはんはそのアツいメイクのその割には涼しい顔して、こう言うたんやで。

  “だーいじょーぶ、大丈夫っ。こんな土臭い田舎の議員なんてのは、都会の議員と同じでみィーんなボンクラ。行政の職員いうのも仕事できん上司いいなりのカスばっかしや。あいつら露骨にメラニーのいつものカネダケ利権と聞いたら、世間の手前ケチもつくから警戒するけど、県最大の市民グループの賛同があるいうだけでアリバイたつから、これで様子見だった連中もメラニー利権に鞍替えし、何百億もの補助金と予算がつけばアリのように群がりよるがな。市民グループいうてもやな、どーせ後先短いボケ老人のクラブやさかいに、オレオレ詐欺と同じで簡単に丸めこめるで。”って。

  それでボクは、この案件の当の本人メラニーは、どこまで話がわかってんのか念押しをした時も、おまはんはこう言うたんやで。

  “メラニーは秘書を通じて、駅前の再開発の一等地を、地下にゴミあるいうてから8億円も値引きさせて購入し、マダム・ラッスゥ本店構える土地を見せ、-いい土地ですから話を前に進めて下さい-と、権利書までも見せてくれたと、これでディールは成立や!”って、おまはん、確かに言うたんやで。」

  スピーカーから漏れ聞こえるこの種の会話。テツオが前の方まで聞こえるようにとボリュームを引き上げたので、耳にした議員らや職員たちは驚きどよめき、会場はまた騒然となってくる。

  スピーカーの声を耳にし、さすがに事の重大さを知る羅衆夫人。ここはもうトカゲのシッポを切るしかないと、自らの保身に走る。

「皆さぁん! この男の言っていることは、あの子たちの言うように全部ウソ、ウソばっかしよ! ボンクラ・カス・ボケ老人って、α・β・γ線にグー・チョキ・パーと同じで、みんなこの男のつくり話。ウソウソウソウソ、全部ウソ! 信じちゃダメーッツ!!」

  突然の裏切りにあう平目。だがこの男も、その名のとおりヒラメに徹しておきながら、秘められた自分の思いもあったらしく、ここまで来ればもう白バケにブチ撒ける。

「な、何やて!? お前までこのオレをウソつき呼ばわりするんかい?! オウッ、よう言うた。オレも自分にこれほどまでにウソつかなんだら、船場難波の本場から、遠路はるばるこんなド田舎クソ田舎に、何でお前みたいな厚化粧のニオイより口の方がもっとクサい女に会いに、来るクソか! このボケ、カス、ドアホッ!!」

  主謀者たちの口ゲンカは、互いの臭みのボルテージを引き上げつつも、どこまでも低次元にメルトダウンしていくようだが、利権の元締めメラニーは、この一連の不始末に、ただ秘書を責めつづける。

  “ハゲーッ! ハゲーッ! ちーがーうーだーろーッ!! 

  ハゲーッ! ハゲーッ! ちーがーうーだーろーッ!!”

  だが、メラニーのこの罵りが、ラップのようなリズム感に乗ってるとはいえ、ただひたすらに連呼される“ハゲーッ!”については、ちょっと乗れない気がするのである。というのは、テツオたちが双眼鏡やオペラグラスでいくら確認してみても、来賓席のメラニーの秘書というのは、テツオたちがかつてメラニー事務所を訪問した際に見た、あの暗いオバサン・女秘書に間違いなく、少なくとも目視の限り、ハゲは黙示もされていない。

 

  虚々実々がこれほどハゲしく交錯した今日のこの講演会。講演自体のそのサゲが、意外にも司会者・主催者自身による“ウソウソウソウソ、全部ウソ”なる全否定で終わった今、今度は会場の前部・後部に関係なく、出席者の全員には、“ハゲなのか、ハゲでないのか、それがまた問題だ”との課題がつき付けられたような感じで、今やこの問題こそが、今日の日の虚々実々を象徴するかのようにも見える。

  -人間とは、それ自体が、自ずと虚実をまとうもの・・・-

  テツオたちには今までの経験から、そんな思いがふとよぎったが、会場の舞台前の来賓席では、今までさんざんメラニーに、ハゲーハゲーとはげしく罵倒されていたあの女秘書、ついにキレたか、おもむろにその席から立ち上がったようである。すると、ひょんな偶然か、舞台そでに垂れ掛けられた日章旗が、遠近法でちょうど女秘書の頭の上に差し掛かったように見える。

  偶然とはいえ、心理的にも視覚的にも絶妙なシチュエイション。会場前部の議員たちや県市町村の職員たちは、まるで条件反射のように目線をそこに集約させ、その余波のせいか会場の全域に、今や集中と静寂の空気が満ちる。

  そして会場の全員が、本日の脇役でさえもなかったこの女秘書、その一挙一動に全神経を集中させてくるなかで、ついに彼女は後ろの日章旗も突くかのように、手を高々と上げたのだった!

 

 

第十八章 討ち入り本番(後)

  来賓席で立ち上がり、日章旗を突くかのように高々と手を振り上げたメラニーの女秘書。振り上げてしまった以上、その手はどこに下ろされるかと思いきや、何と自らの髪をつかむと、それをそのままメラニーへと投げつける。

  女秘書が投げつけたのは、ここの地が京都でなくてもカツラだった。だが、カツラを脱いだからといって、これで“ゆるしてチョンマゲ”とはいかないようだ。そう、そこにはたしかに“ハゲ”があり、しかも角度によっては日章旗のもと、そのヒノマルを背景に後光を放つようにも見える。

  “ハゲー、ハゲー、ちがうだろー”と言ったメラニー。しかし、いくら彼女がウソつきとはいえ、今日の虚実の象徴とも思われたこのハゲについては、真実に違いなかった。

「もう化けちゃいられねえ。俺ぁシッポを出しちまうぜ。男と見られた上からは、窮屈な思いをするだけ無駄だ。なるほど、わっちゃァ男さ。どなたもまっぴら、ご免ねえ(1)。」

  いくらウソの多い世の中とはいえ、秘書のこの想定外の言動に、会場はまた騒然となる。

「さては女と思いきや、騙りであったか。」

「ヤア、ヤア、ヤア・・・。」

  女・・、いや、多分、生物的には男の秘書は、メラニーと会場を見据えながら、今や吹っ切れたような感じで、テツオがさっき言ったみたいに、自分の頭で考えた自分自身の思いを語る。

「そうよ。カネが欲しさに騙ってきたのさ。秋田の家ですっかり取られ、塩噌に困るところから、一本ばかり稼ごうと、損料物のスカートで、役者気取りの女秘書。その政治屋の盗人の種は尽きねえ夜働き。悪事はのぼる上の宮。香典やワインの次にはうちわを配り、夜桜を見る会と称して反社会的勢力までもオモテナシ。今さら1万5千円では雇えねえと、ここやかしこの寺島で似ぬ声色でウグイス嬢までやらされて、恥辱に恥辱を重ねた上に、ハゲーハゲーと罵られ、セクハラ罪はないといえどもこれもセクハラ。背に腹はかえられず、ついには腹にもすえかねる!」

  と、この男秘書、今や何もかも見切ったみたいにメラニーのもとを去り、気の利く人が“音羽屋!”などと叫ぶなか、花道を引きあげるかのように会場の後ろまで歩いていくと、出入り口のチャリンという音もそのままに、外へ出て行ってしまった。

 

  羅衆夫人と平目とが互いの臭さが尽きるまで口ゲンカに熱中し、もとよりメラニーファミリーとそのお友達とに利権が独占されるのを苦々しく思っていた反メラニー派の議員たちもいるなかで、秘書がカツラとともにその主人をも見捨てた今、会場のVeni女たち、ここでついにシッポを出した地域利権とよろず疑惑の総本山たるメラニーに、つもりつもった恨と怨の総反撃を開始する。

「メラニィーッ! 今日という今日こそは、私たちは絶対にアンタ自身を許さないッ!!」

  まず、ヨシノのママが立ち上がり、メラニーのこれまでの悪業を政権交代、TPPまで遡り、ついで共謀罪、秘密保護法、安保法、改憲等のetc、いずれも最初は反対のふりをしておきながら、ことごとく賛成に回ってきたウソ裏切りの数々と、その夫が役員勤めるカネダケ資本の地場企業がカネダケの下請けとして、オスドロンのヘリパッドやこの広域大型ゴミ処置施設の建設でボロ儲けしようとしていたカラクリを次々と暴露する。

メラニーッ、それにあたし達が特にアンタを許せないのは、アンタが保養事業などを通じて、原発事故の被害者や避難者たちをも利権の喰いものにしてきたということなのよ!」

  と、続いてVeni女の会に属する原発事故の避難者たちが、メラニーが多額の寄付金・補助金などを集めながら、一週間の放射能汚染地からの保養と称して、夫が役員勤めているバス会社や旅行会社らの修学旅行利権をフル回転させ、保養に参加の母子たちを郷土芸能体験とか地域おこしの一環とか言いながら、自分の後援団体に優先的に連れまわしカネを落とさせていたことや、そのくせ避難者たちが求め続けた甲状腺検査への医療支援や安定ヨウ素剤の備蓄といった内部被ばくへの対応は“今はとっても忙しいから!”などと言ってサボタージュし続けたこと、そして極め付きとして、それでもこんなメラニーが地域の人権活動の功労者として、桜の会へのご招待のみならず、カネダケ平和財団から表彰を受け、都内の超高級ホテルであるカネダケネルダケリゾートに夫婦と後援関係者らそのファミリーごと無料招待されていたことetcを、次々と暴露しては糾弾する。

「結局、アンタがやってることは、すべからく自分の利権と選挙のためで、子供の健康やその将来を真剣に考えたものじゃない。その極め付きは、アンタは安保法と改憲とに賛成した後、今や取りざたされている“徴兵制”を推進する議員連盟“わが祖国・わが闘争の会”の西部方面支部総長になってるって話じゃないの!」

「アンタは夫の企業がらみで、ずっと軍需企業カネダケの利権の傘下にあったから、国防軍自衛隊の時代から、保育士や幼稚園教諭を含む自治体の職員たちに、迷彩服で何時間もグースステップで行進させる“根性を鍛えるための体験入隊”を推進し、また、災害訓練・体力づくり・精神鍛錬などと称して、地域の行事や学校教育そのものに軍隊と軍人を関与させるということに積極的で、就職を考える年頃の高校生に対しては、その名簿を活用した勧誘をはじめとして、同じ高校生たちを使った“自衛隊勧誘ポスターコンクール”まで強力に推進した。これらは全てまさにこれから国会に上程される“徴兵制”の下準備だったんでしょ!」

  と、会場のVeni女たちが次々と立ち上がっては糾弾するのを、今や舞台前の来賓席に立ったまま、席をはずした羅衆夫人の分までもひときわ目立つ厚顔メイクで一人受けるほかないメラニー

  しかし、彼女は、

「アタシは知らない。何も知らない。義理の母に叱られようとも、アタシはホントに何にも知らない。すべてはサガワが、サガワが一人でやったことでありますから。また一般論としてですね、仮にアタシが知ったとしても、サガワにハゲしく脅されるのがコワくって結果的に仕方なくやったことでありますから。むしろアタシは、サガワにはめられた被害者なんでありますから・・・。」

  と、ここは涙声で言うメラニー。サガワとはあの女・・いや、男秘書のようである。

メラニー! 涙でマスカラ落としながら、言い逃れの‘ますから’を繰り返す。マスカラはダマになっても、もうこれ以上はダマされないぞ!」

「サガワ、サガワと、今更いない人のせいにするとは、まさにクチナシの花も供える死人に口なし。この期においてこんな手で糾弾を逃れようとは言語道断!」

「私たちが今までアンタにTPP、共謀罪、秘密保護法、安保法、改憲と、ことごとく裏切られてきたその上で、今度こそ絶対に許せないのは、次世代の子供たちや若者たちを戦場へと送りだし、殺し殺されるのを法的な義務とする“徴兵制”を、アンタがまたもや推進してるということなのよ!!」

  しかし、このメラニー議員。すべてをサガワのせいにして、知らぬ存ぜぬ貫き通すと思いきや、“徴兵制”のこの言葉には敏感に反応し、それどころか逆に反論し始める。

「“ちょうへいせい”は、何よりも天皇陛下の御ためで、この国の国民ならば陛下のお気持ち察した上で、当然に受け入れなければならないことですッ!」

  と、糾弾を受け、今まで押され気味だったメラニーの反撃が始まったみたいだが、よりによってこんな理屈に、政治生命かける気だろうか。

メラニーッ、ただ天皇陛下のためだけに国民は徴兵制を受け入れろって、それじゃあまるで戦前といっしょでしょーがッ!」

  しかし、メラニーはひるまない。それどころか、

「そうよ! こんなことはこの国の歴史において、今までも先例があったことだし、天皇制のもとにおいては、これからもあるべきことよ!」

  と、厚顔メイクのグロスづけのそのマスクをまたグロテスクに光らせながら、ドヤ顔で自信満々。

メラニー! アンタは天皇陛下の御ためには、子供若者次世代は“命を捧げろ”って言う気なの?! それってどういう精神よ??」

「アタシはこの精神に誠心こめて言ってるの! 命を捧げるというよりも、第一、陛下のお命こそを、お守りせねばなりません!」

  ここまでハッキリ言い切られては、会場さらにどよめき渡り、議員たちの中からも、さすがにそれは、“ちーがーうーだーろー”とのヤジが聞こえる。

  だが、確信に満ちるメラニー、それでもまったくひるまぬ気配で、ここでマイクを握りしめると、政治屋らしく法令違反にならぬよう、またホウレイ線も割らぬよう、失言をも辞さない覚悟で熱弁の構えに入ったようである。

「だって陛下はご高齢でご退位をあそばされ、その時同時に元号は超えられて、まさにアタシの言ったとおりになったじゃないの!」

  会場、このメラニーの一言に、一瞬、何かが“ちーがーうーだーろー”と思ったが、ここで最前列に座ったキンゴがパソコンに文字を打ち込みプロジェクターから、今や平目の画面が消えた会場のスクリーンへと投影しようと、立ち上がって発言する。

メラニー議員の言ってることって、ひょっとしてコレですか?」

  そしてスクリーンにはある文字が、拡大されたポイントで大々的に映し出される。

  “超平成”

  メラニーは我が意を得たりと大喜び。

「ピンポーン! そうよ、そうよ、コレなのよ! アタシが先から言ってるのはァ!」

  会場、怒りと呆れでブッ飛んで、そのあまりのバカバカしさにもはや誰もついてはいけず、怒りと呆れ、下らなさとしょーもなさ、絶望感が交互にうずまく感情のはけ口は、各座席の座布団飛ばしに向かう他はなさそうだ。

  今や会場のあちこちからは、メラニーめがけて座布団が入り乱れては次から次へと飛ばされる。

  “危険ですから場内では、座布団を投げないようにして下さい。また、女性の方はくれぐれも土俵にだけは上がらぬようにして下さい。”

  そんな会場アナウンスが流れるなかで、いくつかの座布団がメラニーへと命中し、彼女はそのまま机の下へとうずくまる。

「オエーッ! オエーッ! ウゲェーッ!!」

  どうやらメラニー、急に嘔吐をば、もよおしたみたいである。

メラニー、去るものは追わずといえども、『嘔吐』は去る捕る。逃げられないぞ!」

  だが、メラニー、議員席から“役者やのう!”とのヤジ受けながらも、ひたすら声だけ吐き続け、その有様はたとえ土俵の外であっても女性でも近より難し。

  だれもが尻込みするなかで、ここは形だけでもと、羅衆夫人と平目とが床にへばりつきそうなメラニーに手をかけて、介抱しようと間に入る。

そして、メラニーをかかえ起こして、三人三様、その面々を上げた瞬間、

「キャーッツ!!!」

  と、今度は最前列のプチブルマダムが、いっせいに悲鳴を上げては席を立って逃げ惑い、タミまでもが血相かえて後ろの席まで逃げてくる。

「タミ、お役目ご苦労さん。どうしたんだよ、あの騒ぎ? あの三人にいったい何があったんだ?」

「イヤ、もう、皆さん。あれときたら、驚き、轟き、ガンモドキに、願ほどきでも消せそうにないですよ。何と三人三様に、各々の額の上にはっきりと“怨”の血文字が浮き出ていて、羅衆夫人は手持ちのファンデを塗ったくってもまったく消えず、あれじゃ、シワトリ・シミトリよりも、メンドリ(面撮り)のうえオンドリ(怨取り)をやった方が・・・。」

  そこでテツオが立ち上がって双眼鏡でよく見たところ、三人の額には“怨”の血文字がはっきりと浮き出ている。

  テツオは隣の席でじっと黙って凝視をしていたユリコを見ると、ユリコは落ち着きはらったまま、こう答える。

「たとえどんな悪人でも、人間も神の創造物であり、神の絶対値の領域すなわち良心があるだろうから、その良心の片鱗が自ずと表にあらわれる。今後、彼らが自分の悪業を心から悔い改め、正しい行為に努めるならば、やがてはあの“怨”の血文字も消えるだろうと、私は思うよ。」

  だが、ここまでくれば、もう会場はてんやわんやの大騒ぎ。とてもメラニーの糾弾や疑惑解明どころではない。そしてその時、ちょうどタイミングをあわせたように、会場の入り口から黒服姿の男たちが入ってくると、議員と行政職員らにすばやく何かを耳打ちして、彼ら全員、ただちにその場をそそくさと立ち去っていったのだった。

 

  ますます何が起こったのかがわからない。また、困った時には北朝鮮が、いつものようにミサイルやら飛翔体を発射して、国民をひれ伏させる訓練もどきのJアラートでも鳴っているのか。でも、米朝会談、南北和平ムードのなかでは、もうその手も使いにくいよな・・・-などとテツオたちが思っていると、ヨシノママが手持ちのスマホを取り出して、もっとインパクトのある超号外級のニュース画面を見せてくれる。

  そこには、再び大文字で、もっと迫力のある究極のイヴェントが記してあった。

  “米軍機、首相官邸についに墜落!”と・・・。

 

  戦い済んで日は傾き、今はちょうどアフタヌーンティータイム。テツオたち4人とタミ、そしてあの勇気ある発言をしてくれた女子高生の計6人は、駅前のコーヒーショップにプクイチがてら集っている。

  羅衆夫人らの企みは、かくして無残に崩壊し、会場は引き続きVeni女の再建総会ともなって、タカノ夫人とミセス・シン、そしてレイコのスリシス=スリーシスターズの3人は、そのまま会場に残ったので、6人はではお先にと、かつて彼らが革命と独立を志した“お茶会”の記念の地であるこの店に、今日の戦勝祝いも兼ねて再び集っているのだった。

  戦勝祝いと言ったって・・・、そう、4人は今さら祝うものもなく、今日ので更にまた絶望が深まった-と各々思っているようだ。そのなかで敢えて良かったことといえば、あの勇気ある発言をした女子高生は、実はタミの彼女であり、彼女は今日を転機として、真実を語らない今の高校に見切りをつけ、来年度からタミとともに島の学校に来る決心をしてくれたと、タミが4人に彼女の紹介と報告をしてくれたことだった。そして彼女はヨシノやキンゴと同様に、内部被ばくを生涯のテーマとして、私も医学部を志望しますと、決意を語ってくれたのだった。

 

「・・・、しかし、ホントにシャレにならないよねえ・・・。米軍機がよりによってあの首相官邸に、ついに墜落しただなんて・・・。」

  と、ヨシノはママが貸してくれたスマホをいじくり回しながら、こっそりとつぶやいている。

「今まであちこちに落ちてきたし、また落としてもきていたから、官邸に落ちたとしても不思議じゃないよな。でも、それっていったい、いつ落ちたの? 朝も昼もそんなニュースはなかったけれど・・。」

「それがさ、落っこちてから炎上、消火、鎮火にガレキ化、ここまで結構時間が経っているらしいのね。こういう時はネットのウワサも、それなりに参考になるのかもね・・・。」

  と、ヨシノはスマホの画面から、いくつかのツイート等を、紹介して見せてくれる。

「・・当初、政府は、これもまた特定秘密にしようとしたようだけど、官邸ってさ、曜日がわりで何かとデモが行ってるじゃない。それでユーチューブにも流されて、隠しきれなくなったのか・・。」

「さすがに米軍機の破片が映った以上、いつものように北朝鮮のせいにするのも無理だしな・・。」

「官邸の周辺は、画像のとおり厳重に封鎖され、あの沖縄国際大学の時のように、米軍関係者以外は一切の立入禁止。またこの国の警察官も幾重にもガードしていて、少しでも近づくものなら、被害を受けたのはこの国の国民なのに、香港の警察みたいに、牙をむいて襲ってくるとか・・・。」

「この国の首相と官邸とが、また別の意味でもこの国の警察に守れられてるってことですよね・・。」

「それでも米軍による封鎖の前に、しばらく時間があったようで、ネット上には様々な人間模様が伝わってきているようよ・・・。

  たとえば当時官邸にいたなかで、かつては脱原発を唱えたクセに防衛相を雨男で顰蹙かったあの外務相。墜落直後に炎上する官邸から一人ヨロヨロ七歩ほど歩いて出てきた所で止まって、米軍機が落ちてきた天を指さし、“安保は不変!”と叫んでそのまま、バタリと倒れてしまったとか・・・。」

「“板垣死すとも自由は死せず”と、全然レベルが違いますよね・・。」

「かつて沖縄の事件の時も、この外相の父だった当時の外相、同じことを言ったじゃないの。だからこれもカルマのひとつ。因果応報、天罰よ。」

「でさ、つぎはあの財務相。この国の消防団がまだ官邸に入れた時に、ガレキの中にご愛用のボルサリーノがころがってたので、そこを掘り返してみたところ、見る側からはまさにセクハラ。何とウンチまみれのおケツ丸出し、便器にはまった状態で、発見をされたんだとか・・・。」

「あの男って、国会でもふんぞり返って座ってたから、便所でもそうしてたんだろ。」

「官邸ってこのウォシュレットの時代にさ、まだ汲み取り式だったんだ・・。あらゆる汚職は洗い流せず、民意は汲み取らないのにな・・・。」

「でも、あの男、病院に搬送されて、便器もはずされウンチもふかれた状態で、応じた記者の質問には、“はめられたという実感は今でもある”と、答えたとか・・・。」

  ヨシノはさらにスマホをいじくり、ウワサを紹介してみせる。

「当時、あの官邸にはいつものようにいろんな人がいたようで、必ずしも入館記録に残らないし、また残っても請求すれば即シュレッダーにかけられちゃうから、炎上を見物していた人によると、首相秘書官を見たんだそうよ。それでこの秘書官は記者からの質問に、“記憶の中にある限り覚えていないが、大勢の人々に混じる感じで米兵以外にいたかもしれない”って答えたとか・・・。」

「じゃあ、官邸には、まだだれか、取り残されているのかな・・・?」

「この秘書官の話によると、首相と首相夫人、あとカンボー長官と大臣ら。それと学園関係者と思われる人物と県の職員、その他にも夜桜の会でおなじみの反社会的勢力らしき人々・・と、彼がここまで語ったところで急に記憶がなくなって、集中治療室へと送られたとか・・。また現場には、誰なのかはわからないけど、すでに黒コゲになった遺体もあるんだそうで・・・。

  その黒コゲの遺体用にと棺桶が官邸に運ばれたけど、問答無用に粛々と入ったものもある一方、ここでもやはり身の丈にあったものが見つからないのもあったとか・・・。」

「これも生前のその人の、カルマと因果応報で、天罰というべきよ。」

「学園関係者らしき夫妻は、警察に引き渡された後すぐに収監されてしまって、多分しばらく出てこれないし、県職員は無事に県に帰って真実を伝えても、真相はガレキの灰の中かもね・・・。」

「じゃあ、肝心の、首相と首相夫人の2人は、どうなってしまったのかな・・・?」

「それがさ、これも炎上見物者らの複数の目撃談によるものだけど、強い者には殴られても騙されても、『阿Q正伝』の阿Q(2)のようにウィンウィンと言いたがり、弱い者にはただ解決済、国際法を守りなさいと言い張る男と、また、自分の都合で公人・私人を使い分け、下着すれすれミニスカートの女がいて、どうやら首相夫妻らしいんだけど、2人はそのまま米軍に拉致されてしまったそうよ。」

「これも自分で拉致問題に向き合わなかったカルマと因果応報の、天罰というべきよ。」

「でも、夫婦そろって黒コゲにならなかったということは、ここは“ナチスのマネ”とはいかなかった-ということでしょうか・・・。」

 

「しかし・・、ちょっと疑問なんだけど、主要人物の動向がすでに判明しているのに、ガレキと化した官邸に異様に多い米兵たち、何を捜索したいのかな?」

  と、テツオたちはスマホを覗き見しながらも、不可解な様子である。

  するとタミが、ここはオタクの素養を活かしつつ、その疑問にかないそうなツイートをすばやいタッチで検索しては、ある画面を開いて見せる。

「・・・“究極の密約”だってぇ・・・?」

「そうです。このツイッターの言い分は、“究極の密約”なるものが存在し、米軍はバレてはまずいと、それを探して回収しようとしているのでは-というものなのです。それでこれにリンクして、こんな画像が流れています。」

  と、タミはある一枚の紙の画像を指し示す。

「これは・・、“トムとジェリー”のマンガの下に、何か英語で一文が記してあるけど・・・。」

  受験生のヨシノとキンゴ、そして語学が好きなユリコとタミの彼女の4人が一緒に見たところ、この一文は和訳では“ネコが黙っているうちは、ネズミは遊んでいてもいい(3)”というもののようだ。

「・・・、こんなのが、何で“究極の密約”なのかな・・・?」

「僕もそう思いますけど、この一枚紙の下の方をよく見てください。この横一列に並んでいる小さなウンコの絵のようなもの、これがもしや“花押”ではと。花押というのは、大名なんかが書状に印したサインのことで、今でも閣議決定など大臣が自分の花押を記したりします。それでこのアメリカのマンガである“トムとジェリー”と“ネコが黙っているうちは、ネズミは遊んでいてもいい”なる英文のその下に、歴代首相がそれを了解した証として各々の花押を記したのではないだろうかと。ただ画像のせいか、消火の水でにじんだせいか、肝心のこの花押が今ひとつはっきりせず、もしかすると本物のウンコかもと-この画像の投稿者は匿名で記しています。」

「・・でも、こんなマンガに、またマンガのセリフみたいな文で、“密約”などと言えるのかな?」

「いや、かえってこんな表現だからこそ、何とでも解釈できて、忖度しだいでネコ側は、軍事・外交は無論のこと、内政やメディアの統制、司法から貿易交渉、何だって最終的には思いのままに出来る余地が残されてるというわけです。」

「そういや、かつて中国の政治家でも、“白ネコでも黒ネコでも、ネズミを捕るのがよいネコだ”と表現して、これが改革開放政策でよく引用されたらしいから、“窮鼠猫を噛む”といわれるように、窮鼠こそ究極の政治標語に相応しいかもしれないし、また窮鼠だけにチュー告としたいのかも・・・。」

「でもさ・・、この一枚紙って、そんな密約だとすれば、いったいどこのリークなのよ?」

  タミがスマホを探ったところ、リークの経緯はこうらしい。

「炎上当時、やじ馬の酔っ払いが、天からヒラヒラ振ってきた一枚紙を拾い上げ、そのまま近くのコンビニにトイレを借りに行ったそうです。ところがあいにく紙がなく、店長に紙をよこせと言った際、トイレのみのご使用はお断りですと言われたのに腹を立て、“紙一枚じゃ足りねえんだよッ!”とこの紙を出したところを防犯カメラがとらえていて、その後別の事件をきっかけにこの画像がインターネットに流出したのをたまたま見つけた-と、この匿名の投稿者は記しています。」

「でも、それで見つけたなんて、ちょッとウンが良すぎんじゃない? むしろ今時とても勇敢な記者かなんかが、米軍が来る前に官邸に突入して密約を探しだし、こうしてスッパ抜いたとか・・・?」

「しかし、これはもう、その印がウンコか本物の首相の花押かが判然としない以上、本当はあってはならない密約だけに、この消火を機に“水に流して”済ませるほかはないんじゃないの・・・。」

 

  テツオたちがそれで何とか納得しようとしているのを、さすがはタミの彼女だろうか、その女子高生が、ここで現場のある画像を指摘する。

「先輩方、この画像を見てください。捜索中の米兵に防護服姿がいます。ということは、沖縄でかつて墜落事件があった時と同様に、墜落機から放射性物質の拡散(4)があったのではないでしょうか?」

  見れば、そこには米兵に入り混じり、防護服姿で活動中の人たちが映っている。

「米軍機の回転翼にストロンチウム90が使われていて、その汚染の危険があるってことか・・・。」

「これで首相官邸が、ストロンチウムの一大ホットスポットになったのかもね。反原発デモの人が注意深く周囲のものを持ち帰り、β線など測定するから、当面デモは見合わせるって出てるわよ。」

「その件ではこの画面で、米軍もすでにコメントを出しています。曰く、“貴国の国内法の判例では、こうした事例はムシュブツ扱いされるため、地位協定によらずとも米側の賠償義務はもとより全く存在しない”-とのことです。あの青森県の湖に燃料タンクを捨てた時と同様に、お前の国で始末しろと言いたいのでしょう。ということは、やっぱりストロンチウムは散ったのではないでしょうか。」

  だが、テツオたちはこれで頭にくるよりも、むしろある種の納得感を感じているようである。

「・・・これで、20mSv、100Bq、8000Bqを法令とした張本人らのこの一画が、これから永くSvやBqの被爆地や汚染地になるってことか・・・。“ざまあみろ”-と言いたいよな・・・。」

「自分たちでこの官邸から“ただちに健康に影響はない”と言ったのだし、再建されてもこの官邸で引き続いて政治をやって、自分たちのカルマと因果を受ければいいのよ。」

  6人は後味こそはよくないものの、ここは静かに皮肉っぽく笑うしかないようだ。

 

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  だが、ここで、タミと彼の彼女とがうつむいているのを見たテツオは、これではあまりにお気の毒と思ったのか、話題を変えんと試みる。

「みんな、もういいじゃないか。サピエンスらの好きにさせれば。俺たちニアイカナンレンシスは、自分たちの未来に向かうほかはないのだし・・・。

  それより、タミがせっかく彼女を紹介し、また彼ら2人が俺たちの卒業後も島を継いでくれること、そして彼女はヨシノとキンゴと同様に内部被ばくに取り組む医者となることまでも決心してくれたんだ。

  この店は俺たちが革命と独立を志した“お茶会”の記念の地だし、今から2人を祝福しよう。俺たち、まだ酒は飲めないけれど・・、いや、酒なんて要らねえや。みんなコーヒー飲んじゃったから、アイスクリームでも食べようか。俺がおごるよ。漁村の会でおばちゃん達に花苗をプレゼントして、出荷先をまた紹介してもらったし・・。」

  するとキンゴが、ここで手を挙げ発言する。

「い、いや、おごるのなら僕が出すよ。というのは、あの不屈の抵抗大作戦、インターネットのBGM選手権でまた賞金が取れそうなんだ。あの作戦、タミが参謀をやってくれて勝てたのだから・・。」

「そういやさ、今日のこの羅衆夫人やメラニーやらあの秘書って、ママたちが交代してビデオ撮りをやってるから、あれにBGMつけて、また面白おかしく出品をしてみたら。」

「キンゴ、それなら今度は、どんな音楽、付けるんだよ?」

「そうだなあ・・。陰謀家の羅衆夫人というからにはロシアっぽく、またあの秘書に相応しく・・、」

  と、キンゴがここまで言ったところで、サゲを取ろうとタミが「ちょっと待ったァ」と手を挙げて、また、その彼女もウキウキと手を挙げたので、キンゴはかわって彼女に譲る。

「・・あの秘書さんには悪いけど、『ハゲ山の一夜』をコラージュしてBGMにしちゃうとか・・。」

  6人はこれでもう大笑い。テツオは-秘書がここまで引っ張られるとは-と、少し気の毒な感じもしたが、とにもかくにも、これで6人の今日の日は、笑いのうちに幕を閉じたようである。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 

  -テツオったら、やっぱり落ち込んでいるのかしら?・・・-

  6人は、それぞれのカップル同士で別れたあと、2人で島へと帰ったユリコは、前を行くテツオの背中を見ながら思う。

  -講演会では思い残さず、自分の意見を言ったのに・・。二人っきりになった途端、また元気をなくしてしまうだなんて・・・-

  ユリコは二人で復活したあの日以来、ずっとテツオを気にかけている。

  -彼って、不恰好なその上に、ヤニ臭ささえ残っている借り物の学ラン姿がいやなんだわ・・-

  島に着いて船を下り、ユリコの先をポケットに手をつっこんだまま、学ランを引きずるように歩いて寮に帰ろうとするテツオの腕に、ユリコはサッと片手を入れては、彼に声をかけてみる。

「ねえっ、テツオ! 寮のあなたのお部屋って、私今まで見せてもらったことがないんだけど、この際一度、見せてもらっても、いい?」

 

  テツオの個室は、平屋建ての木造校舎の、玄関から入って、喫茶室、厨房と、その奥は居住空間ということで、原発事故の避難者用にと改装した元教室の一つであり、結局、一期生はテツオしか入らなかったわけなのだが、校舎には共同のトイレと洗濯、洗面所とお風呂があって、何人かが共同生活するキャパは充分あった。元教室というだけに、人ひとりが住むのにはいい広さで、テツオの場合は総板張りの床上に適当に畳をしいて間仕切りをして、質素に簡素に家具など置いて、それなりにアレンジをしているのだろうと、彼女のユリコも実際に入ってみるまでそう思っていた。

  しかし、寮とはいえプライバシーを気にするテツオが厳重に鍵をかけたその部屋に、初めて入ったユリコはここで、想像以上のものを目にする。

  -だってさぁ・・・。お部屋の真ん中、いちばん目立つ所には、メイク道具もおそろいの鏡台をはさむように全身大の姿見が二枚向き合い立てかけられて、部屋を囲んで置かれている開放型のクローゼットは、喚起よく開け放たれているんだけど、男子のものと劣らぬくらい、ブラウス、スカート、パンツ等の女子の装い、これがまた彼らしく几帳面に、まるで婦人服売り場のように整然と色鮮やかに並んではつり下げられているのだから・・・。それに、ウィッグまでもあるんだし・・。立派なヒールのパンプスやミュールまでも揃えてあるよ・・・。また、部屋中のいたる所に、彼お気に入りの大小の季節の花苗、観葉植物の数々が、まるで役者の楽屋のように所ぜましと置かれていて、香気を放っているのだから・・・。これじゃ、テツオの部屋というよりも、テツコの部屋といったほうが・・・。私は彼を薄々と知ってはいたつもりだけど、まさかこれほど“進化”をとげていたなんて・・・-

  だが、ユリコの驚きとは別に、当のテツオは弁天みたいに正体がバレちまったと、開き直る様子もなく、学ラン姿に背中を丸めて自分のベッドに腰掛けて、何だかボンヤリしたままだ。

  ユリコは冴えない姿のテツオを見ながら、彼が以前あの女っぽウォークを見せた際、イキイキウキウキしていたのを思い比べて、ここで直感的に提案してみる。

「ねえ、テツオ! あなた今からお化粧して女の子の装いをして、私と海辺を、歩いてみない?」

  テツオは穴の開いた学ラン帽子のその下から、穴の開いたような目を向けてはきたが、

「じゃあ・・・、おヒゲを剃りに風呂場のシャワーに行ってくるから、そのまま待っていてくれる?」

  と、女物の下着を取って、小股でそそくさと行ってしまった。

 

  ユリコは今、彼のシャワーを待つシチュエイションのなかにある。-通常のカップルならばこの後に、男の彼との儀式があるが、それはこの前終わっちゃったし・・、今日はまた女の彼との・・・-。

  ユリコがそんなことを思っているうち、本来なら、水もしたたるイイ男とも言えるテツオが、“恥ずかしいから、こっち見ないで”と言いながら、こっちが恥ずかしくなりそうな雰囲気で帰ってくる。

  -やだわ・・、本気にさせちゃった・・。でも、そうさせたのは、私だし・・・-

  ユリコが顔を真っ赤にしながら-じゃあ、ちょっと外の空気を吸ってくるね-と、部屋を外して校舎の庭を散策しながら、窓越しにテツオの部屋をチラ見すると、テツオはカーテンを開け閉めして光の加減を調節しては、ひとりメイクにいそしんでいるようである・・・。

  適当な時間が過ぎて、ユリコは再びテツオの・・いや、今やテツコのお部屋へと入っていった。

「テツオ・・、あなた、ウィッグを、つけたんだ・・・。」

  開門にして開口一番、まずは彼のショートヘアーに目がとまる。

「うん・・。だって、まだ残暑もあれば稲刈りも終わってないなか、男の短め刈上げヘアーが便利だし。ウィッグなら自分の髪の生え具合を気にしなくても、いつでも女装できるしね。それにこのウィッグ、コスプレ屋で売ってるもので5000円程度で買えるし、それで結構本格的よ。だいたいあたしのコレクションって、古着屋か量販店でのシーズンオフ待ち在庫処分で手に入れたものだから、そのほとんどがワンコイン500円程度で買ったものよ。」

  テツオの経済感覚は、すでにオバサン並みなのかもと、ユリコは思う。

「それで・・、チークもルージュも完成し、おヒゲも無事に隠せているけど・・。

ところでテツオ、あなた、アイメイクは、全くしないの?」

  さすがに彼女であるだけに、ごく短時間でも顔中くまなくチェックを入れてくれたことに、テツオは少し嬉しく思う。

「うん・・、今日は目にクマもなく、それに一度アイメイクをした際に、鏡を見つめた時にほら、視線がずれるというのかな、自分で自分の目の焦点が合わないような気がしたのね。だからアイメイクはまだ開発途上、どうやったらいいのやら・・。道具は一応ひととおり、揃ってはいるんだけど・・。」

「じゃあ、私が今からやったげるから、テツコとしての女子メイク、すべて完成させようよ!」

  ユリコは、自分がメイクをしないのに、どうしてこんなに乗ってくるのか、不思議な思いもしたのだが、やり方を知らないわけではない以上、テツオをモデルにさくさくと、眉毛を切って先端そろえ、剃ったり塗ったり描いたりして、ついにはテツコの女子メイクを全て完成させてしまった。

「!!~。 テツオ、ちょッとあなた、顎を引いて・・。そう、そんな感じで・・・。

  ・・わあ、どうしよう・・・。わたし、惚れなおしてしまいそう・・・」

  -惚れるだなんて、初めて聞いたよ-と、テツオが意外に思ううち、ユリコにしては珍しく、朱くなった両頬を恥ずかしそうに手でおさえつつ、鏡台前で立ち上がるのを横にして、テツオはこれで完全にメイクアップされた自分を、鏡台の中にあらためて見つめはじめる。

「おお~ォッ!!」

「おお~だんてオッサンくさい。女の子らしく、キャぁとかワァとか、その方がカワイイのに・・。

  でも、わたしが思ったとおりだわ。あなたの眉ってはっきりしててカッコイイから、これを活かしてさらに形を整えて濃く描きたせば、オードリー・ヘップバーンみたいになるのかもって・・。」

「お、おお~っ、おお道理!」

  ユリコはあくまで眉メイクのみ大女優に譬えたものと思われるが、それをテツオは顔全体に拡大解釈したかもしれない。

  -そうよ・・、そうよ! あたしは本当はこれほどまでに美しくなれるのよ・・。今まで手加減して未開拓のままにしていたアイメイク。それが実際やってもらうと、頬のチークのグラデーションを引き継いで、マスクの上部にたなびき渡る、夕日のようにオレンジがかったアイホールと、黒い眉の天の橋に、紫色の薄雲がかかったみたいな・・・-

「テツオ。あなた、顎は引いた方がいいと思うよ。顎さえ引けば、フェイスライン全体が引き締められて細く見えるし、その黒長美眉も際立つし、さらに帽子を被ったら小顔効果もはかれるわよ・・・。」

 

  木造校舎をとび出して、二人は海辺へ向かっていく。防風林の松並木を越え、浜辺へ下っていこうとして、二人は少し高い並木の端から、波打ち際にゆるやかに弧を描いてはつづいていく砂浜を見つめている。そしてその向こうの端には、海に向かって突き出した大きな岩の塊が、砂浜を遮るように横たわっているのが見える。

  午後の陽もすでに傾き、やわらかい4時の光もあかね差す頃、二人は砂浜へと歩を踏み出す。

  ユリコのボトムズはブルー、テツオもボトムズがピンクのほかは、二人ともブラウスにプリーツスカートの揃いの装い。すでに水平線の上にまで来ようとする陽は、朱るみつつあるその光を、西の海より二人の背中へと照らし、そのシルエットを影絵のように、細く長く揺らせながら、砂浜へと映し出す。

 

  ユリコは歩きにくいからと、白スニーカーをはずしては素足にかえり、波打ち際を波が寄せては引いていく湿り気のある砂浜に、足跡を残していく。

  テツオもそれと同じように、ヒールのミュールをはずしては素足にかえると、ユリコのちょうどその隣に、一回りも大きめのその足跡を刻んでいく。

  二人の足と足との間に、時より波が打ち寄せては、いきおいよく風も吹き寄せ、たがいの青とピンクのスカートも、貝のようなプリーツをまじらわせては、波と風とにあおられて、潮のしぶきを受けるようだ。

  日頃はスカートをはかないテツオは、残暑のなか、ストッキングのない己の毛剃りの二本の足がヌーディーのまま、海風に吹かれつつ冷まされながら、揺れるプリーツスカート内で潮に晒されからめ捕られていく感じで、それが時おりスカートの先端に見え隠れする爪先とあいまって、隣をいくユリコのそれよりなおいっそう、色っぽく思えてくる・・・。

 

  そして二人は、大岩が海の中まで突き出ている浜の向こう端へと着いた。

「テツオ・・・。この大きな岩の向こうには、私の行場があるんだけど・・・。行ってみない?」

  岩は浜を遮るように横たわり、その先端でしぶきを上げる波間に向かって大きくせり出し、潮風に永く晒されていたためか、その表面は黒光るほどよく磨かれている。

  ユリコはその大岩を陸の側よりまわり込み、切込みみたいに残された隙間のような通り道を、テツオを連れて進んでいくと、そこはちょうど大岩の裏側にあたる所のようである。

  そこは小さくはあるのだが、さすがに行場だけあってある種の霊気が漂いそうな、洞窟にも似た空間だった。二人は滑らないように注意をしながら更に深い所へと降り立つと、その地には砂浜が続いていたが、それはあとから堆積をしたものらしく、永年の波風の浸食により岩全体がくり抜かれたと思えるような天蓋がつくられていて、二人の背丈を充分に覆うだけの高さがあった。

  この洞窟にも似た行場の奥の方からは泉が湧き出て、それが天蓋を支えている岩壁と砂浜とを隔てるような小さな川の流れとなって海へ注いでいるのだが、海辺にせり出た浸食で複雑に造形された岩場には、潮が満ちると今度は逆にその小川から潮が上ってくるようにも思われる。

「・・・私は、この行場って古くは行者が、泉が湧き出る洞窟にこもりつつ、星を見ながら禅行を行じていたに違いないと思うのよ・・・。」

  岩壁に手を当てながら、そう言うユリコの言の葉が、天蓋に余韻しながら言霊みたいに渡っていくのを、テツオの耳は澄みきった滴の音をとらえるように聞いている。

 

  陽は西海の日没へとさしかかる。夕日は、ダルマの絵のように水平線で分かたれた上下二重の半円形の対称性を示しつつ、月に引かれてだんだんと満ちてくる潮にあわせて、だいだい色のその光を大岩の天蓋から空洞の中の方までとどかせる。そして、今や向き合おうとする二人の体は、あかあかと灯し出されていくのだった。

  これからまさに満ちていく潮の響きが、大岩の壁面にこだましあって、最奥の闇の中から漏れいずる泉の真水のささやきと互いに干渉しあうように、二人の耳には強めあい、弱めあうまま聞こえてくる。

  洞窟の空洞は、打ち寄せる波とともに潮の匂いがこもるものの、同時に吹きさぶ海風が、さらに新たな潮の匂いで空洞をいっぱいに満たしてくれる。

 

  今、テツオの目には、ユリコの立ち姿がはっきり映る。ユリコはその身を風に吹かれるままに立ち、手にしていたスニーカーを下へと下ろすと、素足で砂地をつかみつつ、足を少し左右に開いてAラインを示しては、青いプリーツスカートを扇のように風にそよがせ、やがて自ら髪の束ねをひもといて、その黒長をそのまま宙へと解き放ち、川のように泳がせる。

 

  ユリコを見つめ続けているテツオは、やがて彼の脳裏の最底から、ある叫びのような一声を、ここで再び聞くのだった。

  -“Vincere! e,Vinceremo! 征服せよ、支配するのだ!”(5)-

  その声は金属を引き裂くような金切声で、今やテツオの脳裏には、最後の審判を受けた後の、すでに断末魔へと落ちた、醜さといやらしさに満ちているかに思われる。

  -ファッショ、団結、集団、奴隷・・、それらを支える棍棒、暴力また権力、そして男根・・

   だれが今さら、そんな野蛮に乗せられるか。僕はもう、サピエンスには戻らない-

 

  テツオの目前に立つユリコは、その紅い唇を支点として、トップスの白ブラウスになびき渡る黒長の髪、ボトムズのブルースカートの各々を、まるで太極図の陰と陽の印のように渦巻かせ、その瞳はトビ色の光を放ち、ますます輝き渡って見える。

 

  テツオも手にしたミュールを下ろすと、素足で砂地をゆっくりと、ユリコの前まで進んでいく。

  互いに見つめ合う二人。だが、テツオのメイクされた目に、ユリコは何かたじろぐものを感じたのか、思わず目をふせ胸に手をあて、動悸に打たれているようだ。それでもユリコの足先は、砂地をしっかりつかんだまま、後ずさりしようとしない。

 

  テツオはユリコの手をとって、今の思いを素直に伝える。

“ユリコ・・。わたしは今、こうして男女の辺を渡っていく・・。あなたもいっしょに、このルビコン川を、渡って行かない?”

  再びテツオの目を見るユリコ。その瞳はまたトビ色に輝いて、もう迷うことはないようだ。

“テツオ、私たちは今こそ二人で渡るのよ。私たち人間を永遠に自然から遠離させ、楽園から追放される因となったあの‘原罪’を、私たちは二度と繰り返すことはない。私たち新たな人は、もう二度と原罪ゆえの生存の苦を受けない。

  私たちは今こうして男女を渡り、原罪の因である相対知の源を超えていく。そして私はついには相対知の極致である‘生死’さえも、あなたとともに超えていきたい。”

 

  テツオはユリコに、念のために確かめる。

“わたしたちは‘性=SEX’を、サピエンスの語源のとおり、‘分かつ’以前の‘分かたない’自然のままいこうとしている。

  でも、ユリコ・・、もし、このままいけば、赤ちゃんって、どうなるのかな・・?”

  ユリコはテツオのその問いに、しっかりと目を見つめて、こう答える。

“今日はその日ではないの。私にはわかるのよ。まだコウノトリが来ないことが・・。心配しないで、神がお望みになった時に、きっと恵みはもたらされるから・・・。

  だから今日は、二人でいけるところまで、いっしょにいこうよ・・・。”

 

  あともうひとつ、テツオはユリコに希望を伝える。

“ね、ねえ、ユリコ・・。ここで笑われたらアレだけど・・、あの、部分的に女子服をつけたままで、いいのかな・・・。

というのはね・・、全部脱いじゃったりしたら、男に戻ってシラケちゃいそうな気がするし・・。浮世絵の春画でも、たいてい着たままやってるし・・・。”

  テツオとしては、-ここで男に戻ったら、きっとまた途中でナエる-と、言いたい所でもあった。

  幸いユリコは理解してくれ、-じゃあ、わたしも興ざめしないように、なるべくテツコに合わせてみるね-と、答えてくれた。

 

  あとテツオにはもうひとつ、ユリコには言えないが、彼自身が思い込むべき課題があった。

  -・・・不思議なことに、まだ充分に勃ってるし・・。今日はもしやいけるのかも・・・。でも、だからといって、ここで‘ペニス’の意識を持てば、またナエてしまうのかもしれない・・・。

     こんな思考実験は初めてだけど、いっそのことこれは‘進化の過程で突然変異の巨大化したクリトリス’というふうに思い込めばいいのかな・・・。だって、もとはといえばこの二つはいっしょだし、メスが交接器を持つことも進化の過程でありうると、どこかで読んだ気がするし(6)・・・-

 

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  二人はここで改めて、互いに向き合おうとするのだった。ユリコは今、自分の目前に立つテツオが、いつものテツオでないのに気付いた。それは彼が女装をしてテツコになっているばかりではない、何か別の人格といった感じさえさせるものだが、それでもユリコはテツコの中に、彼女が愛する人物の面影を見た思いがするのだった。

  ユリコはテツコを見つめながら、とても優しく、ゆっくりと微笑んだ。だがテツコの方は自分が置かれたこの状況におどおどしていて、まるで改めて生まれ直してきた子供のように、何から手をつけてよいのかが分からない様子である。

  テツオが“女子服をつけたままで”と言ったものの、ことの性質上これからは互いに服を脱がざるを得ず、二人はトップスとボトムズを脱ぎ落した後、ブラとパンティーだけとなった。テツオはもちろん女子もののそれである。もはや暗がりなのではっきりとは見えないが、テツオのその一物は女装には相応しいと言っては何だが控えめなものであり・・・LLならばショーツにきりきり収まるくらい、あまりモッコリとはしておらず、おそらくスカートの上からだったら触っても分からぬ程度・・・これがテツコの妙な安心感にもなっているようである。

  しかし、今や新しい人類のイヴとなる決意を固めたユリコにとっては、かつてアダムと共に互いを隠した“イチジクの葉”のすべてを取っ払いたいわけであり、ユリコはそこでおもむろに、自分の方からゆっくりとブラをはずした。

  ユリコは自分の美乳に自信があったが、これがかえってテツオとテツコの自尊心に傷をつけてはならないと思っていたので、美乳にはそぐわない不安げな面持ちで、テツコの顔を見上げてみると・・・その目には彼がいつも花々を見つめる時と同じような、美しいものを愛でている優しさと愛おしさが溢れていて、やがて花びらに水滴がしたたるように、涙が零れ落ちていったのだった。

  テツコは緊張した面持ちで、震える手先でユリコの美乳に優しく触れる。ユリコの方も、ここで優しくテツコのブラをはずしてあげる。そして彼女の方も、テツオの胸にそっとその手をあててみる。

  テツオはこのシチュエーションを予見したのか、きれいに胸のあたりの毛を剃っていて、当然ながら乳首は小さく、胸の様子も女子的には貧乳ではあるものの、ユリコにとってもこれはテンションを損なわれず、高めさえする感じがする。ユリコはテツコが彼女にしたようなのをやや踏み込んで、手の平でなく手の甲がわの指先でその胸の輪郭をなぞっていく。そして爪先が乳首の先をひっかけた際、悲鳴にも似たような甲高い歓喜の声を聞くと同時に、ユリコはテツコに抱かれて、耳元でこう囁かれる。

「・・・ユリコ、あたしはね、本当はずっと女の子だったのよ・・・。ねえ、あたしのこの切なさを、あなたは分かって??」

  だがこれは、ユリコにとっては望外の喜びであり、彼女の方こそ感極まってこのように返すのだった。

「・・・テツオ・・、あたしもずっとそう思ってたのよ・・。何だかいつもお姉と話しているみたいだなあって・・。だからこそあなたはあたしの、生涯の伴侶なのよ。」

「・・ユリコ、あたし嬉しい。本当に嬉しい。ありがとう。これであたしは、吹っ切れたわ・・。」

「テツオ、あたしたち、今から愛し合いましょう。あたしたち、きっとお互い、レズビアンよ。」

  そして二人はキスを交わした。ユリコはテツコのキスが、今までのテツオのとは全く違っているのに気付く。テツコのキスは、始めはおどおどしたものではあったが、とても優しいものだった・・。

  テツコはおそるおそるユリコの顔に手を触れると、その輪郭を指先で撫で、その黒髪をまた指先ですくように撫でてくれたが、そのタッチも、テツオの指とは思えないほど繊細なものである・・。

  テツコは再びユリコの美乳を手に取ってみる。それは質感ゆたかな、見るからに美味しそうな、色合いと瑞々しさ、そしてあくまで想像上のものではあるが甘さも含めて、まるで洋ナシのようである。

  ユリコは、いつものテツオに触られている実感はすでになく、テツコの気持ちをよく汲み取って、彼女に対して同じことをやってみる。テツオはもとより撫で肩で、首も男にしては細かったが、さらに上体をやや前に屈ませ細く見せ、それがその胸元にやや膨らんだ乳房をつくる。ユリコはそんなテツコがいじらしく、また可憐にも思えてきて、彼女のそのAカップみたいな、洋ナシに比べてみれば小さなカップケーキくらいの乳房にキスをすると、まるで赤子がするようにその乳首を吸ってあげる・・・。

  やはり悲鳴にも似た喜びの声が聞こえる・・・、それはテツコにとっては内なる女性が声帯という器官を通して世に現れた瞬間であり、またユリコにとっては今さら秘めるまでもない彼女の高いテンションが解放できる時でもあった。二人はここで、もう一度自分たちの祝福のキスを交わすと、かつて自分たちを互いに隠し隔離させ、ある意味では葬り去った“イチジクの葉”を、ここで互いに取り去った。今やこの新しい二人にあるのは、もはやペニスも女陰も関係ない、ただ“自然”だけであるように思われた。

 

  やがて二人は互いに互いを触れあわせ、重ねあわせていこうとする。二人の心臓、血の脈音が、寄せては引きゆく波の音、吹きすさぶ海の音と共鳴しあって、自然が二人を導いていくかのようだ。

 

  今宵、輝こうとする月が、白いその素の姿のまま、陽が沈みゆく宙の下からあらわれて、洞窟の泉の小川が海へと通じる複雑な造形の岩場の方より、月に引かれた潮がこれより、その川の瀬を逆に上へとのぼりはじめる。

 

       二人の鼓動も、吹きすさぶ海風の音という音とともに、二人を覆う岩壁の硬い響きと交わりながら、高まり、そしてさらに高めあっていくのが聞こえる。

 

       ユリコの長い黒髪も、空洞に満たされた潮の匂いに、甘い香りをさし色みたいに混ぜあわせて、大岩の天蓋には、若々しい二人の声が、転調を重ねてはより高い響きを求めて、こだましつづける。

 

  そして・・・、

 “ユリコ、ユリコ・・、出たよ、出たのよ、できたのよ・・・。ありがとう・・・”

  テツコのしぼり出されるような涙声が、ユリコの心の奥底へと、したたるように届けられる。

 “この瞬間ってね、すっごく優しい気持ちなのよ・・・。すばらしい・・、信じられない・・。こんな優しい気持ちなんて・・・”

  ユリコもテツコを、強い力で抱きしめかえす。

 “テツコ、やったね、やったね・・。よかった、よかった・・。ありがとう・・・。

  わたしもまったく同じ気持ちよ・・。神聖さが、神聖さと優しさが、わたしにも満ちているよ・・”

 

  静けさが二人を覆い、潮の高鳴り、海の遠鳴り、波の戯れ、そんなあらゆる音という音の鳴りから、二人を隔てているようだ。

  二人は抱きしめあったまま、あたたかさの中にある。時がとまり、二人のなかで、ただ永遠の魂が生きてるような、そして互いにまさに“光”のなかにあるような、そんな思いがするのだった。

 

  やがて余韻が、二人のなかに広がりはじめる。互いの鼓動も、この間も絶えることなく打たれていたのが、落ち着いた本調子へと戻っていくのを、二人は互いの胸元へと聞き出していく。

  二人の中に満ちた潮も、その高鳴りをしだいに散らして、互いの血の脈音も、それに比例するかのように、静けさを取り戻していっている。

 

  二人はここで頭上の方より、泉の湧き出る音を聞いた。それは空間のゆらぎの中から、月の光を受けた滴がしたたり落ちてこの世にあらわれ、真水となる原初の音といえるのだろうか・・・。二人にはこれがあたかも、これから二人で宿していく命の光の音のようにも、感じられた・・・。

 

  テツオは落ち着いてきたころに、ユリコに一応、彼の思うところを話そうとする。

「ユリコ・・。でも、やはり出るのが、早かったよね・・・。これからは寸止めを、鍛えとくから・・」

  ユリコは、ここは静かに、こう答える。

「テツオ・・、そうじゃないのよ・・。あなたの愛と心遣いは、私には充分なのよ。それとあなたの女性に対する敬意というのも、私にはよくわかる・・・。

  私はすべては愛だと思う。感覚は二の次だから。私たちは感覚への刺激よりも、愛の方が大切なのよ。あなたがいつも花々を愛するように・・・。」

 

  潮がいよいよ、洞窟まで及んできそうだ。

  月がようやく昇りはじめて、宙の夕日の残影に、その白光が入れ替わろうとするのにあわせて、海の潮が再びその勢いを増してきているようである。

 

  二人は着衣を正し終えると、洞窟の岩場を出て、月の光に照らされながら、来た道をかえっていく。

  テツオは木造校舎の寮に戻ると、ユリコの髪に混じった砂と、顔中に彼のファンデやルージュのあとが付いていたのを取るために、先にお風呂に入れてあげ、その間に彼女の服に混じった砂を取ってあげた。そして後の風呂でメイクを落とし、着替えをすませて、ユリコを鏡台に座らせると、ドライヤーで黒髪を乾かせては、ブラシで整え、再び束ねてあげたのだった。

 

  今やようやく外見をもとの男に戻したテツオは、ユリコを山の麓の家まで送っていく。空にはすでに満ちた月がかかっていて、天空の藍色がその白光を丸くぼかして縁取っているのが見える。

  その道中の会話のなかで、ユリコはテツオにあることを提案してみる。

「・・・、じゃあ、ユリコは僕を、そこまで‘奨励’してくれるの・・・?」

  テツオはやや意外な感じの反応だったが、ユリコには確信があるようだ。

「奨励をするもなにも、それはあなたの人生だし、私は多分、そうした方があなたには相応しいと思うから・・・。私もこうして歩いて行をすることで、得てきたものも多いのだし・・・。」

 

  そして二人は、いつものクスノキの下へと着いた。

「テツオ、ここまで来れば、もう大丈夫よ。送ってくれてありがとう。あなたも充分気をつけて、寮まで帰って・・・。」

  と、ユリコは一人でクスノキから麓の家への上り坂をあがっていく。

  ユリコの長い後姿が、山の麓に生い茂る、樹木の合間のほの暗さに包み込まれていこうとするのを、月の光がいっそう白く照らし出していくのが見える。束ねてあげた黒髪が振り子のように揺れ動いて、その後姿の垂直さを、山の稜線、たなびき渡る雲のもとで、より際立たせて見せてくれる・・・。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

  テツオはユリコが家へと着いて、彼に向かって手を振ってくれたのを見届けると、ひとり木造校舎へと帰っていったが、これから彼には、まだ楽しみがあるのだった。

  テツオは軽く夕食をとった後、少々手は省くものの、ここで再びメイクをほどこしウィッグをつけ、女装にもどる。島内で今日のように誰もいない日限定とはいえ、一定の女装歴のある彼は、その日は深夜に至るまで、次のコーデの考案も兼ね、二枚合わせの姿見で、ひとりで演出ファッションショーに凝るのだった。

 

  ようやく自己愛の世界へと戻ったテツオ。だが、この日ばかりは彼はユリコと愛ではっきりと物理的にもつながれたので、いつもより幸せな気分であり、ともすれば彼にとっては、今日のこの日はあらためて“自分以外の人とでも自分ひとりでいる以上に幸せな”日であったのかもしれない。

 

  テツオの今日の二番煎じの女装というのは、“余韻”を充分味わうためにも同類の、トップスはピュアホワイトのシルクブラウス、ボトムズはピンクにかわって空色のプリーツスカート。彼はユリコが座っていた温もりを保っていそうな鏡台の丸椅子に腰かけては、そして時おり立ち姿でもポーズをとっては、A,I,Rと様々なラインを見せつつ、二枚の合わせ姿見をいつものように交互に愛でて、女性化した自分の姿を心ゆくまで慈しもうとするのだった。

 

  しかし、テツオはすでに確信していた。-今日のこの日の幸せは、ユリコが直観したように、自分が男と女の辺を渡って、その相対を超え、肉体的な男性を維持したまま精神的には女性化するという、一種の“雌雄同体”を模したことに基づくもので、自分はそれを他ならぬ“花”から得たに違いない-ということを。そして-これがSEXの場に及んだとはいえ、いつもの男のままであれば、とてもこんな境地には達しなかった-ということを。

  -だってさあ・・。あの射精の瞬間に、こんなに優しい気持ちになれるなんて・・・。

  これって、どこの本にもなかったし、だれも言わなかったことじゃないの?・・・-

 

  テツオは女装の自分を見つめながら、さらにその女装の自分と対話していく。

  -ということは、人間が言うところの、性欲やSEXの快感やオーガズムというものは、人間が進化の過程で、火の使用により調理に凝って味覚を異様に発達させてきたように、性=SEXを過剰に弄ぶことにより極大的に発達させた、もはや手が届かない妄想か神話のようなものではないのか。

  そして男も女も誰もがこんな“幻想”を、エロ本やポルノまがいの三流小説等々から刷り込まれて、あたかもこれが愛の極致であるかのように思い込み、互いへの思いやりや心遣いに気をまわさず、幻想に引きずられるまま、SEXがうまくいかない、SEXに失敗したと思い込み、さらにはこれを互いに互いのせいにしているのではないだろうか・・。これは、何という不幸、そして貧しさだろうか・・・-

 

  -僕があの射精の時に感じたのは、類まれなる“やさしさ”だった。それは泉にしたたる滴のような、よほど優しく、静謐な気持ちでもない限り、人は決して気がつかないほど神妙なもののようだ。

  あえて想像しようとするなら、これは自分の体内に子が宿ったことを初めて知った、女性の気持ちと似ているのかもしれない。なぜなら精子を送るということは、命のバトンタッチをすることに等しいと思うから・・・-

 

  -僕がこの“やさしさ”に気づくことができたのは、きっと“花”を愛でてきたお陰だろうし、僕が花と同じように雌雄同体を模したせいによるかもしれない。

  花はもとより雌雄同体。可憐でかよわく、人の手で容易に破れるものだろうが、すべての命の糧となる命の大本なのであり、そして何より美しく可愛らしい。そして花がすべての命の糧というのも、きっと花が雌雄同体だということと関係があるのだろう。

  花はもとより生殖器という言葉は、やはり真実を示していて、その逆つまり、生殖器は花というのも、また同様に真実に違いない。だからSEXという極みにおいて、“花のようなやさしさ”を知るというのは、おそらくは真理であって、人はその執着の強さゆえに、このあまりにも単純で明快な真実や真理というのを、気づけないのかもしれない。

  しかし、僕があの時知ったのは、この“やさしさ”こそがSEXだという確信だった・・・-

 

  女装のテツオは、姿見に映った自分の、姿と顔と瞳とを見つめつづける。そして彼は、鏡に映った自分の瞳がユリコの瞳に通じていて、なおかつそれが永遠にも通じているように思われた。

  テツオは、彼が発した“やさしさ”という言葉以上に、ユリコが発した“神聖さ”という言葉を意識していた。-そう、“神聖さ”だ・・。そう言ってもいいかもしれない・・・-

 

  テツオは今日の日がこのまま過ぎて明日になってしまうのが、あまりにももったえなく、いっそこうして自分を見つめたまま果てていこうかとさえ思ったが、深夜に曜日がかわる頃、さすがに疲れを感じたのか、お肌にはよくないが敢えてメイクはそのままに、そしてネイルもそのままに、女装で寝入ることにした。

  -こんなのって、初めてだわ・・。だけど、あたしはこうすることで、ユリコといっしょにいる気がするのよ・・。今日のあたしはとっても幸せ・・。そしてこれからもあたしは幸せ・・・-

  ベッドの中で衣擦れの音を聞きつつ、シンデレラのタイムリミットが過ぎた後も、テツオはずっとシンデレラ気分のまま、幸せな今日一日を、閉じていった・・・。

 

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第十九章 赤と光

  あの日、ユリコはテツオに、こんな提案をしたのだった。

「ねえ、テツオ。あなた今度は女装姿で、県に出向いて街中デビューを、飾ってみたら?」

  ユリコに嫌がられるどころか、逆に奨励されるとは・・・-テツオは少し意外な気持ちだ。

「・・で、でも、弁天小僧みたいにさ、バレたりしたら、どーすんのさ・・?」

「いーじゃないの、バレたって。私たち新たなヒトは、男女の性を超えるんだし。それに、もとより女性は花と同じく、見られてこそさらに綺麗になるものなのよ!」

  そう言われてみると、テツオはさらなる美を求めてか、俄然ヤル気になってくる。

「テツオ。女の私が見るところ、バレるとすれば・・、その声はやむなしとして、あとはやはり顎まわりのフェイスラインか・・・。でもそれらは、マスクで隠せばクリアーできるし・・。

  だけど、あなたのその歩きっぷりって、お世辞じゃなくて、女よりも女らしい、理想的な女性の歩きよ。だから私は、あえて街中“テツコ・デビュー”をすすめるのよ。

  それに、バレるのが気になるのなら、県で時おり“プチ・アソビ”ってコスプレ大会、やってるじゃない。その日にテツコ・ビューをすれば、もっとハデハデコーデで歩いてる人も多いから、女装ぐらいで誰もヘンとは思わないよ。」

  そこまで言われて、テツオはさらにテツコとなって街を歩いてみたくなるが、そう言うユリコの言葉には、もっと深い意味合いがあるようだ。

  ユリコはまた日をあらためて、テツオにこう語りかける。

「テツオ・・。これはあなたとオバアにしか言わないけれど、私は未だに父の死が信じられず、その実感がないのよね・・。だから私は、生と死がよくわからず、いくら本で読んでも考えても、この問題はわからないから、歩く行を重ねながら、きわめていくしかないと思う。

  私が思うに、男と女を分けるのと同様に、生と死を分けるのもヒト特有の相対知によるだろうから、そして私の経験では、人がその相対知を超える一つは歩く行によるだろうから、あなたがそこまで女っぽく歩けるのなら、あなたが実際女となって街を歩けば、何か別な境地へと達するのかもしれないと、行者としても私は思うの・・。」

  テツオは-さすがにユリコは島のノロ-と納得をしながらも、必ずしも自分への関心だけで言われたわけではなさそうな彼女の言葉にやや不足感を感じながらも、これで憚ることなく“テツコ・デビュー”ができそうなので、彼はもっぱら更なる己の美を求めて、街中デビューの準備を始めた。

 

  秋も深まり、木の葉も紅く色づきそうな“プチ・アソビ”の前日の夜、明日に向けて今までの一人女装の集大成、準備完ともなったテツオは、ゆっくりお風呂につかりながら、入念に“毛の処理”を行っている。それは、上から順にいうならば、ヒゲは当然、胸の毛はネックからのVゾーンを剃りあげて、手は肩から、足は腿から、各々の甲と指に至るまで入念に剃りあげる。乳首まわりとヘソまわり、下腹部へと連なる毛並みは(キンゴにもタミにもなかった)自分の男のプライドとして残し、ヘアは当然、同じくノースリーブでもないのだから腋毛も残す。そしてテツオは、湯船に掲げた片足が、湯煙に包まれて、風呂場の明りに照らされながら、光沢を放ちつつ剃りあげられていこうとするのを、ダイヤカットを見るように角度を変えては矯めつ眇めつ、風呂とはいえ溜まらない色っぽさとエロっぽさに生唾を飲み込んで、思わずオナニーへの衝動を感じてしまう。だが彼は、ここでそんなことしてはテツコに申し訳ないからと、ここは足を高く掲げたせいで生唾ばかりか風呂の湯までも飲み込んで、とりあえず毛の処理をすませた後、脱衣所でいつものように自分の裸体を、ダビデ像みたいに愛でる。

  -ああ、僕の、文字どおり水もしたたる何て美々しい男性ヌード・・。でも女装を重ねる度ごとに、気のせいだろうか、ペニスが縮んでいくような・・。かといって尻も乳房も筋肉以上に膨らまないし・・。ある女形の歌舞伎役者が“もとはいかり肩だったのが、なで肩になっていく(1)”って言ってたけれど、スッポンみたいなペニスのかわりに、スッポリそこにショーツが入るというのもなあ・・・-

  しかし、翌朝、いよいよテツコ・デビューの当日を迎えたテツオは、いつも通りの朝の勃起にホッとすると、また入念にヒゲを剃り、化粧水と乳液をつけ、下着のショーツをスッポリとおさめた後、男性の装いでキャリーバッグを片手にたずさえ、ヨシノパパの漁船に乗り込み、県の漁港へ向かって行った。ヨシノパパはキャリーバッグに目をとめて、“テツオ君も渡航準備で大変だねえ。淋しくなるなぁ”と言ってくれたが、もちろんそこにはテツコの女装の一式が込められているのだった。

 

  県一番の繁華街への入り口である中央駅の駅ビルに着いてみると、そこには今日の“プチ・アソビ”の参加者だろうか、テツオと同じくキャリーバッグをたずさえた若者たちが大勢いる。このビル内のコスプレショップが、当日は臨時の楽屋を併設してくれ、参加者はそこで“変身”するようだ。楽屋は成人式の着付けのような畳敷きの床上に、所々に姿見が立掛けられた簡素なものだが、超ハデハデのアニメコーデのコスプレ達は、かえって互いに面白そうに着替えをしている。テツオはそこで幸運にも、ダンボールが積まれて見えない隅っこを発見し、-ここなら自分一人で誰にも見られず、また一枚の姿見を独占できるわ。今からあたしは、イモムシからチョウのように変態を遂げていくのよ・・・-といった具合に、かくして一世一代の心意気で“テツコのメイク”に着手していく。

 

  テツオは恥ずかしそうに上半身裸になると、ショーツとお揃いネイビーレースのブラキャミを、乳房にあたるパットのお椀がイチイチひっくり返るのに苦戦しながら窮屈さながら何とかつけて、そして匂いが沸き立つように、ここで早やバラの香りのフレグランスを上半身いっぱいに振りかける。

  つぎに、後ろが少しクリフカットで色調はカフェ・モカのショート・ウィッグをつけるのだが、その前に、彼は独自の考案として、顔面のこめかみから頭上へと、スポーツ選手がやるようなテーピングをほどこして、顔側面から顎まわりをリフトアップしようとする。これは男っぽいフェイスラインを是正して小顔効果をはかるとともに、将来的にはホウレイ線を強制的に引っ張り消してマイナス5歳の若返りを試みようとするものだが、ウィッグをつけるのはこれを隠すためでもあった。

  そしていよいよメイクに入る。まず、UVや下地こみなど一瓶5役と銘打ったクリームファンデを、ヒゲ剃りあとの顔下半分、首筋まわりにまでほどこし、これを土台に、ヒゲ剃りあとの青の補色とオレンジ色のコンシーラーを押し込むようにつけていき、その上に、健康的なお肌用との一番濃いいリキッドファンデを肌になじませほどこしていく。そしてさらにその上に、少しばかりの血色感をとローズピンクのパウダーチークをチークではなく顔中のここかしこに散りばめては、またその上に、同じく濃いいパウダーファンデで全体の色調を整えて、これらおよそ5重の層でテツオは女装メイクのピンポイントたるヒゲ隠しと基盤メイクをまずは済ませる。

  それでチークは、いっそうのアクセントをつけるため、頬骨から目尻にかけて直にリップを点置きしては、指先ではねあげてぼかし込み、桜から牡丹のようなピンクから真紅へとグラデーションを重ねるように見せていく。またアイメイクは、この前ユリコがしてくれたブロウやシャドウを試してみるうち、それよりも美青年の秀麗眉目を活かすため、今回はアイホールからアイラインの目尻にかけて、愛嬌がてらブラウンとラベンダーの薄塗り程度でとどめおき、その代わりにバレ予防と小顔効果をはかるため、茶に黄まじりの伊達メガネをかけることで調整する。

  そして最後の仕上げとして、口紅はメイクにとっては画竜点睛、テツオは独り言を続けつつ、その唇へのルージュの引き語りへと入っていく。彼はバーガンディーの口紅を、まばたきに連動させるかのように、ン~パッ、ン~パッ!を繰り返し、またティッシュオフを押隈みたいに重ねては、上唇の二山も鮮やかにその唇へと盛っていく。それでなるべくおちょぼ口に見せるため、下唇の両端を肌色ファンデで補正して、これでようやく約1時間、“テツコのメイク”は完成されたようである。

 

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  -ああ、何てあたしは美しいの・・。今日のあたしは、まるで本当のチョウのようよ・・・-

  テツオはここで姿見前に立ち上がり、残った男子のデニムパンツを脱ぎ落として、ネイビーレースのブラキャミとショーツのお揃い-完成された女子メイク&下着姿にうっとりとするのだが、この後にも、男味が薄れていくのにテツコ・デビューの隠し玉は加速度つけて転がるようにまだまだ続き、これからは“足”の仕上げに入っていく。

  テツオは剃りあげられた二本の足を濡れタオルで一拭きすると、つづいて指先の一本一本丁寧に、まるで白磁の陶器に彩色をほどこすように、ワインレッドのペディキュアを爪先へと灯していく。そして親指が一等先んじ、小指にかけてアーチ型の弧を描きつつ、左右対称なだらかに紅花よろしく揃えられた足指先を眺めるうちに、彼は言いようのない幸福感と華やぐ気持ちに満たされていくのだった・・。

  -ああ、何て美しく、また可愛らしいの・・。ワインレッドの赤の深みが、あたしの白い指先とピンクの指頭の合間から、若冲の絵のような極彩色の花びらを咲かせているのよ・・・-

  そしてテツオは、ペディキュアをドライヤーで乾かすと、ここでいよいよ“透けグロ”のストッキングをはいていく。LLとはいえ引っかかってはきにくく、慌てて事を仕損じてピシッとデンセンせぬようにと、慎重に引っぱり上げていくテツオ・・・。

  -・・・爪先が真っ赤な光を反射させつつ、すべるような繊維のなかで、指のラインが光沢を行きわたらせ、足裏かかとのふくらみも、血潮のめぐりに裏打ちされて、朱とピンクのグラデーションを重ねながら、ナイロンの薄いヴェールに包まれていく。細くくぼんだアキレス腱と、紡錘型のふくらはぎが、ゆるやかな脚線を描きつつ、黒ナイロンがより透かされ、二本の足の肌あいを淡く白く浮き立たせて、この稀に見る30デニールの脚線美は、マレーネ・ディートリッヒのそれを超えるの・・・-

  また改めて姿見で、男性の硬骨さが薄れゆくなか自分の女性に恍惚と見入るテツオ。ここまでで、メイク完成、ネイビーレースの下着姿&“透けグロ”に赤ペディキュアと来たのだが、しかし、これでもまだ、女装の序奏にすぎなかった。

 

  序奏のあとにはいよいよ表層。トップスは、彼お気に入りのピュアホワイトのシルクブラウス。体を華奢に見せるため、敢えてMを着込むのだが、前立てのフリルの合間にボウタイを蝶結びにして可愛くおさめ、右前やら左前やら指先がなじまないなか第一ボタンを律儀にとめて、その窮屈さが快感ともなってくる。ボトムズは彼あこがれのボルドーのタイトスカート。腰を細く見えるため敢えてキッツキツのウェストに、これはこれで腸結びかとくたびれそうになりながらも、バイオリンやチェロみたいな弦楽の“くびれ”を見ては幻惑を覚えつつ、ヒップのハリをスカート上から確かめるうち、文字どおり気持ちにハリも出るのだった。そして肩幅を狭く見せ、またキチンと感を出すために、やや裾長細身のクリームベージュのジャケットを着て、頭にはワインレッドのベレー帽をやや斜に被り、また同色のマニュキュアを両手の爪にほどこして、これでテツコのコーデは完成かと思いきや、さらにまたワンステップ、まだ一段上の画竜点睛が残っている。

 

  それは一段上というだけに、対象は足もとにあり、女物のシューズのことで、実はこれがテツオにはヒゲ隠しと同様にテツコに通じる最大の難所だった。彼の足は5L=26cmEEE、これに合う女シューズは滅多になく、しかもコスパの予算の制限がある。ミュールは何とか見つけたが、彼がこだわるパンプスはヒール3.5cmは何とかはけても、彼が是非にと憧れのヒール7cmのパンプスは、なるほど本物の女性たちが“#ku,too”と言うだけあって、爪先に血豆が出来るほど痛い。しかし、職人気質の彼はこれで諦めようとはせず、それならいっそパンプスの先っちょ切って苦痛を減らし、また浮世絵の花魁みたいに足先を見せてやれと、フルオープントウに改造を試みた。

  テツオはそれでパンプスの先端をカッターで切り取ると、ソールにはフェルトを貼り付けて、足の甲があたる所は別のベルトのアーチで補強し、さらに真鍮の針金で縫い付けるというまるで靴職人さながらの改造をやってのけた。しかも彼はお洒落にも、甲の部分に穴を残して、そこに取り外しで耳飾りがつけれるようにし、まずは小さな真珠のような飾りを取り付け、今こうしてテツコ・デビューの船出にあたり、この特製のパンプスを自ら手に取り、矯めつ眇めつ祝福をするのだった。

  -ウフフフ・・、何の変哲もない量販店の黒のつやなしプレーンパンプス、それがこうして世界で唯一、あたしだけの“シンデレラ・パンプス”となったよ・・。シンデレラはガラスの靴というけれど、そんな硬さはあり得ない“#ku,too”というもの。彼女はこの犠牲を払って、何よりこれで彼女を覚えた王子の愛を勝ち取ったに違いない。ということは、あの王子って、足フェチかな?・・-

 

  気づいてみると、いつの間にか他のコスプレ者らは行ってしまった後だった。テツオは革のショルダーバッグに貴重品やらお化粧直しの小物やらを詰め込むと、念のためにマスクをつけ、キャリーバッグを預けたままコスプレショップを後にして、駅ビル下へと降りていく。そこには他のコスプレ者らも入り混じり、改札から出た人もいて混雑をしているのだが、ここを出たら-あとは自分一人で今日一日を“女として生きていかねばならない”-と、テツオはとても緊張している。だが同時に、彼は“今日あたしは、ついに女として街へデビューしていくのよ”と、まるで自分の60兆の全細胞にいっせいに切替スイッチが入ったみたいに、全身くまなく華やぐ感じもするのだった。

  人の流れに乗るままに駅ビルから出るテツオ。今、彼の目前には、人やバス、タクシーが行きかっている駅前広場と、デパートやホテルなどが建ち並ぶすでに見慣れた光景が広がっている。

  そして今、テツコとなったテツオには、太陽が輝きながらさしかかってこようとしている。

  -光、光、今まさに、あたしは光を感じている。今日は晴れ。時はまさに正午にかかり、今はあたしの人生の正午なのかもしれないけれど・・、でも、なぜこんなに、光を感じているのだろう・・?-  

  テツオは今回メガネを買う際、ついでにやった眼底検査で瞳孔を開いた時に、見るものすべてが光に包まれて見えたのだが、女となって街へ一歩を踏み出したその瞬間も、あたかもそれに似たように、世のすべてが光り輝いて見えるのだった。

  -これはメガネをはずして裸眼で見ても変わらない。ということは、視覚の問題ばかりでなく、気持ちのせいでもあるのかな・・? でも、とても微妙ではあるけれど、はっきり感じた気がするのね・・。しかも、少しばかりの“ゆらぎ”までも覚えたような・・。ひょっとしてこれは、気持ちというより、何らかの物理現象なのかもしれない・・・-

  しかし、適応が早いのか、やがて元の感覚へと戻ったテツオは、駅前の陸橋を伝わって、繁華街最大の建造物たるデパートへと向かっていく。

 

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  陸橋を渡っていくうち、デパートの正面入り口が見えてきて、その上には正午をさす大きな時計が掲げられ、その下には秋冬もののドレスを飾ったウィンドウが横一面に並んでいる。テツオがそのパンプスでゆっくりと歩いていくと、デパートの入り口からは女が一人、歩いてくるのが目に入る。

  -おおッ、やけに頭っから足の先までスッとした、いい女が歩いてくるねぇ・・-

  と、さっきまで内なる女の声を聞いていたのに、いざ目の前にイイ女とおぼしき女を見つけると、まるで先祖がえりをするみたいに、オヤジのような独り言が彼の頭の中から起こる・・。

  -アレッ、彼女、マスクをしているけれど・・、いったい、どんな顔なのかな? ドンナ・アンナみたいな顔かな?・・-

  しかしこの時、正午の陽が時計の上から差し込みはじめ、その垂直二足歩行で近づく女っぽウォークいっぱいの全身像が、はっきりとデパート正面ウィンドウに映し出されてきたのだった。

  -エエーッ?? あの女って、あれって実は、“アタシ”なのオォッ?!-

  テツオがその透けグロ美脚を、IラインからAラインへとモード変換させていくと、ウィンドウに映った女もまた鏡面対称性を保ったまま、IからAへと変換させて、しかもさらにその上に、透けグロの光沢を陽の光に照らしつつ、脚線美の筋肉をしなやかにしならせながら、7cmのハイヒールを自在に操れそうな余裕さえ、見せてくれる。

  -ワアア、超カッコイイ!! 悪いけど、レイコさんより、カッコイイわ・・-

  ここまでくると、テツオはもう居ても立ってもいられずに、デパート正面玄関をくぐり抜け、さっそく化粧品売り場へと入っていった。

 

  実はテツオは、今日のデビューに際しては、その女っぽウォークのやり所と見せ所として、頭の中でロードマップを作成しており、そこには各行程と要所の課題、そして等身大の鏡のある多目的トイレの指定があって、その第一にあげられたのがデパートの“化粧品売り場”だった。なぜならここにはフレグランスの香りが満ちて、ブランドもんがいっぱいという、ヴェーヌスベルグの誘惑(2)に負けず劣らず、いかにも憧れの女っぽさに溢れていて、またそれゆえに男子禁制の趣きで立ち入りにくく、プロの女性化粧士の店員もいて、女装者が歩いて渡る難易度が高いと思われ、それがテツオの美貌の冒険心をくすぐったみたいである。

  -今までは遠巻きに眺めるだけだったけど、今日はこうしてレディーとなっての初お目見えよ・・。ふんぷんたる色とりどりのフレグランスの香りの最中、水晶みたいなショウケースに納められたビザンチン風古美術もどきのブランドもののファンデやリップの小瓶たちが、LEDの照明に照らされて、モルフォチョウの標本みたいにきらびやかに並んでいるわ・・。その中をあたしはヒール7cmの靴音を鳴らしながら、レディーに楽しく相応しく、乙女にかなうお求めをと、カネはなくても購買欲は公倍的に高まるのを感じていくのよ・・-

  そしてテツオは、売り場を行き来するうちに、一枚の等身大の姿見に映された自分の姿に、テツコの帽子から靴まで含めた全身像を、ここで初めて見入るのだった。そしてこの時、これはキンゴの影響だろうか、テツオは耳の記憶から“ローエングリン前奏曲”が響いてくるのを感じている。

  テツオはもうここまでくると、テツコとともにこれ以上は我慢ができぬといった具合に、バレ予防のためつけていた白マスクを耳からはずして、そのバーガンディーの唇を外気に向かってキスするみたいに解き放つ。上半身いっぱいに振りかけまくったバラの香りのフレグランスが、襟首から突き抜けて、あたり一面ほとばしり、その趣はボッティチェリーの“プリマヴェーラ”を思わせる。

  -ああ、これほどまでにコスメチックの香にロマンチックに囲まれて、豪華なくらいゴージャスに、クリムトの絵のような金装飾の額縁が、鏡に映ったあたしの姿を囲んでいる・・。

  やや小粋に斜にかぶったワインレッドのベレー帽、その下には、左右に流れるカフェモカ調のショートヘアーと、控えめなラベンダーのアイシャドウに逆八文字の眉がかかった伊達メガネが、小顔効果をもたらしながら黄に茶黒ぶちの角を光らせ、ピンクのチークを仲立ちに、バーガンディーの唇が帽子と対のあざやかな“赤”の効果を放っている。やや裾長細身のクリームベージュのジャケットは、胸下一つのボタンでとめられ、胸のふくらみ腰のくびれが演出されて、胸元のVの字からはピュアホワイトのシルクブラウス、その上品な第一ボタンに蝶に結んだボウタイが、波打つフリルに花咲くように華やかに開いているわ・・。

  そのジャケットの裾下から膝にかけては、ボルドーのタイトスカートでややコンサバに引き締められて、その全身はヒール7cmのパンプスに建てられた、透けグロ美脚を柱とし、30デニールを淡く透かせた赤ペディキュアが差し並ぶ抜け感放つオープントウより、一等抜き出た親指が誇らしげにこのテツコ像の全身のIラインを、爪先、唇、頭の帽子と、3点支持のレッドの差し色きわだたせつつ、微動だにせず垂直二足に支えているのよ・・・-

  そしてテツコは鏡の中より、肩にかけた茶革の小さなショルダーバッグを、赤マニュキュアの片手をあてがい引き上げながら、メガネの奥より艶めかしくも好意に満ちた眼差しを、じっとテツオに向けるのだった。

  -ああ、現がこうして鏡に映ったこんなにも美しい僕とあたし・・・。この2人はまるで、隣り合う2項の和で永遠に続いていくフィボナッチ数列のFnとFn+1とが、その対称性を保ちつつ、その数の比を1.618また0.618というように、永遠の美の象徴である黄金比φに近づいていくということと、何か似ている感じさえする・・・-

  そしてテツオがテツコに、またテツコがテツオに唇を与えようとするかのように、互いに盛ったバーガンディーの唇を、うっすらとした眼差しのまま、貝のように開きつつ、クリムトのユーディットの絵のような恍惚感が、互いに金の水脈が体中を上がっていくかに感じはじめる。

  さらにまた、テツコはこの時、テツオの股間である所に、アツい何かを感じ取る。

  ー・・あら、ヤダ、アタシったら・・。自分で自分に勃ってるわ・・・。

   肝心な時には勃起せず、しても勝手にナエちゃうくせに・・。でも、これって、男としても、女としても、喜んでいいのかも・・・ー

 

  と、その時、

「・・お客様、お客さま!・・」

  と、本物の女性の声が、急にテツオを呼びとめる。

「!ッ、!!!・・・、?・・・」

  テツオは心臓も凍りつくほど驚いて振り返るが、そこには彼と同じ年頃の小柄な女性の店員がいる。

「・・お客様・・、何かお探しものか、お心あたりのものでも・・?」

  テツオは声を発する間もなく、もとより声を出すのもできず、マスクで隠す間さえもないので、反射的に片手を振って-上品にもお嬢さんっぽく振ってみて-、取り急ぎ買う気だけはないというオーラを示す。

  だが、女子店員は怪しむどころか、テツコに向かってニッコリ微笑み、

「お召しもの・・、とってもよくお似合いですよ・・・。」

  と、優しい笑顔で答えると、丁寧にお辞儀をしては、別の売り場へ行ってしまった。

  ボーゼンと、彼女の小走り後姿を見送るテツオ・・・。

「・・・。どうしよう・・、これって、女のあたしへの“告白”かしら・・・?」

  しかし、俄然これで自信をつけたテツオは、デパートの裏出口から、ロードマップの第2のスポット、県中央を流れている新川の“白いつり橋”ウォークへと向かうのだった。

 

  デパートの裏側には川沿いに長く広がる公園があり、夏は阿波踊りの一大演舞場ともなるのだが、普段は市民の憩いの広場で、この日は近所の保育所の園児たちが集っている。園児たちは皆お揃いの小さな黄色い帽子をかぶって、青やら赤やら緑やら、服装は色とりどり。保育士たちが見守るなかで、砂場やシーソー、すべり台を行きつ戻りつ、思い思いにはしゃぎまわって遊んでいる。

  テツオも保育士たちと同じ高さで園児らを眺めつつ花盛りの公園を通っていくうち、つい笑みでほころんでしまうのだが、その微笑むテツコを女児が一人、どうやら怪訝な眼差しで見ているようだ・・。

  -やべぇ・・、あの子、気づいたのかな・・。やっぱり子供は敏感なのか・・-

  テツオはやや歩調を急がせて、その女児の視線をあとにして、新川の向こう岸へと通じている白いつり橋へと向かい、公園を斜めに横切り足早に過ぎて行った。

 

  そのつり橋とは、川幅の中央に建てられた一本の支柱でもって全体を三角形に支えている形のよさが魅力的で、テツオはヒールウォークでかっこよく渡り初めしてキメてみたいと、そんな印象派の絵になるような光景を描いていた。

  つり橋は川沿いに長く広がる公園の東の端から対岸へとかけられていて、園児らが遊んでいる所からは国道を渡っていかねばならないのだが、テツオがつり橋へと近づくうちに、彼にはもう一つの光景がいやおうなしにその視界へと入ってくる。それは4人のチンピラ風の男たちが橋に通じる公園でタムロしている姿だった。

  それは男一人で行ったとしてもカツアゲされる雰囲気であり、テツオは思わず来た道を引き返していくのだが、彼は白いつり橋ウォークを諦めきれず、ここは公園からの表ルートで行くのではなく、国道の橋の下をくぐってぬける裏ルートを思い起こして、園児らの公園から川岸まで下りていくと、国道下へと入っていった。

  そこはトンネルみたいに薄暗く、人気のない通路だった。川岸に近いため潮が満ちると水が溜まってしまうのか、ところどころピチャピチャと舌なめずりみたいな音が、頭上に低い国道の橋の裏目に靴音以上によく響いて、薄気味悪さを増幅させる。テツオはやや不安げに感じながらも、ここをくぐれば公園下からつり橋にすぐ上がれると歩を急がせると、通路の脇をヘビがシュルルと先走っていくのが見えた。

  ヘビの行方は通路の出口で、そこからは光が差し込み、向こうに白いつり橋が見えてくる。テツオが国道下を出て、再び陽の光のもとで、つり橋の形のよい三角形を目にしたその時、彼の目前に先ほどのチンピラ2人が立ちはだかる。

  テツオがとっさに振り返ると、通路の出口は残りのチンピラ2人がふさぐ。おそらく彼らは、テツコがこの国道下の通路へと入って行くのを目にしていて、挟み撃ちにしようとしたのに違いない。-この男らに捕まえられて、橋の下へと引きずりこまれ・・・-テツオがそう察するが早いか、男たちはニヤニヤしながら、テツコにゆっくり近づいてくる。テツオは急に頭が真っ白になるのだが、“助けて!”という叫び声は、恐怖のあまりか意外にも出てこない。

  しかし、また意外にもこの瞬間、テツコの足はその7cmのヒールを活かして、川岸から土手の斜面をケーブルカーみたいに駆け上がると、その身を上の公園へと逃げさせる。男どもも土手を上ると、公園の四隅に駆けては散らばって出口をふさぎ、逃げ惑っているテツコを、まるでクモが巣の獲物に向かうように、公園の真ん中へと囲い込もうとするようだ。男どもは、まるでそれがこれからの前戯のように、またこうすることが彼らの獲物に付随する褒美の一つであるかのように、卑猥な言葉を浴びせつつ、股間を誇示してさすってはイヌのように舌を突き出し、テツコが恐怖に慄けば慄くほど快感が増していくのか、ヘラヘラと笑いながら、テツコをじりじり追い詰める。

  だが、ここで、恐怖で硬直しそうなテツコをよそに、その足はハイヒール・パンプスとともに駆け出し、地を蹴り風を切りながら、まるでラグビー選手のように、ダッシュ、フェイント、肩透かしと、捕まえようとする男どもを、すり抜け、蹴ちらし、突き飛ばして、バッグを小脇に抱えたその身をどこまでも逃してくれる。それでも男らは動物が逃げる獲物を追うように、なおもしつこく追いかけようとするのだが、国道の向こうからこれを見たあの怪訝な目をした女の子が、“キーッツ!!”と一声、思いっきり奇声を上げて、それに続いて他の園児らもいっせいに奇声を上げたことにより保育士たちが駆けつけると、男らはようやく諦め、つり橋の向こうへと散っていった。

 

  テツコはなおも駆け続ける。この忌まわしい恐怖から完全に逃れるために、そしてまた時空をいったんリセットするため、公園の東から西の端へと駆け抜ける。その足はパンプスと一体になりながら、まるで羽根が生えたがごとくその身を飛ばして、駅前の中央通りに差し掛かる公園の最果てまで逃げ切らせる。そして人通りの多いここまで来ると、ようやくテツオは安堵して、花盛りの花壇の前に据え置かれた緑と黄色の2つのベンチの、黄色い方へと腰かけた。

 

  見上げてみると、日は正午を過ぎ、秋のやさしい風を吹かせて、その光は花壇の花々だけでなく、テツオにも注ぎかけてくるようだ。

  ようやく敵から免れたテツオの耳には、軍用ヘリが爆音を響かせながら、彼の居場所に影を落として、過ぎ去っていくのが聞こえる。

  テツオはベンチに腰掛けながら、胸に手をあて、荒げた呼吸が落ち着くのを待とうとしている。気づいてみると、汗が上半身いっぱいに噴き出ていて、その水冷と恐怖の余韻で、彼は思わず腕を囲う。

  だが、落ち着きを取り戻すにつれ、テツオはこうして着衣の乱れの一つもなく、帽子もバッグも落とすことなく、損害を生じさせずに、信じられない機敏さと利発さでテツコの尊厳と存在を守り通した自身の足に、ねぎらいと感謝の目を向けるのだった。

 

  足へと落とした目線をやがて、地に水平に戻しつつ、目の前の花壇に向けていくテツオ。彼は花壇の花の合間より、陽炎が立ち込めるのを見つめている。そして何かに引かれるように目を凝らして見ているうちに、やがて陽炎はゆらぎはじめて、その中からは、椅子に座った少女像が、まるでそこだけスポットライトが当たったように、浮かび上がってくるのが見える。

  少女は白装束を細身にまとい、赤茶けた素足を地につけ、膝の上で両手を握りしめながら、テツオをじっと凝視している。少女は怒りと恨みと怨念の眼差しでテツオの目を捉えつつ、噛みしめた唇には血をにじませ、やがて片手を上げて彼を指さし、その指先からは真っ赤な血がしたたり落ちて、彼女の素足の爪先をも真っ赤に染める。

  無言のまま恐怖に怯えるテツオを前に、きな臭い煙が立ち込め、姿を消しゆく少女にかわって、煙の中より、今度は全身血まみれの兵隊が直立不動の姿をあらわす。兵士の身から続々と流れる血潮が、下の花壇の花々を累々と潤すかに見え、テツオは恐怖のあまり目をそむけ、面をふせた・・・。

 

  正午の日が、これより午後の陽の光へと、傾いていきそうだ。

  色とりどりの花々も、光に合わせるかのように、その向きを変えていくかに思われる。

  雲も風に吹かれるまま空を過ぎ去り、地の影絵も、そのまま散らされゆくようだ。

 

  兵士の気配がなくなったと感じたのか、テツオはゆっくり面を上げる。彼の前にはもとの花壇が広がって、午後の光を受けはじめた花々は、風に吹かれるままのどかに揺れる。

  するとその時、きちんと揃えて閉じていたテツオの膝の合間から、一匹のヘビが跳び出し、ニュウウと地を這い花壇に登ると、テツオの方を振り返る。

  その目は、いわゆる爬虫類の目ではなく、女性的なまつ毛があって、不思議とヒトの表情が浮かんでおり、赤舌をチョロチョロと見せながら、テツオに何か言いたいようだ。

  -“わたしはお前と女の間、また、お前のすえと女のすえとの間に、怨みをおこう。彼はお前の頭をくだき、お前はその踵に噛みつくだろう(3)”-

  テツオの心のその声は、おそらくヘビが発しているものと思われ、ヘビは続いて舌を出し、テツオの意見を待つかに見える。

 

  テツオはしばらくヘビを見つめていたのだが、やがて彼は意を決して、ヘビに話しかけようとする。そして彼は人の口の言葉ではなく、彼の心の声として、心の中からヘビに対して直に話しかけようとするのだった。

  -・・・なあ、ヘビィ・・。この『創世記』の物語では、俺が思うにお前って、俺たちヒトの男の“ペニス”なんだろ。“お前と女の間、また、お前のすえと女のすえとの間に、怨みをおこう” という神の言葉は、人間のセックスはもとよりうまくいかないことを示唆していて、“彼はお前の頭をくだき、お前はその踵に噛みつくだろう”という言葉は、俺たち男は自分でその二足歩行の進化に自らクギを刺すということを、示唆しているんじゃないのかな・・・-

  あのアダムとイヴの事件以来、久方ぶりに人間から話しかけられるのを、ヘビはとても注意深く聞こうとしているようである。

  テツオはそんなヘビを見ながら、ゆっくりと話しつづける。

  -俺たち人間=ホモ・サピエンスは、“知恵の実”を食べ、“生”なるものから“性=SEX”だけを分けて取り出し、またその中から“男と女”を相対的に分けて取り出し、その上さらにお互いの“性器と性交”を分けて取り出し、生殖という生物の命をつなぐ愛と優しさ、神聖さに相反をするかのように、“性欲”を開発し、まるでヒトの味覚のように、自然界にはあり得ないほど誇大に誇張に捏造した“セックスの快楽”に執着した。ここに俺たちホモ・サピエンスの進化と人類史とをつらぬく、あらゆる差別と暴力の原点、すなわち原罪があるように俺には思える。

  そしてそれをまさに牽引したのが、霊長類最大にしてゴリラの5倍もあるといわれるヒトの男のペニスなんだろ。だって、いくらオス同士の精子競争があるとはいえ、直立したら前向きの急所の腹部に位置しながら、まるで見せびらかすかのように常時露出させるのは、デカすぎるし無防備すぎるし、自然淘汰や自然選択の原理からはあり得ない。ということは、ヒトの男のペニスというのは、最初から支配と暴力また権力の象徴であり、“ヴォータンの槍”または“ファスケスの棍棒(4)”のようなものなんだよ。そしてペニスはそのまま進化して、世界中で絶えずレイプを引き起こすってわけなのさ。

  その濡れ衣を着せられたのが、“神がつくったすべての野獣で、ヘビが一番悪賢かった”と記された、お前たちヘビだったと俺は思うよ。だって、神は自分に似せてヒトをつくってしまった以上、今さら“ペニスが一番悪賢い”とは、記せないだろ・・・-

  ヘビは初めて聞くようなテツオの仮説を、慎重に聞いているようである。

  テツオは少し間を置いてから、うつむき加減ではあるが、再びヘビに話しつづける。

  -・・なあ、ヘビィ・・、俺、まだ恥ずかしくて言いにくいけど・・、俺、“男”としてはもう勃たないんだよ。つまり、俺は男なんだけど、いわゆるセックス本番で“男”を意識しちゃうとさ、やれないってことなんだよ・・・-

  ヘビはその真ん丸な目で、-自然界ではそんなの聞いたことがない-という感じの、不思議そうな視線を送る。テツオはそんなヘビの目が、とても可愛く思えてくる。

  -でも、たしかに不思議なんだけど、自分の“男”を忘れた時、今みたいに“女”になってる時なんかは、つまり男と女の相対や相反性を超えている時、自然にそのまま導かれ、相手の愛と信頼のおもむくままに、あとシチュエイションさえ整えば、何とかできちゃうみたいなんだ・・-

  ヘビは丸い目を長いまつ毛で瞬きさせつつ、-それは何だか納得できる-と言ってるようだ。

  テツオは少し安心したのか、さらに話をつづけていく。

  -なあ、ヘビィ。俺、彼女いるんだよ。ユリコっていうんだけど、彼女はもちろん恋人で、将来的には妻となり、多分ずっと妻なんだろうな。だって俺、今日も自分以外の女を見ると、それがどんなにイイ女であってもさ、自分の方がもっと綺麗になれるんだってライバル心を起こすばかりで、浮気しそうもないからさ・・・-

  ヘビはテツオのそのセリフに、カエルも飲み込む大口開いて、笑いそうな顔をしている。

  だがテツオはここで、この創世記で濡れ衣を着せられたヘビに対して、今こそお前に聞いてほしいといった感じで、意をかためて話しつづける。

  -ヘビィ。俺と俺の子孫の男子はさ、極端な例えだけど、たとえ戦場に行ったとしても、決してレイプはしないんだよ。このペニスじゃあ、物理的にそんなの無理だろ。

  でも、これでようやく、人類は最大の悪業だった“レイプ”をもう金輪際、根絶できる! 

人間なんていくら説法しても教育しても言うことを聞かないから、物理的にできなくするのが一番いいのさ。

  レイプが根絶されることで、性的にも身体的にも精神的にも不公平で不条理で片務的な人間の男と女の関係は是正されていくと思う。そればかりでなく、俺はこれこそ差別と暴力また戦争の原点とさえ思うから、これらの悪もやがては消えていくかもしれない。

  ヘビィ、俺、自分のペニスに、ずっと劣等感を持っていたんだ。サイズは平均以下だしさ、勃ってもナエるかすぐ出しちゃうか、おまけにトイレもとても近いし、小便のマトもまともに当たらないこともある・・・。

  でも、レイプをなかば常習犯的にやっていた愚かなホモ・サピエンス達にかわって、俺たちが新しい人類を継ぐ際に、俺のペニスが継がれることでレイプが根絶されるというのは、俺にとっては最大の誇りだよ・・・-

  テツオのこの懺悔ともいうべき言葉を聞いて、ヘビは彼のその苦しかった心のうちを察して思わず涙したのか、しっぽでその目をぬぐったようだ。

  しかし、ヘビはここで、-お前さんはそれでいいだろうけど、あとの男はどうなんだよ?-と聞いてるように感じたテツオは、思い起こして言葉をつなぐ。

  -そうか。ヘビィ、お前、キンゴのことを言ってるんだろ。あいつ俺と違って小顔だから、はるかに女になりやすいのに、ペニスはフランクフルトみたいにデカイんだよ。でも、あいつの子孫はすなわちヨシノの子孫だから、同じよしみでワルキューレ=女武者ばかりが生まれるんじゃないだろか。

  それと、タミとその彼女も新人類になるだろうけど、タミはヨシノの弟だし、あの彼女も強そうだしな・・。

  だから、俺たち新人類ニアイカナンレンシスは、当面は男系、女系と二手に分かれて、生めよ殖やせよで増えていき、それからはこの二手が互いに子孫をつないでいけば、いいんじゃないの・・・-

  テツオのその言葉を聞いて、ヘビもまた、-ならそれで、バランスとれていいんじゃないの-と思っているようである。

  そしてヘビがその目で、-どうせなら、もう一声、聞きたいみたいな・・-と言ったように感じたテツオは、ここでテツコに交代する。

  テツコはあらためて姿勢を正し、上品に膝をしめ両足そろえて、ヘビに優しく語りかける。

  -ヘビさん、あたしたち、あの復活の時からすでに、最後のホモ・サピエンスから最初のニアイカナンレンシスへと、きっと脱皮をしていたのよ。現人類から新人類への分岐だなんて、時間がかかると思っていたけど、実はすでに始まっていたんだわ・・。

  でも、これではっきり、私たちは、“今を生きる希望”が持てる! 

  私たちはこの絶望の世の中で、希望を抱いて生きていけるの!

  それに、あたしたち女は、これからは男性なみの行動の自由を得れる。もう今日のように、渡りたい橋も渡れず、座りたいベンチにも座れない-などというのは起こらない。葦の海でもルビコン川でもガンジス川でも、あたしたちは渡っていける。

  ヘビさん、もしあたしたちの子孫がこれから、新しい人類として再び聖書のような書物を編むなら、あなたの名誉は回復されるわ。あなたはもう悪賢くも狡猾でもない。むしろあなたは今日の保証人として、またこれからは、レイプとレイプにつながるあらゆる差別と暴力、そして不条理、不平等、不公正からあたしたちを守護してくれる守護神として、永く栄誉を記されるだろうと思うよ・・-

  と、テツコに優しく微笑まれて、ヘビは安堵し、最後にお辞儀をするかのように少し首を傾けると、とても嬉しそうな表情で、花壇の中をくぐり抜け、そのまま天へとかえっていってしまったようだ。

 

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  テツオがヘビが行ってしまった花壇の花を見つめていると、遠くの方から再び“キーッツ”と、あの怪訝な目を向けていた女の子の奇声なのか掛け声が聞こえてくる。

  見れば、テツコの足もと、そのフルオープントウ・パンプスの赤ペディキュアの足先に、白黒のサッカーボールがコツンと当たる。

  テツオが声の方へと向き直ると、そこにはさっきの女の子と、いっしょに遊んでいた男の子とが立っている。女の子は、いまだ怪訝な眼差しで見ているようだが、男の子はとにかくボールを返してほしいと思っているようである。

  テツコは、本当はこの子たちにはお礼を言わねばと思うのだが、女の子を怖がらせては悪いので、ここは彼らに一礼すると、ニッコリと微笑みながら上品に両膝そろえて腰を下ろすと、彼らに届くような力加減で、ボールを優しくコロコロと転がして送ってあげる。

  男の子は転がってきたボールを受け取り、嬉しそうに胸の方まで持ち上げる。そして彼の小さなつぶらな瞳が、一瞬、テツコの目をとらえた。

「お姉さん! ありがとう!」

  男の子は甲高い大きな声で、テツコに向かってお礼を言った。それを見ていた女の子も、テツコに目をやり、何か納得したようにうなずくと、彼ら2人は手を取り合って、園児たちのいる方へと駆けて行った。

  テツオも立ち上がって手を振りながら、戻っていく2人の背中を見送っていたのだが、やがて彼は自分の中から、言いようのない優しさと感動が広がって満ちてくるのを感じはじめる。

  -あの小さな男の子に、“お姉さん”って言ってもらえた・・・-

  テツオは再び、今度は緑色のベンチへと腰を下ろすと、お腹に手をやりながら、また前の花壇を見つめていたが、その目には、涙があふれてくるのだった。

  -あの男の子に、“お姉さん”と呼んでもらえた・・・。

   ・・うれしい、本当にうれしい・・・-

  つぎつぎとこぼれ落ちてくる涙が、彼のタイトスカートを、ポツリ、ポツリと濡らしていった・・。

 

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  しかし、これでもう先ほどの災難を、完全に克服できたテツオは、今日の残りをテツコとして完遂すべく、デパート最寄りの多目的トイレへと入っていく。彼はそこで用をたし、メイクの補正を行って、身だしなみを整えると、マスクをつけて声を変えつつ総菜屋にてお寿司を買って、再びさっきのベンチへと戻ってきては腹ごなしをしようとする。

  一口サイズでお口を広げず食べれるのがいいからと鉄火巻を膝元に広げつつ、一つ一つに醤油をかけていくテツコ。彼女はその鉄火巻が、ベンチの下でお行儀よく並んでいる透けグロと赤ペディキュアの足もとと重なって見えてきそうで、思わず照れ笑いを浮かべてしまう。

  -・・でも、ありがとう、あたしの足よ。この“透けグロゆかりの赤ペディキュア”は、美しく、可愛らしいだけでなく、いつの間にか進化して、肉食獣から免れるインパラみたいな俊足で、あたしを救ってくれたのよ。家に着いたら思いっきり、あたしはお前にキスしてあげる・・。

  それとこのテツオ特製のシンデレラ・パンプスも、別部品の切ったベルトでストラップを針金で縫い補強しているだけあって、激しい動きに切れもせず、インパラ足を縦横自在に駆けさせた。さすがは職人テツオよねえ・・・-

  さて、これで腹ごなしも済ませ、テツコはロードマップの次なるスポット-新川ボードウォークの歩き初め-へと向かうため、公園から中央通りの橋をつたって、対岸の川沿いへと渡っていった。

 

  総板張りのボードウォークを想定どおりの女っぽウォークで、テツコは今や女として歩いていく。そのテツオ特製のシンデレラ・パンプスは、7cmのヒールでもってマリンバを奏でるように、木の歩を打って闊歩していき、その靴音は川の波へと響き渡って、また新たな水の波紋がつど広がっていくかのようだ。

  川沿いを一直線につらぬいて行くボードウォークの通りに面して、オープンカフェーが建ち並び、カフェーをたしなむ人々の視線を介するウィンドウが、あたかも屏風絵のように、ワインレッドのベレー帽を斜にかぶるテツコのヒールウォークを連続して投影していく。

  テツコはここでクリームベージュのジャケットの一つボタンを取りはずすと、その胸元のVの字より、白ブラウスのフリルごと蝶タイを羽ばたかせては、足から膝上、腰まわり、胸元そして脇の下から襟まわりへと、そよ風がフレグランスのバラの香りをともなって駆けめぐるのを感じつつ、ハイヒールが二拍子を奏でてはボードウォークをカッコよく闊歩するのを心地よく耳に響かす。

  下を見やれば、ボルドーのタイトスカートより抜きん出る、透けグロゆかりの赤ペディキュアの足もとが、陽の光を反射させつつ、ボードの木目を川として、左右を漕ぎ出る小船のように小気味よく全身を牽引しては、ヒールがボードを打つ音とリズミカルな調和を成すかに思えてくる。

  -ああ、何もかもが音楽みたい・・。この新川も、モルダウ、ドナウ、また隅田川のよう・・・。

 そしてあたしは、これからあの目の前のポンヌフ橋を、あたし自身のコレクションでの着回しを空想しながら、まるで女優のように渡って行くの・・-

 

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  テツコはショルダーバッグに手を携えると、さらにまっすぐ背筋を伸ばして胸を張り、腰をしならせ肩をおよがせ、赤マニュキュアの片手を風になびかせて、前へ前へと歩を進める。うっすら開いたバーガンディーの口元が、空気の取り入れ口となり、彼女の高鳴る心臓から血は全身をくまなく巡って、それが手足の爪先をいっそう赤く彩っては、二拍子そして三拍子へと歩調を上げていくかのようだ。

  -ああ、今、あたしの脳裏には、ショパンの『英雄ポロネーズ』が聞こえてきそう・・・-

  そしてこれより先は、プチ・アソビのコスプレ者らで混んでいるので、テツコはボードウォークをいったん離れ、より街中の石畳のガスライト街へと入ってくる。

  街路に入り、ブティック街へと通じているレンガ造りの店先を歩くテツコ。そのテラコッタで装飾された大きなショウウィンドウが、緑色の石畳を踏みしめながらガスライトの支柱の合間を渡りつつ近づいてくる垂直二足のそのウォークを、モデルのように正面より映し出す。

  -ああ、もう完璧! “時よ止まれ、わたしは美しい”(5)って、言いたいくらい・・・-

  テツコは今日はこれで見納めと、街路の入り口からわざわざ三度、同じコースを周回しては自分の正面ウォーク姿を目に焼き付けると、ボードウォークに復帰する。そして印象派の絵の被写体になるみたいな心持ちでポンヌフの渡り初めを済ませると、中央通りを戻っていって、ロードマップの次なるスポット-駅ビルのコーヒーショップに入っていった。

 

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  歩き疲れて足も張り、ここらでプクイチ落ち着きたいと、テツコは駅ビル1Fの4人が集ったコーヒーショップに入っていく。ここでもまたマスクをつけて、なるべく言葉を発することなく、歌舞伎の女形みたいに手先をすぼめて見せながら、マニュキュアの爪先で今日のコーヒーSサイズをマグカップにて注文すると、テツコは人から見えにくい店の死角の席に掛ける。そしてマスクを取りはずすと、マグカップの白い縁に口紅つけつつ、ほのかに香るグァテマラが口内そして鼻先へと広がりいくのにホッとしている。

  テツコが座っている席は、ほの暗く隠れた所ではあるが、そこは照明がスポットライトのように当たって、偶然にも隣の店の姿見が自分を映しているのに気づく。

  テツコは鏡を見るうちに、ワインレッドのベレー帽は被ったままで、ジャケットを脱ぎ椅子にかけると、バストラインがほの見える白のシルクブラウスに、キツキツ通したボルドーのタイトスカート-その細見せのウェストに片手をそえて、やや高めの席から爪先立ててまっすぐ下ろした片足に、くの字に曲げたもう片足をまじらわせ、お尻をグッと横へと突き出し、テツオのいわゆる“Rライン”を実践してみる。そしてカッコよさげにテーブルに片肘つくと、唇を前にしてポーズを決めつつ、手と足それから身体の所々の角度を変えては、スポットライトの光沢を艶めかしくも照らし返して、めくるめく愛でようとするのだった。

  -ああ、グァテマラの香がたゆたうなか、あたしの長い二本の美脚が30デニールの光沢を裏打ちさせて、マニュキュア、ペディキュアそしてリップが、暗がりのバラのように際立ってその赤色を咲かせている。何て色っぽくも艶めかしい、スタンダールも谷崎も見まごうような赤と黒の陰翳礼讃・・・-

  しかし、テツコは、バレてなさそうなのはいいけれど、誰もがスマホをいじくって、自分が一瞥さえもされないことに少々不満を覚えながら、コーヒーを飲み干すと、また多目的トイレにて落ちたリップを修復しては、ロードマップの次なるスポット-県の中央公園へと向かっていった。

 

  そこは別名“城址公園”というだけあって、この地を治めた大名藩主の旧城跡地。中央の城山はシロサギの繁殖地と化したものの、部分的にはお堀が残され、バラ園その他の多種多彩な植物にも囲まれて、ランナー、学生、親子づれにお年寄りと、県民がしばしば集う憩いの場ともなっており、そこにテツコが歩き初めをして渡るのだった。

  気のおもむくまま旧城の石垣沿いを歩き進んで、やがて大きな菩提樹の並木道へとむかえられていくテツコ。-まるで、“ウンター・デル・リンデン”を行くみたいね・・-と、その足で歩けば歩いていくほどに、ますます身も心も女となり、女に満たされていく感じがしている。

  そしてテツコは、菩提樹の下を歩きながら、ユリコのことを思うのだった。

  -そういえば、ユリコはあたしに、こう言ってたわ。

  “テツオ、私ね、自分の体のどこが一番好きかというと、それは私の足なのね。なぜなら、私は行者だから、日に何キロも山野を跋渉するのだけれど、それはすべてこの足のお陰だから。足さえあれば私はどこでも行けるのだし、また考えることもできる。事実、私は頭や文字で考えたりするよりも、足で考える方が多いし、その方が真理に迫れる気がするの。これは歩く行をする人たちは、共通して思っているんじゃないのかな・・。

  人間の考えることなんて、その大半は己の欲の追及で自然を破壊していくことじゃない。人間のやることなすこと結局は、自然に反する=相反することばかりといえる。だから人の頭で思うことはロクなことはないのだけど、自然のなかを行く限り、人とはいえ足は自然を裏切らないと私は思う。

  そんな私が行者として、今一番思っているのは、‘生と死の意味’なのね。私は私以前に姉を死産で亡くしているし、父も戦死で亡くなった。特に父の死は未だに納得できないし、だから実感というのもない。なぜ父は死んだのか、なぜ父は死ななければならなかったのか、なぜ死ぬのが父でなければならなかったのか。説明ができるものなら説明をしてほしいとさえ思う。

  こんな事は本には書かれていないから、自分で見出すしかないのよ。それも頭ではなく自分の足でね・・。だから最近、私が歩いて行する時は、このことばかりを考える・・”

  そしてユリコは、やや笑いながらあたしに向かってこう言ったわ。

 “テツオ、あなた自身‘足フェチ’だし、以前‘人は実はみな足フェチで隠しているだけなんだ’って言ってじゃない。それと浮世絵なんかを例にとり、足は性器の一部じゃないかとも言ってたよね。

  私、それってあながちはずれてないと今は思うよ。だって私が思うに‘人間は考える足’(6)といえるし、ということは、知恵に頼る二足歩行の人間が性=SEXを柱として進化をしたとの仮説に立てば、足を性器と関連させても何ら不思議じゃないわけだし、足と性とは結びついているのかもよ。

  だからもし、あなたが女として歩き出す時、あなたまた何かを見出すんじゃないのかなって、私は思うの・・・”-

  菩提樹並木はセコイア並木へとつながり、シロサギの鳴き声もかまびすしい城山の影を過ぎると、弁天池に面した敷地に、ガーデン風に演出されたバラ園が広がってくる。

  -・・バラって本当に素敵よねえ・・。高貴な気品と香りに満ちて、バラに女性を譬える気持ちは、今のあたしはよくわかる・・-

  そして、バラ園を巡って行くうち、その満開時の壮麗さ、馥郁たる香りの豊かさ、色鮮やかさに思いをはせつつ、テツコは再びあの感覚を体験する。

  -・・本当だわ・・。また木や花や、鳥や虫たち、行きかっている人たちだって、見るもの、聞くもの、触れるもの、自然の生きとし生けるものが、すべからく光って見える・・・-

  テツコはこの時、天高い陽光が西方へと傾いていくのを望みつつ、今日一日のピークが来たと感じていた。

 

  バラ園を出たあとには、菖蒲園を横切って、テツコは城山の裏側へと抜けていく。そこはやがて川に面して、大学とのはざまを流れる川沿いには蜂須賀桜の並木道が続くのだが、テツコはさすがにここまで来ると、そのウォーク固有の疲労と苦痛を味わいはじめる。

  -・・ブラキャミのブラひもが肩からずり落ちそうな感じで・・、乳パットの輪郭もろっ骨に当たって痛いし・・、また、#Ku,Tooのその名のとおり、パンプスのストラップも足の甲を擦切らすように痛いし・・、それに、もとより引き上げきれてないタイツが腿裏にあたって痛いし・・-

  しかし、これを過ぎればロードマップはほぼ完了と、テツコは痛いのをセーブして、並木道よりテニスコートを望みつつ、学校の校庭横を通りすぎ、公園一周路のラスト、駅裏の鉄道車庫に面した路地へと入っていく。

  -あれっ? こんな傍から見えそうもない所にSLが展示してある!-

  テツコはここで鉄子にならず、少年テツオへとかえり、SL=蒸気機関車への興味に引かれて、簡素な屋根の下に置かれたそのオンボロでおぼろげな黒い車体に駆け寄っていく。

  -プレートが“586・・・”ということは、有名な“ハチロク”だから、大正時代の製造か・・。

つや消しの黒い車体は所々がサビでめくれて、銀色に輝いていた綺麗なスポーク動輪も灰色に塗りつぶされて、往時のその面影はすっかり失せてしまったようだ・・・-

  だが、車体を覗き込んだその瞬間、彼の脳裏に封じ込まれた幼児の記憶に、“ボウッ”という汽笛の音と、機関車がシリンダーより噴出させるアイロンみたいなスチームの臭いとが、玉手箱が開いたようにリアルに満ち溢れてきているのを、テツオははっきり感じた気がした。

 

  -アラッ! もう、こんな時間だわ・・-

  左手首を裏返し、女っぽく腕時計を見回しては、本日のシンデレラのタイムリミットが近づきつつあることを察するテツコ。彼女は帰りのコスプレ者で混雑するのと、男のヒゲがそのファンデの頬にブルーチーズみたいな色あいで生え戻ってくる4時間から6時間の耐久時間が迫りくるのに押されつつ、急ぎ足で跨線橋を渡りきり、中央駅のコスプレショップに戻っていく。だが彼は、ここで他のコスプレ者らと同様に着替えやメイク落としはせず、スカートだけをジーンズにはきかえると、上はまるごとコートをはおり、深めの帽子とマスクとで顔を隠して、また手袋でマニュキュアも隠して、つまりテツコを覆い隠したテツオの姿で、キャリーバッグを引きながら島へと帰っていったのだった。

 

  島へと帰り、女装歴で初めての一般デビューを、おそらく大してバレもせず無事成功裏におさめたテツオは、今日はだれもいない木造校舎で、自分で作った夕食を軽めに取ると、自室に籠ってここからは、深夜まで延々つづく“シンデレラの余韻”タイムに入っていく。

  テツオは再びテツコにかえって、コーデとモードを復旧させると、生え戻ってくるヒゲなどが目立たぬように照明をやや落として、二枚あわせの姿見の少し高めの丸椅子へと腰かける。

  そしてテツオは、これもキンゴの影響か、気分を高めていくためにBGMを選曲していく。

  -彼がよく聞いていた“トリスタンとイゾルデ前奏曲と愛の死”では、あまりにコーフンしそうだし・・。でも、ここは是非、女の人の歌声が聞きたいから、イタリア・オペラのアリア集でも聞こうかしら・・-

  自ら育てた花苗に囲まれて、ソプラノ・アルトの歌声に聞き惚れながら、二枚あわせの姿見に自分を見つめていくテツコ・・。彼女はその“透けグロゆかりの赤ペディキュア”を、本日の見納めとして、二本の足の角度を変えては、あわせ鏡に映して見せる

  -ああ、あたしの美脚が反射しあう二枚の鏡に映し出されて、まるで無限のラインダンスのように見える・・。これはまるで、ラインダンスに見るラインの黄金、美の象徴である黄金比のφが、フィボナッチ数FnとFn+1の永遠の対称性から生まれてくるのに似てないかしら・・-

  そしてテツコは透けグロを脱ぎ去ると、これで今日のコーデを解除して、これも古着屋で買ったのだが室内でしか着れないような、胸元・背中が露出したシルクシフォンでネイビー・レースのワンピースに身を包むと、再び姿見の前へと腰かけ、自分自身のシンデレラに酔うのだった・・。

  -ああ、しあわせ・・、本当にあたしは幸せ・・。今日は本当にありがとう・・。

今までは鏡の中にいたけれど、あたしはずっと今日のように、普通に街を歩いたり、お茶を飲んだりしてみたかった・・・-

  鏡の中より、自分を見つめてくれながら、そんな風につぶやいてくるテツコの声がテツオの心に響いてくる。その目には、美貌への憧れと感謝の色が見てとれて、その口元には、男に戻らなければならない時が近づくにつれ、さびしそうな微笑みさえもが浮かんで見える。

  テツオは自らテツコの肩を愛おしげに抱きしめると、ずっと鏡を見つめ通して、日付がかわった頃あいに、テツコのために服はそのままメイクも落とさず、ひとり床へと横になっていったのだった・・・。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

  -・・暗い、暗い、本当に暗い闇だ・・。

  ぼくは今、眠っているのか・・。このまま重力に引かれていって、ベッドに埋もれ、そこがぼくの墓場ともなり、やがてはアダムと同じように、ぼくも土へとかえるのか・・。

  自分が捨てられていく恐怖、自分が忘れ去られていく恐怖、だれからも省みられてない恐怖・・。

  総じてこれは“孤独”の恐怖。

  自分が愛されてない恐怖。

  自分が愛するものさえない恐怖・・・-

 

“テツオ! このトンネルは長いけど、もうすぐ前に、出口が見えるよ!”

 -・・トンネル? そうか、ここはトンネルなのか・・-

“ホラ! 出口はあれよ。前に小さな楕円の光が、見えるでしょ。

  あれを出れば、緑の山が、広がるのよ!”

「楕円の光って言ったって、そんなもの見えないよ。それに何だか白い煙がたちこめて、アイロンみたいな匂いもするし・・。」

「ごめんね。あなたには見えないわね。

 じゃあ、私が抱っこしてあげる!

 ホラ、前にポツンと楕円の光が、見えるでしょ。白い煙は汽車の蒸気が窓から入ってきてるのよ。

 じゃあ、窓を閉めてあげるね。・・えっつ? 窓を閉めちゃ汽車の音が聞こえないって?

 その要求の多いところが、私によく似てるわね。

 でも、もうすぐトンネル出られるわよ。

 わあっ、いきなり明るくなってきたわ!

 ほら、テツオ、緑の大きな山々が見えるでしょ。

 あれが、私があなたに見せたかった“阿蘇の五岳”よ!」

 

 -そうだ。あの時、ぼくの周りからは煙が散って、いっせいに光に包まれたかと思うと、阿蘇の五岳が悠々と、目の前に立ちあらわれてきたんだよ。

  それでも汽車は、老躯をあえぎにあえがせて、なおも煙をモクモクと吐き出しながら、懸命にドラフト音を響かせては坂をのぼって、それがカーブにさしかかると、客車の窓から三連の動輪が銀色に輝きながら、勢いよく回っているのが見えるんだ-

「テツオ、あれはね、蒸気の力で回っているのよ。やかんの中に水を入れて火にかけると湯気が出て、蓋がコトコト押し上げられる。これはそれと同じ“力”によって動いているのよ。」

  -しかしその時、ぼくは抱き上げられたまま、スチームの匂いよりも、花のようなその匂いに身をゆだねていたと思う・・・。

  そして光が阿蘇五岳の緑色を反射させつつ、SLの黒い車体に注がれて、後ろのナンバープレートを一瞬なぞって輝かせた時、そこには『58654』という金メッキの番号が見えていたはずなんだ-

「姉さん、何で急に下ろすのさぁ・・。山も汽車も見えなくなったよ・・。」

「ゴメンね。今、探し物をしてるから、ちょっと待ってて。」

  幼児にかえったテツオはそこで、汽車の後ろに連結された、客車の展望席に立つ彼女のその全身像をあらためてよく見つめる。それは今日のテツコにそっくりで、違いといえば、髪が長めで、メガネをかけてないことと、あとはシューズがスクエアトウのロウヒールで、襟周りには鮮やかなロイヤルブルーのスカーフが巻かれていることだった。

  テツオは、バッグから何かを取り出そうとする彼女に、やや遠慮がちに言ってみる。

「姉さん。その襟に巻いてる綺麗なスカーフ、いつかボクが、もらっていい・・?」

  すると彼女は、きらきらと光る眼でテツオを見ると、こう言った。

「いいよ。あ、そうだ! 今日は交通事情の下見だから登らないけど、テツオが小学校に上がってから、私と阿蘇に登る時、コレをあなたにあげるから、こんなふうに首に巻けば!」

  と、彼女はスカーフを振りほどくと、テツオの首へと巻いてくれる。

  そしてバッグから取り出したウォークマンの二手に分かれたイヤホンの片方づつを、自分とテツオの各々の耳へとはめて、再び彼を抱き上げると、カセットテープの再生ボタンを押すのだった。

「姉さん、これ、何ていう曲?」

「これはね、“アルプス交響曲”という曲よ。」

  汽車は坂をのぼりきり、阿蘇の北側、外輪山に囲まれた麓の平地を、快速で走っていく。

  -・・しばらくすると、壮大で、華麗な曲がイヤホンから流れてきた。その曲は、まるで山の頂上へと登りつめ、そこから連なる山々の稜線を眺める時の満たされた人の思いが、音楽でつむぎだされてくるようで、まだ自力で登ったことがなく、ただ阿蘇の眺望を麓から垣間見ているにすぎないぼくの想像力を、大いに掻き立ててくれるのだった。

  山が、山が、動いて見える・・。

       山が、山が、生きて見える・・。

  この時、ぼくは、登山というものへの憧れと、それを初めて教えてくれた音楽というものの力を、はっきりと知った気がした。

  ぼくはふと、姉さんの方を見た。

  姉さんの黒い目は、まっすぐに阿蘇の五岳を向いていたが、ぼくが見つめているのに気づくと、そのまま優しく頬をよせ、ぼくにキスをしてくれる・・-

 “テツオ、あの阿蘇の五岳はね、別の名を‘釈迦涅槃岳’といって、ここからでは近すぎるけど、これより北の大観峰から見た景色が、まるでお釈迦様が往生なさった時の姿、つまり人が死に臨んで横たわった時の姿に、似ていると言われているのよ・・・”

 

  テツオは寝ているようだった。枕を頬に抱きしめながら、そしてその枕を涙で濡らしながら・・。

  彼にはこれが、ただ幼い時の思い出なのか、それとも埋もれていた古い記憶をもとにした夢なのかもわからなかった。そしてこれが仮に夢だとしても、夢のなかで自分でつくったストーリーがあるのかもと、まどろみながらも思いはじめる。

 

  眠れなくなったテツオは、起き上がると白いカーディガンをその身にはおり、うす暗い照明の下、月明かりの助けも受けて、もう一度だけ椅子に座ったテツコの姿を鏡に見つめる。その目は夢で涙を流したせいか赤みを帯びて、その悲しげな眼差しをいっそう強く印象づけるようにも思える。

 

  月明かりが室内を照らしていくなか、テツオはテツコを見つめつづける。それは、テツオからテツコへとするのと同じく、テツコからもテツオへとするかのように、対称性を保ちつつ、永遠に続いていくかのようにも見える・・。

  そしてテツオは、今“自分”を思っている意識さえもが、はたしてテツオが発するものなのか、それともテツコが発しているものなのかが、区別がつかなくなってくる。

 

  テツオは、今こうして見つめているその目だけが、真実を知っているような気がしている。

  -二人の目は一筋の光でむすばれ、その目は光で通じ合い、そして互いを思い合うことで、初めて“意識”というものが、生まれてくるのかもしれない・・・-

   テツオはテツコからだろうか、どこからともなくそんな声が聞こえた気がする。そして彼はその声が消えると同時に、月の光が、雲に隠されていくその一瞬、再び窓から差し込んで、その唇と手足の先を赤々と、照らし去っていこうとするのを覚えた気がした・・・。

第二十章 光知性原理

「ね! それで、いったい、どうだったのヨ?」

  テツコ・デビューの日のあとで、部屋を訪ねてきたユリコは、テツオに様子を聞こうとしている。

「どうだったって・・、うん・・、楽しかったし、幸せだったよ・・。」

「だからァ、何がどう楽しく、幸せなのかって、聞いてるのにィ。

  じゃあさ、当日のテツコのファッション、教えてよ。自撮りってしてないの?」

「そんなのないよ。俺、ケータイもスマホも持たない主義だし・・。なら、今ここで、描いてあげるよ。」

  と、テツオは手持ちのノートにサラサラと、当日のテツコのコーデを描いて見せる。

「・・テツオ・・。あなたの絵って、バツグンにうまいわね・・。しかもこんなに簡単に、いともサラリと描けるなんて。あなたって、この感じなら、美容師や服職人にもなれるのかもよ。」

  と、ユリコに褒められ嬉しくなったか、テツオは彼特製の“シンデレラ・パンプス”も、左手についでに披露する。

「・・すごいよ、テツオ・・。内貼りもフエルトで加工して、これじゃ、靴職人も顔負けじゃない。」

「だろ! その甲部分の飾り付けは耳飾りで、ストラップにつけた穴に通しているだけだけど、自分の好みで自在にかえれて、しかも世界に一つしかない“キワモノ”なんだよ。」

「なら、あなた、これで特許が取れるのかもよ。“テツオ・シューズ”略して“テッシュウ”みたいなブランド、立ち上げたら?」

  テツオはユリコが、彼のこだわる美意識には関心を示さずに、ただ実利的な-しかも、かなり売れ残ってしまいそうな-事ばかりを口にするのを、これが男と女の違いかもと思いながらも、やや不満げな気分のようだ・・。

 

  だが、彼が、女となって初めて街へと歩を踏み出した時、まさに感じた、“見るもの全てが光って見える”の体験談をしてみせた時、ユリコは俄然、興味深々になってくる。

「ユ、ユリコ・・、何をそんなに見つめてるんだよ・・? そんなにテツコに、会ってみたい?」

「テツオ・・。実は私も、同じような経験をしてるんだけど・・。」

  テツオはこれにはギョッとする。

「同じような経験って・・、じゃあ、ユリコはもしや“男装”を経験してるの・・?」

「断層って、そんなはっきりした分け目じゃないけど、意識のうえで、私は生死を逸しようと・・・。テツオ、この私たちの経験って、もしや世紀の大発見になるのかもよ・・。」

「・・男装して意識のうえで精子を逸するなんてこと・・、かなり本格的だけど・・。そのうえ性器の大発見とは、そこまで言う?って気がするけど・・。」

「だって私は行者だし、行者が着ている白装束はもとより死者の装束だし、行者が行をすること自体、自ずと生死を逸する-生死を超える意味合いがあると思うよ。」

  それを聞いて、テツオはひとまずホッとする。

「ああ、そういう意味だったんだ・・。ユリコはさすがに行者だよな。でも、ということは、ユリコは自分自身の行のなかで、“全てが光る”体験をしたってことなの?」

ユリコにとっては、まさにここがポイントのようである。

「そうよ。いつもというわけではないけど、たとえば身心ともに行に夢中になっている時、それこそ足に羽根がはえたみたいに自在に歩けて、山野を跋渉するのが楽しくてしょうがない時、こういう境地を仏教的には“三昧”というのだろうか、そんな時には私も見るもの全てが本当に光り輝いているような感じがするのね。」

  そしてユリコはテツオの目をじっと見ながら、確認をするかのように言葉をつなぐ。

「つまり、あなたが女装しヒールをはいて街を歩いて、意識のうえで男女の相対知を超えて、“見るもの全てが光って見えた”という事と、私が白装束で地下足袋はいて山野を行して、意識のうえで生死の相対知を超えて、時おり感じる“見るもの生きとし生けるものが光り輝く”という事とは、同じ現象ではないだろうかと思うのよ。

  でね、私は行の最中に、しばしば『納棺夫日記』(1)という書の中にある“死に近づいて、死を真正面から見つめていると、あらゆるものが光って見えてくるようになるのだろう。多くの死者たちの顔にもあの光の残映のような微光が漂っていた”という文章を思うのだけど、私はこれも同じ“光”に関するものではないかと思うのよ。」

  ここまで聞いて、テツオも再び彼の“仮説モード”へと切り替わり、気になっていたことをユリコに尋ねる。

「ねえ、ユリコ。この“見るもの全てが光って見える”という現象って、その人の感性や感覚だけによるものだろうか。というのはね、晴れて女に、テツコになった喜びだけで、単純にまわりが光って見えるというのではないような気がしてさ、これは一種の物理的な現象なんじゃないだろうかと・・。」

  しかし、ユリコもまた同じことを考えていたようである。

「テツオ。私は自分が読んだりしてきた臨死体験などにおいても、これに類似の“光”の体験談が少なくないと感じていて、ということは、今あなたが言ったように、これは個人差のある心理的なものというより、むしろ何かの物理的な現象かもしれないと思っていたのね。」

  そしてユリコは思慮深げな眼差しで、記憶から呼び出すように言葉をつないでテツオに語る。

「テツオ。その物理的な現象についてだけど、この前、ヨシノとキンゴと4人でホモ・サピエンスから新人類への進化の仮説を考えてた時、キンゴがたしか、こんな話をしてくれたじゃない。

  “光を知恵と知性の源泉とした場合、対称性ある物質-たとえば陽電子と陰電子-を存在させる光=γ線のエネルギー(1.022MeV)と、その対称性を認識する人間=ホモ・サピエンスの相対知のエネルギーとの間には、どちらも光をもととするから、何らかの関係(等価性みたいな関係)があるのではないだろうか。”って。そして、“これを暗示させるような何らかの科学的な現象があるとすれば、それで僕らの仮説は科学的に証明されたに近いレベルになるんじゃないか”って。」

「そう、そうだった。それで彼は僕にブログを引き継ぐ際に、その科学的な現象を僕らが見出すことを期待していて、僕はそれで、ホモ・サピエンスから新人類への進化論など彼が手がけてきたブログを、卒業までに完成させなきゃならないんだ。」

  テツオも記憶を呼び戻し、同じ土俵にあがったところで、ユリコは自分が考えていたある仮説を、ここで彼に話してみる。

「テツオ。たとえば、こう考えられないかしら。つまり、ヒトの男女や生死を認識する相対知に要するエネルギーが、相対=対称性ある物質を生み出すγ線ほど強い-たとえば電子対生成の1.022MeVみたいに強い-とするのなら、意識のうえで男女や生死の分別をやめた時のエネルギーはそれより低いものとなり、γ線よりも低いヒトの可視光域のエネルギーへと近づくために、それでより視覚と感応して“見るもの全てがより光って見える”という、一種の物理的ともいえる現象が起こるのではないだろうかと。

  それで、臨死体験で言われるような、死に直面する人々や死にゆく人が、今までにないような“光”を感じるという事も、生前のその人の“執着”-つまり、相対知のもとである執着-が死を目前にして解かれていって、執着に要してきたエネルギーがγ線よりも低いヒトの可視光域のエネルギーへと近づいていく過程で起こる、これもまた同様の一種の物理的ともいえる現象なのではないだろうかと。」

  テツオとしては、ユリコへのテツコ・デビューの報告が、こんな物理の仮説まで及ぶとは想定外だったのだが、キンゴから引き継いだブログ完成の宿題は、これで目途が立ちそうな気がしてきた。

「ユリコ、もしその仮説が正しいとするのなら、たしかに大発見といえるのかもしれないけど・・。とりあえず、僕らのブログは何とかかっこうつく所まではいけそうな気がするな。」

  だが、ユリコの引き出しには、まだ仮説があるようだ。

「テツオ。自分で言うのもおこがましいけど、私が世紀の大発見と言ったのは、それなりの背景があり、これは単に私たちのブログの話で納まらないのかもしれない。

ねえ、この続きの話は日を改めて、今度は2人で図書館でしてみない? 私も本を見ながらでないと、うまく話せないと思うので。」

 

  話はここで一段落つきそうなので、テツオはつづいて、阿蘇へとのぼったSLの幼児期の思い出話を、そのままユリコにしてしまった。

  だが、ユリコはテツオのこの話を、やや悲しそうな眼差しで、まるで我が身のことのように真剣に受けとめてくれている。

「テツオ・・。その時あなたをそこまで愛してくれた人というのは、きっとあなたのお母さんよ・・。」

  しかし、テツオはうつむいたまま、首を左右に振りながら、ノートに何やら書いて見せる。

「“イクジホウキ”?!」

「そう、“育児放棄”。残念で不名誉だけど、これが僕が最初に覚えた四字熟語ってわけなのさ。

  僕は、父がいわゆる技術屋で、母はいわゆるキャリアウーマン。2人は東京で知り合って、出来ちゃった結婚だったそうなんだ。親父、男前だから、もてたんだろうし、本人もそれを自覚してたんだろな。つまり、2人の真の仲人は、他ならぬこの僕だったってことなのさ・・。」

  テツオの横顔、その喉笛が、わずかに動いたように見える。

「いーじゃないの、出来ちゃった結婚で。神に望まれこの世に生まれ、結婚もできたのだから。」

  と、ユリコはテツオのややなで肩に、片手をそえる。

「でね・・、父は間もなく仕事で博多へ行ったんだけど、母も仕事でキャリアを積むため東京住まい。生活も楽でなかっただろうから、共働きは当然だったのかもしれない。

  それで、父も母も残業づけで幼児の面倒見きれないから、父が僕を自分の実家-農家やってて部屋と食には不足のない祖父母の家に預けていてさ・・。この不名誉な四字熟語は、きっと祖父母が苦々しく言っていたのを、幼児の僕が聞くままに覚えていたと思うんだよ・・。」

「・・そう・・、そうだったの・・。」

「だから、多分、母ではないのさ・・。それに、僕は母乳では育ててないって言われているし・・。

  母は休暇もよく取れず、仕事も厳しくうつ病にもなってたほどで・・。だから東京から九州来るのは無理だったろう。かといって父はいつも九州各地へ出張してたし、同じように休暇も取れず、祖父も祖母ももう既に高齢だったし、口うるさい割には何をするにもおっくうで、わざわざ熊本まで行って、段差の多いSLなんかに乗せてくれるわけないじゃん。」

  すでにテツオの隣へと座っていたユリコは、ここでその身を乗り出してくる。

「でもね、テツオ。差し出がましいようだけど、私が思うに、あなたのような人格は、よっぽど深い愛情が・・それも女性の愛情が・・ない限り、ここまで豊かに形成できないような気がするのよ。いくらあなたが言うように、花の導き、虫の知らせがあるのせよ、やはりその基盤というのは、三つ子の魂というだけに、幼児期にあなたが受けた愛情にこそあるのではないかしら・・。」

  ユリコがやや涙目になりながら言うのを聞いて、テツオは頭を下げつつも言葉をつづける。

「でも、その三つ子の魂のせいなのか、僕は結局、小学校に入る時分に、東京で教育を受けさせたいとの母の希望で、母のもとへと引き取られたそうなんだけど、逆に土地になじめずに博多に戻って、父と暮らすことになった・・。

  僕が山に行きはじめたのは、その頃だったと思うんだよ。父が小学生にあがった僕に、体力がついたからって、山登りを教えてくれた。僕の記憶はその頃からはよく残っていて、父は阿蘇にも連れて行ってくれたけど、一番よく行ったのは大分の由布岳で、その東峰には何度も登った。僕は列車から由布岳の全貌を見る度に、僕の心に何とも言えない尊敬というか、山に対する愛情が起こってきたのを、今でもはっきり覚えてるよ。だから僕は、この嘉南岳を行じているユリコの行者の気持ちというのも、何となくわかる気がするんだよ・・。」

「ごめんね、テツオ。この山は山全体がノロの行場で、女人禁制ではなくて男人禁制だなんて言ってしまって・・。」

「いや、それはいいんだ。それは当然のことだから。僕も九州で山伏とか行者たちを見てきているし。僕にお加持を授けてくれたある白装束の行者さんは、その眼差しがとても優しく澄んでいたのが、メガネごしにも見て取れた。ついでに言うと、彼はとても美男子で、僕はその白袖と杖を振るった颯爽とした歩きっぷりに、まるで雷光に打たれたように魅せられたんだよ・・。

  まあ、そんな風に僕に山登りを教えてくれた親父には、感謝してるよ・・。」

  と、そこまで語ってきた所で、テツオはふいに自嘲気味になってくる。

「フッ・・、僕はいつかユリコが言っていたように、自分をとても愛しているのさ・・。でも、今こうして話していて、その理由がわかった気がする。それは一種の自己防衛、自己保存のあらわれで、僕は小さい頃から孤独だったし、鏡の向こうの自分しか話し相手がいなかったのさ・・。」

  ユリコはテツオの片手にそえた手で、そのまま彼をさすってあげる。

「・・テツオ・・。あなたには、ひょっとして、お姉さんが、いたんじゃないの?・・

  というのはね、私にも本当は姉がいたんだけれど、姉は死産で亡くなってね・・。でも、こうして行するようになってからは、私は自分自身の中に“姉”というのを、今まで以上に強く感じるようになったのよ・・。」

  テツオはうつむき加減の顔を起こすと、ユリコの目を一瞬見つめて、言葉をつないだ。

「いや・・。僕は母からずっと一人っ子だと言われてきたし・・。兄弟はないはずなんだよ・・。それに、僕には幼児期の記憶というのがほとんどないし・・。でも、これは、もしかすると何か大きな悲しいことがあったりしたので、自分で自分を守るために、わざと記憶を消去したのかもしれない・・。」

 

  ユリコがテツオに「今度は図書館で」と言ったのは、キンゴが受験準備のため予備校の模試や補講で図書館からいなくなり、彼とともに大音響のワーグナーが消えたせいでもあるのだが、それにも増してレイコが蔵書を多数寄付してくれたことで、彼女が好んでそれを読みはじめたことによるようである。レイコは、これからここで勉強をする学生たちに役立つようにと、イラスト多彩な科学雑誌『Newton』そして、書庫へお蔵入りするくらいなら寄付してほしいとある市立図書館から『ブルーバックス』(2)シリーズ一式を手に入れて、この島の教会兼図書館の財産としてくれたわけである。

  ユリコは、受験準備で機会が減ったというものの、レイコと2人で出掛けたりお茶したりする際に、話のレベルを合わそうと、また、自分の好きな先生の受け持つ科目を生徒はたいてい好きになるとの傾向にそったのか、レイコの息のかかった書籍類を読みこなすうち、あることに気づいたようだ。

 

 

「えっつ!? 物理学-量子論のそのなかでも最大の謎とされる“光の粒子と波の二面性”への、答えを見つけたんだってぇ??」

「いえ・・。これはあくまで今まで4人で話してきた“知恵や知性は私たちヒトではなく、もとより自然にあるのであり、光がそれを担っている”という文脈で、考えた仮説だけど・・。

  でね、私も本に基づいてあなたに話しながらでないと考えがまとまらないので、いっしょに聞いて考えてほしいのよ。」

  と、図書館の席についたユリコは『Newton』を何冊か開けつつ(3)、隣のテツオに示して見せる。

「まず、この“光の粒子と波の二面性”の現象を、いっしょに本を見ながら確認をしたいのだけど、この光は粒子なのか波なのかという問題は昔からあり、ニュートンは光を粒子と主張して、それに対してヤングは波と主張した。それで光が干渉をすることから、一時は光は波とされた。でも20世紀に入ってから、アインシュタイン光電効果を説明するのに光量子説を唱えたことで、再び光の粒子説が復活した-ということなのね。」

「うん・・。それはたしか教科書にも載っていたよね・・。」

「そう、それでこれが、光が粒子か波なのかを確かめる有名な“二重スリット実験”の図なのよね。

  まず、光を光の粒である光子1個分のエネルギーへと極限まで弱めていって、暗いスクリーンに向け発射すると、ポツッと1点、スクリーンには光子の点がつくことから、光は粒子と思われる。

  つぎに、これを光子の光源とスクリーンとの中間についたてを用意して、そこに縦長の穴=スリットを左右の2カ所に並んであけて、このついたて目がけて光子を発射しつづけるとどうなるか。光子は左右各々のスリットを通ったから、スクリーンには左右縦長の光子の点の集まりがあらわれるかと思いきや、それが何とシマウマ模様のような干渉縞が、スクリーンの全面にあらわれる。この干渉縞は粒子ではなく波でないとあらわれないから、光は波でもあると言える。

  で、この二重スリット実験は、光子のほかは電子でも、まったく同じ結果となる。」

「うん・・。それもたしかに写真入りで、教科書に載っていたよね・・。」

「でね、問題はここからなのよ。それではなぜ、これ以上分割できない光の粒である光子が、どのようにして粒子であったり波であったりするのかを突きとめてみたいじゃない。

  光子または電子が、こうした二重スリットでどのように干渉するのかを知るためには、左右どちらのスリットを通ったかを観測器で分かるようにすればいい-ということで、実際にスリットに観測器をつけてみると、なぜか干渉縞=波はあらわれず、ただ左右縦長の光子や電子の点の集まりがあらわれる。

  結局、この実験の結論とは、光子や電子が左右どちらのスリットを通ったかが分からない場合にしか、干渉縞=波はあらわれないってことなのよ。」

「しかし、観測器って電気つかって電流を流しているから、それが影響してんじゃないの?」

「では、電気をつかう観測器ではなく、この左右各々のスリットに特定の方向に振動する光しか通さない“偏光板”ってただの板を、つけた場合はどうなるか。

  たとえば、右のには横方向、左のには縦方向に振動する光を通す偏光板をつけた場合、光子が通った径路は分かるようになるけれど、これも同じく干渉縞=波はあらわれなくて、左右に光子の点の集まりがあらわれる。

  ではさらに、この左右の偏光効果を打ち消すような斜め45度の偏光板を、縦・横の偏光板とスクリーンとの間に置くと、どちらのスリットを通ったのかは分からなくなるのだけど、縦や横に偏光した光の一部は弱い斜めの偏光として通り、それが何と光子の点の集まりではなく、今度は干渉縞=波としてあらわれるということなのね。」

  話自体がややこしいのに、つぎつぎと『Newton』の実験図を指し示すユリコの可憐な指先にも目をやるうちに、テツオも何だか分からなくなってくる。

「その話って、たしかに何だか変だよね・・。学者たちはそこん所を、どう説明してるのかな?」

「そう! 何か変だと思うのだけど、これはまったく正確な実験の結果なのよね。いろんな説があるなかで、一応、標準的な理論とされる『コペンハーゲン解釈』というものは、このように説明している。

  “光子や電子は観測をされない限り、波としてふるまい、空間を広がり進んで干渉を起こすのだけど、観測をされてしまうと、波は突然消え‘収縮’して、それが粒子としての姿をあらわす。光子や電子の発見場所は確率的にしか予言できず、波の形はその出現する確率が高い所を示している”と。」

「じゃあさ、その波から粒子への‘収縮’っていうのはさ、どのようにして起こるんだよ?」

「‘収縮’のカラクリは、それはだれにも分からないって、ことらしいよ。」

「それなら何が何だか、分からないよね・・。」

  しかしユリコはここでひとまず、話をまとめたいようだ。

「でね、この二重スリット実験というものは、他にもいろんなバージョンがあるようで、光子そのものに偏光板など観測器のようなものを接触させずに光の径路を分かるようにしてみたり、分からないようにしてみたりと、様々な実験があるのだけど、どうも共通しているのは、

  • 光子や電子の通った径路を分かろうとさせた場合は、干渉縞=波は消え、光は粒子としてあらわれる。
  • 径路を分からなくした場合は、逆に粒子ではなくて、光は干渉縞=波としてあらわれる。

ということと思われるのね。」

  そしてユリコは、ここでその目を大きく見開き、テツオに仮説を述べてみる。

「テツオ。ここでこの前の話だけど、あなたが女装し、意識のうえで男女の相対知の分別をやめ、より光を感じたのと、私が白装束で、意識のうえで生死の相対知の分別をやめ、より光を感じたのと、これが同じ現象じゃないかって言ってたよね。

  そして、以前キンゴが言っていた、“電子の対生成ができる光=γ線のエネルギー1.022MeVと、その対称性を認識できる人間の相対知に要するエネルギーとは、何か等価性のような関係があるんじゃないか”という話を思い出したよね。

  それで、女装や白装束でより光を感じたのは、あるいは臨死体験等で多くの人がより光を感じるのは、男女や生死の相対知をなくし、あるいは生前の執着をなくしていく過程において、相対知=執着力に要している“γ線に匹敵するエネルギー”が低下して、同じ光でγ線より低エネルギーのヒトの可視光域に近づくために起こったのではないだろうかって、言っていたよね。

  ということは、それらと同じく、光や電子の“粒子と波”もヒトの相対知の一つとすれば、人間がたとえばその径路を分からなくしてしまうと、分からないから相対知もはたらかず、粒子ではなく干渉縞=波としてあらわれて、逆に今度は、その径路を分かろうとしてしまうと、相対知=執着力のエネルギーがはたらいて、それが電子対生成分の1.022MeVまたは電子1個分の0.511MeVに匹敵する強さであれば、波はそこで収縮して粒子として、つまり粒子としての電子となってあらわれる-というように解釈できない??」

  テツオは、ここで思わず腕を組み、「う~ん」と一言うなったまま、ユリコが開いた実験などに目をやっている。

「でもさ・・、その波から粒子の収縮って、人間の相対知がどのようにして、そのモノ=対象に伝わるのさ? つまり、伝わる媒質は何なのかっていう説明が、いるんじゃないの?・・」

「いや・・。私たちの仮説のとおり、光が知恵と知性を担うのならば、波から粒子の収縮も、相対知の執着も、同じ光のなかで起こるのだから、媒質は考える必要がないわけよ。

  つまり、この“光の粒子と波の二面性”と“二重スリットの実験”というのはね、私たちの仮説である、“光が知恵と知性を担う”ということ及び、“人間の知はそれに対して相対知である”ということそして、“その相対知のエネルギーは電子の(対)生成と等価性をもつ”ということの証拠になり得るのではないだろうかと、私は思うの。」

「じゃ、じゃあさ、波から粒子の収縮が人間の相対知の変化とともに光のなかで一緒に起こるということは、収縮は光速で起こるとすると、その収縮を粒子と知るヒトの視覚も、ひょっとして光速なみの速さでもって知覚できるというものなの?」

「それについては、人間の光感受性は網膜の視細胞にあるロドプシン(4)というタンパク質によるものだけど、その反応は約10兆分の1秒=10のマイナス13乗秒という速さで起こり、一方、真空中を毎秒約30万kmで進む光速は10のマイナス12乗秒で0.3mm進むのに相当するということだから、ということは、人間の光感受性は光速なみの速さがあるということになり、これは今あなたが言ったとおりのことになるよね。」

  ここまで来ると、テツオは思わず驚嘆の声をあげる。

「ユリコ・・。すげぇよ、すげぇよ、これって! これは僕らのブログの完成どころか、この“人が知恵や知性をもつのではなく、光が知恵と知性を担う”というのは、かの天動説に対する地動説と同様に、まさにコペンハーゲン的転換というべきもので、今言った“波から粒子の収縮を人の執着=相対知を因とする”との解釈も、かのコペルニクス解釈に対する新解釈というべきもので・・。」

「いいえ、逆よ、その逆。コペルニクスコペンハーゲン、入れ違いになっているわよ。

  まあ、そんな訳で、私は大発見って言ったのだけど、これでキンゴからのブログ完成の宿題は、一応この文脈で書けるのではないかしら・・。」

  しかし、それでもなおも慎重にテツオを見守るユリコの視線を反映したのか、テツオも机上の資料を目で追ううちに、やはりここは慎重な面持ちになってくる。

「でもさ・・、この二重スリット実験や量子論の謎というのは、ほら、ここにもあるように、ある高名な物理学者をして“この現象は、どんな古典的な方法をもってしても決して説明することはできない。まさにミステリーとしか言いようがない。どんな仕掛けで自然がそんな風に振る舞うか、誰にもわかっていない”(5)と言わしめたほどの超難題だろ。そんな危なっかしいのにフツーの高校生にすぎない僕らが、物申すというのもなあ・・。僕らの仮説も、多分どこかで間違ってるんじゃないのかな・・?」

  だがユリコは、ここで皮肉というよりも、むしろ清々しい笑みを浮かべて、こう答える。

「いーじゃないの。私たち、核のためなら自分の子孫を犠牲にしても省みないアホなホモ・サピエンスから、突然変異でもっと賢い新人類になったってことにすれば!

  レイコさんが言うように、仮説は人の数だけあっていいのだし、たとえ私たちのこの仮説に不首尾な点があるにせよ、これから核の世を渡っていく次世代の子ども若者たちのため、私たちはこうして核の世を生きる意味を自ら考え示したのよ! 核をつくって依存して次世代にツケを残し、あとは何も考えないアホなホモ・サピエンスの大人たちに、今さら文句を言われる理由はないよ。

  それに私たちのブログなんて、今や隠れキリシタンみたいにさ、放射能や内部被ばくを真剣に考える人たちしか読まないだろうし、それ以外のサピエンスらの評価なんてどうでもいいじゃん。」

  しかし、文筆に関しては自信家のキンゴと違って、自分で文書を書かねばならないテツオは、やはりここはより慎重になるのだった。

「ねえ、ユリコ。どうだろう、ここはこの際、レイコさんに相談するとか・・。だからユリコも、僕といっしょに来てくれない?」

「レイコさんに? いいんじゃないの。レイコさん、私たちの担任だし、何より理系の先生だし。

  レイコさんね、ずっと私たちのブログを読んでてくれてて、あくまで私たちの自由な思いと表現を尊重して、あえて介入しないように気遣ってくれたのだと思うのだけど、私たちの方から出向けば、それなりに応えてくれると思うのよ。それに・・、」

  ユリコはここで、やや涙目になりそうになりながら、言葉をつなげる。

「レイコさんね、ずっとテツオのことを心配してるよ・・。ヨシノとキンゴは受験準備でほぼマンツーマン、私とは二人でご一緒することもあるけど、テツオとはまとまった時間をもつことがなくなって、そのことを気にしているのが、私にはよくわかるのよ・・。

  だから、テツオ。私のことは別にいいから、この話をレイコさんに持っていって、この際、思うところを思い残さず、二人だけでお話をしてみれば?」

 

  テツオはそれで、ユリコがたくさん付箋をつけた『Newton』などを参照しながら、キンゴのブログを書きつなげようとするのだが、実際に書き始めると次から次へと疑問がわき出て、まとまった文章にはなかなかならず、せいぜい要点整理と考え方と、彼の意見らしきものを箇条書きにした段階で、ある日それらを携えて、喫茶室にいるレイコの所に相談に行ったのだった。

  レイコは事前にユリコから聞いていたのか、すんなり文書を受け取ると、その場でそれを読みはじめて、お茶をしているテツオの前で何度か読み返していたのだが、テツオが-やっぱりまずかったかな-と思い返しているうちに、彼にある提案をしてくれる。

「テツオ君、このお話はまた日を改めて、時間は長くはなるけれど、昼食後から夕方ごろまで、私と二人で、話をさせて下さらない? それからブログにアップさせても、遅くはないと思うので・・。場所はこの喫茶室で、お茶とお菓子をご一緒しながら・・。」

  テツオはこの提案に望外の喜びだったが、ついに物理学の大謎という本丸に切り込んだのをネタにして、いくら親しいレイコとはいえ、理系の教師と互いに本気で対話をするのを考えると、空気を読まないキンゴと違って、彼は大いに恐縮しそうになってくる。

  だが、レイコはそんな彼の表情を見て取ったのか、微笑みながらも、また言葉を添えてくれる。

「テツオ君・・、あなたに一つ、お願いがあるのだけど・・。私が先生だからといって、決して権威視したりせず、同期に対するみたいにね、遠慮せずに自分の意見を言ってほしいの。というのは、あなたが指摘した問題は、物理学の範疇を超えていて、そこは私も普通の学徒と同じだからね・・。」

 

  さて、いよいよ約束の日になって、テツオは資料をたずさえて喫茶室へと入ってみると、レイコはすでにカウンターの店長席で、積み上げられた資料を前にお湯を沸かしている所である。この日はもちろん貸切状態、レイコが理事長室より持ち込んだのか、コピー機能がついているホワイトボードまでが置かれて、これから始まる対話編の準備完といった感じだ。

「先生、すみません。僕が準備をするべきところを・・、」

「いえ、いいのよ。私も今、持ってきたところだから・・。」

  と、レイコがカウンター席へとついたテツオを前にボードの向きを調整しようと店長席から出てきたところを、テツオは執着のなすがまま、ロドプシンの視覚も瞬時に彼女のコーデをチェックする。

  -トップスは、ピンタックに黒ボタンでノーカラーの白ブラウスに、ボトムズは、膝下丈も充分なボルドーフレアスカート、ベージュのタイツにロウヒールのスエードパンプス・・。ああ、先生らしく、無難なコーデで何よりだった・・-

  初っぱなから、自分でも変な安堵をするものだと思いながらも、今や女装をするテツオには、男女が二人っきりになる時の女性のコーデが意味するコードが、読めるような気がするのである。それで彼は、自分がデビューで着たような、お尻と腿のRラインがはっきり見えるタイトスカート、それでなおかつ透けグロ&ハイヒールの二本の足をこれ見よがしに目の前で組み替えられたらどうしようと、心の奥で心配をしていたのである。

  -そんなの見たら、執着が強くはたらき、お茶の波まで再び粒に戻ってしまって、γ線のガイガー計さえ振り切れたりして・・。でも、フレアスカートなら、見てのとおりの“波”だから、僕のこうした執着もおさまったりして・・-

「テツオ君、テツオ君! 飲み物はアールグレイエチオピアか、どっちがいいって、さっきから聞いているのに・・。」

「あ、はい、すみません・・。ボ、ボクにとっては、RグレイもHオピアも、RもHも相関していて・・。せ、先生は、どっちにされます?」

「私? 私はまずはアールグレイで・・。」

「じゃ、じゃあ、僕はエチオピアで・・。」

  それで二人がマグカップに互いに口をつけ出したころ、まずはレイコから話を始める。

 

「ここで再び科学史の話をするとね、光(光速)をはじめて科学的に求めたのはガリレオといわれていて、ニュートンの光は粒子説というのと、ヤングの光は波説という対立を経て、それが19世紀に入ってから、光が従来は別なものとされていた“電場と磁場”によるものと説明したのがファラデーとマクスウェル。また20世紀に入ってから今度はアインシュタインが、光は観測者の運動に関係なく自然界で最高の秒速約30万kmをとるという光速度不変の原理をもととする『特殊相対性理論』において、従来は別なものとされていた“質量とエネルギー”、そしてつづく『一般相対性理論』において、同じく従来は別なものとされていた“時間と空間”また“重力と時空”とが、実は別なものではない=分けられないものであるということを説明した。

  また20世紀に、光子や電子などミクロの世界を扱う量子論では、ハイゼンベルグの『不確定性原理』において、“位置と運動量”あるいは“時間とエネルギー”というものが、ある基本的な限度以上の正確さで同時に測定することができないことが説明をされているから、これも同じく、これらが実は別なものとはいえない=分けられないものであることを示唆しているとも考えられる。

  そしてこの光子や電子の“粒子と波”も、実は別なものとはいえない=分けられないものではあるけど、この二面性がなぜ起こるかということには、明確な説明が今のところはないようなのね。

  しかし、今まで見たように、これらのことにはある共通点があると思う。それは、人間が光を追及していくと、“知恵の実を食べ、善と悪とを知った”という『創世記』の“善と悪”みたいに、従来は相対的な別なものとされていた2つのものが、実ははっきり区別ができず、独立した別なものとはいえない=分けられないものであるのに気づく-という共通点が見出せると思うのね。

  そしてこのことは、私たち人間は、“光を前にした時に、人間は、何らかの物理的、そして意識的な限界に気づかされる”ということを意味しているのではないだろうか-とも思われる。

  それで今回、あなたたちが指摘したのは、“光が知恵と知性=すなわち意識を担っている”ということ及び、“人間の知はそれに対して、善と悪とを分けるような相対知である”ということで、だからこそ、光を前にした時に、人はすでに分別した=相対化した2つのものが、実際は分別できず、分けられないことに気づく-ということだよね。」

  ここまで一気につぎつぎと、ホワイトボードに見出しを連ねて書き記していくレイコにテツオは早やついてはいけず、思わずストップモーションをかけるのだった。

「せ、先生・・、とてもメモが追いつかなくて・・。これでブログを起こそうと思っていたのに・・」

「大丈夫よ。このボードの板書はコピーができて、これをまとめて持って帰ってブログを起こせばいいと思うし。あ、それと、忘れていたけど・・。」

  と、レイコはボードのコピーをテツオに渡すと、カバンの中からある小物を出してみせる。

「これ、ちょっと古いけどウォークマン。今日の私たち2人の対話は、これで録音できるから、あとで文書起こしをすればいいし。だからもうメモ取りやめて、これから対話に集中しましょう。」

  と、レイコはウォークマンに引き続いて本を取り出し、テツオにその該当箇所を開いて見せる。

 

 

「今、私は、人が光を前にする時、限界を見るんじゃないかと言ったけど、ニールス・ボーアはその著書(6)で、興味深いことを言っていて、そこを今から読んでみると-、

 “われわれの通常の感覚上の印象に秩序をもたらすのに物理法則の認識が適しているのは、光速の実際上の無限の大きさと、作用量子の微小さによるものである。一般に因果的な時空的記述様式が、通常の経験を秩序立てるのに適しているのは、通常の現象における作用に比して、作用量子が小さいということによる。これは、われわれの感覚によって空間と時間とをはっきり区別することの適切さが、光の速度に比して、通常の現象における速度が小さいことに全面的に依拠しているのと、似たものなのである。”-ということなのね。

  ここでいう“作用量子”は、エネルギー×時間を“作用”とよんで、その作用に最小の単位が存在することを示していて、“プランク定数h=6.63×10のマイナス13乗J・S(ジュール・秒)”をさしている。

  つまり、ボーアは、自然界の最高速度である光速cをいわば上限、そしてこのプランク定数hをいわば下限としてあらわしていて、ということは、これは自然界の上限・下限はともに“光”で画されるということに等しいと私は思う。」

  レイコはまた他の書物も参照しながら、板書をまじえて話しつづける。

「そして自然界には、人間界のインチやフィートなどといった人為的な単位ではなく、自然にもとより備わっている物理定数(重力定数G、光速c、プランク定数h)からなる“プランク単位”(7)というものがあり、これが最も根源的な単位とされ、物理理論の適用限界を示す量ともいわれている。」

 プランク長さlp=1.616×10のマイナス35乗m

 プランク時間tp=5.391×10のマイナス44乗s

 プランク質量mp=0.0217643mg      

  この板書をじっくり見つめていたテツオは、だがここで、あることに気づいたようだ。

「先生、この各々のプランク単位を少しいじると、こうなりませんか。

 プランク長さlp=1.616×10のマイナス35乗m そのまま、1.616×10のマイナス35乗m

 プランク時間tp=5.391×10のマイナス44乗s の×3は、1.617×10のマイナス45乗s

 プランク質量mp=0.0217643mg    の×3は、0.654×10のマイナス1乗mg

  つまり、以上のいずれも、黄金比の1.618また0.618と近似の値をもっています。

  ×3の“3”は、僕的には、光速c=2.998×10の8乗m/秒からくる“3”とも見えます。

  プランク定数h=6.63×・・、また、重力定数G=6.674×・・のそれ自体が黄金比に近いのと、そして、光=γ線から対生成されてくる電子の電気素量が黄金比とほぼ同じ1eV=1.602×10のマイナス19乗Cで、そしてこの電子こそがすべての元素を決定づけ、その元素の周期表にも黄金比を生むフィボナッチ数が見てとれました。

  このフィボナッチ数こそは、光合成をする草花の葉序や花びらに繰り返しあらわれるものであり、これはまさに“光”の言葉といっていいと思います。

  ということは、これらの“黄金比”のことは、ニュートンが言う所(8)の、“初めに神は物質を形作り、その大きさと形、その他の性質および空間に対する比率を、神がそれらを形作った目的に最もよくかなうようにした”ということを示唆しているばかりでなく、“自然は光によって創造され、またその限界を画されて、すべては光に制御される”-ということも示唆しているのではないでしょうか?」

  このテツオの発言を、彼の目を見つめつつ聞いていたレイコはここで、深く納得をするようにうなずきながら、板書をつなげる。

「そうね。確かにあなたの言うとおり、ここにも再び“黄金比”が見てとれるよね。

  この黄金比とは、美と美意識の象徴であり、無限につづくフィボナッチ数列のFnとFn+1との前後の比が永久に生み出すもので、このフィボナッチ数が光合成をする植物の草花や、元素の周期表にある電子の数にあらわれること、および、この黄金比が今見たように自然界を律している根源的な単位にも見てとれるということから、私もあなたの言うように、“自然は光によって創造され、またその限界を画されて、すべては光に制御される”-ということがいえると思う。

  そして、フィボナッチ数列のFnとFn+1との前後の比が黄金比を永久に生み続けるということは、フィボナッチ数列には“保存則”が認められるということであり、ここで“何か一つの保存則があるのなら、それにともない一つの連続的対称性が存在するはずである”との“ネーターの定理”(9)を思えば、フィボナッチ数列には、これも美と美意識の要の一つの“対称性”が含まれているともいえる。

  ここで、同じく保存則の典型であり、物理の世界で最後まで残る保存則といわれている“エネルギーの保存則”を思い起こせば、“光→エネルギー→保存則→黄金比→美と美意識すなわち意識”というように、これらはもう物理学の範囲を超えて、全てつながっているようにも思われる。

  それに第一、物理的にいうならば、光はもとより90度で互いに直交しあっている電場と磁場の変動が波=電磁波となって伝わるもので、この光の諸相そのものに、直線、直角、三次元、波動そして空間・時間と、ユークリッド幾何学からデカルト座標三角関数などといった様々な数学が含まれていることから、ガリレオが“自然は数学の言葉で書かれる”の名文句は“自然は光の言葉で書かれている”と言いかえてもおかしくはなく、ここまで来れば、子供たちを犠牲にしても核と平気で共存をする私たち人間ではなく、“光が知恵と知性=すなわち意識を担っている”ということを認めるべきだと私は思う。」

  と、レイコはここまで板書を記すと、ひとまずはコピーをとってテツオに手渡す。

  そして彼女は、続いて板書をいったん消すと、ボードにやや大きな文字で改めてこう書き記す。

  “光知性原理”

「先生、その言葉が意味するものとは、何なのでしょうか?」

「ここでいう“原理”とは、アインシュタインが光の速度をして“光速度不変の原理”を唱えたように、もとより自然に備わっているもので、人間が証明不要の自然の原理(10)という意味なのね。

  だから今私たちも、これにならって、“光が知恵と知性=すなわち意識を担っている”という“光知性原理”なる自然の原理があると認めて、ここでそれを宣言しちゃえばいいと思うよ。」

  しかし、テツオにとっては、このレイコの提案はあまりにも大胆すぎると思えたようだ。

「セ、先生・・。それって、果たしてそんなこと、フツーの人の僕たちが、宣言してもいいんでしょうか・・? 相手はアインシュタインですよ。いくら核がはびこって、世は末世に及んで日月いまだ地に落ちず(11)とはいうものの・・。

  そ、それと、ボクはですね、いったん自分の世界に入れるや否や何事も自信家になるキンゴと違って、実は今まで慎重に考えていたことがあって・・。こうした知恵や知性や意識の世界に、物理学の考え方やその記述方法を援用してもいいのかどうかと思っていて・・。そこん所を先生は、どのように思われますか?」

  と、思い切って理系の教師のレイコ自身に尋ねてみる。

 

  だが、このテツオの問いは、彼女には想定済みのものらしく、ここで聞かれてむしろよかったといった感じで、レイコはまたいくつかの書を開きつつ、テツオに対して示してみせる。

「今のは非常にいい質問で、まさに根源的な問題意識と思うけど、それについては先人たちの考えを聞いてみたいと思うのね。

  まず、これはニールス・ボーア(12)。

“・・実際、アインシュタインにより見事な統一と完成にもたらされた古典物理学の全概念構造は、物質的な対象の振る舞いと、その観測如何という問題とを区別することは可能であるとの仮定の上に安んじている。

そのような制限された適用可能性ということについては、実際のところ我々は心理学、あるいはブッダ老子のような思想家たちの存在という認識論的な問題にさえ、目を転じなければならない。それは原子的現象に遭遇する予想もされないパラドックスを解決する助けになりそうかどうかを検討するよう、我々を励ましてくれるものである。”

  つぎに、これはハイゼンベルグ(13)。

“・・原子物理学の数学的諸構造は、それの適用可能性という点で一定の経験領域に制限されるべきものであり、生命的ないし心霊的事象を記述しようと欲する場合は、こうした知性的構造を拡張しなくてはならぬ、ということになる。

かように拡張された理論は、おそらく原子論の拡張された形とも見なされるものであり、別箇な事象だけを記述する理論のようには考えられないだろう。”

  そして、これはマックス・プランク(14)。

“・・世界を統治する最高の力の存在と本質への問いにおいては、宗教と自然科学とが出会うのであり、これらの答えは決して矛盾するものではない。

それは人間から独立した理性的な世界秩序が存在すること、この世界秩序の本質は決して直接には認識できず、ただ間接的にとらえられたり感知されたりし得るだけでのものであること、これら二点を含んで調和する内容をもっている。

  すなわち自然科学の世界秩序と宗教の神を同一視しようとすることは、何ものによっても妨げられず、また統一的な世界観を欲する我々の認識は、それを要求してもいるのである。

  宗教的人間が接近しようと努める神は、研究する人間に感覚がある程度まで知識を与える自然法則のその力と、本質においては等しいのである。

  神はあらゆる思考の端初にあり、またあらゆる思考の終極にある。ケプラーニュートン、そしてライプニッツなどの人々が、深い宗教性に貫かれていたという歴史的な事実は、宗教と自然科学とが調和し得ることをおそらく最も端的に証明している。”」

  と、ここまで書によりテツオに示してきたレイコは、ふと指先を目にやって、言葉をつなげる。

「テツオ君・・。私ね、特にこのニュートンのようなことを述べたプランクの文章を読んだ時には、ああ、本当にそのとおりだって、涙が出るほど感動したのよ・・。こんな視点は、現代の科学者たちにはもうないだろうって・・。」

  そしてレイコは書を閉じると、再びボードの前に立ち、“光知性原理”の文字を見ながら述べるのだった。

「そんな訳で、今あなたが言った、“知恵や知性や意識の世界に、物理学の考え方やその記述方法を援用してもいいのだろうか”という問題意識は、先人たちのこうした意見に通じるものと私は思う。

  それに、特に粒子と波の二面性に代表される量子論の謎においては、“この現象は、どんな古典的な方法をもってしても決して説明することはできない。まさにミステリーとしか言いようがない。どんな仕掛けで自然がそんな風に振る舞うか、誰にもわかっていない”と言われているほどだから、私たちはこの際ここで、以上の先人たちの言うように、“従来の古典(物理学)的な一定の経験領域に制限されるべきものから、こうしたブッダ老子のような思想家たちの認識論的な問題へと、知性的構造を拡張して”も、いいのではないだろうかと思うのよね。」

  と、レイコのその黒い目で見つめられているテツオは、ここで大いに納得をしたようである。

 

カシミール効果”

  レイコは続いて、ボードに向かってこの文字を書き加える。

「でね、かくしてこの『光知性原理』という仮説をもとに、あなた達のブログを受けて、私が考えてみたことがあるんだけどね・・。」

「“カシミール効果”って・・。これはいったい、何ですか?」

「『カシミール効果』(15)というのは、真空中に向かい合わせた金属板を2枚、少しだけ離して置くと、その金属板の内側には、ある限られた振動数の光=定常波しか存在できなくなるために、あらゆる波長の光がある金属板の外側よりエネルギーが低くなって、外側のより大きなエネルギーに押される感じで、2枚の金属板はひとりでに引き寄せあうというものなのね

  それで、生物の各個体は、昆虫の紫外線域、ヒトの可視光線域というように、各々固有の光に感応する領域があるのだけど、それは原理的には外界の光の波長より限られた狭い光の波長になる。

  ということは、『光知性原理』という仮説においては、ヒトの知恵や知性や意識においても、同じ光を基とするから、ともすればこのカシミール効果のような現象があるのかもと思ったのよね。

  この“定常波”という波は、たとえばあなたが弾くギターや私が弾くピアノのように、固定された両端で反射する弦の波がいい例で、左にも右にも進まず繰り返し振動する波なのだけど、私がこの定常波を人間の知恵や知性や意識などと結びつけたその理由は、ピタゴラス(16)がをはじいて簡単な整数であらわせる協和音程の比を見出し、このピタゴラス音階は現在の12平均律音階に通じているということだけど、何よりそれを人間が心地よいと感じられるということによるのね。

  そしてもう一つは、生物の各々の個体において、定常波のように左右に進まず繰り返し振動する光の波が、ともするとその生物の“意識”をもたらしているのではないだろうかと思ったのね。

  つまり、脳よりも意識が先で、これで脳をもたない植物にも、知恵や意識があることが説明できるし、また私たちの遠い先祖のバクテリアも、脳がなくても知恵や意識があったお陰で、私たち人間が進化の末に今に至ることができたのだろうと思えるじゃない。

  そして、このカシミール効果のようなものを考えると、あなた達が言っている“執着説”にも、また一定の説明ができると思うの。」

  と、レイコは『Newton』より、そのカシミール効果の絵を示して見せる。

「このようにカシミール効果、あるいはカシミール力というのは、向かい合わせの2枚の金属板の内側がその外側のより大きなエネルギーに押されるために金属板が引き寄せあうということから、内側から見て“引き寄せあい、引き合う力”になるわけで、人間はまずここから“力”という概念の芽を得たのかもしれない。

  なぜなら、人間が関心をもつ“力”というのは、今日話題の“自然界に存在するすべての力を統一する大統一理論”にむけて言われる“4つの力”が、重力・電磁気力・弱い核力・強い核力といわれるように、なぜかいつも“引き合う力”に焦点があてられていて、人間は莫大な費用をかけて加速器つかってその研究に余念がない。

  しかし、私が以前にお話ししたセント・ジェルジ(17)の“構成力”あるいは“自己組織力”ともいうべきものには、この大統一理論に比べると関心を示す人は多くはない。それをここでもう一度振り返って見てみると-、

 “・・ここで‘構成’というのは、自然が何か意味あるように二つのものを組み合わせると、その構成要素の性質からは説明できない新しいものが生ずるということである。このことは、原子核や電子から巨大分子や完全な個体に至る複合体の全域にわたって真実である。この相互作用こそ、最高次のすべての機能を生ずるもので、意識、記憶、追憶あるいは学習等の精神現象として現れるものである。生物はそれ自身のなかに、これまでにはまだ確立されていなかったある原理、いわば自分自身を完成させる傾向をもっていると思われる。この自己完成原理はすでに水素原子のうちに存在していたのかもしれず、生命はその起源をこの原理に負うているともいえるだろう。”-ということなのね。

  だから私は、自然界の様々な“力”には、当然こうした“構成力”あるいは“自己組織力”も含まれて、大統一理論というからにはこうした力も考える必要があるだろうと思うのだけど、4つの力がすべて引き合う力というのは、ともすると、この“力”という概念の芽そのものが“引き合う力”だからであり、その起源はこのカシミール力のようなものではないだろうかと思ったのよね。」

「先生、ということは、このカシミール力的な“引き合う力”が、人間=ヒト=ホモ・サピエンスの執着力につながったということでしょうか?」

「うん、そうね。それでもし私たちの先祖のヒトが、このカシミール力的なものにエネルギーを注ぎ込んでいった場合、外に比して内が低いそのエネルギーが高まっていくことにより、外のエネルギーに接するようなことになるから、そこから“作用反作用”の概念の芽が生まれ、これがそもそも相対知のもとになったのかもしれない。」

「先生、ちょっと待ってください。ヒトの視覚が感応する可視光線域とは、太陽光エネルギーの波長のなかで最もエネルギーの高い領域(18)だったと思うのですけど、ということは、ヒトはその進化の過程で、その太陽光エネルギーの最も高い領域=可視光線域へと、自らもエネルギーを注力してそれを求めていったということでしょうか?」

「うん。そのように考えると、光のエネルギーからすればγ線よりはるかに低い可視光線でありながら、それが太陽光エネルギーの波長のなかでは最もエネルギーの高い領域であったことから、それを求めたヒトというのは、それに合わせるべく莫大なエネルギーを注いだものと考えられ、この“引き合う力”からあなた達のいうようなサピエンスの恐るべき“執着力”が形成されて、そのエネルギーはついにはγ線なみの電子1個分の0.511MeVより大きいものになったのかもしれないね。今日でも人間は全エネルギーの約20%を脳につかっているというし。

  私はね、多分、ずっと私たちホモ・サピエンスは、“光”を求め続けてきたと思うのよ。

  それで一方、サピエンスと同時期を生きたネアンデルタレンシスは、アフリカ生まれのサピエンスとは異なって、日が短くて日差しが弱いヨーロッパを中心に生きていたから、後頭部の出っ張りにその痕跡が見られるように視覚自体をより発達させる必要があり、この強い“執着力”を形成するには至らなかった。だから、知恵=光に依存する人類であるにもかかわらず、光にゆかりの磁気の変化に揺り動かされるまま対応できずに絶滅した。つまり、サピエンスのこの執着力は、進化論的には一種の“抵抗力”ともなった-これがあなた達の仮説だよね。」

  テツオはここまで彼らのブログを読み込んで覚えていてくれていたレイコに対して、頭が下がる思いがしている。

 

 “光電効果

  しかしレイコはその頭を上げたまま、ボードにまた新たな文字を書き加える。

「でね、私がさらに考えたのは、この光知性原理におけるカシミール的な効果において生じている定常波に対してね、多大なエネルギーが注がれると、定常波には整数があらわれるということから、ともするとこれは“量子化”されているような現象が起こるのではないだろうかと思ったのよね・・。」

「先生、その“量子化”とは、何でしょうか?」

量子化というのはね、いわゆるパケットといえばいいのか、光のエネルギーが整数単位でとびとびの値を取るように、粒のように数えられるということなのね。つまり、あなたが今回指摘した、光の粒子と波の二面性の原因が、電子1個分に相当する人間の相対知のエネルギーだとすれば、ちょうどそれと同じように、この定常波も粒子のように量子化をされるのではと思ったのよね。

  それで私が考えたのは、ここにもし同じ光でエネルギーの非常に高いγ線が当たった場合、“光電効果”のような現象が生じるのではないだろうか-ということなのよ。」

「その“光電効果”(19)という現象は、これは教科書にもありましたけど、それはたしか、“光を光子の集合体と考えて、γ線のように光の波長が短いほど光子のエネルギーは高くなり、その光を金属に当てると金属中の電子が光子からエネルギーをもらって外に弾き飛ばされる”という現象ですよね・・。

  ということは、同じ光をもととして、人間の相対知が執着力で量子化されているとするのなら、エネルギーの非常に強いγ線が当たることで同様に弾き飛ばされるのではないか-ということになる・・。つまり、放射能が漏れ出して莫大なγ線が環境に放出されると、人間の相対知はダメージを受け維持できなくなる-ということになる・・。」

「そう。このことは、あたかもネアンデルタール人たちが磁気変化に対応できずに絶滅したのと同じような理屈になり、これで私たちサピエンスも同様に絶滅するという仮説が考えられると思うのね。」

  ここまで来て、テツオはいよいよ本丸に入ったかと思うのだが、彼はここで以前から聞きたいと思っていたことを口にする。

「先生、これまでの物理学の歴史において、人間の知恵や意識の問題を、こうしたミクロの粒子や波や量子といった問題に、むすびつけて考えた人って、どれぐらいいたのでしょうか?」

  レイコはここで、また新たな書物を取り出してテツオに見せる。

「この問題は、量子論でいう所の、人間の“観測”が光子や電子などといった物理的な実在とされるものに、どう影響を与えるかという問題につながると思うのだけど、たとえばフォン・ノイマンらは、電子や光子の状態を観測して、その観測結果が人間の“意識”に上った時に状態が一つに決まる-つまり、人間の意識の介在によってミクロな状態が決まるのだ-というように考えたといわれている。

  それに対して、シュレディンガーが、“半分死んで半分生きているみたいな、生死という状態が共存しているようなネコが存在をするのだろうか?”という有名な『シュレディンガーのネコ』なる思考実験で批判したという話がある(20)。

  しかし、私が思うに、これまで私たちが見てきた所ともっとも近い話というのは、ド・ブロイのこの文章(21)じゃないだろうかと思うのね。

 “すべての古典(物理学)的な理論には、容認された仮説があって、一つの体系の状態を量的に観察しても、その状態を少しも乱さずに済むということになっている。

  つまり学者は、その体系と自分自身との間に、問題となる程のエネルギーの交換を行わずに、これを観測し測定することが出来るものと認めている。

  ところが我々の感覚は、常に我々の感覚器官に及ぼす外界の作用、従って外界と我々の身体との間に行われるエネルギーの交換を予想するものであるから、単なる観測の場合においても、厳密に言うとこの仮説は明白に不正確である。”-ということなのね。

  ド・ブロイは、“人間ではなく光にこそ知性がある”とまでは考えていなかったと思うのだけど、彼がこの文章で指摘した“エネルギーの交換”という現象を、私たちは、光→エネルギー→粒子と波→人間の相対知-といった流れで、自分たちの仮説を通じて展開してきたのかもしれないね。」

  しかし、自分たちの仮説に対してある程度の裏付けがありそうな感じがしても、ことサピエンスのネアンデルタール人みたいな絶滅説まで及んでくると、テツオはなおも慎重に、残った疑問を聞いておきたい気になってくる。

「先生、この『光知性原理』の仮説によって導かれてきた、“人間=サピエンスの相対知がγ線にやられてしまう”という現象は、はたして人間以外の他の生物には影響はないのでしょうか?

  それと、仮に人間だけの現象とした場合、その影響は地球上の全ホモ・サピエンスに及ぶのでしょうか? それとも、たとえば3.11原発事故の当事国の国民みたいに、放出されたγ線に近い範囲の人間だけに及ぶのでしょうか?」

 

 量子もつれと非局所性”

  それを聞いてレイコはボードに、あらたにこの字を記して見せる。

「まず、ヒト以外の他の生物に対しては、影響はないと私は思う。というのは、執着力で相対知をもっているのはおそらく人間だけだから。光電効果はエネルギーの高い光子が粒子としての電子に当たって弾き飛ばす現象なので、電子のような粒子がなければ起こらないから、相対知を持たないようなヒト以外の生物たちには起こらないと思われる。

  私が思うに、このことは、旧約聖書の『創世記』-ノアの箱舟の物語(22)における、神の言葉-

“わたしは箱舟から出たすべてのものとの契約を立てる。その契約によれば、今後ふたたび全被造物が洪水によって滅ぼされることはない。わたしは人間であれば人間の責任を追及する”

-を成就するものと解釈できる。つまり、人間の“因果応報”そのものといえると思う。

  次に、この影響が、原爆や原発事故で放出されたγ線に近い範囲の人間だけに及ぶのか、あるいは地球上のホモ・サピエンス全体に及ぶのかという問題は、少し複雑な話になるけど、私はこの“量子もつれと非局所性”の考えがつかえるのではないだろうかと思うのね。

  この話も、粒子と波の二面性の謎と同じく量子論の大きな謎とされるのだけど、高校生の教科書には載ってないから、ここでかいつまんで説明するとね・・。」

  と、レイコはまた様々な書物(23)を開いてテツオに示す。

二つの量子の間でいったん相互作用(これを“相関”という)が生じると、その二つの量子がたとえどんなに離れていても、その相関性は完全に保たれる-という、いわゆる“量子もつれ”の性質が自然界にはあるとされる。

  たとえば電子を例にとると、電子はスピンをするのだけど、そのスピンには上向き(アップ)と下向き(ダウン)の二つがあって、二つの電子Aと電子Bにこのアップ・ダウンの相関性をもたせておく-つまり、一方がアップならば、他方は必ずダウンになる。

  それで、この電子A・Bをもの凄く遠い所に、たとえば100兆kmあるいは200万光年ぐらい離しておいて、測定器にかけた時に起こるのは、電子Aがスピンアップと観測されたその瞬間に、電子Bは自動的に(観測されることなしに)スピンダウンに決定する-ということなのね。」

「先生、でもそれって、100兆kmや200万光年も離れているのに、AがアップならBがダウンというように、Aの観測を受けた結果が、どうしてBに瞬時に伝わるというのでしょうか?」

「そう。自然界には光速を超えるものはないというのに、100兆kmは光速でも約10年はかかるのに、いわんや200万光年も離れては、Aの観測結果がBに瞬時に伝わるなど、あり得ないと思うよね。

  でね、問題はまさにそこで、“粒子と波の二面性”と同じように、この電子Aも人間が観測するまで、スピンがアップなのかダウンなのかが確定しない“重ねあわせ”の状態にあるのだけど、電子Aを観測してアップかダウンが分かった時に、なぜBも同時に分かるのか-ということなのよ。」

「先生、それじゃ何だかワケが分からねえって、言いたくなります。」

  と、テツオの集中力が衰えそうに見えた時、レイコはやや顔をほころばせ、ボードにマンガのような絵を描いてみせる。

「テツオ君、この話はこの本にもあるように、片方の足と足とにいつも違う靴下をはく人が、片足だけを見せた時、仮にそれがピンクとしたら、もう片方はピンクじゃないとすぐわかるということと、同じではないだろうかと、言った人がいるんだってさ。」

  この例え話と絵を受けて、テツオはその執着力を取り戻したようである。

「先生! じゃあ、それってきっと、女の人がヌーディーベージュのタイツをはくか、それとも黒のタイツのどちらをはくかということと、同じですよね!」

  しかし、テツオがテツコに押されたみたいにうっかり口をすべらしたのに、レイコは意外といい反応を見せてくれる。

「そう! もっとはっきり言ってしまうと、『白鳥の湖』で、白鳥のオデットと黒鳥のオディールが・・、あれ、オデット、オディール、白と黒、どっちがどっちだったっけ。まあ、一人二役だから同じだけど、この二人が各々白と黒のタイツをはいて交互に出てくる-その例えがわかりやすいのかもしれない。

  それでね、ここで結論めいたことを先に言うと、この“量子もつれ”の問題は、自然界で光速を超えるものはないという“光速度不変の原理”と明らかに矛盾するから、アインシュタイン量子論にEPR論文等で反論をしていたのだけど、一方で量子論に反するような実験結果も出てこないということから、この両者を矛盾させないようにするには、“局所性”を否定して“非局所性”を認めればよい-ということを、J・S・ベルが後に『ベルの不等式』(24)という形で示して、その後に行われた実験では実際に“局所性は否定され、宇宙は非局所性である”ことが証明された-といわれているのね。」

「せ、先生・・、せっかく白黒タイツの例え話でイメージできていたところに・・。その、局所性、非局所性ということも、わかりやすく説明をしてもらえませんか。」

「つまり、非常に簡単に言うならば、相関したAとBを、光速で何年もかかるような宇宙の遠くに引き離しても、Aを観測した結果が即Bがあらわれるということは、宇宙は実は分けられない=局所的(LOCAL)ではなく非局所的である=ということを認める他ない-ということなのね。」

  と、レイコはボードに記していた、さっきのテツオの質問メモにその目を移す。

「でね、あなたのさっきのご質問-光知性原理の仮説によって導かれた、“人間=サピエンスの相対知がγ線にやられてしまう”との現象は、はたして地球上の全ホモ・サピエンスに及ぶのか、それとも、放出されたγ線に近い範囲の人間だけに及ぶのか-ということは、この“量子もつれ”の問題が、粒子と波の二面性の問題と同じように人間の相対知をはたらかせた“観測”に基づいていて、そしてそれがこうして“非局所性”を示したように、同じように“非局所的”であるのだろうと。つまり、局所的にある地域の人間だけに及ぶのではなく、地球上の全ホモ・サピエンスに及ぶのだろうと、私は思うの。」

  そしてレイコは、ここでボードのコピーをテツオに渡すと、ボードを消していった所に、続いてまたマーカーで何かを書き加えていくようだ。

「以上のことが、物理学でいわれるところの“量子もつれと非局所性”の簡単な概要だけど、私はこの話をしながらも、あることに気づいたのよね。

  つまり、私たちの『光知性原理』によれば、“粒子と波の重ねあわせ”で、人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、重ねあわせの状態より、波から粒子が人間に認識される。

  そして今度は、“量子もつれ:電子のスピンアップとダウンの重ねあわせ”で、人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、重ねあわせの状態より、電子Aがアップと認識されればBはダウンと認識される-ということだよね。そして電子AとBがある時空は“非局所的”であるという。

  ということは、電子AとBがある時空は、100兆kmや200万光年も離れていて、なおかつ瞬時に伝わる非局所的であるというのは、この時空には人間が言うところの、遠い近いという相対知や、瞬時や同時という相対知はもはや利かないってことになるよね。

  にもかかわらず、このように相対知はもはや利かないというなかで、どうして、人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、重ねあわせの状態から、電子Aがアップと認識されればBはダウンと認識される-などという“電子A・Bの相関を認識する相対知”は、あいかわらず利いているのか?・・・  それが不思議であるように私なんかは思うのだけど、テツオ君はコレ、どう思う?」

「セ、先生・・、相対、そうたい、ソウタイって、僕はもう何が何だかワケが分からず・・、分からないから相対どころか、ここで早退したいみたいな・・。」

「つまりね、思いっきり簡単に言ってしまえば、“非局所性”というのだから、宇宙のすべては“分けられない”ということになり、100兆kmや200万光年といった遠いか近いか、または瞬時や同時というようなのが“分けられない”というのと同じく、スピンアップとダウンの電子A・Bも“もつれ”とか“相関”というよりも、結局は“分けられない”ということなのよ。

  これはさっきの例え話の、白鳥と黒鳥、オデットとオディール、白タイツに黒タイツ、これらは結局一人二役なんだから“分けられない”ということと、少し似ているのかもしれないね。」

「・・なるほど、そうか、確かにそうですよね。・・なら、今度はぜひ、ヌーディーベージュを・・。」

「でね、私が言いたいのはタイツの話なんかじゃなくて、以上のことを私たちの『光知性原理』でとらえると、“粒子と波の二面性”そして“量子もつれ”という“量子論の大きな謎”が意味しているのは、

  • 人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、“粒子と波の重ねあわせ”より、波が収縮して粒子として分けられて認識される-これを人間の相対知の端緒とすると、
  • 人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、“量子もつれ:電子のスピンアップとダウンの重ねあわせ”より、電子Aがアップと分かって認識されればBはダウンと分かってしまう。

  しかし、ここで“宇宙は非局所的である”ということに直面し、すべては分けられないということになる-これを人間の相対知の終極と考えることができるのではないだろうか、と思うのだけど。」

「・・ということは、この二つの“量子論の大きな謎”が意味するものは、人間が相対知しかもてないということと、そしてその相対知の限界を示す証拠である-ということでしょうか・・。」

「そう、そのとおり! ここまで来ると、私たち、ついにここまでやって来たって感じがするよね。

  それで又もうひとつ、“人間の知は相対知であり、それは自ずと限界がある”ということを示唆していると思われるのは、このハイゼンベルグ不確定性原理の式“ΔX×ΔP=h”があげられるのではないかと思う。

  このΔPは運動量の不確定さ、ΔXは位置の不確定さをあらわしていて、この書(25)によれば、

ΔXをほぼゼロに等しいとした場合は、ΔP=h/ΔX(hはプランク定数=6.6255・・)であるから、ΔPの運動量は無限大の範囲で不確定となることから、運動量を問題にしなければ位置だけは(ΔXはゼロなので)はっきりするということになり、これは“粒子”の性質をあらわしたものといえる。

  逆に、ΔPをほぼゼロに等しいとした場合は、同様に運動量は決まるが、位置は無限大の範囲で不確定となり、P=h/λ(λは波長)であることから、これは“波長すなわち波”の性質をあらわしたものといえる

  つまり、粒子と波という“相対知”から見た二面性というものは、この不確定性原理の式で、ΔXをゼロとするか、ΔPをゼロとするかの違いだと思われるけど、“ΔX×ΔP=h”のhはプランク定数で、これはゼロにはならないものだし、ということはΔXもΔPもゼロにはできず、さっきのボーアが言うように“hが自然界(光)の下限”を意味するものと考えれば、“ΔX×ΔP=h”の式はすなわち、“粒子と波とを相対的に明確に分けてしまうことはできない”ということを示唆していて、それはすなわち、“人間の知は相対知であり、それは自ずと限界がある-しかもその限界は光によって画される”ということを示唆していると思われる-ということなのね。」

「セ、先生・・、僕は美意識には敏感だと思いますけど、数学は苦手なもんで・・。Δやλなんかより、AやIやRの方が、僕にはより親しみやすいと・・。」

  と、テツオがボードの板書に疲れた目線を、レイコのその全身像にあらためて向けたところで、彼が空気を読みながら今まで見てきたAやらIやらRラインで、立ったり座ったりをし続けていたレイコの方も疲れてきたのか、ここで一息入れたいようだ。

「テツオ君、私たち、頭つかって疲れてきたから、ここらで一息入れようか・・。

お腹すいたし、甘いものも欲しいだろうと、ホットケーキをつくってきたけど、いっしょに食べない?」

  テツオはこれは望外の喜びと嬉しくなって、飲み干した1杯目に引きつづき、2杯目は「では僕がコーヒー、入れますから」と、カウンターへと向かっていく。

 

  二人の席はいつの間にかホワイトボードを目前にした丸テーブルへと移っていて、そこには書物や資料やボードのコピーが、ところ狭しと置かれている。

  レイコは休憩タイムに入ったので、録音していたウォークマンを止めようと手をかける。

「あ、先生、それはそのまま・・、休憩中も録音はそのままで・・。」

  テツオとしては、レイコとの会話のすべてを、取っておきたいと思うのだった。

「じゃあ、録音はこのままで・・。もしもテープが足りなくなっても、予備用の古いテープを持ってきてるし・・。」

  と、レイコはカバンの中から予備用のテープを取り出し、そこで何かを思い出す。

「・・ね、厨房に低温殺菌のいい牛乳があるのだけど、それでカフェオレにしてみない?」

  

  レイコと並んでカウンターに立ちながら、一緒に準備をするテツオ・・。

 -レイコさん・・、コーヒーをカップへと注いだ時に、表面に白い霧のようなのが浮かぶのが好きなのよね・・-

  彼のすぐ隣では、ホットケーキをお皿に移してメープルシロップをかけていくレイコがいて、テツオは彼女のその息づかいをふつふつと感じている。

  テツオはレイコのオーラに触発されてか、彼の中よりテツコがあらわれ、まるで女同士でいるみたいな、たまゆらにたゆたうようなうっとり感を覚えながらも、レイコがいつも入れるように、湯沸しから湯をポットへ移し、まずはカップを温めながら、そこにミルでひきたてのコーヒー豆をカリタ式よりドリップで落としていきつつ、一方ではカフェオレ用に牛乳を沸かしていく。

  レイコは先にホットケーキのお皿を持って、ボード前の丸テーブルに着席すると、ここまでの対話編の確認をするかのように、テツオの文書とボードのコピー、それと書籍や資料などを交互に見比べたりしているが、カウンター越しのテツオの目にはその姿が、やわらかな午後の光に照らされたあのフェルメールの絵のように、美しく見えてくる。

  -・・あれ、レイコさん、初めてメガネをかけている・・・-

  この日、喫茶室にはいつものBGMはなく、アンティークの柱時計の金色の大きな振り子が、喫茶室のほの暗い空間に、規則正しく秒針を刻む音が聞こえている。

  テツオの視線を感じたのか、レイコはテーブルより顔をあげてカウンターへと視線を送るが、そのわずかな一瞬だけ、二人の目線は合ってしまった・・・。

  -レイコさんの黒い瞳が、メガネの縁から知的さをさらに増し、いっそう黒く光って見える・・-

  格子状の窓から注ぐ陽の光が、弧を描いていくようにレイコのメガネの、その細くて黒いフレームをなぞりつつ、左右の端をはねあげるようにして過ぎ去っていくと同時に、レイコもまたメガネを取り去って、すばやくカバンに仕舞いこんだ。

  湯気が沸き立ち、コーヒーを入れる間合いもいいようだ。

  コーヒーと牛乳の黒と白とが、たがいに艶を放ちつつ、らせんを描いてフラクタルにまざっていくのを見つめながら、テツオはそれでもレイコのメガネをはずした横顔に、時より目線を向けている。

  あの一瞬だけ垣間見た、メガネをかけた彼女の目を、思い返そうとするかのように・・・。

 

第二十一章 相反性理論

  一息ついて、一通りのリラックスを終えるや否や、レイコはまた新たな発想に押されるように、再びボードの前に立ち、テツオとの対話篇を再開させる。

「それでね、テツオ君の今回の文章や、あなた達のブログにおいて展開された仮説について、私なりに論証をさせてもらったわけなのだけど、ここで確認したいのは、“執着”とは、おそらく仏教的な概念だろうと思うのだけど、一方で“相対知”とは、この言葉の出典とか、概念の大本とか、あなた達は主にどこに、そのヒントを得たのかな?」

  するとテツオは、持参してきた書物の中より、ある一冊を取り出してレイコに見せる。

「それは、僕たち4人の会話から自然に出てきたようにも思いますけど、僕的には、旧約聖書の『創世記』にある“善悪を知る知恵の実”の“善と悪”というお話と、あともう一つは、この『荘子』(1)の解説にある、“知るとは分かるということであり、ものを分け、分析をすることで、一である真理は二つに分けられ、相対的なものとなる。知ることにより真理は本来の真理でなくなり、人のその言葉もまた真理を二分し相対的なものにする。是非善悪などの価値というのも相対的なものであり、もし人間という限定された立場を出れば、これらの価値の差別はなくなり、絶対の世界があらわれる”-この二つだったと思います。

  先生としては、ユークリッド原論の証明みたいに、議論の前にキーワードたる執着と相対知の定義について、まずははっきりさせておきたい-ということでしょうか?」

「うん。確かにそれもあるのだけれど、私は今まで見てきたこの“相対知”という言葉に関して、先ほどのニールス・ボーアのある考察が、非常に大事に思えてくるのね。」

  と、レイコは丸テーブルまで戻り、テツオの隣に腰かけると、彼の方へと身を乗り出すように書を押し開き、その該当箇所を指さして見せようとする。

「それは、ちょっと長いけど、彼のこの文章(2)にあらわれていると思うの。

 “・・実のところ、厳密にはいかなる概念も、その意識された分析は、その直接的な適用に対しては‘相互排除’の関係に立つのである。この意味での相補的な、むしろ相反的な記述様式の必然性は、心理学上の問題を経て、われわれに最も身近になっている。

  ・・筆者は、‘相補性’なる用語を示唆した。古典力学にてすでに見られる相反的な対称性を考えれば・・、おそらくそれは‘相反性’という言い方の方がより適切である。・・前者は、現象と観測手段との厳密な分離の可能性に基づいており、後者は、われわれの主体と客体との識別にその根拠をもつ。

  ・・われわれはすでに単純な心理的経験において、相対的のみならず、さらに相反的な見方なるものの基本的な特徴に遭遇しているということである。”

  ボーアといえば、たとえば光が粒子と波の二面性をあらわすように、異なる二つの性質がお互いに相補うという『相補性理論』の提唱者として有名だけど、彼はこの相補性と関連して、このように“相互排除”と“相反性”という言葉を何回か使っていて、私はむしろこの“相互排除=相反性”なる概念が、とても大事なもののように思えるのね。」

  と、レイコはカシミール効果の絵を再び取り出し、ボードにそのイメージを描いて見せる。

「先ほど来の“光知性原理”によれば、自然はもとより知性をもち、光がそれを担っているということで、ヒトの可視光線域や昆虫の紫外線域というように、生物にはそれぞれ光に感応する特定の光の域があるのだけれど、その域のエネルギーは光全域のエネルギーに比べると低くなるので、それでカシミール効果のような現象が考えられる-ということを私たちは見てきたよね。」

「それで、ヒト=ホモ・サピエンスは、自らの可視光域に高いエネルギーを注いだために、まるで内側から外側へと押し返すような感じになって、それが“作用・反作用”の概念をヒトにもたらし、またそれがヒト特有の“相対知”のもととなったのではないだろうか-と、先生は言われましたね。」

「そう。私たちホモ・サピエンスは、もともと太陽が非常に強いアフリカの出身だから、それがより北方の北半球へと光の薄い地域にも生存圏を広げていく進化の過程で、ますます光を求めていくなか、その可視光域によりエネルギーを注力していったがために、可視光域でありながらγ線のエネルギーに匹敵するヒトの光=知恵に対する“執着力”をつくってしまい、それが自分に執着することで他人を識別するような“相対知”のもととなった-ということだけども・・。」

「・・それは同時に、作用・反作用というように押し返す力でもあったのだから、相対知というよりも“相反知”と言うべきだ-ということでしょうか?・・」

「そう、私はおそらくそうだと思う。人間がただ単に、善と悪、生と死、自分と他人、男と女、白と黒に赤と青、北と南に西と東、そしてついには粒子と波・・というように、二つのものをお互いに並べるだけの分別知や相対知であったのなら、問題はなかったのかもしれない。しかし、人間はそれにも増してこれらの二つを、プラスとマイナスまたNとSというように、互いにまったく両極に立たせるように“相反的に相互排除する”というニュアンスが、これもまた執着力のせいなのかとても強くなっていて、このことがあらゆる差別と争いの究極の原因になっているのではないだろうかと思うのね。」

「・・なるほど、頼朝義経御仲不仲、生きるべきか死すべきか、権力の掌握か愛の断念を選ぶべきか、あるいは愛と死(3)というように、これらも両極の関係になってますよね・・。ヌーディーベイジュも透けグロもどっちをはくかで全然印象違ってきますし・・。」

「・・それでね、この人間の“相反性”というものは、知恵や知性の源たる光についても相反的なものとなるから、いわば人間の知=相反知は、あらゆる命や自然に対して相反的になるのではないだろうか-すなわち、これもまた『創世記』の“知恵の実を食べたが最後、お前たちは死ぬことになる(4)”の神の予言を成就するものではないだろうか-と私は思うの。」

「つまり・・、僕たちがあの3.11以来、身に染みて味わってきた“命よりもカネが大事”という世相も、核暴力にはひれ伏しながら次世代子どもを省みないという風潮も、ここにその究極の原因があるのではないだろうか-ということでしょうか・・。」

  レイコはここでマーカーを握った手を腰に当て、ボードの前に立ったまま、テツオの方へと向き直って言葉を続ける。

 

「テツオ君・・、あなたは今回、物理学で大きな謎とされている“粒子と波の二面性”を取り上げてくれたのだけど、私はこの“二面性”というものが、人間の相対知や相反知の産物であるのなら、それにも増して人間には、もっと追究されるべき究極の二面性があると思う。」

「それは、どのような二面性というのでしょうか?」

  レイコはそのアルトの声もより低く、深い思いを込めるように、テツオに対して語りかける。

「・・私はあの3.11以来この方、同じ二面性でもね、“人間の叡智と残虐さの二面性”というべきものを、ずっと考えてきたわけなのよ・・。」

「それは、いつか授業の際に言われていた、“人間の叡智の極みとされるような20世紀の物理学・物理学者とマンハッタン計画=原爆開発との関係”のことでしょうか?」

「そう・・。チェルノブイリやこの国の3.11は原発事故ということだけど、その直接的なルーツというのは、私は1945年のヒロシマナガサキだと思っていて、私はこの“ヒロシマナガサキ”は絶対に忘れてはいけないと、“怨”を込めて思っているのね。

  この書(5)によれば、1938に人間が最初に核分裂反応を発見してから1年後に第二次大戦が始まって、そのナチスユダヤ人迫害で国を追われた物理学者・科学者たちがアメリカに集結し、あのマンハッタン計画を始めたのが1942年、その1年前には太平洋戦争が始まっていた。この同じ年に、人間は臨界という核分裂の持続可能な連鎖反応を実現させ、それがそのまま原発へとつながった。

  そして1945年、すでにドイツは敗戦し、ヒトラーの脅威も消え失せていたにもかかわらず、アメリカは戦後の世界覇権と人体実験の意味も込めて、マンハッタン計画の産物であるウラン型とプルトニウム型の原爆を1発づつ、それぞれヒロシマナガサキへと投下した。そしてこの無差別大量虐殺の惨状と、子々孫々の遺伝子レベルに至ってまで危害を及ぼす悪魔の所業は『はだしのゲン』などにおいて、私たちの知るところとなっている(6)・・。

  このマンハッタン計画やその他の国でも同様に原爆開発に従事した科学者・物理学者たちというのは、その多くがノーベル賞を受賞した19世紀から20世紀にかけ加速度的に発展した物理科学の流れをくむ相対論や量子論を主導した人類の叡智を代表するような人たちであり、彼らの文書やその伝記から読み取る限り、ナチ要人に言われたような人格異常というべきものも見当たらず、あるいは自分の専門以外は何も考えられないような数学バカや物理バカでもなかったらしく、むしろ芸術的・文学的な素養も豊かな社会的にも好感度の高い善良で良識的な人たちであったらしい。

  しかし、そんな人たちがあのヒロシマナガサキの地獄を生み、今につながる“核の悪の世”をもたらしたのは事実であり、また、ここを私は強調をしたいのだけど、核分裂反応に大きな足跡を残したリーゼ・マイトナー女史は“爆弾作りを憎んでいていっさい関与しなかった”といわれている。

  だから、マイトナーやその他にも原爆に関与しなかった人々もいたというのに、原爆に従事した科学者・物理学者たちは、いくらヒトラーの脅威を言い訳に使っても、初の原爆実験は彼がとっくに自殺した3か月後の1945年の7月だから、そんなものは言い逃れにもならないわけで、実際に人間に原爆を投下したあのヒロシマナガサキから免罪されるはずはないと私は思う。それに彼らの多くは、原爆投下後の放射線被ばくの恐ろしさも知っていたというのだから・・。

  それゆえ、私はこの“人間の叡智の極みとされるような20世紀の物理学・物理学者とマンハッタン計画=原爆開発との関係”つまり、“人間の叡智と残虐さの二面性”とは、“粒子と波の二面性”に負けず劣らず、もっとも追究されるべき究極の二面性であると思う。」

「・・しかし、先生。すでに僕らが見てきたように、人間に知恵があるのではないという『光知性原理』と、それにともなう人間の、進化の初から自然と命に相反性を持っていたというこの『相反性理論』によって、“人間の叡智と残虐さの二面性”というものも、ようやく説明がついたのではないでしょうか。

  というのは、こんな恐ろしい二面性は、とても心理学や哲学等の手に負えるものではなく、それこそ何か進化における重大な物理的・生物的な欠陥でもない以上、考えられないと思います・・。」

「そうね・・。多分、そうかもしれないわね・・。とても悲しいことだけどね・・。

  でも、私たちは、人間にはすでに充分絶望をしているから、今さら悲しいことでもないか・・。

  ここで悲しいなんて言ったら、自分自身も人間なのにさ、かえって何だか偽善っぽいわね・・。」

  そしてレイコは、やや自虐的とも思えるように皮肉っぽく口元をゆがめたものの、それを急いで打消すと、テツオの目を見て、何かピンときたという顔をする。

「・・テツオ君、あなたが今言ってくれた“『光知性原理』とそれにともなう人間の『相反性理論』”という言葉、それって、いいね! 

  じゃあ、あなた達のこの仮説を、そのように名付けようか。」

  と、レイコはボードにまた大きな文字で、このように書き加えてくれたのだった。

  “相反性理論”

  そして彼女は、テーブル上のコピーに手をやり見返して、改めてその意を込めて話しつづける。

 

旧約聖書の『創世記』のはじまりは、神の“光あれ!”との言葉だった。

  そして現に宇宙というのは、光からはじまって、光=γ線による電子の対生成(7)も、宇宙のはじめによるものだった。

  知恵の実を食べ、善と悪とを分別する相対知・相反知を知り、楽園から追放された人間は、自分自身の知恵のもとたる“光”を求め続けてきたのでしょう。ガリレイが光の速さをはじめて測ろうとしたことも、ニュートンが『光学』を著したのも、マクスウェルが光を電磁波として表したのも、アインシュタイン光速度不変の原理のもとでガリレイの相対性原理をマクスウェルの電磁気学と矛盾なく統合して特殊相対性理論を打ち立てたということも、すべては人間が“光”を求めてきた証といえる。

  しかし、人間はその知恵の“相反性”ゆえに、自分たち人を含むあらゆる自然=命あるものへの“相反的”な進化の道を歩んできて、“差別と暴力の隷従の道”を進み、この地球のいたる所で自然破壊と生物の殺戮を続けたあげくに、20世紀をむかえた頃には“光”の前に、ついにその己の知恵の限界を知らされたのだと私は思う。  

  その一つが、光速は追い抜くことができないという“光速度不変の原理”によるアインシュタインの『(特殊)相対性理論』であり、また一つが、光は粒子と波の二面性をもつという“相補性原理”によるニールス・ボーアの『相補性理論』であり、そしてまたもう一つが、光は知恵と知性を担うという“光知性原理”による私たちが今に見たこの『相反性理論』といえる。

  そしてこの三つが並んで揃ったところで、私たちははじめてあのヒロシマナガサキの人間に対する意味を知り、また核と核権力・核暴力を死守しながらも次世代子供を犠牲にして省みない人間という“種”そのものを、はじめて理解することができると思う。

  それは、あの1945年に、はじめに“光あれ”と言って宇宙と命を創造した神に相反をするかのように、人工の太陽たる原爆からすべてを破壊し殺戮する光を放ったのは他ならぬ私たち人間だから。そしてそこには『(特殊)相対性理論』による有名な“E=mcの二乗”が関与していて、また、それを可能としてきたのは人間の神に対する“相反性”そのものだから・・・。

  あのプルトニウム原爆が当初の予定を変更してナガサキに落とされたのも、その日が悪天候だったからで、浦上天主堂という教会の、いわばイエスの十字架に落とされたことになる・・。

  かつて人々の罪を背負って十字架につかれたイエスは“わたしは渇く”と言われたらしい。そして原爆投下のあと、無数の人が“わたしは渇く”と言いながら水を求めて死んでいった-ということを私たちは聞いている・・・。

  私はここに、何か戦争や原爆投下という個々のわくをはるかに超えた、人間という“種”全体への“因果応報”、または“神の最後の審判”のようなものを、思わざるを得ないのよね・・。」

「先生・・。でも、人間は、その相反知のせいにより、何をするにも必ず差別が根底にあるといえます。

  しかし、人間の原爆や原発が放つところの放射線は、もはや誰も差別することなく襲ってきます。権力者も人民も、金持ちも貧乏人も、加害者も被害者も、宗教宗派も国境も県境も関係なく、その意味では公平かつ平等に、非局所的に襲ってきます。

  つまり、人間が放つところの放射線は、その創造者たる人間をここで完全に上回った-ということでしょうか・・。

  それともこれが、人間という差別する種に対しての“因果応報”、または“神の最後の審判”ということでしょうか・・。

  今まで地上にほとんどなかったγ線が、人間のせいでセシウム137等により天文学的なBq量で放出されて、そのエネルギーの強力な光であるγ線が、あたかも光電効果のようにして、その人間の相反知を弾き飛ばしていくという-これもまた、光を追い求めてきたのだけれども、結局それを悪用した人間という種に対する光自身による因果応報、または神の最後の審判ということでしょうか・・。」

  真剣な面持ちで言葉をつないでいくテツオにむかって、レイコも彼の目を見つめながら深く納得するようにうなずいていく。

  そしてテツオは、ここでレイコにあらためて問いを発する。

 

「・・では、このγ線により相反知が弾き飛ばされていく人間=ホモ・サピエンスは、先生は、これからどうなっていくのだろうと思われますか?」

「あなた達の仮説では、ネアンデルタール人たちと同様にサピエンスも絶滅する-ということだよね。」

「はい・・。一応、そうは書きましたけど、でも、具体的にどのように絶滅していくのかまでは・・。」

  レイコはここで、ボードの前からテーブルへと戻ってくると、テツオの前に腰を下ろした。

「私が思うに・・、おそらく主に“無気力”といった形で、絶滅が進んでいくのかもしれない・・。」

「・・“無気力”ですか?・・」

「そう、あまりにも簡単な表現かもしれないけれど、あえて一言で言うとしたらね・・。

  でも、ここで言う“無気力”とは、何も引きこもりとか、そういうことを言ってやしない。

  ここで言う人間の無気力とは、もっと人間の社会全体に言えることで、それが表に見える形で表れている例としては、たとえば、国民の過半数が選挙権を破棄しているため無政府状態みたいな政権を野放しにし続けているこの国の現状とか、上から言われたことしかしないような普通の社員や役人たちとか、およそそんな人間たちのことを言っていて、言われてみればむしろこれが大多数であるようにも思うけど、要は、自分で考えることもなく、それゆえ自分の意見も意思表示もないということ・・。

  私が何で“無気力”という表現にたどり着いたのかというと、これもまた物理の話になるけれど、ほら“慣性”っていう言葉があるでしょ。あれは別に“惰性”ともいうのよね。」

「・・つまり、無気力=惰性ということですか?」

「そう。私が思うに、意思や意志が失せたとしても、慣性の法則がある限り、慣性=惰性は残ると。」

「ということは、さっきの例では、選挙に行かないのは無関心=無気力だからで、上から言われたことしかしないような普通の組織人というのは、惰性でしか生きてないと-いうことでしょうか。」

  これから社会に出るテツオを前に、レイコは自分を不甲斐なく思うのか、口元を少しゆがめる。

「そう。もとOLで教師というサラリーマン経験のある私から見るところ、普通の組織人という生存形態をとる大多数のホモ・サピエンスは、かつての私自身を含めて、自由意思も意志もなく、惰性で生きているように思われる。当人たちはプライドあるから、それを否定するだろうけど、この国の選挙結果と政府と政治が、見てのとおり何よりの証拠だと私は思うよ。」

「ということは、サピエンスはやはり順調に絶滅への道を歩んでいると、先生も思われますか?」

「そうね。あんな原爆を作った上に実際に投下までして、人を含む無数の命を無差別に大量虐殺したのだし、その核兵器をその後も人間の権力社会に君臨させて、子供を犠牲にしてまでも核=原発を手放そうとはしないのだから。そんな種は因果応報の理どおり、許されるはずがないと私は思うよ。

  だけど神様としては、人間の相反知を弾き飛ばして、人間をもっと狂わせてしまった場合、人間は大戦争などまた何しでかすかわからないから、あえて無気力にしていくことで、人口減少みたいにして、徐々に人を減らしていくおつもりなのかも・・。

  でもね、テツオ君、そこはあなた達の言うとおり、絶滅は絶望ではなく、むしろ地球や宇宙が変化し続け生きている証といえるし、種の絶滅はその中ではいつでも起こり得ることなのよ。だからサピエンスが光の報いで絶滅しても、人類そのものが絶滅をするわけではなくて、この現生人類=ホモ・サピエンスから、また新たな人の種が分岐していくのじゃないのかな・・。

  というのは、さっきの話の続きで言うと、相反知や相対知が光=γ線で弾き飛ばされていくとしても、“絶対知”というものは永久にそのままだろうと思われるから。」

「・・“絶対知”ですか・・。」

「そう。これはすなわち“神の絶対知”と言ってもいい。『光知性原理』のとおり、光が担う知恵や知性がこの絶対知そのものなのよ。それが表にあらわれたのが、たとえば黄金比であったり、その黄金比を生み続け永遠に続いていくフィボナッチ数列であったり、またその黄金比とほぼ同じ値で永久に保存される電子の電気素量e=1.602×10のマイナス19乗Cであったりする-ということでしょうね・・。

  でも、そんなことより、神の絶対知というのは、これはもう“神の愛”という他はないのではないだろうかと私は思うよ・・・。

  だから、ホモ・サピエンスにとって代わる次なる人類の種というのは、今度こそこの神の愛に根差したような人たちに、なるのではないのかな・・・。

  もし本当にそうなれば、これこそが今私たちが存在して生きている究極の“私たち人間がこの核の世に生きる意味”だと、私も思うよ・・・。」

  テツオの前で目をふせながら、最後の方はかすれるようなか細い声でそう言い切ったレイコに対して、テツオは納得をしたように深々と頷いている。そして、その“神の愛”という言葉を前に、直感的にこれ以上の結論はないと悟った彼は、もはや聞くことも思いつかないといった感じで、テーブル上で組んだ手に頷く頭を垂れたまま、押し黙ってしまうのだった。

 

  喫茶室の古い大きな柱時計が、秒針を静かに波打たせていくかのように響かせながら、窓ガラスから差し込めるやわらかな橙色の光とともに、夕刻の到来を告げてくれているようだ。

  二人の座ったテーブルには、書籍や資料やボードのコピーが所狭しと置かれた他は、飲み干されたマグカップと、お皿の上にはホットケーキの残された一切れがあったのだが、テツオがそれを食べてしまうと、レイコもすべて納得をしたように、彼に優しく微笑みかける。

  そしてテツオは、ここであらためてレイコにお礼を言うのだった。

「先生、今まで本当に有難うございました。僕たちがここまでやって来られたのも、全て先生のお陰です。これでようやく、卒業に間に合うように、ブログも完結できそうですし・・。」

  だが、レイコは、やや恥ずかしそうにうつ向いたまま、手を振ってテツオに答える。

「いいえ。これらは全てあなた達が、自分で調べて考えて創造した仮説なのよ。私がやったことはと言えば、あなた達の仮説に対して、高校では履修しない量子論など既存の知識を援用してただ補わさせてもらったに過ぎないわけで、基本的な発想や着眼点は、全てあなた達のオリジナルであり成果といえる。本当にあなた達4人、よくぞここまでやったと思うよ。」

  と、想定以上に褒められてしまったテツオは、-では、評価のほどはどうなのかな-と、レイコに彼らの仮説について、その是非を問うてみる。

「先生・・、あのう、差し出がましいのかもしれませんけど・・、先生に助けてもらってここまで来れた僕たちのこの仮説って、先生は果たしてこれを‘正しい’ものと思われますか?」

  遠慮がちに聞くテツオに対して、レイコは腕組みやや考えたあと、言葉をつないだ。

「そうね・・。この仮説の是非については、従来の科学的な見地でいえば、何らかの実験により、例えば人の相対知や相反知をエネルギー量として検出できれば判断できそうな気もするけど、それは結局、人間がその相対知・相反知を、同じ相対知・相反知で見ようとするようなものになるから、おそらくはニワトリが先か卵が先かというような循環論に終始して、是非の別は分からないのではないのかな・・。

  でも、この“粒子と波の二面性”ということには、コペンハーゲン解釈のほか『多世界解釈』というのもあって、これも実験では検証できないようなものだし、だからあなた達のこの仮説も科学史的には、“解釈”の一つにはなるだろうと私は思うよ。

  だけど、そんな学説的な評価よりも、実際にヒロシマナガサキのあの地獄を経たこの国で、なおも3.11で核の被ばくの脅威に晒されているあなた達が、だれもが逃げるこの現実から逃げることなく、自ら考え調べあげて、こうして“核の世に生きる意味”を追求し、自分たちの言葉でもって表現したということ自体に、私は本当の価値があると思っているし、これであなた達に続いていく子供たち若者たちも、大いに励まされるのではないのかな。

  だから、あなた達4人は、自分を大いに誇るべきだと、私は思うよ。」

  さっきとは打って変わって、力強くしめられたそのレイコの言葉に、テツオは思わず頭を下げる。

 

  そしてレイコは、そんなテツオに、なおも優しく言葉をかける。

「テツオ君・・、私ね、あなたと過ごした今日のように、こうして自分の教え子と、いつかはガリレオみたいな“対話編”をやってみたいと、教師を目指したその頃から思っていて、今日はまさにその夢が現実にかなったのよね・・。

  教師やってて、現実には嫌なことも多かったし、私もとても責任を果たしたとはいえなかった・・。だけど、こうしてあなた達と出会えたことで、私は本当に救われたのよ・・・。

  だから、テツオ君、今日は本当にありがとう。あなたもユリコも無事に就職できそうだし、あとはヨシノとキンゴが何とか合格してくれれば・・、そしてだれもが、徴兵制の毒牙から逃れることができたのなら、私はもう思い残すことなんて・・・、」

  レイコの声が、ここでふと涙声に転じたのに気づいたテツオは、思わずハッと顔を上げると、彼女が素早く指先で目をぬぐうのを見て取ったのだが、レイコはすぐに笑顔をつくると、テツオに一言そえるのだった。

「テツオ君、これで、ブログは完成できそう? ・・何かその他、ご質問などがあれば・・?」

「いえ、これでもう大丈夫です。先生、今まで本当に有難うございました。」

  テツオもようやく笑顔になってきたのを見てとって、レイコは安心したように微笑むと、最後のボードのコピーを取って彼に手渡し、結局予備のテープまで使いつくして二人の対話を録音してきたウォークマンを、ここでストップさせるのだった。

  テツオは、ホワイトボードを対角線に沿うように消していくレイコの後姿を見つめながら、その白いブラウスが、立ったままで張りつめていた肩から背中のラインにかけて、光沢を放ちつつ、今やもとの白さへと戻っていくボードのそれと対になり、沈みゆく夕暮れのなか、喫茶室のまどろむような明りを受けて、ほどよい感じのアイボリーのやわらかさを、かもし出してゆくのを感じる。

  そしてレイコは、カウンター席にかけていた藤色のロングカーデを肩にはおると、肩までかかった黒髪を波打たせては振り返り、彼に声をかけるのだった。

「テツオ・・君、じゃあ、二人で家に帰りましょうか・・・。

いや・・、あなたの家って、ここだったよね・・。」

  しかし、テツオは、ここで素早くレイコのカバンを手に取って、持ち上げては彼女に示す。

「先生、ご自宅まで、僕が先生のお荷物もって、お送りします。

  喫茶室の後片付けは、あとで僕がやっときますので・・。」

 

 

  島の木造校舎から、教会裏へと続いている防風林の並びを越えて、レイコの家までそう遠くはないのだが、人が踏みつけ通った野道に、今や月の白い光がかがりはじめて、二人が並んで歩いていく影姿を、古いモノクロ写真のように引き伸ばすなか、防風林や野道の影から季節はずれの鈴虫たちが、二人が歩いて刻んでいく地面の音に装飾をするかのように、涼しい響きを添えているのが聞こえてくる。

  テツオにはこの月の白い光が、何だかとても明るくて、眩しいくらいに感じられる。

  そして彼は道すがら、時より荷物を持ち直しつつ、レイコのフレアスカートと、ベイジュのタイツ、それとロウヒールで通し続けた彼女の二本の足もとへと、自然に目線を向けてしまうが、こうするうちにも近づいてくる今日の二人の別れの時を、できるだけ後の方へと引き伸ばしたく思うのだった。

  曲がり道へと差しかかり、レイコの家が防風林の途切れる影より見えはじめたころ、テツオは今日の二人の対話を受けてか、またこんな事を質問してみる。

「先生。先生は、僕たち人間なる生物が、どうしてこの世に存在すると、思われますか?

  言いかえれば、神はなぜ、命や自然あるいは宇宙というようなその創造物に、ことごとく相反的になるような人間という生き物を、あえて創造したのでしょうか? 先生はそこのところを、どのように思われますか?」

  テツオは自分で発したその問いに、やや唐突な感じもしたのだが、レイコは意外な様子も見せず、そのまま「う~ん・・」と息を巡らせ、はおったカーデを押さえていた手で腕を組み、歩調を大きくゆるめながら、彼の問いを考えはじめる。

  テツオは、これでまだもう少しレイコと一緒にいれるのかもと、やや期待値も上がるのだが、レイコもまた同じ問いを思っていたのか、そう間を置かずにロウヒール・パンプスのその歩みをゆっくりと進めながら、彼に答えるようである。

「・・月並みな考えなのかもしれないけれど、神はあえて、創造主たる自分自身を、自分以外の他のものから意識させようとしたのかしらね・・。自分が創造したものに、あえて自分を認識させる・・? でもそれに、どんな意味があるのかな・・?

それに、人間ではなく光が知恵の源ならば、その人間に自分を意識させるという必要もないような気もするよね。だって、人間以外の他の生き物だって、同じように意識をしているのだし・・。」

  つぎつぎと独り言を続けるレイコに、テツオも自分が何だかよくわからないまま発した問いを、どうしたらよいものかと彼女の顔を覗き込もうとしたところで、レイコは目前の宙に大きく浮かんだ丸い月を見つめながら、つぶやくように言葉をつなげる。

「・・ひょっとすると、神はあえて私たち人間を、その相反性ゆえにこそ創造したのかもしれない・・。つまり、全知全能たる神にとっては、人間が禁じられた善悪を知る知恵の実を食べることは想定済みで、あえてその人間を、神のすべての創造物=生きとし生けるあらゆる命あるものへと相反的にすることにより、自然界の循環では生成されない物質を、人間に作らせようとしたのではないのかな・・。

  あなたが以前に指し示した元素の周期表にしてみても、その最後の方には人が作った放射性元素などの人工元素が並んでいたりするじゃない。」

「ということは、そんな自然の循環では生成されない人工元素や、自然では分解できないいわゆる汚染物質を、あえて人間が環境に出すこと自体に、何らかの意味がある-ということでしょうか?

  でもそれなら、あまりにも、“それを言っちゃあ、お仕舞ェよ”って、感じしません?」

「うん・・。短期的にはたしかにそう見えるけど、でも、非常に超長期な神様的な視点で見ると、この地球にしたっていつかは爆発して塵になったり、太陽に飲み込まれたりするわけじゃない。

  そういう時になってはじめて、この人間が世に出した人工元素や分解されない汚染物が、太陽系か銀河系かわからないけど、宇宙のためには何らかの役に立つ日が来るのではないのかな・・。」

  テツオは、こんな途方もない問いではあったが、おかげでレイコと一緒にいれる時間はたしかに少しは延びたようで、彼としてはこれが問いの成果でもあるようだった。

だが、レイコはここで歩みをとどめると、今度は彼女の方からも、何かテツオに聞きたいことがあるような素振りを見せる。

 

 

  気がつけば、二人はすでにレイコの自宅、その竹の垣根に差しかかっている菩提樹が、後方より月の白い光を受けて、その大きな影を二人が立つ地に映している所まで、歩を運んでいたのだった。

  同じように歩みを止めたテツオの前を、レイコはここで一歩先んじ、彼の方へと振り返る。

  レイコはテツオと向き合いながら、微笑んではいるようだったが、月が雲へと隠されて、その表情はよく見えなくなっていく。

  海風が一瞬やんで、さっきまで響いていた鈴虫たちの鳴き声も、すでに途絶えたかのようだ。

  二人のあたり一面が静寂につつまれて、近づきつつある冬の気配も、衣服をとおして肌へと直にしみわたってきそうな感じさえする。

  そしてレイコは、彼女の次なる声を待つテツオを前に、肩にはおったロングカーデを少し正すと、右手の肘を左手でそっとつかんで、アルトの声も物静かに、彼に向かって話しかける。

「テツオ君・・、そういえば、あなた達が言う新人類って、確かホモ・ニアイカナンレンシスっていう名前だったと思うのだけど、その名前の由来を、もしよろしければ聞かせてもらっていいかしら・・?」

  言葉の末尾で、小首をやや傾けるレイコの仕草が、女性らしく、また愛らしく感じられた。

  テツオは、-ああ、そんなことか・・-と、固まっていた自分の身もほどけていく思いがしたが、彼がこのニアイカナンレンシスという名前は、ヨシノとユリコとキンゴによる、ニライカナイと嘉南島とネアンデルタレンシスの合成語であることを話した後で、テツオはふと、-では果たしてこの“ニアイ”を、レイコさんにどう説明すればいいのだろうか・・-と、戸惑いを覚えてしまう。

  -なぜならこれは、僕自身のカミングアウトを、レイコさんに思わせるものになるのかも・・-

  しかし、ここで中途半端にやり過ごすのも不誠実かと思われるので、テツオはもうここは素直に彼の思いのそのままを、レイコに伝えることにした。

「先生、あとこの“ニアイ”というのは、僕の発案なんですけど・・、それはこの国の伝統色“二藍”から取ったものです。

  先生から貸して頂きましたあの着物と袴も、おそらく同じ“二藍”ですよね。」

「そうよ! そう、そう。テツオ君、あなたさすがによく知ってるわね!」

  まるで周囲に合わせたように静かだったレイコの声が、再び明るさを取り戻したのに励まされたような気がして、テツオは躊躇していたことも、そのまま話すことにした。

「この“二藍”とは、藍(青)と紅花(赤)の二つの色を合わせたもので、そのグラデーションは実にさまざま、色移ろいの多様さと美しさは、まさに花をも思わせます。

  それで、僕は・・、この二藍のこういう所に、男と女、雄と雌の二つの性を、なぞらえたいと思ったのです。

  僕たち4人も僕自身も、生物に“性”があるのは、ただ遺伝子の交換によるその多様性をはかるためだけではなくて、性はあらゆる生きとし生けるもの同士をつなぐ“光”のセンサーなのだろうと思うのです。つまり、生物の生存と進化というのは、個体や種の各々がそれぞれ勝手に起こすのではなく、生きとし生けるもの同士を、種を超えて互いに共存させるような、それこそ黄金比のような比率があって、並行して起こされていくものだろうと思うのです。

  それをうながし調整するのが“光”であり、僕はこれもまた『光知性原理』のあらわれの一つだろうと思います。

  “性”はその“光”のセンサーなのであり、光が七色といわれるように、性もまた七色みたいに多様であるのが、本来の自然の姿ではないのでしょうか・・。」

  テツオはここで念のため、レイコの目を見て、このまま彼の思うがままを言っていいものなのだろうかと探ろうとするのだが、月が隠れて薄暗いなか、その目はよくは見えないものの、テツオのままの発言を求めている気配がして、彼は続けることにする。

「僕は先生の着物と袴が、二藍の異なる配色であるのを見て、この二藍という色合いには、藍と紅、青と赤との間にも、実に多様なうつろいがあるのを知って、人間の男と女も、人の相対知・相反知により明白に区分され、またその“性=SEX”の語源のようにはっきりと分けられて、相反的に性で差別されるのは自然でないと思うのです。

  そして今の僕にはなおいっそう、このホモ・サピエンス特有の“相反性”のあらわれである人間の男と女の性差別こそ、あらゆる差別と暴力の根源だと思われるのです。

  僕は、ホモ・サピエンスから分岐させる新しい人類こそは、サピエンス特有のこのゆがんだ性差別=性倒錯のない、つまり、もう差別のない、男女の性にもこだわらない、あらゆる生きとし生けるものが互いに素直に愛し合えるようになれればいいと、そう願ってこの“二藍”を“ニアイ”として、新しい人類をホモ・ニアイカナンレンシスと名付けました。

  僕自身は生物的には雄ですけど、人間以外の他の生物たちがおそらく思っているように、僕は精神と愛においては、雌雄の別にはあまりこだわる必要はないと思っています。それに、花の多くは雌雄同体・・。そしてこの“花”こそは、神の愛と美の権化なのではないでしょうか・・。

  僕自身のこの心も、この二藍のうつろいみたいに、いつも男女の性のゆらぎのなかにあると思っていますし・・、僕はそんな自分がとても好きだし、自分を深く愛していると思います・・。  

  僕は・・、僕は最近こうも思うのです。僕たちLGBTって・・、レズは女性が女性を愛し、ゲイは男が男を愛し、バイセクシャルはそのどちらも愛し、そして僕のようなトランスジェンダーは・・、異性の自分を、自分の異性を愛するように、みんな自分の心の、心の愛を知っています。愛のない―いじめや差別や戦争がまったく絶えないこの人の世で、愛を知っているってことは、それだけでもすごいことで・・、これはキリスト教的にいうならば、“神に祝福されている”ことなんじゃないでしょうか・・・。

  また、僕たちLGBTは、真剣に自分自身に、自分の“性”に向き合っているからこそ、自分がLGBTであることを自覚できると思うのです。この“性”という漢字というのは、“心が生きる”と書きますよね・・。まさに僕たち、心が生きているんですよ・・。昔の人の発想ってすごいなあと思います。

  それに自分の心に真剣に向き合うのって、これってまさに“禅”なのではないでしょうか。だから僕たちLGBTって、キリスト教でも仏教でも、本当は決して排撃される対象ではなく、その中に深く内包されるものなのではないでしょうか・・・。

  そして・・、これは言っていいのかどうかは分かりませんけど・・、僕は先生、レイコさんも、同じような意味合いですけど・・、僕自身の心から、心から愛していると思います・・・。」

  テツオは最後はうつむいたまま、ついにここまで言ってしまった自分自身に、驚きさえ感じていた。

 

  雲に隠れていた月が、今や紺碧の夜空のもとに再びあらわれ、その白くまばゆく輝く光が菩提樹の影をこえて、二人がたたずむ立ち姿まで差しかかってこようとするのを、テツオはそのうつむいた目線のまま捉えはじめる。

  いっそうの静寂が、海風の音さえも及ぼさずに辺り一面を覆い隠して、無音の空間にただひとり残されてしまったテツオは、長かった孤独の余韻が、また一瞬、彼の記憶の扉を開けて、その脳裏をよぎっていくような気がした。

 

 

  テツオは孤独に反駁するように、そして何かに引かれるように、ここでレイコの眼差しを確かめようと目線を上げる。そこには、彼にとっては月の丸さと相似をなしているかのような、大きくはっきり見開かれたレイコの黒い目があった。その真剣な眼差しは、彼の話を一心に聞いていたのを言葉以上に雄弁に物語っているようだ。

  テツオは、レイコの目があまりにも真剣なので、かえって自分が何かヘンなことを言ったのか、あるいはヘンな感じでレイコに伝わってしまったのかと、不安にさえもなってくる。しかし、レイコの目はやがて、彼が言った二藍のグラデーションを見るみたいに、真剣さや鋭さから、期待と喜び、また愁いと悲しみ、そしてついには愛情と希望とが、それぞれ互いに入り混じっては移り変わっていくようで、つづいて堰を切ったかのように彼女の目には涙があふれて、その滴は月の光を水晶みたいに映していくようにも見えた。

  そしてレイコは、今までの対話のような口調とは異なって、弱々しくか細くなった涙声を震わせながら、テツオにこう言ったのだった。

「・・こんなに心のやさしい子に、育ってくれていたなんて・・・。」

 

  次の瞬間、テツオはレイコに抱かれていた。

  その涙声とは対照的に、レイコが引き寄せ抱きしめる腕の力は、とても強く感じられた。

  テツオは一瞬、何が起こったのかがわからなかった。そして彼が発したさっきの言葉を、今一度顧みようとする間も与えず、レイコの細い二本の腕は、なおも彼の背中と胴体を強く広く抱きしめて、はおっただけのロングカーデのその下で型をとどめる二つの胸のふくらみも、その温もりもいっしょになって、彼の胸を押しつけるまま息苦しいほど圧してくる。

  テツオはレイコに抱かれるままに、彼女の頭部と髪の毛とが、右の頬いっぱいに触れていくのを覚えながらも、目を開ければ、藍色の夜空には、たなびく雲の狭間から、月の光が映えるのが見え、やがて彼はどこからともなく花の匂いがただようのを感じはじめる。

  そしてこの時、テツオはようやく悟るのだった。レイコの彼を抱く様は、いわゆる男女のそれではないことを・・、また、親子のそれでもないことも・・、彼はようやく悟るのだった。

  それはおそらく、“愛”そのもので、言ってみれば、愛の具体化、具現化としか言いようのないものであり、おそらく愛というのは必然的に、もとよりそれ自身が何かを生み出し、何かを形として表し、また現れてくるものなのだ-と、テツオはレイコに抱かれながらも思いはじめる。

  彼の右手は荷物がふさいでいるのだが、-ここで抱かれるまま手ぶらでいるのは、何だか申し訳ないし、かといって、自分にとっては先生で、また‘永遠の女性’であるかもしれないこの人に、やすやすと手を触れるのも・・-と、迷いはじめていた頃に、その藤色のロングカーデがはおった肩から落ちそうなのを、自然に手を添え引き上げようとするままに、テツオはレイコの背と肩へと左手をあてがっていくのだった。

  -ああ、こうしてついに、レイコさんと抱き合うことができたなんて・・・-

  しかし、レイコはテツオを抱いた左手で、彼の髪と後頭部を押さえたまま、彼女の波打つ黒髪に沈めていくかのようにして、彼をさらに強い力で抱きしめていく。今やレイコの胸の鼓動と血の脈打つ音とが、彼自身のと縒り合わされ、二人でともに一つの定常波を奏でるように、互いに抱き合うその身のなかで、互いへの想いと想いが波打ちながらも織り成されていくかにみえる。

  やがてテツオの耳奥には、レイコの深い息づかいが届けられ、それと同じくして彼は彼女のその襟元より、あたり一面咲き出るような花の匂いを嗅ぐのだった。・・・バラのような、ハスみたいな、スイセンにも似た花の香りがするのだけれど・・・、そうか、この匂いだったのか・・・。

  ・・自分が今まで封じ込めた記憶の底から、花の香というほとんど最後の接点により、僕は自分にとっての愛の源-それは僕が、こんな世の中においてさえも、今まで決して捨て去ることができなかった、“それでも人を愛していたい”という強い思いの源-が、暗闇でも月の光を受けながら水辺に咲き出るハスのように、僕の心の奥底で消えない光を放ちながら、ずっと花弁を咲かせていたのを、僕はこの時はっきりと知ったのだった・・・。

 

 

  テツオがそう思いはじめた時、レイコの身はテツオから離されていく。テツオは今や真実を求めるように、離れていくレイコの目を追おうとする。

  黒い、星のように輝いているレイコの目・・。愛おしさと慈しみ、そして悲しみをも湛えたその目は、テツオを見つめてもう一度、大粒の涙を流すと、そのまま閉じられ、彼女は彼の右手より自分の荷物を受け取ると、すばやくその身をひるがえし、足早に菩提樹の影のなかへと駆けていき、垣根むこうの自宅の扉を開けると、吸い込まれていくように入っていった。

  テツオは今の立ち位置で、月明かりのもとに一人残され、たたずんだままでいる。

  レイコの家の明りは灯らず、彼女が扉を閉めた音は、いまだ闇夜のなかをこだましあっているのだろうか・・。しかし、やがてすべては完全に、静かになった・・。

  月の大きな丸い光が、濃い藍色の深い夜空に、淡いぼかしを白々と滲ませていくのが見える。

 

  テツオも意を決したかのように、ここでその身をひるがえすと、一目散に木造校舎の自室に向かって駆けていく。近づきつつある冬の冷気を含んだ風が、今や向かい風となり、走りゆく彼の身に抵抗を試みるのか、衣服のなかでも荒々しく渦巻くようだ。途絶えていた虫の音も、彼の思いを掻き立てていくかのように、再び盛んにその響きを鳴らしつづける。

  彼の目にも涙がやどって、駆けゆくためか、それとも風に吹かれるためか、その涙は頬づたいに耳が隠れた髪へとつらなり、星が闇夜を横切るように、ひとすじの光の線を引いていった・・。

 

  木造校舎の自室へと戻ったテツオは、レイコに抱かれたトップスのシャツ-これはこのまま永久保存することにして-、それを着たまま、ボトムズをフレアシカートにはき替えて、頭にやや長めミーディアムのウィッグをつけ、チークとリップを仮り塗りすると、レイコと同じくメガネをかける。

  そしてその後に、彼はいつもの二枚合わせ鏡のなかを、おそるおそる覗き込んでみたのだった。

  -・・似ている・・。裸眼の時はわからなかったが、こうしてメガネをかけてみると、二人のその眼差しは、たしかに似ている・・・-

  テツオは鏡台前に座ったまま、鏡のなかのテツコを見つめて、今まで意識の奥底に鎮めていたその思いを、顧みようとするのだった。

  -・・もし、時々夢に出てきたように、自分に血のつながった姉が本当にいたとするのなら、それは母から一人っ子と言われ続けた自分が生まれるその前に、父が別の女性との間にもうけた人に違いなく、その人が旧姓で母方の姓を名乗っていれば、当然父の姓とは別になる。

  たしかに自分は父が四十を過ぎてからの子で、今の父の年齢を考えると、親子ほど年齢差のある異母姉弟はあり得ないことではない。

  だが、そんな話は母はもちろん父からも全く聞いたことはなく、それに、メガネをかけた眼差しが似ているとはいえ、他のパーツは今こうして女装をしてみても、似ているとは思えない。

  自分が時おり見た夢でさえ、夢のなかで憧れの女性を登場させて、夢のなかで考えながら、自分にとっては都合のよい物語を作っていたとも言えるのだ。もしレイコさんが本当に自分の姉だとするのなら、おそらくはシングルマザーか継父と育てられたかというような生い立ちを持つのだろうが、それがあの人にとって果たして都合のよいものなのか・・・-

  テツオは鏡のテツコを見つめつつ、さっきまで走っていた余韻もあるのか、矢継ぎ早に今まで思っていたことを頭のなかで巡らせていくのだが、しかし、やはりいつものように、ここまで来てもどうしても納得できないある疑問が残るのだった。

  -・・それに、何より解せないのは、もし本当に実の姉だとするのなら、幼児であった自分と違って記憶は鮮明にあるはずだし、名前も知っているのだから、レイコさんから自分に告げてくれたとしても、何の不都合もないはずなのに、それがない・・。レイコさんの性格からして、そんな大事なことを黙ったままやり過ごすようなことは考えられず、また、忘れ形見のような物的証拠というのもない。

  そうだ・・。ならば、なぜ、あの人は、自分に対して沈黙をし続けるのか・・? その沈黙は、何に対する沈黙なのか・・? その沈黙に、いったい何の意味があるというのか・・?-

  やはりテツオは、テツコの目を現に見て反芻しつつも、いつもの落とし所へと着くようだ。

  -・・このように、レイコさんが実姉という推定は、彼女にとっても、また父にとっても不都合ともなり得るような物語が生じるわけで、卒業間近の自分にとっては、あまり考えたいこととはいえない。

それよりも、別に血縁でなくてもいいから、レイコさんとは今までの付き合いが、国外だろうが国内だろうがこれからも続いていけば、自分はそれで充分なのだ。

  だから、時おり夢で見るような、もし自分の幼児期に姉のような女の人がいたとしても、祖父母の家に時々来ていた親戚なのかもしれないし、レイコさんを姉とするのは、やはり自分の憧れの投影に過ぎないもの-と言えそうだ・・・-

 

  文書が得意なキンゴと違って、テツオは自信がないものの、レイコの声もコピーとも残されたので、それをもとに文字起こしをするだけでも何とか様になったのだった。

  それで彼は出来上がった文章をブログにアップする前に、『光知性原理』のアイデアに敬意を表して、まずはユリコに読んでもらうことにした。

「へええ、今までのキンゴの文章とは違って、この章だけは対話編になったのね。」

  ユリコはそれでも嬉しそうに、テツオの文書を読み込んでいる。

「うん。俺、文章を書くのって、あまり得意でないからさ、レイコさんとの対話の録音をほとんどそのまま文書起こしに使ったんだよ。でも、これで一応、卒業までにブログは完成したってことで・・。」

  しかしユリコは、ブログ成就の功労者にもかかわらず、あまりその理論的内容にはこだわっていないようで、彼女の主な関心は、もっぱらテツオがレイコとどれだけ向き合ったかということにあるようだった。

「テツオ・・、それでレイコさんは、この対話編以外にも、何か言ってた??」

「う~ん・・、いや、特にほかには・・。」

  しかし、テツオは、手作りのホットケーキを食べさせてもらったこととか、そのお礼といっては何だけど、自分はカフェオレをつくって入れてあげたとか、そんなたわいのない話を、とりあえずこの場ではユリコに話しておいたところ、ユリコはそっと微笑んで、

「そう・・。それはよかった・・。」

  と、幸せそうにつぶやいた。

  それでテツオは、ユリコの他にはあともう一人、ブログの当の主筆であったキンゴにも、ブログ成就の知らせとともに、終章たるこの対話編を見せてみる。

  テツオは、受験準備も終盤戦となってくるなか、追い込み厳しく消耗はげしいキンゴを気遣い、彼が比較的機嫌よさげな、それこそ模試の翌日などの、時より憂さ晴らしでかつてのように大音響のワァグナーを鳴らしている時、教会の彼の所へその文章を持っていく。

「すっげえ! すげえよ、これは! この量子論の“粒子と波の二面性”も“量子もつれ”の問題も、今までだれも解けなかった物理学の大きな謎とされてただけに、科学者でも何でもないフツーの高校生の僕らがさ、核の世に棄民されても怨念深く執念深くも諦めず、その核を放ち悪用した科学者たちが分からなかったこの“神が人に与えたもうた究極の謎”なるものを、解釈とはいえ一定の説明を与えたなんて。しかもそれが、光と核に依存する人間の知恵に対する究極の因果応報でもあっただなんて。

  こいつぁホントに、アホなホモ・サピエンスに対する僕ら次世代からの意趣返し。究極の“ざまあみろ”って感じだよな!」

  キンゴは文書を読み終えるや、テンション高くパンパンとその紙面をたたきつつ、自ら手掛けたブログの成就を祝っているかのようである。

  そして彼は、ややニンマリとしながらも、テツオに小声で尋ねてくる。

「テツオ・・、この文章って、パクってもいい・・?」

「パクるも何も、もとよりお前が主筆のブログだからさ、文体を修正するなど自由にして、ブログにアップさせればいいよ。」

「いや、僕が言っているのはさ、ブログはこれで完結でいいんだけれど・・、実はもう一つあるのであって・・。」

  と、例のごとく意味深な眼差しを、キンゴはテツオに向けてくる。

「もう一つって、何のことだよ?」

「・・いや、これは二次試験が無事に終わって、心身ともに落ち着いてから話した方がいいだろう・・。あ、テツオ、むしろそんなことよりも、君が言ってたテープの話って何なんだよ?」

  テツオはキンゴが秘めようとする話を無理に聞くのは、経験上ややこしくなるだけだからと、ここは彼が興味を示している、持参したカセットテープの話へと移っていくことにした。

「・・実はさ、この文章は、僕とレイコさんとの録音を文書起こししたものだけど、最後の録音が途切れた所で、前に録音したと思われる曲の一部が残っていてさ、俺はこの曲名が知りたくて、音楽に詳しいお前に聞いてみようと、その該当箇所だけ別にダビングして持ってきたのさ。」

「ああ、それって二重ダビングでよくある話だ。じゃあ、この教会のステレオで聞いてみようか。」

  と、彼はここで鳴らしていたワァグナー-彼によれば、模擬試験で今までずっと合格率D判定だったのがやっとC判定になったので、今回は威勢よく『ニュールンベルグマイスタージンガー前奏曲』を選曲したとのこと-を、ようやく止めると、テツオ持参のカセットテープをデッキにかける。

  それは数分たらずの短い曲で、キンゴは巻き戻しては繰り返し耳を澄ませて聞いている。

「テツオ・・。この曲は、自称グロッサー・ワグネリアンでクラッシックオタクの僕が分析をするにはだ、オーケストレーションからし交響曲みたいな大曲の一部分だが、どうやら主要な主題はこの録音に残されているようであり、しかもこれは曲の終わりの方じゃないかな・・。」

「・・ということは、お前の好きなワァグナーではないってことか?」

「そう。だけど、明らかにワァグナーの影響は見てとれる。それに、曲調からして、ロシア、フランス、フィンランドのものではない。ということはこの段階でも作曲家はかなり的が絞られるから、検索するのは困難ではないと思う。テツオ、このテープ、しばらく僕が借りてていいか?」

  ここは知ったかぶりの様子もなく、模試とは異なり自信満々に答えるキンゴに、テツオは何やら幸先のよいものを感じる思いがするのだった。

「もちろんだよ。曲名は二次試験が終わってからでいいからさ、くれぐれも受験の方を頑張ってな。」

  

  こうして、ユリコとキンゴに見てもらい承認を得たとのことで、テツオはレイコとのこの対話篇を最終章にアップさせ、これで彼らの革命と独立を理論的に支えてきた島のブログは完成した。

  テツオはこれでようやく肩の荷が下りた気がして、慣れないパソコンでの文書起こしのせいなのか、農作業とはまた別の意味での疲労からも解放されて、久方ぶりに心配事も憂いもなく、ぐっすりと眠れそうな夜をむかえた。

  そこで彼は、自分の身も心もやすらかに優しくすべく、風呂上りに久しぶりにほんのちょっぴりメイクをほどこし、月と同じく淡い白地の女ものの浴衣をまとって、レイコが録音テープに残していたあの曲を聴きながら、この夜の床についたのだった。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 

「ワアアアッツ!!」

「テツオ! テツオッ!! なにッ? いったい、どうしたのっ?! 

えっつ・・、うなされたのはまた夢のせいって? ああ、もう、びっくりしちゃったぁ・・」

「ウン・・。何だかね、寝ていたら天井から幽霊のようなものが降りてきて、ボクの口へと入った気がして・・」

「それで、こんなに汗ビッショリなの・・。これ、オネショじゃないよね、汗だよね。」

「姉さん、なにもそんなに嗅がなくても・・。オネショは最近してないし・・。」

「とにかく全部脱ぎなさいって。 ・・え? 男の子が若い女の目の前で恥ずかしい??

  あんたまだ子供なのに何言ってんの。おじいちゃんと昼ドラばかり見てたからこうなるのよ。

  だからテレビはもうやめなさいって言ってるのに・・。せっかくお庭と畑があるのだから、テレビよりも、花や草や虫たちを観察した方がいいと思うよ。

  それとテツオ、あなた、この下着って、いつもの穴まで開いてるお古じゃないの。私がこの前買ってあげたオーガニックの下着はいったい、どうしたのよ?」

「・・いや、あれは何だか、値段も高いし、もったえないような気がして・・。」

「仕舞い込んだままだって? 肌に当たる着物はね、オーガニックじゃないとダメって言ったでしょう。お着物は置物じゃないんだから、着てないなんて聞いてないから。」

「姉さん、それってシャレを言ってるの?」

「この子ったら、人の話はよく聞いてるし、笑いのツボもはずさない。きっと頭のいい子なんだわ。

  テツオ、オーガニックのにちゃんと着替えた? そう、パジャマもね。よく似合うじゃないの。

  本当なら、食事も全部オーガニックにしたいのだけど、ここは祖父母の家だしね・・。

  それと、これからは私が毎日洗濯をしてあげるから、汗をかいたり汚れたりしたものは、きちんと風呂場に出しとくのよ。」

「姉さん・・。ごめんね。いつも夜中に起こしたり、毎日洗濯させたりしてさ・・。」

「いいのよ。一人分も二人分も洗濯の手間はいっしょだし。これでもう幼稚園の他の子なんかにクサイだなんて言わせないから・・。」

「姉さん、ボクのせいで、会社のお仕事、眠くなったり、頭ボーッとしたりしてない?」 

「会社の仕事? 会社の仕事なんてのはね、みんな我欲や保身や惰性やらでやっているから、目覚めてなくてもできるのよ。あなたはそんな心配をしなくていいの。」

  しかし、テツオは、幽霊のことよりも不安にかられる思いがあった。

「姉さん、ボク、姉さんの迷惑じゃない? ボクがやっかいかけてることで、姉さん、会社を早く帰ったりしてみんなに悪口言われたり、辛い思いをしてんじゃないの?」

  小声ながらもテツオがその意を決して尋ねてきたと感じたレイコは、服をたたんでいた手を休めて、彼の前にしゃがみ込むと、その小さな肩に手を添えつつ、彼の目を見つめながら、アルトの声をより低めて語って聞かせようとする。

「テツオ・・。あなたはまだわからないでしょうけど、会社なんてそんな大した所じゃないのよ。会社なんて所はね、一言でいうとするなら、それは“愛”のない所といえる。

  テツオ、私はあなたと出会えたことで、初めて人を愛しているのよ。私のような人間でも、こうして人を愛することができるんだって、私はあなたに学んでいるのよ。あなたはね、私にとっては“エンジェル”なのよ。」

  迷惑どころか天使と言われて、テツオは嬉し恥ずかしで、ついその口を滑らせる。

「姉さん、そのセリフって、彼氏のために取っておくセリフじゃないの?」

  つぶらな瞳を輝かせて、そんなことを言うテツオに、レイコは思わず吹いてしまう。

「テツオ、彼氏なんてね、そんな大したものじゃないし、今のセリフを言う価値のある彼氏なんてまずいないわよ。だからもう、昼ドラ見るのはやめなさい。

  さあ、もう寝ましょう。幽霊が怖ければ、私の所で寝てもいいよ。」

 

  こうしてテツオは、安堵感を覚えながらも、レイコにまた添い寝をしてもらうのだが、それでもやはり幽霊に襲われる不安があるのか、なかなか眠れそうもないのだった。

「・・テツオ・・。どうしたの、眠れないの・・? いつものピアノの子守唄、鼻歌してあげようか。」

「ウン・・。姉さん・・、ボクといっしょじゃ、姉さんまでも眠れない?」

「眠れそうもない時はね、無理して眠ることはないのよ。図鑑で見たヨザルのように、夜中に起きてる生き物なんていくらでもいるんだから。

  じゃあ、テツオ、今から私といっしょにさ、月を見ようよ。ね! 今日、満月だし。」

  と、レイコは布団から起き上がると、部屋の障子を左右に開き、一人窓辺の傍らに立ち、紺碧の夜空の月を眺めはじめる。

  二人のいる部屋のなかには、月の煌々たる光が差し込み、それがレイコの白地浴衣の後姿を、また白磁器のように美しく照らし出していくのだった。

  幼児のテツオは、後ろの布団に座ったまま、幼児とはいえ、そのIラインに見とれていく。

  -いや、そればかりでない。僕は後年、黄金比φに目覚めるのをここで予告されたのか、そのφの文字どおり、Iラインの真ん中の豊かなまるい膨らみとも運命的に出会ったのだ・・-

「・・姉さん・・、本当に綺麗だね・・。」

「そうね・・。私も本当に綺麗だと・・、美しいって思うわよ・・。」

  レイコは窓から宙を見上げるままに、独り言のようにつぶやく。

「姉さん、自分でもそう思うの? 鏡を見てもそう思うの?」

「鏡? 鏡で見ても、円いものは円いから、美しさも綺麗さも、変わらないと思うけど・・。」

「姉さん、美しいもの綺麗なものは、自分でもそう思っていて、いいんだね?」

「もちろんよ。あなたが自分で見て美しいと思うものは、みんなが見ても同じように美しいだろうから。

  テツオ、そんな布団のなかにいないで、こっちへ来ていっしょに見ましょう。」

 

  テツオが起きて窓辺まで歩いていくと、レイコはいつも彼に何かを見せたい時にやるように、その真横にしゃがみ込むと、小さな肩を支えつつ、頬と頬とがくっつき合うほど顔を寄せて、同じ高さの目線で見ながら、そして同時に彼の目を覗きながら、話しかけてくるのだった。

「テツオ。ね、目の前に、大きな大きな円い月が見えるでしょう。あれを満月っていうのだけど、夜とはいえ、この月の光の明るさで、外はすっかり青みがかって、まるで海のなかにいるみたいね。」

「でも、姉さん。月って、どうしてこんなに光っているの?」

「月が光っているのはね、私たちの住んでる地球が光っているのを反射しているかららしいよ。」

「じゃあ、地球も月と同じように、銀色に光っているの?」

「いいえ。図鑑の写真や、実際に見た人の話によれば、地球は青く光っているということよ。」

「じゃあ、月はこうして銀色に光っているのに、どうして地球は青色に光っているの?」

「それは多分、月とは違って地球には、海と空気があるからじゃないかしらね。」

「じゃあ、そもそも地球はどうして光るの?」

「それも多分、月とは違って地球には、私たちみたいな生き物や、あなたが見ている花や草や虫たちなどの・・つまり、命や生命が、あるからじゃないかしらね・・。」

「じゃあ、その命って、どうして光るの?」

「それは私には分からない。いえ、それどころか、他の多くの人たちだって分からないことだと思う。」

  テツオはレイコが答えられなくなったので、ここで目の前の月を見ながら、黙り込んでしまうのだが、レイコはそんなテツオを横に見ながら、思わず頬に口づけをするのだった。

「テツオ・・。あなたが今こうして“じゃあ、なぜ、どうして?”と私に質問をし続けてくれたように、人の答えに納得せず、自分で“じゃあ、なぜ?”と問い続けるのは、とても大事なことなのよ。

  もうじき、あなたも小学校に入るのだから、そこで文字を覚えれば、私が見せた図鑑の他にも、自分で思いつくままに何でも調べられるのよ。そしたら、あなたは自分で世界を知れる、宇宙を知れることになる・・なんて思えば、ワクワクするでしょ。」

「でもさ、知りもすぎると、ワクワクをこえ、かえって疲れやしないかな・・。それに姉さん、ボク、自分が不思議に思うことを幼稚園の先生に聞いてもさ、先生はかえってそんなボクのことを不思議に思うみたいなんだ。小学校でも、そうなるのかな・・。」

「じゃあ、そんな不思議な顔をされたら、家に帰って私に聞けば、いいと思うよ。

  あ、そうだ、テツオ。幼稚園で思い出したけど、今度の土曜日、私といっしょに大宰府を歩かない?」

大宰府って幼稚園のある所だけど、あんな混んでるのは嫌だって、姉さん、よく言ってたじゃない。」

「いや、それは天満宮の周辺で、あそこを離れた政庁通りにお寺があって、そこは割りと落ち着いた散歩コースよ。歩けば運動にもなるし、寝つきもよくなるかもしれないよ・・。」

 

  そして幼児のテツオは、レイコといっしょに大宰府天満宮から政庁通りへと散歩してくる。

「テツオ、このお寺は戒壇院といってね、昔むかし遠い昔に、中国から鑑真という偉いお坊さんがここまで来られて、この国にお釈迦様の教えを弘めていくために建てられた由緒あるお寺なのよ。」

  と、レイコはテツオといっしょに寺のなかを歩いているが、ここで彼女はある植樹を前にして立ち止まってしまうのだった。

「・・あれ、この木って菩提樹なんだ・・。しかも、鑑真和尚が持ってこられた、ブッダ由来の菩提樹と書いてあるわね・・。」

  しかし、テツオは、この老木を前にして感嘆の面持ちで立ちすくむレイコの姿を、また後から見つめながらも、彼も同じく感嘆の眼差しで、その後姿立ち姿にあらためて見入るのだった。

  -・・白地に赤と緑の花柄ドットが散りばめられたるワンピース。そのドットは立ち姿の中ほどで、逆さハートのまるいお尻の張りを受け、その点と点との距離感は相互に広がり、白い背筋と長い足とのIラインのもと、その球面の曲率を柔らかくも温かくも際立たせる・・。

  その時、幼児の僕は、ボキャ貧ながらも自分の思いを、どう表現したのだろうか・・-

「・・ね、姉さん、その着、着ているのって、何ていうの?」

「この木? この木はね、菩提樹っていうのだけど、菩薩をボーディーサットヴァというように、この菩提樹にもボーディーなにがしという名前があるのかもしれないね・・。」

「・・ね、ねえ、姉さん。そのボディーも、とても綺麗で美しいと、僕は思うよ・・。」

「へえ、あなたったら、けっこう“シブイ”美意識をもっているのね。」

「シ、シブイって、姉さん、いつか食べてた果物の実のことも、シブイシブイって言ってたよね・・。

 姉さん、そのシブイって、まるくっておいしそうなものに対して、使っていい言葉なの?」

「いや、この場合は、むしろいわゆる“わびさび”の美意識をさす言葉でもあるのかな・・。この菩提樹がどんな実をつけるのかは、またあとで調べてみようね。

  テツオ。今度また幼稚園でお絵かきする時、今のあなたの感動をそのまま絵にしてみたらどう?

  それでね、テツオ、私も今感動をしてるのだけど、この菩提樹は、お釈迦様が悟りを開いた菩提樹ゆかりの木であるらしいの。あなたももっと近くに来て、見てごらんよ。」

「姉さん、“悟り”って、いったい何?」

「悟りというのは、深い真実、あるいは真理というべきか・・。そう言っても分からないよね?」

  不思議そうな顔をして、レイコをじっと見つめるテツオに、彼女は菩提樹に向けていた目を彼の方へと返しつつ、このように語って聞かせる。

「テツオ。あなた以前に、私が絵本を見せながら『マッチ売りの少女』の話をした時、可愛そうだって泣いていたよね・・。あの時のあなたの“かわいそう”という思いが、私は悟りなんだと思うよ。

  テツオ、ここはね、大切な話なのよ。あなたがその時感じたように、自分以外の他人のことが気になって、貧しさや病気なんかで可愛そうという思いこそ、本来の意味での悟りなんだと私は思うよ。」

  それでもなおも不思議な感じのテツオの顔に、レイコは優しくキスをすると、彼の目を見つめながら言葉をつづける。

「テツオ。このようにあなたは私にいろんなことを教えてくれる。あなたは私に“考える”ということを教えてくれる。それで私は決めたのね。やっぱり私は初志にかえって教師になろうと。

  今まで私は自分に自信がなかったけれど、こうしてあなたを愛するように、私も人を愛することができると思うし、それになにより、私が子どもたちから教わるという気持ちになれば、それでいいと。

  だからもう、私は会社は貯蓄のためだと割り切って、目標に到達すれば辞めようと。さいわい私の出た大学は、卒業生には教員資格取得のための優遇処置があるらしいし・・。」

  テツオはそれでやや微笑むと、レイコもまた連れられて微笑みかえす。

「そうだ! あなた幼稚園のお絵かきで、あなたが描くのはいつも花や木や草や虫の絵ばかりだって言われたと言っていたよね。

  じゃあ、今度の土日、私が海か山に連れて行ってあげるから、その時の絵を描けばいいよ。」

「山って、ここの宝満山?」

「うーん。あの山もいいのだけど、頂上まで登らないと見晴らしも開けないし、階段つづいて結構きついし、まだあなたには負担かもね・・。

  そうね・・、この前行った阿蘇みたいに少し遠くはなるけれど、大分の由布岳がいいんじゃないかな。あそこなら中腹からでも見晴らしは素晴らしいし、それに温泉にも入れるしね。」

 

  そんなわけで、テツオはレイコに連れられて、他の登山客も行き来するなか、大分県由布岳の中腹まで登ってきている。

「テツオ。リュックの荷物が重い時はね、こう、こんな感じで、背中のより上の方で背負ってごらん。そうすれば少しは軽く感じるし、歩きやすくなると思うよ。

  でも、これで中央口から目標の中腹までは来れたわね。本当は、東口とか西口からのルートの方がより山登りの実感はわくのだけれど、こことは違ってあまり人がいないからね。こんな時、女一人は不利だから、私はいつも悔しく思うよ・・。でも、あなたは男の子だし、どこでも自由に行けるわね。

  だけど、私の経験からすれば、山登りは人が多い方がいい。人が少ない登山道は地図が違うこともあるし、より遭難のリスクは上がる。このルートなら頂上まで、まず安全だけどね。」

  と、テツオはレイコが望むまま、由布岳の二つの頂上-西峰と東峰とに目をやるのだが、やがて彼女の視線にあわせて、目の前に広がっている雄大な眺望をその視界におさめていく。

  二人の先には、遠い雲や霧の霞のなかを波打つような、青々とした山々の稜線が広がっている。

「テツオ。この遠くに見えるのが九重連山、そして、さらに向こうに横たわるのが阿蘇の五岳よ。

  テツオ・・いつか私と登ろうね。阿蘇も九重も、その頂上まで、二人でいっしょに登ろうね・・。」

  傾く午後の陽の光を手の甲で遮りながら、望むところをつぶやくように指し示すレイコの姿を、テツオはやや後方に立ちながらも見つめている。そして彼女は再び、リュックからウォークマンを取り出すと、そのイアホンの片方からテツオにまたあの曲を聞かせてくれる。

「姉さん、これってこの前、阿蘇でも聞いていた曲だね。」

「そう、よく覚えてるわね。これは『アルプス交響曲』・・女性でこれが好きな人って珍しいのかもしれないけど、私はまた『英雄の生涯』も好き。私にはどちらも山の情景が出てくるのよね・・。」

  しかし、またもレイコの後方から、その立ち姿を山々よりも望むテツオは、彼女が発したその言葉に、はや敏感な反応を見せるのだった。

  -・・英雄・・。そう、僕にとってはこの時の姉さんは、風に吹かれる栗色がかった黒髪のもと、ロイヤルブルーのスカーフにグリーンのシャツ、グレーのニッカボッカに鮮やかな真っ赤な靴下・・。その後姿立ち姿のAラインは、遠く望める山々の稜線の波打ちと、遠近をなすかのようなお尻のまるみをともなって、あたかも英雄みたいなカッコよさ。足をしっかり地につけて立ち、登山杖を取ったまま腰に手をあてがうポーズは、ますますその逆さハート型のお尻の、質感と存在感を際立たせる・・-

「・・姉さん、ボクにはもう眩しすぎるよ・・。この前からも知りすぎてるし・・。」

「あなた、帽子を後ろ向きに被ったりするからよ。ちゃんとツバを前にして被りなさい。

  じゃあ、今回はこの中腹までということにして、これより先の頂上は風も強いし坂も結構きつくなるから、小学校に入ってさ、もっと体力がついてからにしましょうか。」

「えっ?! 姉さん、もうここで終わっちゃうの? この先にはもう行かないの?」

「うん。今はまだ行けるような気がしても、登山は余力を残して下山するほど慎重なのがいいのよね。

  いいじゃないの。今日は別府に泊まりだし、竹瓦温泉にも入るのだから。」

  ~“温泉”~という言葉を聞いて、テツオは目前の逆さハートを見つめながら、思わず生唾を飲んでしまうが、その飲み込みの反射なのか、彼はここで急なる尿意を感じたようだ。

「でも、山々を目前にして、ここで終わりというのもなあ・・・。」

 

 -ちっ! 何でここで終わりなんだよ?! 登山といっしょに夢まで終わることはねーだろ!-

  青年テツオは、文字どおり、ビューティフル・ドリーマーから目を覚まして、その尿意の赴くままにトイレに駆け込む。

 -ちくちょう。俺はペニスも膀胱も小っちゃいから、肝心な時にこうなるんだ!-

  夢のあと、この呪わしいオプションみたいな立ちションを終え、テツオは寝床にかえってからも恨みつらみ、今宵のメイクや身にまとった女ものの浴衣のことなど忘れてしまったかのようだ。

 -だって、そうだろ。今宵の夢はオールカラーの三本立てで、三つ子のタマシイ決したような、上品な浴衣姿にフェミニンなワンピース、そして更にはたくましいニッカボッカと、SLみたいな三重連のその後は、本人も温泉へと言ってただけに、極めつきの入浴シーン・・それも最低でも、それこそまさに黄金比の、見ろのヴィーナスみたいな“湯けむり全ケツ立ち姿”か、“かけ湯に半ケツ前かがみ”が、あって然るべきじゃないのか-

  しかし、テツオは自分自身の不甲斐なさを呪いながらも、ここである事にふと気付いた。

 -・・ということは、以上の夢は、僕の想像や創作なんかじゃなかったってことじゃないか。

  だって、もしもこれらの夢なんかが、自分に都合のいい想像や創作ならば、当然この後に生尻の後追いシーンがあるはずだし、それが文字どおりケツ落してるということは、現実にもそんな事実はなかったというで、これらの夢は、実は本当の所を反映しているんじゃないか・・-

  だが、テツオはさらに用心深く、慎重に考慮をめぐらす。

 -・・ということは、僕はこの時、姉さんと温泉には行ったのだから、女湯に入らなかったということか・・。いや、そんなことはあり得ない。いくら子供の人権がない国とはいえ、女湯にそのまま入れる幼児固有の特権を、知りすぎた男の僕が活かさぬはずはないだろう。では、その時、いったい何があったのか・・-

  テツオは寝床で寝返りを打ちながらも、またも仮説を考えはじめる。

 -・・仮にその時、温泉の男湯と女湯の番台を前にして、ちょうど今の僕みたいな美青年が、今からまさに湯に入らんとするような特別な場合に限って、男湯に入ったことも考えられる・・。そして、その時の記憶については、今や自分の美貌が上回ったということで、すでに過去のものとなった・・ということだろうか・・-

  ここまで思索が及んでくると、その悔し悲しの寝覚め夢覚めからもようやく、テツオは解放されそうな気になってくる。

  -いや、これでかえってよかったのだ。こうしてあの美しい逆さハートの三重連は、人間界の番台で性別に紛れぬことで聖別され、僕の姉のイメージ同様、ここは湯けむりみたいに永遠のイデアへと昇っていったに違いない。それに、これはまさに“隠すぞ春はゆかしける”というような“相反性”のあらわれでもあろうから・・・-

  こうしてテツオは、彼とレイコが二人で描いた相反性理論と、ここまで至ったその因果にあらためて思いをはせつつ、メイクのあとを枕にもつけながら、また安らかな眠りへと落ちていった・・・。