こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第二十一章 相反性理論

  一息ついて、一通りのリラックスを終えるや否や、レイコはまた新たな発想に押されるように、再びボードの前に立ち、テツオとの対話篇を再開させる。

「それでね、テツオ君の今回の文章や、あなた達のブログにおいて展開された仮説について、私なりに論証をさせてもらったわけなのだけど、ここで確認したいのは、“執着”とは、おそらく仏教的な概念だろうと思うのだけど、一方で“相対知”とは、この言葉の出典とか、概念の大本とか、あなた達は主にどこに、そのヒントを得たのかな?」

  するとテツオは、持参してきた書物の中より、ある一冊を取り出してレイコに見せる。

「それは、僕たち4人の会話から自然に出てきたようにも思いますけど、僕的には、旧約聖書の『創世記』にある“善悪を知る知恵の実”の“善と悪”というお話と、あともう一つは、この『荘子』(1)の解説にある、“知るとは分かるということであり、ものを分け、分析をすることで、一である真理は二つに分けられ、相対的なものとなる。知ることにより真理は本来の真理でなくなり、人のその言葉もまた真理を二分し相対的なものにする。是非善悪などの価値というのも相対的なものであり、もし人間という限定された立場を出れば、これらの価値の差別はなくなり、絶対の世界があらわれる”-この二つだったと思います。

  先生としては、ユークリッド原論の証明みたいに、議論の前にキーワードたる執着と相対知の定義について、まずははっきりさせておきたい-ということでしょうか?」

「うん。確かにそれもあるのだけれど、私は今まで見てきたこの“相対知”という言葉に関して、先ほどのニールス・ボーアのある考察が、非常に大事に思えてくるのね。」

  と、レイコは丸テーブルまで戻り、テツオの隣に腰かけると、彼の方へと身を乗り出すように書を押し開き、その該当箇所を指さして見せようとする。

「それは、ちょっと長いけど、彼のこの文章(2)にあらわれていると思うの。

 “・・実のところ、厳密にはいかなる概念も、その意識された分析は、その直接的な適用に対しては‘相互排除’の関係に立つのである。この意味での相補的な、むしろ相反的な記述様式の必然性は、心理学上の問題を経て、われわれに最も身近になっている。

  ・・筆者は、‘相補性’なる用語を示唆した。古典力学にてすでに見られる相反的な対称性を考えれば・・、おそらくそれは‘相反性’という言い方の方がより適切である。・・前者は、現象と観測手段との厳密な分離の可能性に基づいており、後者は、われわれの主体と客体との識別にその根拠をもつ。

  ・・われわれはすでに単純な心理的経験において、相対的のみならず、さらに相反的な見方なるものの基本的な特徴に遭遇しているということである。”

  ボーアといえば、たとえば光が粒子と波の二面性をあらわすように、異なる二つの性質がお互いに相補うという『相補性理論』の提唱者として有名だけど、彼はこの相補性と関連して、このように“相互排除”と“相反性”という言葉を何回か使っていて、私はむしろこの“相互排除=相反性”なる概念が、とても大事なもののように思えるのね。」

  と、レイコはカシミール効果の絵を再び取り出し、ボードにそのイメージを描いて見せる。

「先ほど来の“光知性原理”によれば、自然はもとより知性をもち、光がそれを担っているということで、ヒトの可視光線域や昆虫の紫外線域というように、生物にはそれぞれ光に感応する特定の光の域があるのだけれど、その域のエネルギーは光全域のエネルギーに比べると低くなるので、それでカシミール効果のような現象が考えられる-ということを私たちは見てきたよね。」

「それで、ヒト=ホモ・サピエンスは、自らの可視光域に高いエネルギーを注いだために、まるで内側から外側へと押し返すような感じになって、それが“作用・反作用”の概念をヒトにもたらし、またそれがヒト特有の“相対知”のもととなったのではないだろうか-と、先生は言われましたね。」

「そう。私たちホモ・サピエンスは、もともと太陽が非常に強いアフリカの出身だから、それがより北方の北半球へと光の薄い地域にも生存圏を広げていく進化の過程で、ますます光を求めていくなか、その可視光域によりエネルギーを注力していったがために、可視光域でありながらγ線のエネルギーに匹敵するヒトの光=知恵に対する“執着力”をつくってしまい、それが自分に執着することで他人を識別するような“相対知”のもととなった-ということだけども・・。」

「・・それは同時に、作用・反作用というように押し返す力でもあったのだから、相対知というよりも“相反知”と言うべきだ-ということでしょうか?・・」

「そう、私はおそらくそうだと思う。人間がただ単に、善と悪、生と死、自分と他人、男と女、白と黒に赤と青、北と南に西と東、そしてついには粒子と波・・というように、二つのものをお互いに並べるだけの分別知や相対知であったのなら、問題はなかったのかもしれない。しかし、人間はそれにも増してこれらの二つを、プラスとマイナスまたNとSというように、互いにまったく両極に立たせるように“相反的に相互排除する”というニュアンスが、これもまた執着力のせいなのかとても強くなっていて、このことがあらゆる差別と争いの究極の原因になっているのではないだろうかと思うのね。」

「・・なるほど、頼朝義経御仲不仲、生きるべきか死すべきか、権力の掌握か愛の断念を選ぶべきか、あるいは愛と死(3)というように、これらも両極の関係になってますよね・・。ヌーディーベイジュも透けグロもどっちをはくかで全然印象違ってきますし・・。」

「・・それでね、この人間の“相反性”というものは、知恵や知性の源たる光についても相反的なものとなるから、いわば人間の知=相反知は、あらゆる命や自然に対して相反的になるのではないだろうか-すなわち、これもまた『創世記』の“知恵の実を食べたが最後、お前たちは死ぬことになる(4)”の神の予言を成就するものではないだろうか-と私は思うの。」

「つまり・・、僕たちがあの3.11以来、身に染みて味わってきた“命よりもカネが大事”という世相も、核暴力にはひれ伏しながら次世代子どもを省みないという風潮も、ここにその究極の原因があるのではないだろうか-ということでしょうか・・。」

  レイコはここでマーカーを握った手を腰に当て、ボードの前に立ったまま、テツオの方へと向き直って言葉を続ける。

 

「テツオ君・・、あなたは今回、物理学で大きな謎とされている“粒子と波の二面性”を取り上げてくれたのだけど、私はこの“二面性”というものが、人間の相対知や相反知の産物であるのなら、それにも増して人間には、もっと追究されるべき究極の二面性があると思う。」

「それは、どのような二面性というのでしょうか?」

  レイコはそのアルトの声もより低く、深い思いを込めるように、テツオに対して語りかける。

「・・私はあの3.11以来この方、同じ二面性でもね、“人間の叡智と残虐さの二面性”というべきものを、ずっと考えてきたわけなのよ・・。」

「それは、いつか授業の際に言われていた、“人間の叡智の極みとされるような20世紀の物理学・物理学者とマンハッタン計画=原爆開発との関係”のことでしょうか?」

「そう・・。チェルノブイリやこの国の3.11は原発事故ということだけど、その直接的なルーツというのは、私は1945年のヒロシマナガサキだと思っていて、私はこの“ヒロシマナガサキ”は絶対に忘れてはいけないと、“怨”を込めて思っているのね。

  この書(5)によれば、1938に人間が最初に核分裂反応を発見してから1年後に第二次大戦が始まって、そのナチスユダヤ人迫害で国を追われた物理学者・科学者たちがアメリカに集結し、あのマンハッタン計画を始めたのが1942年、その1年前には太平洋戦争が始まっていた。この同じ年に、人間は臨界という核分裂の持続可能な連鎖反応を実現させ、それがそのまま原発へとつながった。

  そして1945年、すでにドイツは敗戦し、ヒトラーの脅威も消え失せていたにもかかわらず、アメリカは戦後の世界覇権と人体実験の意味も込めて、マンハッタン計画の産物であるウラン型とプルトニウム型の原爆を1発づつ、それぞれヒロシマナガサキへと投下した。そしてこの無差別大量虐殺の惨状と、子々孫々の遺伝子レベルに至ってまで危害を及ぼす悪魔の所業は『はだしのゲン』などにおいて、私たちの知るところとなっている(6)・・。

  このマンハッタン計画やその他の国でも同様に原爆開発に従事した科学者・物理学者たちというのは、その多くがノーベル賞を受賞した19世紀から20世紀にかけ加速度的に発展した物理科学の流れをくむ相対論や量子論を主導した人類の叡智を代表するような人たちであり、彼らの文書やその伝記から読み取る限り、ナチ要人に言われたような人格異常というべきものも見当たらず、あるいは自分の専門以外は何も考えられないような数学バカや物理バカでもなかったらしく、むしろ芸術的・文学的な素養も豊かな社会的にも好感度の高い善良で良識的な人たちであったらしい。

  しかし、そんな人たちがあのヒロシマナガサキの地獄を生み、今につながる“核の悪の世”をもたらしたのは事実であり、また、ここを私は強調をしたいのだけど、核分裂反応に大きな足跡を残したリーゼ・マイトナー女史は“爆弾作りを憎んでいていっさい関与しなかった”といわれている。

  だから、マイトナーやその他にも原爆に関与しなかった人々もいたというのに、原爆に従事した科学者・物理学者たちは、いくらヒトラーの脅威を言い訳に使っても、初の原爆実験は彼がとっくに自殺した3か月後の1945年の7月だから、そんなものは言い逃れにもならないわけで、実際に人間に原爆を投下したあのヒロシマナガサキから免罪されるはずはないと私は思う。それに彼らの多くは、原爆投下後の放射線被ばくの恐ろしさも知っていたというのだから・・。

  それゆえ、私はこの“人間の叡智の極みとされるような20世紀の物理学・物理学者とマンハッタン計画=原爆開発との関係”つまり、“人間の叡智と残虐さの二面性”とは、“粒子と波の二面性”に負けず劣らず、もっとも追究されるべき究極の二面性であると思う。」

「・・しかし、先生。すでに僕らが見てきたように、人間に知恵があるのではないという『光知性原理』と、それにともなう人間の、進化の初から自然と命に相反性を持っていたというこの『相反性理論』によって、“人間の叡智と残虐さの二面性”というものも、ようやく説明がついたのではないでしょうか。

  というのは、こんな恐ろしい二面性は、とても心理学や哲学等の手に負えるものではなく、それこそ何か進化における重大な物理的・生物的な欠陥でもない以上、考えられないと思います・・。」

「そうね・・。多分、そうかもしれないわね・・。とても悲しいことだけどね・・。

  でも、私たちは、人間にはすでに充分絶望をしているから、今さら悲しいことでもないか・・。

  ここで悲しいなんて言ったら、自分自身も人間なのにさ、かえって何だか偽善っぽいわね・・。」

  そしてレイコは、やや自虐的とも思えるように皮肉っぽく口元をゆがめたものの、それを急いで打消すと、テツオの目を見て、何かピンときたという顔をする。

「・・テツオ君、あなたが今言ってくれた“『光知性原理』とそれにともなう人間の『相反性理論』”という言葉、それって、いいね! 

  じゃあ、あなた達のこの仮説を、そのように名付けようか。」

  と、レイコはボードにまた大きな文字で、このように書き加えてくれたのだった。

  “相反性理論”

  そして彼女は、テーブル上のコピーに手をやり見返して、改めてその意を込めて話しつづける。

 

旧約聖書の『創世記』のはじまりは、神の“光あれ!”との言葉だった。

  そして現に宇宙というのは、光からはじまって、光=γ線による電子の対生成(7)も、宇宙のはじめによるものだった。

  知恵の実を食べ、善と悪とを分別する相対知・相反知を知り、楽園から追放された人間は、自分自身の知恵のもとたる“光”を求め続けてきたのでしょう。ガリレイが光の速さをはじめて測ろうとしたことも、ニュートンが『光学』を著したのも、マクスウェルが光を電磁波として表したのも、アインシュタイン光速度不変の原理のもとでガリレイの相対性原理をマクスウェルの電磁気学と矛盾なく統合して特殊相対性理論を打ち立てたということも、すべては人間が“光”を求めてきた証といえる。

  しかし、人間はその知恵の“相反性”ゆえに、自分たち人を含むあらゆる自然=命あるものへの“相反的”な進化の道を歩んできて、“差別と暴力の隷従の道”を進み、この地球のいたる所で自然破壊と生物の殺戮を続けたあげくに、20世紀をむかえた頃には“光”の前に、ついにその己の知恵の限界を知らされたのだと私は思う。  

  その一つが、光速は追い抜くことができないという“光速度不変の原理”によるアインシュタインの『(特殊)相対性理論』であり、また一つが、光は粒子と波の二面性をもつという“相補性原理”によるニールス・ボーアの『相補性理論』であり、そしてまたもう一つが、光は知恵と知性を担うという“光知性原理”による私たちが今に見たこの『相反性理論』といえる。

  そしてこの三つが並んで揃ったところで、私たちははじめてあのヒロシマナガサキの人間に対する意味を知り、また核と核権力・核暴力を死守しながらも次世代子供を犠牲にして省みない人間という“種”そのものを、はじめて理解することができると思う。

  それは、あの1945年に、はじめに“光あれ”と言って宇宙と命を創造した神に相反をするかのように、人工の太陽たる原爆からすべてを破壊し殺戮する光を放ったのは他ならぬ私たち人間だから。そしてそこには『(特殊)相対性理論』による有名な“E=mcの二乗”が関与していて、また、それを可能としてきたのは人間の神に対する“相反性”そのものだから・・・。

  あのプルトニウム原爆が当初の予定を変更してナガサキに落とされたのも、その日が悪天候だったからで、浦上天主堂という教会の、いわばイエスの十字架に落とされたことになる・・。

  かつて人々の罪を背負って十字架につかれたイエスは“わたしは渇く”と言われたらしい。そして原爆投下のあと、無数の人が“わたしは渇く”と言いながら水を求めて死んでいった-ということを私たちは聞いている・・・。

  私はここに、何か戦争や原爆投下という個々のわくをはるかに超えた、人間という“種”全体への“因果応報”、または“神の最後の審判”のようなものを、思わざるを得ないのよね・・。」

「先生・・。でも、人間は、その相反知のせいにより、何をするにも必ず差別が根底にあるといえます。

  しかし、人間の原爆や原発が放つところの放射線は、もはや誰も差別することなく襲ってきます。権力者も人民も、金持ちも貧乏人も、加害者も被害者も、宗教宗派も国境も県境も関係なく、その意味では公平かつ平等に、非局所的に襲ってきます。

  つまり、人間が放つところの放射線は、その創造者たる人間をここで完全に上回った-ということでしょうか・・。

  それともこれが、人間という差別する種に対しての“因果応報”、または“神の最後の審判”ということでしょうか・・。

  今まで地上にほとんどなかったγ線が、人間のせいでセシウム137等により天文学的なBq量で放出されて、そのエネルギーの強力な光であるγ線が、あたかも光電効果のようにして、その人間の相反知を弾き飛ばしていくという-これもまた、光を追い求めてきたのだけれども、結局それを悪用した人間という種に対する光自身による因果応報、または神の最後の審判ということでしょうか・・。」

  真剣な面持ちで言葉をつないでいくテツオにむかって、レイコも彼の目を見つめながら深く納得するようにうなずいていく。

  そしてテツオは、ここでレイコにあらためて問いを発する。

 

「・・では、このγ線により相反知が弾き飛ばされていく人間=ホモ・サピエンスは、先生は、これからどうなっていくのだろうと思われますか?」

「あなた達の仮説では、ネアンデルタール人たちと同様にサピエンスも絶滅する-ということだよね。」

「はい・・。一応、そうは書きましたけど、でも、具体的にどのように絶滅していくのかまでは・・。」

  レイコはここで、ボードの前からテーブルへと戻ってくると、テツオの前に腰を下ろした。

「私が思うに・・、おそらく主に“無気力”といった形で、絶滅が進んでいくのかもしれない・・。」

「・・“無気力”ですか?・・」

「そう、あまりにも簡単な表現かもしれないけれど、あえて一言で言うとしたらね・・。

  でも、ここで言う“無気力”とは、何も引きこもりとか、そういうことを言ってやしない。

  ここで言う人間の無気力とは、もっと人間の社会全体に言えることで、それが表に見える形で表れている例としては、たとえば、国民の過半数が選挙権を破棄しているため無政府状態みたいな政権を野放しにし続けているこの国の現状とか、上から言われたことしかしないような普通の社員や役人たちとか、およそそんな人間たちのことを言っていて、言われてみればむしろこれが大多数であるようにも思うけど、要は、自分で考えることもなく、それゆえ自分の意見も意思表示もないということ・・。

  私が何で“無気力”という表現にたどり着いたのかというと、これもまた物理の話になるけれど、ほら“慣性”っていう言葉があるでしょ。あれは別に“惰性”ともいうのよね。」

「・・つまり、無気力=惰性ということですか?」

「そう。私が思うに、意思や意志が失せたとしても、慣性の法則がある限り、慣性=惰性は残ると。」

「ということは、さっきの例では、選挙に行かないのは無関心=無気力だからで、上から言われたことしかしないような普通の組織人というのは、惰性でしか生きてないと-いうことでしょうか。」

  これから社会に出るテツオを前に、レイコは自分を不甲斐なく思うのか、口元を少しゆがめる。

「そう。もとOLで教師というサラリーマン経験のある私から見るところ、普通の組織人という生存形態をとる大多数のホモ・サピエンスは、かつての私自身を含めて、自由意思も意志もなく、惰性で生きているように思われる。当人たちはプライドあるから、それを否定するだろうけど、この国の選挙結果と政府と政治が、見てのとおり何よりの証拠だと私は思うよ。」

「ということは、サピエンスはやはり順調に絶滅への道を歩んでいると、先生も思われますか?」

「そうね。あんな原爆を作った上に実際に投下までして、人を含む無数の命を無差別に大量虐殺したのだし、その核兵器をその後も人間の権力社会に君臨させて、子供を犠牲にしてまでも核=原発を手放そうとはしないのだから。そんな種は因果応報の理どおり、許されるはずがないと私は思うよ。

  だけど神様としては、人間の相反知を弾き飛ばして、人間をもっと狂わせてしまった場合、人間は大戦争などまた何しでかすかわからないから、あえて無気力にしていくことで、人口減少みたいにして、徐々に人を減らしていくおつもりなのかも・・。

  でもね、テツオ君、そこはあなた達の言うとおり、絶滅は絶望ではなく、むしろ地球や宇宙が変化し続け生きている証といえるし、種の絶滅はその中ではいつでも起こり得ることなのよ。だからサピエンスが光の報いで絶滅しても、人類そのものが絶滅をするわけではなくて、この現生人類=ホモ・サピエンスから、また新たな人の種が分岐していくのじゃないのかな・・。

  というのは、さっきの話の続きで言うと、相反知や相対知が光=γ線で弾き飛ばされていくとしても、“絶対知”というものは永久にそのままだろうと思われるから。」

「・・“絶対知”ですか・・。」

「そう。これはすなわち“神の絶対知”と言ってもいい。『光知性原理』のとおり、光が担う知恵や知性がこの絶対知そのものなのよ。それが表にあらわれたのが、たとえば黄金比であったり、その黄金比を生み続け永遠に続いていくフィボナッチ数列であったり、またその黄金比とほぼ同じ値で永久に保存される電子の電気素量e=1.602×10のマイナス19乗Cであったりする-ということでしょうね・・。

  でも、そんなことより、神の絶対知というのは、これはもう“神の愛”という他はないのではないだろうかと私は思うよ・・・。

  だから、ホモ・サピエンスにとって代わる次なる人類の種というのは、今度こそこの神の愛に根差したような人たちに、なるのではないのかな・・・。

  もし本当にそうなれば、これこそが今私たちが存在して生きている究極の“私たち人間がこの核の世に生きる意味”だと、私も思うよ・・・。」

  テツオの前で目をふせながら、最後の方はかすれるようなか細い声でそう言い切ったレイコに対して、テツオは納得をしたように深々と頷いている。そして、その“神の愛”という言葉を前に、直感的にこれ以上の結論はないと悟った彼は、もはや聞くことも思いつかないといった感じで、テーブル上で組んだ手に頷く頭を垂れたまま、押し黙ってしまうのだった。

 

  喫茶室の古い大きな柱時計が、秒針を静かに波打たせていくかのように響かせながら、窓ガラスから差し込めるやわらかな橙色の光とともに、夕刻の到来を告げてくれているようだ。

  二人の座ったテーブルには、書籍や資料やボードのコピーが所狭しと置かれた他は、飲み干されたマグカップと、お皿の上にはホットケーキの残された一切れがあったのだが、テツオがそれを食べてしまうと、レイコもすべて納得をしたように、彼に優しく微笑みかける。

  そしてテツオは、ここであらためてレイコにお礼を言うのだった。

「先生、今まで本当に有難うございました。僕たちがここまでやって来られたのも、全て先生のお陰です。これでようやく、卒業に間に合うように、ブログも完結できそうですし・・。」

  だが、レイコは、やや恥ずかしそうにうつ向いたまま、手を振ってテツオに答える。

「いいえ。これらは全てあなた達が、自分で調べて考えて創造した仮説なのよ。私がやったことはと言えば、あなた達の仮説に対して、高校では履修しない量子論など既存の知識を援用してただ補わさせてもらったに過ぎないわけで、基本的な発想や着眼点は、全てあなた達のオリジナルであり成果といえる。本当にあなた達4人、よくぞここまでやったと思うよ。」

  と、想定以上に褒められてしまったテツオは、-では、評価のほどはどうなのかな-と、レイコに彼らの仮説について、その是非を問うてみる。

「先生・・、あのう、差し出がましいのかもしれませんけど・・、先生に助けてもらってここまで来れた僕たちのこの仮説って、先生は果たしてこれを‘正しい’ものと思われますか?」

  遠慮がちに聞くテツオに対して、レイコは腕組みやや考えたあと、言葉をつないだ。

「そうね・・。この仮説の是非については、従来の科学的な見地でいえば、何らかの実験により、例えば人の相対知や相反知をエネルギー量として検出できれば判断できそうな気もするけど、それは結局、人間がその相対知・相反知を、同じ相対知・相反知で見ようとするようなものになるから、おそらくはニワトリが先か卵が先かというような循環論に終始して、是非の別は分からないのではないのかな・・。

  でも、この“粒子と波の二面性”ということには、コペンハーゲン解釈のほか『多世界解釈』というのもあって、これも実験では検証できないようなものだし、だからあなた達のこの仮説も科学史的には、“解釈”の一つにはなるだろうと私は思うよ。

  だけど、そんな学説的な評価よりも、実際にヒロシマナガサキのあの地獄を経たこの国で、なおも3.11で核の被ばくの脅威に晒されているあなた達が、だれもが逃げるこの現実から逃げることなく、自ら考え調べあげて、こうして“核の世に生きる意味”を追求し、自分たちの言葉でもって表現したということ自体に、私は本当の価値があると思っているし、これであなた達に続いていく子供たち若者たちも、大いに励まされるのではないのかな。

  だから、あなた達4人は、自分を大いに誇るべきだと、私は思うよ。」

  さっきとは打って変わって、力強くしめられたそのレイコの言葉に、テツオは思わず頭を下げる。

 

  そしてレイコは、そんなテツオに、なおも優しく言葉をかける。

「テツオ君・・、私ね、あなたと過ごした今日のように、こうして自分の教え子と、いつかはガリレオみたいな“対話編”をやってみたいと、教師を目指したその頃から思っていて、今日はまさにその夢が現実にかなったのよね・・。

  教師やってて、現実には嫌なことも多かったし、私もとても責任を果たしたとはいえなかった・・。だけど、こうしてあなた達と出会えたことで、私は本当に救われたのよ・・・。

  だから、テツオ君、今日は本当にありがとう。あなたもユリコも無事に就職できそうだし、あとはヨシノとキンゴが何とか合格してくれれば・・、そしてだれもが、徴兵制の毒牙から逃れることができたのなら、私はもう思い残すことなんて・・・、」

  レイコの声が、ここでふと涙声に転じたのに気づいたテツオは、思わずハッと顔を上げると、彼女が素早く指先で目をぬぐうのを見て取ったのだが、レイコはすぐに笑顔をつくると、テツオに一言そえるのだった。

「テツオ君、これで、ブログは完成できそう? ・・何かその他、ご質問などがあれば・・?」

「いえ、これでもう大丈夫です。先生、今まで本当に有難うございました。」

  テツオもようやく笑顔になってきたのを見てとって、レイコは安心したように微笑むと、最後のボードのコピーを取って彼に手渡し、結局予備のテープまで使いつくして二人の対話を録音してきたウォークマンを、ここでストップさせるのだった。

  テツオは、ホワイトボードを対角線に沿うように消していくレイコの後姿を見つめながら、その白いブラウスが、立ったままで張りつめていた肩から背中のラインにかけて、光沢を放ちつつ、今やもとの白さへと戻っていくボードのそれと対になり、沈みゆく夕暮れのなか、喫茶室のまどろむような明りを受けて、ほどよい感じのアイボリーのやわらかさを、かもし出してゆくのを感じる。

  そしてレイコは、カウンター席にかけていた藤色のロングカーデを肩にはおると、肩までかかった黒髪を波打たせては振り返り、彼に声をかけるのだった。

「テツオ・・君、じゃあ、二人で家に帰りましょうか・・・。

いや・・、あなたの家って、ここだったよね・・。」

  しかし、テツオは、ここで素早くレイコのカバンを手に取って、持ち上げては彼女に示す。

「先生、ご自宅まで、僕が先生のお荷物もって、お送りします。

  喫茶室の後片付けは、あとで僕がやっときますので・・。」

 

 

  島の木造校舎から、教会裏へと続いている防風林の並びを越えて、レイコの家までそう遠くはないのだが、人が踏みつけ通った野道に、今や月の白い光がかがりはじめて、二人が並んで歩いていく影姿を、古いモノクロ写真のように引き伸ばすなか、防風林や野道の影から季節はずれの鈴虫たちが、二人が歩いて刻んでいく地面の音に装飾をするかのように、涼しい響きを添えているのが聞こえてくる。

  テツオにはこの月の白い光が、何だかとても明るくて、眩しいくらいに感じられる。

  そして彼は道すがら、時より荷物を持ち直しつつ、レイコのフレアスカートと、ベイジュのタイツ、それとロウヒールで通し続けた彼女の二本の足もとへと、自然に目線を向けてしまうが、こうするうちにも近づいてくる今日の二人の別れの時を、できるだけ後の方へと引き伸ばしたく思うのだった。

  曲がり道へと差しかかり、レイコの家が防風林の途切れる影より見えはじめたころ、テツオは今日の二人の対話を受けてか、またこんな事を質問してみる。

「先生。先生は、僕たち人間なる生物が、どうしてこの世に存在すると、思われますか?

  言いかえれば、神はなぜ、命や自然あるいは宇宙というようなその創造物に、ことごとく相反的になるような人間という生き物を、あえて創造したのでしょうか? 先生はそこのところを、どのように思われますか?」

  テツオは自分で発したその問いに、やや唐突な感じもしたのだが、レイコは意外な様子も見せず、そのまま「う~ん・・」と息を巡らせ、はおったカーデを押さえていた手で腕を組み、歩調を大きくゆるめながら、彼の問いを考えはじめる。

  テツオは、これでまだもう少しレイコと一緒にいれるのかもと、やや期待値も上がるのだが、レイコもまた同じ問いを思っていたのか、そう間を置かずにロウヒール・パンプスのその歩みをゆっくりと進めながら、彼に答えるようである。

「・・月並みな考えなのかもしれないけれど、神はあえて、創造主たる自分自身を、自分以外の他のものから意識させようとしたのかしらね・・。自分が創造したものに、あえて自分を認識させる・・? でもそれに、どんな意味があるのかな・・?

それに、人間ではなく光が知恵の源ならば、その人間に自分を意識させるという必要もないような気もするよね。だって、人間以外の他の生き物だって、同じように意識をしているのだし・・。」

  つぎつぎと独り言を続けるレイコに、テツオも自分が何だかよくわからないまま発した問いを、どうしたらよいものかと彼女の顔を覗き込もうとしたところで、レイコは目前の宙に大きく浮かんだ丸い月を見つめながら、つぶやくように言葉をつなげる。

「・・ひょっとすると、神はあえて私たち人間を、その相反性ゆえにこそ創造したのかもしれない・・。つまり、全知全能たる神にとっては、人間が禁じられた善悪を知る知恵の実を食べることは想定済みで、あえてその人間を、神のすべての創造物=生きとし生けるあらゆる命あるものへと相反的にすることにより、自然界の循環では生成されない物質を、人間に作らせようとしたのではないのかな・・。

  あなたが以前に指し示した元素の周期表にしてみても、その最後の方には人が作った放射性元素などの人工元素が並んでいたりするじゃない。」

「ということは、そんな自然の循環では生成されない人工元素や、自然では分解できないいわゆる汚染物質を、あえて人間が環境に出すこと自体に、何らかの意味がある-ということでしょうか?

  でもそれなら、あまりにも、“それを言っちゃあ、お仕舞ェよ”って、感じしません?」

「うん・・。短期的にはたしかにそう見えるけど、でも、非常に超長期な神様的な視点で見ると、この地球にしたっていつかは爆発して塵になったり、太陽に飲み込まれたりするわけじゃない。

  そういう時になってはじめて、この人間が世に出した人工元素や分解されない汚染物が、太陽系か銀河系かわからないけど、宇宙のためには何らかの役に立つ日が来るのではないのかな・・。」

  テツオは、こんな途方もない問いではあったが、おかげでレイコと一緒にいれる時間はたしかに少しは延びたようで、彼としてはこれが問いの成果でもあるようだった。

だが、レイコはここで歩みをとどめると、今度は彼女の方からも、何かテツオに聞きたいことがあるような素振りを見せる。

 

 

  気がつけば、二人はすでにレイコの自宅、その竹の垣根に差しかかっている菩提樹が、後方より月の白い光を受けて、その大きな影を二人が立つ地に映している所まで、歩を運んでいたのだった。

  同じように歩みを止めたテツオの前を、レイコはここで一歩先んじ、彼の方へと振り返る。

  レイコはテツオと向き合いながら、微笑んではいるようだったが、月が雲へと隠されて、その表情はよく見えなくなっていく。

  海風が一瞬やんで、さっきまで響いていた鈴虫たちの鳴き声も、すでに途絶えたかのようだ。

  二人のあたり一面が静寂につつまれて、近づきつつある冬の気配も、衣服をとおして肌へと直にしみわたってきそうな感じさえする。

  そしてレイコは、彼女の次なる声を待つテツオを前に、肩にはおったロングカーデを少し正すと、右手の肘を左手でそっとつかんで、アルトの声も物静かに、彼に向かって話しかける。

「テツオ君・・、そういえば、あなた達が言う新人類って、確かホモ・ニアイカナンレンシスっていう名前だったと思うのだけど、その名前の由来を、もしよろしければ聞かせてもらっていいかしら・・?」

  言葉の末尾で、小首をやや傾けるレイコの仕草が、女性らしく、また愛らしく感じられた。

  テツオは、-ああ、そんなことか・・-と、固まっていた自分の身もほどけていく思いがしたが、彼がこのニアイカナンレンシスという名前は、ヨシノとユリコとキンゴによる、ニライカナイと嘉南島とネアンデルタレンシスの合成語であることを話した後で、テツオはふと、-では果たしてこの“ニアイ”を、レイコさんにどう説明すればいいのだろうか・・-と、戸惑いを覚えてしまう。

  -なぜならこれは、僕自身のカミングアウトを、レイコさんに思わせるものになるのかも・・-

  しかし、ここで中途半端にやり過ごすのも不誠実かと思われるので、テツオはもうここは素直に彼の思いのそのままを、レイコに伝えることにした。

「先生、あとこの“ニアイ”というのは、僕の発案なんですけど・・、それはこの国の伝統色“二藍”から取ったものです。

  先生から貸して頂きましたあの着物と袴も、おそらく同じ“二藍”ですよね。」

「そうよ! そう、そう。テツオ君、あなたさすがによく知ってるわね!」

  まるで周囲に合わせたように静かだったレイコの声が、再び明るさを取り戻したのに励まされたような気がして、テツオは躊躇していたことも、そのまま話すことにした。

「この“二藍”とは、藍(青)と紅花(赤)の二つの色を合わせたもので、そのグラデーションは実にさまざま、色移ろいの多様さと美しさは、まさに花をも思わせます。

  それで、僕は・・、この二藍のこういう所に、男と女、雄と雌の二つの性を、なぞらえたいと思ったのです。

  僕たち4人も僕自身も、生物に“性”があるのは、ただ遺伝子の交換によるその多様性をはかるためだけではなくて、性はあらゆる生きとし生けるもの同士をつなぐ“光”のセンサーなのだろうと思うのです。つまり、生物の生存と進化というのは、個体や種の各々がそれぞれ勝手に起こすのではなく、生きとし生けるもの同士を、種を超えて互いに共存させるような、それこそ黄金比のような比率があって、並行して起こされていくものだろうと思うのです。

  それをうながし調整するのが“光”であり、僕はこれもまた『光知性原理』のあらわれの一つだろうと思います。

  “性”はその“光”のセンサーなのであり、光が七色といわれるように、性もまた七色みたいに多様であるのが、本来の自然の姿ではないのでしょうか・・。」

  テツオはここで念のため、レイコの目を見て、このまま彼の思うがままを言っていいものなのだろうかと探ろうとするのだが、月が隠れて薄暗いなか、その目はよくは見えないものの、テツオのままの発言を求めている気配がして、彼は続けることにする。

「僕は先生の着物と袴が、二藍の異なる配色であるのを見て、この二藍という色合いには、藍と紅、青と赤との間にも、実に多様なうつろいがあるのを知って、人間の男と女も、人の相対知・相反知により明白に区分され、またその“性=SEX”の語源のようにはっきりと分けられて、相反的に性で差別されるのは自然でないと思うのです。

  そして今の僕にはなおいっそう、このホモ・サピエンス特有の“相反性”のあらわれである人間の男と女の性差別こそ、あらゆる差別と暴力の根源だと思われるのです。

  僕は、ホモ・サピエンスから分岐させる新しい人類こそは、サピエンス特有のこのゆがんだ性差別=性倒錯のない、つまり、もう差別のない、男女の性にもこだわらない、あらゆる生きとし生けるものが互いに素直に愛し合えるようになれればいいと、そう願ってこの“二藍”を“ニアイ”として、新しい人類をホモ・ニアイカナンレンシスと名付けました。

  僕自身は生物的には雄ですけど、人間以外の他の生物たちがおそらく思っているように、僕は精神と愛においては、雌雄の別にはあまりこだわる必要はないと思っています。それに、花の多くは雌雄同体・・。そしてこの“花”こそは、神の愛と美の権化なのではないでしょうか・・。

  僕自身のこの心も、この二藍のうつろいみたいに、いつも男女の性のゆらぎのなかにあると思っていますし・・、僕はそんな自分がとても好きだし、自分を深く愛していると思います・・。  

  僕は・・、僕は最近こうも思うのです。僕たちLGBTって・・、レズは女性が女性を愛し、ゲイは男が男を愛し、バイセクシャルはそのどちらも愛し、そして僕のようなトランスジェンダーは・・、異性の自分を、自分の異性を愛するように、みんな自分の心の、心の愛を知っています。愛のない―いじめや差別や戦争がまったく絶えないこの人の世で、愛を知っているってことは、それだけでもすごいことで・・、これはキリスト教的にいうならば、“神に祝福されている”ことなんじゃないでしょうか・・・。

  また、僕たちLGBTは、真剣に自分自身に、自分の“性”に向き合っているからこそ、自分がLGBTであることを自覚できると思うのです。この“性”という漢字というのは、“心が生きる”と書きますよね・・。まさに僕たち、心が生きているんですよ・・。昔の人の発想ってすごいなあと思います。

  それに自分の心に真剣に向き合うのって、これってまさに“禅”なのではないでしょうか。だから僕たちLGBTって、キリスト教でも仏教でも、本当は決して排撃される対象ではなく、その中に深く内包されるものなのではないでしょうか・・・。

  そして・・、これは言っていいのかどうかは分かりませんけど・・、僕は先生、レイコさんも、同じような意味合いですけど・・、僕自身の心から、心から愛していると思います・・・。」

  テツオは最後はうつむいたまま、ついにここまで言ってしまった自分自身に、驚きさえ感じていた。

 

  雲に隠れていた月が、今や紺碧の夜空のもとに再びあらわれ、その白くまばゆく輝く光が菩提樹の影をこえて、二人がたたずむ立ち姿まで差しかかってこようとするのを、テツオはそのうつむいた目線のまま捉えはじめる。

  いっそうの静寂が、海風の音さえも及ぼさずに辺り一面を覆い隠して、無音の空間にただひとり残されてしまったテツオは、長かった孤独の余韻が、また一瞬、彼の記憶の扉を開けて、その脳裏をよぎっていくような気がした。

 

 

  テツオは孤独に反駁するように、そして何かに引かれるように、ここでレイコの眼差しを確かめようと目線を上げる。そこには、彼にとっては月の丸さと相似をなしているかのような、大きくはっきり見開かれたレイコの黒い目があった。その真剣な眼差しは、彼の話を一心に聞いていたのを言葉以上に雄弁に物語っているようだ。

  テツオは、レイコの目があまりにも真剣なので、かえって自分が何かヘンなことを言ったのか、あるいはヘンな感じでレイコに伝わってしまったのかと、不安にさえもなってくる。しかし、レイコの目はやがて、彼が言った二藍のグラデーションを見るみたいに、真剣さや鋭さから、期待と喜び、また愁いと悲しみ、そしてついには愛情と希望とが、それぞれ互いに入り混じっては移り変わっていくようで、つづいて堰を切ったかのように彼女の目には涙があふれて、その滴は月の光を水晶みたいに映していくようにも見えた。

  そしてレイコは、今までの対話のような口調とは異なって、弱々しくか細くなった涙声を震わせながら、テツオにこう言ったのだった。

「・・こんなに心のやさしい子に、育ってくれていたなんて・・・。」

 

  次の瞬間、テツオはレイコに抱かれていた。

  その涙声とは対照的に、レイコが引き寄せ抱きしめる腕の力は、とても強く感じられた。

  テツオは一瞬、何が起こったのかがわからなかった。そして彼が発したさっきの言葉を、今一度顧みようとする間も与えず、レイコの細い二本の腕は、なおも彼の背中と胴体を強く広く抱きしめて、はおっただけのロングカーデのその下で型をとどめる二つの胸のふくらみも、その温もりもいっしょになって、彼の胸を押しつけるまま息苦しいほど圧してくる。

  テツオはレイコに抱かれるままに、彼女の頭部と髪の毛とが、右の頬いっぱいに触れていくのを覚えながらも、目を開ければ、藍色の夜空には、たなびく雲の狭間から、月の光が映えるのが見え、やがて彼はどこからともなく花の匂いがただようのを感じはじめる。

  そしてこの時、テツオはようやく悟るのだった。レイコの彼を抱く様は、いわゆる男女のそれではないことを・・、また、親子のそれでもないことも・・、彼はようやく悟るのだった。

  それはおそらく、“愛”そのもので、言ってみれば、愛の具体化、具現化としか言いようのないものであり、おそらく愛というのは必然的に、もとよりそれ自身が何かを生み出し、何かを形として表し、また現れてくるものなのだ-と、テツオはレイコに抱かれながらも思いはじめる。

  彼の右手は荷物がふさいでいるのだが、-ここで抱かれるまま手ぶらでいるのは、何だか申し訳ないし、かといって、自分にとっては先生で、また‘永遠の女性’であるかもしれないこの人に、やすやすと手を触れるのも・・-と、迷いはじめていた頃に、その藤色のロングカーデがはおった肩から落ちそうなのを、自然に手を添え引き上げようとするままに、テツオはレイコの背と肩へと左手をあてがっていくのだった。

  -ああ、こうしてついに、レイコさんと抱き合うことができたなんて・・・-

  しかし、レイコはテツオを抱いた左手で、彼の髪と後頭部を押さえたまま、彼女の波打つ黒髪に沈めていくかのようにして、彼をさらに強い力で抱きしめていく。今やレイコの胸の鼓動と血の脈打つ音とが、彼自身のと縒り合わされ、二人でともに一つの定常波を奏でるように、互いに抱き合うその身のなかで、互いへの想いと想いが波打ちながらも織り成されていくかにみえる。

  やがてテツオの耳奥には、レイコの深い息づかいが届けられ、それと同じくして彼は彼女のその襟元より、あたり一面咲き出るような花の匂いを嗅ぐのだった。・・・バラのような、ハスみたいな、スイセンにも似た花の香りがするのだけれど・・・、そうか、この匂いだったのか・・・。

  ・・自分が今まで封じ込めた記憶の底から、花の香というほとんど最後の接点により、僕は自分にとっての愛の源-それは僕が、こんな世の中においてさえも、今まで決して捨て去ることができなかった、“それでも人を愛していたい”という強い思いの源-が、暗闇でも月の光を受けながら水辺に咲き出るハスのように、僕の心の奥底で消えない光を放ちながら、ずっと花弁を咲かせていたのを、僕はこの時はっきりと知ったのだった・・・。

 

 

  テツオがそう思いはじめた時、レイコの身はテツオから離されていく。テツオは今や真実を求めるように、離れていくレイコの目を追おうとする。

  黒い、星のように輝いているレイコの目・・。愛おしさと慈しみ、そして悲しみをも湛えたその目は、テツオを見つめてもう一度、大粒の涙を流すと、そのまま閉じられ、彼女は彼の右手より自分の荷物を受け取ると、すばやくその身をひるがえし、足早に菩提樹の影のなかへと駆けていき、垣根むこうの自宅の扉を開けると、吸い込まれていくように入っていった。

  テツオは今の立ち位置で、月明かりのもとに一人残され、たたずんだままでいる。

  レイコの家の明りは灯らず、彼女が扉を閉めた音は、いまだ闇夜のなかをこだましあっているのだろうか・・。しかし、やがてすべては完全に、静かになった・・。

  月の大きな丸い光が、濃い藍色の深い夜空に、淡いぼかしを白々と滲ませていくのが見える。

 

  テツオも意を決したかのように、ここでその身をひるがえすと、一目散に木造校舎の自室に向かって駆けていく。近づきつつある冬の冷気を含んだ風が、今や向かい風となり、走りゆく彼の身に抵抗を試みるのか、衣服のなかでも荒々しく渦巻くようだ。途絶えていた虫の音も、彼の思いを掻き立てていくかのように、再び盛んにその響きを鳴らしつづける。

  彼の目にも涙がやどって、駆けゆくためか、それとも風に吹かれるためか、その涙は頬づたいに耳が隠れた髪へとつらなり、星が闇夜を横切るように、ひとすじの光の線を引いていった・・。

 

  木造校舎の自室へと戻ったテツオは、レイコに抱かれたトップスのシャツ-これはこのまま永久保存することにして-、それを着たまま、ボトムズをフレアシカートにはき替えて、頭にやや長めミーディアムのウィッグをつけ、チークとリップを仮り塗りすると、レイコと同じくメガネをかける。

  そしてその後に、彼はいつもの二枚合わせ鏡のなかを、おそるおそる覗き込んでみたのだった。

  -・・似ている・・。裸眼の時はわからなかったが、こうしてメガネをかけてみると、二人のその眼差しは、たしかに似ている・・・-

  テツオは鏡台前に座ったまま、鏡のなかのテツコを見つめて、今まで意識の奥底に鎮めていたその思いを、顧みようとするのだった。

  -・・もし、時々夢に出てきたように、自分に血のつながった姉が本当にいたとするのなら、それは母から一人っ子と言われ続けた自分が生まれるその前に、父が別の女性との間にもうけた人に違いなく、その人が旧姓で母方の姓を名乗っていれば、当然父の姓とは別になる。

  たしかに自分は父が四十を過ぎてからの子で、今の父の年齢を考えると、親子ほど年齢差のある異母姉弟はあり得ないことではない。

  だが、そんな話は母はもちろん父からも全く聞いたことはなく、それに、メガネをかけた眼差しが似ているとはいえ、他のパーツは今こうして女装をしてみても、似ているとは思えない。

  自分が時おり見た夢でさえ、夢のなかで憧れの女性を登場させて、夢のなかで考えながら、自分にとっては都合のよい物語を作っていたとも言えるのだ。もしレイコさんが本当に自分の姉だとするのなら、おそらくはシングルマザーか継父と育てられたかというような生い立ちを持つのだろうが、それがあの人にとって果たして都合のよいものなのか・・・-

  テツオは鏡のテツコを見つめつつ、さっきまで走っていた余韻もあるのか、矢継ぎ早に今まで思っていたことを頭のなかで巡らせていくのだが、しかし、やはりいつものように、ここまで来てもどうしても納得できないある疑問が残るのだった。

  -・・それに、何より解せないのは、もし本当に実の姉だとするのなら、幼児であった自分と違って記憶は鮮明にあるはずだし、名前も知っているのだから、レイコさんから自分に告げてくれたとしても、何の不都合もないはずなのに、それがない・・。レイコさんの性格からして、そんな大事なことを黙ったままやり過ごすようなことは考えられず、また、忘れ形見のような物的証拠というのもない。

  そうだ・・。ならば、なぜ、あの人は、自分に対して沈黙をし続けるのか・・? その沈黙は、何に対する沈黙なのか・・? その沈黙に、いったい何の意味があるというのか・・?-

  やはりテツオは、テツコの目を現に見て反芻しつつも、いつもの落とし所へと着くようだ。

  -・・このように、レイコさんが実姉という推定は、彼女にとっても、また父にとっても不都合ともなり得るような物語が生じるわけで、卒業間近の自分にとっては、あまり考えたいこととはいえない。

それよりも、別に血縁でなくてもいいから、レイコさんとは今までの付き合いが、国外だろうが国内だろうがこれからも続いていけば、自分はそれで充分なのだ。

  だから、時おり夢で見るような、もし自分の幼児期に姉のような女の人がいたとしても、祖父母の家に時々来ていた親戚なのかもしれないし、レイコさんを姉とするのは、やはり自分の憧れの投影に過ぎないもの-と言えそうだ・・・-

 

  文書が得意なキンゴと違って、テツオは自信がないものの、レイコの声もコピーとも残されたので、それをもとに文字起こしをするだけでも何とか様になったのだった。

  それで彼は出来上がった文章をブログにアップする前に、『光知性原理』のアイデアに敬意を表して、まずはユリコに読んでもらうことにした。

「へええ、今までのキンゴの文章とは違って、この章だけは対話編になったのね。」

  ユリコはそれでも嬉しそうに、テツオの文書を読み込んでいる。

「うん。俺、文章を書くのって、あまり得意でないからさ、レイコさんとの対話の録音をほとんどそのまま文書起こしに使ったんだよ。でも、これで一応、卒業までにブログは完成したってことで・・。」

  しかしユリコは、ブログ成就の功労者にもかかわらず、あまりその理論的内容にはこだわっていないようで、彼女の主な関心は、もっぱらテツオがレイコとどれだけ向き合ったかということにあるようだった。

「テツオ・・、それでレイコさんは、この対話編以外にも、何か言ってた??」

「う~ん・・、いや、特にほかには・・。」

  しかし、テツオは、手作りのホットケーキを食べさせてもらったこととか、そのお礼といっては何だけど、自分はカフェオレをつくって入れてあげたとか、そんなたわいのない話を、とりあえずこの場ではユリコに話しておいたところ、ユリコはそっと微笑んで、

「そう・・。それはよかった・・。」

  と、幸せそうにつぶやいた。

  それでテツオは、ユリコの他にはあともう一人、ブログの当の主筆であったキンゴにも、ブログ成就の知らせとともに、終章たるこの対話編を見せてみる。

  テツオは、受験準備も終盤戦となってくるなか、追い込み厳しく消耗はげしいキンゴを気遣い、彼が比較的機嫌よさげな、それこそ模試の翌日などの、時より憂さ晴らしでかつてのように大音響のワァグナーを鳴らしている時、教会の彼の所へその文章を持っていく。

「すっげえ! すげえよ、これは! この量子論の“粒子と波の二面性”も“量子もつれ”の問題も、今までだれも解けなかった物理学の大きな謎とされてただけに、科学者でも何でもないフツーの高校生の僕らがさ、核の世に棄民されても怨念深く執念深くも諦めず、その核を放ち悪用した科学者たちが分からなかったこの“神が人に与えたもうた究極の謎”なるものを、解釈とはいえ一定の説明を与えたなんて。しかもそれが、光と核に依存する人間の知恵に対する究極の因果応報でもあっただなんて。

  こいつぁホントに、アホなホモ・サピエンスに対する僕ら次世代からの意趣返し。究極の“ざまあみろ”って感じだよな!」

  キンゴは文書を読み終えるや、テンション高くパンパンとその紙面をたたきつつ、自ら手掛けたブログの成就を祝っているかのようである。

  そして彼は、ややニンマリとしながらも、テツオに小声で尋ねてくる。

「テツオ・・、この文章って、パクってもいい・・?」

「パクるも何も、もとよりお前が主筆のブログだからさ、文体を修正するなど自由にして、ブログにアップさせればいいよ。」

「いや、僕が言っているのはさ、ブログはこれで完結でいいんだけれど・・、実はもう一つあるのであって・・。」

  と、例のごとく意味深な眼差しを、キンゴはテツオに向けてくる。

「もう一つって、何のことだよ?」

「・・いや、これは二次試験が無事に終わって、心身ともに落ち着いてから話した方がいいだろう・・。あ、テツオ、むしろそんなことよりも、君が言ってたテープの話って何なんだよ?」

  テツオはキンゴが秘めようとする話を無理に聞くのは、経験上ややこしくなるだけだからと、ここは彼が興味を示している、持参したカセットテープの話へと移っていくことにした。

「・・実はさ、この文章は、僕とレイコさんとの録音を文書起こししたものだけど、最後の録音が途切れた所で、前に録音したと思われる曲の一部が残っていてさ、俺はこの曲名が知りたくて、音楽に詳しいお前に聞いてみようと、その該当箇所だけ別にダビングして持ってきたのさ。」

「ああ、それって二重ダビングでよくある話だ。じゃあ、この教会のステレオで聞いてみようか。」

  と、彼はここで鳴らしていたワァグナー-彼によれば、模擬試験で今までずっと合格率D判定だったのがやっとC判定になったので、今回は威勢よく『ニュールンベルグマイスタージンガー前奏曲』を選曲したとのこと-を、ようやく止めると、テツオ持参のカセットテープをデッキにかける。

  それは数分たらずの短い曲で、キンゴは巻き戻しては繰り返し耳を澄ませて聞いている。

「テツオ・・。この曲は、自称グロッサー・ワグネリアンでクラッシックオタクの僕が分析をするにはだ、オーケストレーションからし交響曲みたいな大曲の一部分だが、どうやら主要な主題はこの録音に残されているようであり、しかもこれは曲の終わりの方じゃないかな・・。」

「・・ということは、お前の好きなワァグナーではないってことか?」

「そう。だけど、明らかにワァグナーの影響は見てとれる。それに、曲調からして、ロシア、フランス、フィンランドのものではない。ということはこの段階でも作曲家はかなり的が絞られるから、検索するのは困難ではないと思う。テツオ、このテープ、しばらく僕が借りてていいか?」

  ここは知ったかぶりの様子もなく、模試とは異なり自信満々に答えるキンゴに、テツオは何やら幸先のよいものを感じる思いがするのだった。

「もちろんだよ。曲名は二次試験が終わってからでいいからさ、くれぐれも受験の方を頑張ってな。」

  

  こうして、ユリコとキンゴに見てもらい承認を得たとのことで、テツオはレイコとのこの対話篇を最終章にアップさせ、これで彼らの革命と独立を理論的に支えてきた島のブログは完成した。

  テツオはこれでようやく肩の荷が下りた気がして、慣れないパソコンでの文書起こしのせいなのか、農作業とはまた別の意味での疲労からも解放されて、久方ぶりに心配事も憂いもなく、ぐっすりと眠れそうな夜をむかえた。

  そこで彼は、自分の身も心もやすらかに優しくすべく、風呂上りに久しぶりにほんのちょっぴりメイクをほどこし、月と同じく淡い白地の女ものの浴衣をまとって、レイコが録音テープに残していたあの曲を聴きながら、この夜の床についたのだった。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 

「ワアアアッツ!!」

「テツオ! テツオッ!! なにッ? いったい、どうしたのっ?! 

えっつ・・、うなされたのはまた夢のせいって? ああ、もう、びっくりしちゃったぁ・・」

「ウン・・。何だかね、寝ていたら天井から幽霊のようなものが降りてきて、ボクの口へと入った気がして・・」

「それで、こんなに汗ビッショリなの・・。これ、オネショじゃないよね、汗だよね。」

「姉さん、なにもそんなに嗅がなくても・・。オネショは最近してないし・・。」

「とにかく全部脱ぎなさいって。 ・・え? 男の子が若い女の目の前で恥ずかしい??

  あんたまだ子供なのに何言ってんの。おじいちゃんと昼ドラばかり見てたからこうなるのよ。

  だからテレビはもうやめなさいって言ってるのに・・。せっかくお庭と畑があるのだから、テレビよりも、花や草や虫たちを観察した方がいいと思うよ。

  それとテツオ、あなた、この下着って、いつもの穴まで開いてるお古じゃないの。私がこの前買ってあげたオーガニックの下着はいったい、どうしたのよ?」

「・・いや、あれは何だか、値段も高いし、もったえないような気がして・・。」

「仕舞い込んだままだって? 肌に当たる着物はね、オーガニックじゃないとダメって言ったでしょう。お着物は置物じゃないんだから、着てないなんて聞いてないから。」

「姉さん、それってシャレを言ってるの?」

「この子ったら、人の話はよく聞いてるし、笑いのツボもはずさない。きっと頭のいい子なんだわ。

  テツオ、オーガニックのにちゃんと着替えた? そう、パジャマもね。よく似合うじゃないの。

  本当なら、食事も全部オーガニックにしたいのだけど、ここは祖父母の家だしね・・。

  それと、これからは私が毎日洗濯をしてあげるから、汗をかいたり汚れたりしたものは、きちんと風呂場に出しとくのよ。」

「姉さん・・。ごめんね。いつも夜中に起こしたり、毎日洗濯させたりしてさ・・。」

「いいのよ。一人分も二人分も洗濯の手間はいっしょだし。これでもう幼稚園の他の子なんかにクサイだなんて言わせないから・・。」

「姉さん、ボクのせいで、会社のお仕事、眠くなったり、頭ボーッとしたりしてない?」 

「会社の仕事? 会社の仕事なんてのはね、みんな我欲や保身や惰性やらでやっているから、目覚めてなくてもできるのよ。あなたはそんな心配をしなくていいの。」

  しかし、テツオは、幽霊のことよりも不安にかられる思いがあった。

「姉さん、ボク、姉さんの迷惑じゃない? ボクがやっかいかけてることで、姉さん、会社を早く帰ったりしてみんなに悪口言われたり、辛い思いをしてんじゃないの?」

  小声ながらもテツオがその意を決して尋ねてきたと感じたレイコは、服をたたんでいた手を休めて、彼の前にしゃがみ込むと、その小さな肩に手を添えつつ、彼の目を見つめながら、アルトの声をより低めて語って聞かせようとする。

「テツオ・・。あなたはまだわからないでしょうけど、会社なんてそんな大した所じゃないのよ。会社なんて所はね、一言でいうとするなら、それは“愛”のない所といえる。

  テツオ、私はあなたと出会えたことで、初めて人を愛しているのよ。私のような人間でも、こうして人を愛することができるんだって、私はあなたに学んでいるのよ。あなたはね、私にとっては“エンジェル”なのよ。」

  迷惑どころか天使と言われて、テツオは嬉し恥ずかしで、ついその口を滑らせる。

「姉さん、そのセリフって、彼氏のために取っておくセリフじゃないの?」

  つぶらな瞳を輝かせて、そんなことを言うテツオに、レイコは思わず吹いてしまう。

「テツオ、彼氏なんてね、そんな大したものじゃないし、今のセリフを言う価値のある彼氏なんてまずいないわよ。だからもう、昼ドラ見るのはやめなさい。

  さあ、もう寝ましょう。幽霊が怖ければ、私の所で寝てもいいよ。」

 

  こうしてテツオは、安堵感を覚えながらも、レイコにまた添い寝をしてもらうのだが、それでもやはり幽霊に襲われる不安があるのか、なかなか眠れそうもないのだった。

「・・テツオ・・。どうしたの、眠れないの・・? いつものピアノの子守唄、鼻歌してあげようか。」

「ウン・・。姉さん・・、ボクといっしょじゃ、姉さんまでも眠れない?」

「眠れそうもない時はね、無理して眠ることはないのよ。図鑑で見たヨザルのように、夜中に起きてる生き物なんていくらでもいるんだから。

  じゃあ、テツオ、今から私といっしょにさ、月を見ようよ。ね! 今日、満月だし。」

  と、レイコは布団から起き上がると、部屋の障子を左右に開き、一人窓辺の傍らに立ち、紺碧の夜空の月を眺めはじめる。

  二人のいる部屋のなかには、月の煌々たる光が差し込み、それがレイコの白地浴衣の後姿を、また白磁器のように美しく照らし出していくのだった。

  幼児のテツオは、後ろの布団に座ったまま、幼児とはいえ、そのIラインに見とれていく。

  -いや、そればかりでない。僕は後年、黄金比φに目覚めるのをここで予告されたのか、そのφの文字どおり、Iラインの真ん中の豊かなまるい膨らみとも運命的に出会ったのだ・・-

「・・姉さん・・、本当に綺麗だね・・。」

「そうね・・。私も本当に綺麗だと・・、美しいって思うわよ・・。」

  レイコは窓から宙を見上げるままに、独り言のようにつぶやく。

「姉さん、自分でもそう思うの? 鏡を見てもそう思うの?」

「鏡? 鏡で見ても、円いものは円いから、美しさも綺麗さも、変わらないと思うけど・・。」

「姉さん、美しいもの綺麗なものは、自分でもそう思っていて、いいんだね?」

「もちろんよ。あなたが自分で見て美しいと思うものは、みんなが見ても同じように美しいだろうから。

  テツオ、そんな布団のなかにいないで、こっちへ来ていっしょに見ましょう。」

 

  テツオが起きて窓辺まで歩いていくと、レイコはいつも彼に何かを見せたい時にやるように、その真横にしゃがみ込むと、小さな肩を支えつつ、頬と頬とがくっつき合うほど顔を寄せて、同じ高さの目線で見ながら、そして同時に彼の目を覗きながら、話しかけてくるのだった。

「テツオ。ね、目の前に、大きな大きな円い月が見えるでしょう。あれを満月っていうのだけど、夜とはいえ、この月の光の明るさで、外はすっかり青みがかって、まるで海のなかにいるみたいね。」

「でも、姉さん。月って、どうしてこんなに光っているの?」

「月が光っているのはね、私たちの住んでる地球が光っているのを反射しているかららしいよ。」

「じゃあ、地球も月と同じように、銀色に光っているの?」

「いいえ。図鑑の写真や、実際に見た人の話によれば、地球は青く光っているということよ。」

「じゃあ、月はこうして銀色に光っているのに、どうして地球は青色に光っているの?」

「それは多分、月とは違って地球には、海と空気があるからじゃないかしらね。」

「じゃあ、そもそも地球はどうして光るの?」

「それも多分、月とは違って地球には、私たちみたいな生き物や、あなたが見ている花や草や虫たちなどの・・つまり、命や生命が、あるからじゃないかしらね・・。」

「じゃあ、その命って、どうして光るの?」

「それは私には分からない。いえ、それどころか、他の多くの人たちだって分からないことだと思う。」

  テツオはレイコが答えられなくなったので、ここで目の前の月を見ながら、黙り込んでしまうのだが、レイコはそんなテツオを横に見ながら、思わず頬に口づけをするのだった。

「テツオ・・。あなたが今こうして“じゃあ、なぜ、どうして?”と私に質問をし続けてくれたように、人の答えに納得せず、自分で“じゃあ、なぜ?”と問い続けるのは、とても大事なことなのよ。

  もうじき、あなたも小学校に入るのだから、そこで文字を覚えれば、私が見せた図鑑の他にも、自分で思いつくままに何でも調べられるのよ。そしたら、あなたは自分で世界を知れる、宇宙を知れることになる・・なんて思えば、ワクワクするでしょ。」

「でもさ、知りもすぎると、ワクワクをこえ、かえって疲れやしないかな・・。それに姉さん、ボク、自分が不思議に思うことを幼稚園の先生に聞いてもさ、先生はかえってそんなボクのことを不思議に思うみたいなんだ。小学校でも、そうなるのかな・・。」

「じゃあ、そんな不思議な顔をされたら、家に帰って私に聞けば、いいと思うよ。

  あ、そうだ、テツオ。幼稚園で思い出したけど、今度の土曜日、私といっしょに大宰府を歩かない?」

大宰府って幼稚園のある所だけど、あんな混んでるのは嫌だって、姉さん、よく言ってたじゃない。」

「いや、それは天満宮の周辺で、あそこを離れた政庁通りにお寺があって、そこは割りと落ち着いた散歩コースよ。歩けば運動にもなるし、寝つきもよくなるかもしれないよ・・。」

 

  そして幼児のテツオは、レイコといっしょに大宰府天満宮から政庁通りへと散歩してくる。

「テツオ、このお寺は戒壇院といってね、昔むかし遠い昔に、中国から鑑真という偉いお坊さんがここまで来られて、この国にお釈迦様の教えを弘めていくために建てられた由緒あるお寺なのよ。」

  と、レイコはテツオといっしょに寺のなかを歩いているが、ここで彼女はある植樹を前にして立ち止まってしまうのだった。

「・・あれ、この木って菩提樹なんだ・・。しかも、鑑真和尚が持ってこられた、ブッダ由来の菩提樹と書いてあるわね・・。」

  しかし、テツオは、この老木を前にして感嘆の面持ちで立ちすくむレイコの姿を、また後から見つめながらも、彼も同じく感嘆の眼差しで、その後姿立ち姿にあらためて見入るのだった。

  -・・白地に赤と緑の花柄ドットが散りばめられたるワンピース。そのドットは立ち姿の中ほどで、逆さハートのまるいお尻の張りを受け、その点と点との距離感は相互に広がり、白い背筋と長い足とのIラインのもと、その球面の曲率を柔らかくも温かくも際立たせる・・。

  その時、幼児の僕は、ボキャ貧ながらも自分の思いを、どう表現したのだろうか・・-

「・・ね、姉さん、その着、着ているのって、何ていうの?」

「この木? この木はね、菩提樹っていうのだけど、菩薩をボーディーサットヴァというように、この菩提樹にもボーディーなにがしという名前があるのかもしれないね・・。」

「・・ね、ねえ、姉さん。そのボディーも、とても綺麗で美しいと、僕は思うよ・・。」

「へえ、あなたったら、けっこう“シブイ”美意識をもっているのね。」

「シ、シブイって、姉さん、いつか食べてた果物の実のことも、シブイシブイって言ってたよね・・。

 姉さん、そのシブイって、まるくっておいしそうなものに対して、使っていい言葉なの?」

「いや、この場合は、むしろいわゆる“わびさび”の美意識をさす言葉でもあるのかな・・。この菩提樹がどんな実をつけるのかは、またあとで調べてみようね。

  テツオ。今度また幼稚園でお絵かきする時、今のあなたの感動をそのまま絵にしてみたらどう?

  それでね、テツオ、私も今感動をしてるのだけど、この菩提樹は、お釈迦様が悟りを開いた菩提樹ゆかりの木であるらしいの。あなたももっと近くに来て、見てごらんよ。」

「姉さん、“悟り”って、いったい何?」

「悟りというのは、深い真実、あるいは真理というべきか・・。そう言っても分からないよね?」

  不思議そうな顔をして、レイコをじっと見つめるテツオに、彼女は菩提樹に向けていた目を彼の方へと返しつつ、このように語って聞かせる。

「テツオ。あなた以前に、私が絵本を見せながら『マッチ売りの少女』の話をした時、可愛そうだって泣いていたよね・・。あの時のあなたの“かわいそう”という思いが、私は悟りなんだと思うよ。

  テツオ、ここはね、大切な話なのよ。あなたがその時感じたように、自分以外の他人のことが気になって、貧しさや病気なんかで可愛そうという思いこそ、本来の意味での悟りなんだと私は思うよ。」

  それでもなおも不思議な感じのテツオの顔に、レイコは優しくキスをすると、彼の目を見つめながら言葉をつづける。

「テツオ。このようにあなたは私にいろんなことを教えてくれる。あなたは私に“考える”ということを教えてくれる。それで私は決めたのね。やっぱり私は初志にかえって教師になろうと。

  今まで私は自分に自信がなかったけれど、こうしてあなたを愛するように、私も人を愛することができると思うし、それになにより、私が子どもたちから教わるという気持ちになれば、それでいいと。

  だからもう、私は会社は貯蓄のためだと割り切って、目標に到達すれば辞めようと。さいわい私の出た大学は、卒業生には教員資格取得のための優遇処置があるらしいし・・。」

  テツオはそれでやや微笑むと、レイコもまた連れられて微笑みかえす。

「そうだ! あなた幼稚園のお絵かきで、あなたが描くのはいつも花や木や草や虫の絵ばかりだって言われたと言っていたよね。

  じゃあ、今度の土日、私が海か山に連れて行ってあげるから、その時の絵を描けばいいよ。」

「山って、ここの宝満山?」

「うーん。あの山もいいのだけど、頂上まで登らないと見晴らしも開けないし、階段つづいて結構きついし、まだあなたには負担かもね・・。

  そうね・・、この前行った阿蘇みたいに少し遠くはなるけれど、大分の由布岳がいいんじゃないかな。あそこなら中腹からでも見晴らしは素晴らしいし、それに温泉にも入れるしね。」

 

  そんなわけで、テツオはレイコに連れられて、他の登山客も行き来するなか、大分県由布岳の中腹まで登ってきている。

「テツオ。リュックの荷物が重い時はね、こう、こんな感じで、背中のより上の方で背負ってごらん。そうすれば少しは軽く感じるし、歩きやすくなると思うよ。

  でも、これで中央口から目標の中腹までは来れたわね。本当は、東口とか西口からのルートの方がより山登りの実感はわくのだけれど、こことは違ってあまり人がいないからね。こんな時、女一人は不利だから、私はいつも悔しく思うよ・・。でも、あなたは男の子だし、どこでも自由に行けるわね。

  だけど、私の経験からすれば、山登りは人が多い方がいい。人が少ない登山道は地図が違うこともあるし、より遭難のリスクは上がる。このルートなら頂上まで、まず安全だけどね。」

  と、テツオはレイコが望むまま、由布岳の二つの頂上-西峰と東峰とに目をやるのだが、やがて彼女の視線にあわせて、目の前に広がっている雄大な眺望をその視界におさめていく。

  二人の先には、遠い雲や霧の霞のなかを波打つような、青々とした山々の稜線が広がっている。

「テツオ。この遠くに見えるのが九重連山、そして、さらに向こうに横たわるのが阿蘇の五岳よ。

  テツオ・・いつか私と登ろうね。阿蘇も九重も、その頂上まで、二人でいっしょに登ろうね・・。」

  傾く午後の陽の光を手の甲で遮りながら、望むところをつぶやくように指し示すレイコの姿を、テツオはやや後方に立ちながらも見つめている。そして彼女は再び、リュックからウォークマンを取り出すと、そのイアホンの片方からテツオにまたあの曲を聞かせてくれる。

「姉さん、これってこの前、阿蘇でも聞いていた曲だね。」

「そう、よく覚えてるわね。これは『アルプス交響曲』・・女性でこれが好きな人って珍しいのかもしれないけど、私はまた『英雄の生涯』も好き。私にはどちらも山の情景が出てくるのよね・・。」

  しかし、またもレイコの後方から、その立ち姿を山々よりも望むテツオは、彼女が発したその言葉に、はや敏感な反応を見せるのだった。

  -・・英雄・・。そう、僕にとってはこの時の姉さんは、風に吹かれる栗色がかった黒髪のもと、ロイヤルブルーのスカーフにグリーンのシャツ、グレーのニッカボッカに鮮やかな真っ赤な靴下・・。その後姿立ち姿のAラインは、遠く望める山々の稜線の波打ちと、遠近をなすかのようなお尻のまるみをともなって、あたかも英雄みたいなカッコよさ。足をしっかり地につけて立ち、登山杖を取ったまま腰に手をあてがうポーズは、ますますその逆さハート型のお尻の、質感と存在感を際立たせる・・-

「・・姉さん、ボクにはもう眩しすぎるよ・・。この前からも知りすぎてるし・・。」

「あなた、帽子を後ろ向きに被ったりするからよ。ちゃんとツバを前にして被りなさい。

  じゃあ、今回はこの中腹までということにして、これより先の頂上は風も強いし坂も結構きつくなるから、小学校に入ってさ、もっと体力がついてからにしましょうか。」

「えっ?! 姉さん、もうここで終わっちゃうの? この先にはもう行かないの?」

「うん。今はまだ行けるような気がしても、登山は余力を残して下山するほど慎重なのがいいのよね。

  いいじゃないの。今日は別府に泊まりだし、竹瓦温泉にも入るのだから。」

  ~“温泉”~という言葉を聞いて、テツオは目前の逆さハートを見つめながら、思わず生唾を飲んでしまうが、その飲み込みの反射なのか、彼はここで急なる尿意を感じたようだ。

「でも、山々を目前にして、ここで終わりというのもなあ・・・。」

 

 -ちっ! 何でここで終わりなんだよ?! 登山といっしょに夢まで終わることはねーだろ!-

  青年テツオは、文字どおり、ビューティフル・ドリーマーから目を覚まして、その尿意の赴くままにトイレに駆け込む。

 -ちくちょう。俺はペニスも膀胱も小っちゃいから、肝心な時にこうなるんだ!-

  夢のあと、この呪わしいオプションみたいな立ちションを終え、テツオは寝床にかえってからも恨みつらみ、今宵のメイクや身にまとった女ものの浴衣のことなど忘れてしまったかのようだ。

 -だって、そうだろ。今宵の夢はオールカラーの三本立てで、三つ子のタマシイ決したような、上品な浴衣姿にフェミニンなワンピース、そして更にはたくましいニッカボッカと、SLみたいな三重連のその後は、本人も温泉へと言ってただけに、極めつきの入浴シーン・・それも最低でも、それこそまさに黄金比の、見ろのヴィーナスみたいな“湯けむり全ケツ立ち姿”か、“かけ湯に半ケツ前かがみ”が、あって然るべきじゃないのか-

  しかし、テツオは自分自身の不甲斐なさを呪いながらも、ここである事にふと気付いた。

 -・・ということは、以上の夢は、僕の想像や創作なんかじゃなかったってことじゃないか。

  だって、もしもこれらの夢なんかが、自分に都合のいい想像や創作ならば、当然この後に生尻の後追いシーンがあるはずだし、それが文字どおりケツ落してるということは、現実にもそんな事実はなかったというで、これらの夢は、実は本当の所を反映しているんじゃないか・・-

  だが、テツオはさらに用心深く、慎重に考慮をめぐらす。

 -・・ということは、僕はこの時、姉さんと温泉には行ったのだから、女湯に入らなかったということか・・。いや、そんなことはあり得ない。いくら子供の人権がない国とはいえ、女湯にそのまま入れる幼児固有の特権を、知りすぎた男の僕が活かさぬはずはないだろう。では、その時、いったい何があったのか・・-

  テツオは寝床で寝返りを打ちながらも、またも仮説を考えはじめる。

 -・・仮にその時、温泉の男湯と女湯の番台を前にして、ちょうど今の僕みたいな美青年が、今からまさに湯に入らんとするような特別な場合に限って、男湯に入ったことも考えられる・・。そして、その時の記憶については、今や自分の美貌が上回ったということで、すでに過去のものとなった・・ということだろうか・・-

  ここまで思索が及んでくると、その悔し悲しの寝覚め夢覚めからもようやく、テツオは解放されそうな気になってくる。

  -いや、これでかえってよかったのだ。こうしてあの美しい逆さハートの三重連は、人間界の番台で性別に紛れぬことで聖別され、僕の姉のイメージ同様、ここは湯けむりみたいに永遠のイデアへと昇っていったに違いない。それに、これはまさに“隠すぞ春はゆかしける”というような“相反性”のあらわれでもあろうから・・・-

  こうしてテツオは、彼とレイコが二人で描いた相反性理論と、ここまで至ったその因果にあらためて思いをはせつつ、メイクのあとを枕にもつけながら、また安らかな眠りへと落ちていった・・・。