こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第二十章 光知性原理

「ね! それで、いったい、どうだったのヨ?」

  テツコ・デビューの日のあとで、部屋を訪ねてきたユリコは、テツオに様子を聞こうとしている。

「どうだったって・・、うん・・、楽しかったし、幸せだったよ・・。」

「だからァ、何がどう楽しく、幸せなのかって、聞いてるのにィ。

  じゃあさ、当日のテツコのファッション、教えてよ。自撮りってしてないの?」

「そんなのないよ。俺、ケータイもスマホも持たない主義だし・・。なら、今ここで、描いてあげるよ。」

  と、テツオは手持ちのノートにサラサラと、当日のテツコのコーデを描いて見せる。

「・・テツオ・・。あなたの絵って、バツグンにうまいわね・・。しかもこんなに簡単に、いともサラリと描けるなんて。あなたって、この感じなら、美容師や服職人にもなれるのかもよ。」

  と、ユリコに褒められ嬉しくなったか、テツオは彼特製の“シンデレラ・パンプス”も、左手についでに披露する。

「・・すごいよ、テツオ・・。内貼りもフエルトで加工して、これじゃ、靴職人も顔負けじゃない。」

「だろ! その甲部分の飾り付けは耳飾りで、ストラップにつけた穴に通しているだけだけど、自分の好みで自在にかえれて、しかも世界に一つしかない“キワモノ”なんだよ。」

「なら、あなた、これで特許が取れるのかもよ。“テツオ・シューズ”略して“テッシュウ”みたいなブランド、立ち上げたら?」

  テツオはユリコが、彼のこだわる美意識には関心を示さずに、ただ実利的な-しかも、かなり売れ残ってしまいそうな-事ばかりを口にするのを、これが男と女の違いかもと思いながらも、やや不満げな気分のようだ・・。

 

  だが、彼が、女となって初めて街へと歩を踏み出した時、まさに感じた、“見るもの全てが光って見える”の体験談をしてみせた時、ユリコは俄然、興味深々になってくる。

「ユ、ユリコ・・、何をそんなに見つめてるんだよ・・? そんなにテツコに、会ってみたい?」

「テツオ・・。実は私も、同じような経験をしてるんだけど・・。」

  テツオはこれにはギョッとする。

「同じような経験って・・、じゃあ、ユリコはもしや“男装”を経験してるの・・?」

「断層って、そんなはっきりした分け目じゃないけど、意識のうえで、私は生死を逸しようと・・・。テツオ、この私たちの経験って、もしや世紀の大発見になるのかもよ・・。」

「・・男装して意識のうえで精子を逸するなんてこと・・、かなり本格的だけど・・。そのうえ性器の大発見とは、そこまで言う?って気がするけど・・。」

「だって私は行者だし、行者が着ている白装束はもとより死者の装束だし、行者が行をすること自体、自ずと生死を逸する-生死を超える意味合いがあると思うよ。」

  それを聞いて、テツオはひとまずホッとする。

「ああ、そういう意味だったんだ・・。ユリコはさすがに行者だよな。でも、ということは、ユリコは自分自身の行のなかで、“全てが光る”体験をしたってことなの?」

ユリコにとっては、まさにここがポイントのようである。

「そうよ。いつもというわけではないけど、たとえば身心ともに行に夢中になっている時、それこそ足に羽根がはえたみたいに自在に歩けて、山野を跋渉するのが楽しくてしょうがない時、こういう境地を仏教的には“三昧”というのだろうか、そんな時には私も見るもの全てが本当に光り輝いているような感じがするのね。」

  そしてユリコはテツオの目をじっと見ながら、確認をするかのように言葉をつなぐ。

「つまり、あなたが女装しヒールをはいて街を歩いて、意識のうえで男女の相対知を超えて、“見るもの全てが光って見えた”という事と、私が白装束で地下足袋はいて山野を行して、意識のうえで生死の相対知を超えて、時おり感じる“見るもの生きとし生けるものが光り輝く”という事とは、同じ現象ではないだろうかと思うのよ。

  でね、私は行の最中に、しばしば『納棺夫日記』(1)という書の中にある“死に近づいて、死を真正面から見つめていると、あらゆるものが光って見えてくるようになるのだろう。多くの死者たちの顔にもあの光の残映のような微光が漂っていた”という文章を思うのだけど、私はこれも同じ“光”に関するものではないかと思うのよ。」

  ここまで聞いて、テツオも再び彼の“仮説モード”へと切り替わり、気になっていたことをユリコに尋ねる。

「ねえ、ユリコ。この“見るもの全てが光って見える”という現象って、その人の感性や感覚だけによるものだろうか。というのはね、晴れて女に、テツコになった喜びだけで、単純にまわりが光って見えるというのではないような気がしてさ、これは一種の物理的な現象なんじゃないだろうかと・・。」

  しかし、ユリコもまた同じことを考えていたようである。

「テツオ。私は自分が読んだりしてきた臨死体験などにおいても、これに類似の“光”の体験談が少なくないと感じていて、ということは、今あなたが言ったように、これは個人差のある心理的なものというより、むしろ何かの物理的な現象かもしれないと思っていたのね。」

  そしてユリコは思慮深げな眼差しで、記憶から呼び出すように言葉をつないでテツオに語る。

「テツオ。その物理的な現象についてだけど、この前、ヨシノとキンゴと4人でホモ・サピエンスから新人類への進化の仮説を考えてた時、キンゴがたしか、こんな話をしてくれたじゃない。

  “光を知恵と知性の源泉とした場合、対称性ある物質-たとえば陽電子と陰電子-を存在させる光=γ線のエネルギー(1.022MeV)と、その対称性を認識する人間=ホモ・サピエンスの相対知のエネルギーとの間には、どちらも光をもととするから、何らかの関係(等価性みたいな関係)があるのではないだろうか。”って。そして、“これを暗示させるような何らかの科学的な現象があるとすれば、それで僕らの仮説は科学的に証明されたに近いレベルになるんじゃないか”って。」

「そう、そうだった。それで彼は僕にブログを引き継ぐ際に、その科学的な現象を僕らが見出すことを期待していて、僕はそれで、ホモ・サピエンスから新人類への進化論など彼が手がけてきたブログを、卒業までに完成させなきゃならないんだ。」

  テツオも記憶を呼び戻し、同じ土俵にあがったところで、ユリコは自分が考えていたある仮説を、ここで彼に話してみる。

「テツオ。たとえば、こう考えられないかしら。つまり、ヒトの男女や生死を認識する相対知に要するエネルギーが、相対=対称性ある物質を生み出すγ線ほど強い-たとえば電子対生成の1.022MeVみたいに強い-とするのなら、意識のうえで男女や生死の分別をやめた時のエネルギーはそれより低いものとなり、γ線よりも低いヒトの可視光域のエネルギーへと近づくために、それでより視覚と感応して“見るもの全てがより光って見える”という、一種の物理的ともいえる現象が起こるのではないだろうかと。

  それで、臨死体験で言われるような、死に直面する人々や死にゆく人が、今までにないような“光”を感じるという事も、生前のその人の“執着”-つまり、相対知のもとである執着-が死を目前にして解かれていって、執着に要してきたエネルギーがγ線よりも低いヒトの可視光域のエネルギーへと近づいていく過程で起こる、これもまた同様の一種の物理的ともいえる現象なのではないだろうかと。」

  テツオとしては、ユリコへのテツコ・デビューの報告が、こんな物理の仮説まで及ぶとは想定外だったのだが、キンゴから引き継いだブログ完成の宿題は、これで目途が立ちそうな気がしてきた。

「ユリコ、もしその仮説が正しいとするのなら、たしかに大発見といえるのかもしれないけど・・。とりあえず、僕らのブログは何とかかっこうつく所まではいけそうな気がするな。」

  だが、ユリコの引き出しには、まだ仮説があるようだ。

「テツオ。自分で言うのもおこがましいけど、私が世紀の大発見と言ったのは、それなりの背景があり、これは単に私たちのブログの話で納まらないのかもしれない。

ねえ、この続きの話は日を改めて、今度は2人で図書館でしてみない? 私も本を見ながらでないと、うまく話せないと思うので。」

 

  話はここで一段落つきそうなので、テツオはつづいて、阿蘇へとのぼったSLの幼児期の思い出話を、そのままユリコにしてしまった。

  だが、ユリコはテツオのこの話を、やや悲しそうな眼差しで、まるで我が身のことのように真剣に受けとめてくれている。

「テツオ・・。その時あなたをそこまで愛してくれた人というのは、きっとあなたのお母さんよ・・。」

  しかし、テツオはうつむいたまま、首を左右に振りながら、ノートに何やら書いて見せる。

「“イクジホウキ”?!」

「そう、“育児放棄”。残念で不名誉だけど、これが僕が最初に覚えた四字熟語ってわけなのさ。

  僕は、父がいわゆる技術屋で、母はいわゆるキャリアウーマン。2人は東京で知り合って、出来ちゃった結婚だったそうなんだ。親父、男前だから、もてたんだろうし、本人もそれを自覚してたんだろな。つまり、2人の真の仲人は、他ならぬこの僕だったってことなのさ・・。」

  テツオの横顔、その喉笛が、わずかに動いたように見える。

「いーじゃないの、出来ちゃった結婚で。神に望まれこの世に生まれ、結婚もできたのだから。」

  と、ユリコはテツオのややなで肩に、片手をそえる。

「でね・・、父は間もなく仕事で博多へ行ったんだけど、母も仕事でキャリアを積むため東京住まい。生活も楽でなかっただろうから、共働きは当然だったのかもしれない。

  それで、父も母も残業づけで幼児の面倒見きれないから、父が僕を自分の実家-農家やってて部屋と食には不足のない祖父母の家に預けていてさ・・。この不名誉な四字熟語は、きっと祖父母が苦々しく言っていたのを、幼児の僕が聞くままに覚えていたと思うんだよ・・。」

「・・そう・・、そうだったの・・。」

「だから、多分、母ではないのさ・・。それに、僕は母乳では育ててないって言われているし・・。

  母は休暇もよく取れず、仕事も厳しくうつ病にもなってたほどで・・。だから東京から九州来るのは無理だったろう。かといって父はいつも九州各地へ出張してたし、同じように休暇も取れず、祖父も祖母ももう既に高齢だったし、口うるさい割には何をするにもおっくうで、わざわざ熊本まで行って、段差の多いSLなんかに乗せてくれるわけないじゃん。」

  すでにテツオの隣へと座っていたユリコは、ここでその身を乗り出してくる。

「でもね、テツオ。差し出がましいようだけど、私が思うに、あなたのような人格は、よっぽど深い愛情が・・それも女性の愛情が・・ない限り、ここまで豊かに形成できないような気がするのよ。いくらあなたが言うように、花の導き、虫の知らせがあるのせよ、やはりその基盤というのは、三つ子の魂というだけに、幼児期にあなたが受けた愛情にこそあるのではないかしら・・。」

  ユリコがやや涙目になりながら言うのを聞いて、テツオは頭を下げつつも言葉をつづける。

「でも、その三つ子の魂のせいなのか、僕は結局、小学校に入る時分に、東京で教育を受けさせたいとの母の希望で、母のもとへと引き取られたそうなんだけど、逆に土地になじめずに博多に戻って、父と暮らすことになった・・。

  僕が山に行きはじめたのは、その頃だったと思うんだよ。父が小学生にあがった僕に、体力がついたからって、山登りを教えてくれた。僕の記憶はその頃からはよく残っていて、父は阿蘇にも連れて行ってくれたけど、一番よく行ったのは大分の由布岳で、その東峰には何度も登った。僕は列車から由布岳の全貌を見る度に、僕の心に何とも言えない尊敬というか、山に対する愛情が起こってきたのを、今でもはっきり覚えてるよ。だから僕は、この嘉南岳を行じているユリコの行者の気持ちというのも、何となくわかる気がするんだよ・・。」

「ごめんね、テツオ。この山は山全体がノロの行場で、女人禁制ではなくて男人禁制だなんて言ってしまって・・。」

「いや、それはいいんだ。それは当然のことだから。僕も九州で山伏とか行者たちを見てきているし。僕にお加持を授けてくれたある白装束の行者さんは、その眼差しがとても優しく澄んでいたのが、メガネごしにも見て取れた。ついでに言うと、彼はとても美男子で、僕はその白袖と杖を振るった颯爽とした歩きっぷりに、まるで雷光に打たれたように魅せられたんだよ・・。

  まあ、そんな風に僕に山登りを教えてくれた親父には、感謝してるよ・・。」

  と、そこまで語ってきた所で、テツオはふいに自嘲気味になってくる。

「フッ・・、僕はいつかユリコが言っていたように、自分をとても愛しているのさ・・。でも、今こうして話していて、その理由がわかった気がする。それは一種の自己防衛、自己保存のあらわれで、僕は小さい頃から孤独だったし、鏡の向こうの自分しか話し相手がいなかったのさ・・。」

  ユリコはテツオの片手にそえた手で、そのまま彼をさすってあげる。

「・・テツオ・・。あなたには、ひょっとして、お姉さんが、いたんじゃないの?・・

  というのはね、私にも本当は姉がいたんだけれど、姉は死産で亡くなってね・・。でも、こうして行するようになってからは、私は自分自身の中に“姉”というのを、今まで以上に強く感じるようになったのよ・・。」

  テツオはうつむき加減の顔を起こすと、ユリコの目を一瞬見つめて、言葉をつないだ。

「いや・・。僕は母からずっと一人っ子だと言われてきたし・・。兄弟はないはずなんだよ・・。それに、僕には幼児期の記憶というのがほとんどないし・・。でも、これは、もしかすると何か大きな悲しいことがあったりしたので、自分で自分を守るために、わざと記憶を消去したのかもしれない・・。」

 

  ユリコがテツオに「今度は図書館で」と言ったのは、キンゴが受験準備のため予備校の模試や補講で図書館からいなくなり、彼とともに大音響のワーグナーが消えたせいでもあるのだが、それにも増してレイコが蔵書を多数寄付してくれたことで、彼女が好んでそれを読みはじめたことによるようである。レイコは、これからここで勉強をする学生たちに役立つようにと、イラスト多彩な科学雑誌『Newton』そして、書庫へお蔵入りするくらいなら寄付してほしいとある市立図書館から『ブルーバックス』(2)シリーズ一式を手に入れて、この島の教会兼図書館の財産としてくれたわけである。

  ユリコは、受験準備で機会が減ったというものの、レイコと2人で出掛けたりお茶したりする際に、話のレベルを合わそうと、また、自分の好きな先生の受け持つ科目を生徒はたいてい好きになるとの傾向にそったのか、レイコの息のかかった書籍類を読みこなすうち、あることに気づいたようだ。

 

 

「えっつ!? 物理学-量子論のそのなかでも最大の謎とされる“光の粒子と波の二面性”への、答えを見つけたんだってぇ??」

「いえ・・。これはあくまで今まで4人で話してきた“知恵や知性は私たちヒトではなく、もとより自然にあるのであり、光がそれを担っている”という文脈で、考えた仮説だけど・・。

  でね、私も本に基づいてあなたに話しながらでないと考えがまとまらないので、いっしょに聞いて考えてほしいのよ。」

  と、図書館の席についたユリコは『Newton』を何冊か開けつつ(3)、隣のテツオに示して見せる。

「まず、この“光の粒子と波の二面性”の現象を、いっしょに本を見ながら確認をしたいのだけど、この光は粒子なのか波なのかという問題は昔からあり、ニュートンは光を粒子と主張して、それに対してヤングは波と主張した。それで光が干渉をすることから、一時は光は波とされた。でも20世紀に入ってから、アインシュタイン光電効果を説明するのに光量子説を唱えたことで、再び光の粒子説が復活した-ということなのね。」

「うん・・。それはたしか教科書にも載っていたよね・・。」

「そう、それでこれが、光が粒子か波なのかを確かめる有名な“二重スリット実験”の図なのよね。

  まず、光を光の粒である光子1個分のエネルギーへと極限まで弱めていって、暗いスクリーンに向け発射すると、ポツッと1点、スクリーンには光子の点がつくことから、光は粒子と思われる。

  つぎに、これを光子の光源とスクリーンとの中間についたてを用意して、そこに縦長の穴=スリットを左右の2カ所に並んであけて、このついたて目がけて光子を発射しつづけるとどうなるか。光子は左右各々のスリットを通ったから、スクリーンには左右縦長の光子の点の集まりがあらわれるかと思いきや、それが何とシマウマ模様のような干渉縞が、スクリーンの全面にあらわれる。この干渉縞は粒子ではなく波でないとあらわれないから、光は波でもあると言える。

  で、この二重スリット実験は、光子のほかは電子でも、まったく同じ結果となる。」

「うん・・。それもたしかに写真入りで、教科書に載っていたよね・・。」

「でね、問題はここからなのよ。それではなぜ、これ以上分割できない光の粒である光子が、どのようにして粒子であったり波であったりするのかを突きとめてみたいじゃない。

  光子または電子が、こうした二重スリットでどのように干渉するのかを知るためには、左右どちらのスリットを通ったかを観測器で分かるようにすればいい-ということで、実際にスリットに観測器をつけてみると、なぜか干渉縞=波はあらわれず、ただ左右縦長の光子や電子の点の集まりがあらわれる。

  結局、この実験の結論とは、光子や電子が左右どちらのスリットを通ったかが分からない場合にしか、干渉縞=波はあらわれないってことなのよ。」

「しかし、観測器って電気つかって電流を流しているから、それが影響してんじゃないの?」

「では、電気をつかう観測器ではなく、この左右各々のスリットに特定の方向に振動する光しか通さない“偏光板”ってただの板を、つけた場合はどうなるか。

  たとえば、右のには横方向、左のには縦方向に振動する光を通す偏光板をつけた場合、光子が通った径路は分かるようになるけれど、これも同じく干渉縞=波はあらわれなくて、左右に光子の点の集まりがあらわれる。

  ではさらに、この左右の偏光効果を打ち消すような斜め45度の偏光板を、縦・横の偏光板とスクリーンとの間に置くと、どちらのスリットを通ったのかは分からなくなるのだけど、縦や横に偏光した光の一部は弱い斜めの偏光として通り、それが何と光子の点の集まりではなく、今度は干渉縞=波としてあらわれるということなのね。」

  話自体がややこしいのに、つぎつぎと『Newton』の実験図を指し示すユリコの可憐な指先にも目をやるうちに、テツオも何だか分からなくなってくる。

「その話って、たしかに何だか変だよね・・。学者たちはそこん所を、どう説明してるのかな?」

「そう! 何か変だと思うのだけど、これはまったく正確な実験の結果なのよね。いろんな説があるなかで、一応、標準的な理論とされる『コペンハーゲン解釈』というものは、このように説明している。

  “光子や電子は観測をされない限り、波としてふるまい、空間を広がり進んで干渉を起こすのだけど、観測をされてしまうと、波は突然消え‘収縮’して、それが粒子としての姿をあらわす。光子や電子の発見場所は確率的にしか予言できず、波の形はその出現する確率が高い所を示している”と。」

「じゃあさ、その波から粒子への‘収縮’っていうのはさ、どのようにして起こるんだよ?」

「‘収縮’のカラクリは、それはだれにも分からないって、ことらしいよ。」

「それなら何が何だか、分からないよね・・。」

  しかしユリコはここでひとまず、話をまとめたいようだ。

「でね、この二重スリット実験というものは、他にもいろんなバージョンがあるようで、光子そのものに偏光板など観測器のようなものを接触させずに光の径路を分かるようにしてみたり、分からないようにしてみたりと、様々な実験があるのだけど、どうも共通しているのは、

  • 光子や電子の通った径路を分かろうとさせた場合は、干渉縞=波は消え、光は粒子としてあらわれる。
  • 径路を分からなくした場合は、逆に粒子ではなくて、光は干渉縞=波としてあらわれる。

ということと思われるのね。」

  そしてユリコは、ここでその目を大きく見開き、テツオに仮説を述べてみる。

「テツオ。ここでこの前の話だけど、あなたが女装し、意識のうえで男女の相対知の分別をやめ、より光を感じたのと、私が白装束で、意識のうえで生死の相対知の分別をやめ、より光を感じたのと、これが同じ現象じゃないかって言ってたよね。

  そして、以前キンゴが言っていた、“電子の対生成ができる光=γ線のエネルギー1.022MeVと、その対称性を認識できる人間の相対知に要するエネルギーとは、何か等価性のような関係があるんじゃないか”という話を思い出したよね。

  それで、女装や白装束でより光を感じたのは、あるいは臨死体験等で多くの人がより光を感じるのは、男女や生死の相対知をなくし、あるいは生前の執着をなくしていく過程において、相対知=執着力に要している“γ線に匹敵するエネルギー”が低下して、同じ光でγ線より低エネルギーのヒトの可視光域に近づくために起こったのではないだろうかって、言っていたよね。

  ということは、それらと同じく、光や電子の“粒子と波”もヒトの相対知の一つとすれば、人間がたとえばその径路を分からなくしてしまうと、分からないから相対知もはたらかず、粒子ではなく干渉縞=波としてあらわれて、逆に今度は、その径路を分かろうとしてしまうと、相対知=執着力のエネルギーがはたらいて、それが電子対生成分の1.022MeVまたは電子1個分の0.511MeVに匹敵する強さであれば、波はそこで収縮して粒子として、つまり粒子としての電子となってあらわれる-というように解釈できない??」

  テツオは、ここで思わず腕を組み、「う~ん」と一言うなったまま、ユリコが開いた実験などに目をやっている。

「でもさ・・、その波から粒子の収縮って、人間の相対知がどのようにして、そのモノ=対象に伝わるのさ? つまり、伝わる媒質は何なのかっていう説明が、いるんじゃないの?・・」

「いや・・。私たちの仮説のとおり、光が知恵と知性を担うのならば、波から粒子の収縮も、相対知の執着も、同じ光のなかで起こるのだから、媒質は考える必要がないわけよ。

  つまり、この“光の粒子と波の二面性”と“二重スリットの実験”というのはね、私たちの仮説である、“光が知恵と知性を担う”ということ及び、“人間の知はそれに対して相対知である”ということそして、“その相対知のエネルギーは電子の(対)生成と等価性をもつ”ということの証拠になり得るのではないだろうかと、私は思うの。」

「じゃ、じゃあさ、波から粒子の収縮が人間の相対知の変化とともに光のなかで一緒に起こるということは、収縮は光速で起こるとすると、その収縮を粒子と知るヒトの視覚も、ひょっとして光速なみの速さでもって知覚できるというものなの?」

「それについては、人間の光感受性は網膜の視細胞にあるロドプシン(4)というタンパク質によるものだけど、その反応は約10兆分の1秒=10のマイナス13乗秒という速さで起こり、一方、真空中を毎秒約30万kmで進む光速は10のマイナス12乗秒で0.3mm進むのに相当するということだから、ということは、人間の光感受性は光速なみの速さがあるということになり、これは今あなたが言ったとおりのことになるよね。」

  ここまで来ると、テツオは思わず驚嘆の声をあげる。

「ユリコ・・。すげぇよ、すげぇよ、これって! これは僕らのブログの完成どころか、この“人が知恵や知性をもつのではなく、光が知恵と知性を担う”というのは、かの天動説に対する地動説と同様に、まさにコペンハーゲン的転換というべきもので、今言った“波から粒子の収縮を人の執着=相対知を因とする”との解釈も、かのコペルニクス解釈に対する新解釈というべきもので・・。」

「いいえ、逆よ、その逆。コペルニクスコペンハーゲン、入れ違いになっているわよ。

  まあ、そんな訳で、私は大発見って言ったのだけど、これでキンゴからのブログ完成の宿題は、一応この文脈で書けるのではないかしら・・。」

  しかし、それでもなおも慎重にテツオを見守るユリコの視線を反映したのか、テツオも机上の資料を目で追ううちに、やはりここは慎重な面持ちになってくる。

「でもさ・・、この二重スリット実験や量子論の謎というのは、ほら、ここにもあるように、ある高名な物理学者をして“この現象は、どんな古典的な方法をもってしても決して説明することはできない。まさにミステリーとしか言いようがない。どんな仕掛けで自然がそんな風に振る舞うか、誰にもわかっていない”(5)と言わしめたほどの超難題だろ。そんな危なっかしいのにフツーの高校生にすぎない僕らが、物申すというのもなあ・・。僕らの仮説も、多分どこかで間違ってるんじゃないのかな・・?」

  だがユリコは、ここで皮肉というよりも、むしろ清々しい笑みを浮かべて、こう答える。

「いーじゃないの。私たち、核のためなら自分の子孫を犠牲にしても省みないアホなホモ・サピエンスから、突然変異でもっと賢い新人類になったってことにすれば!

  レイコさんが言うように、仮説は人の数だけあっていいのだし、たとえ私たちのこの仮説に不首尾な点があるにせよ、これから核の世を渡っていく次世代の子ども若者たちのため、私たちはこうして核の世を生きる意味を自ら考え示したのよ! 核をつくって依存して次世代にツケを残し、あとは何も考えないアホなホモ・サピエンスの大人たちに、今さら文句を言われる理由はないよ。

  それに私たちのブログなんて、今や隠れキリシタンみたいにさ、放射能や内部被ばくを真剣に考える人たちしか読まないだろうし、それ以外のサピエンスらの評価なんてどうでもいいじゃん。」

  しかし、文筆に関しては自信家のキンゴと違って、自分で文書を書かねばならないテツオは、やはりここはより慎重になるのだった。

「ねえ、ユリコ。どうだろう、ここはこの際、レイコさんに相談するとか・・。だからユリコも、僕といっしょに来てくれない?」

「レイコさんに? いいんじゃないの。レイコさん、私たちの担任だし、何より理系の先生だし。

  レイコさんね、ずっと私たちのブログを読んでてくれてて、あくまで私たちの自由な思いと表現を尊重して、あえて介入しないように気遣ってくれたのだと思うのだけど、私たちの方から出向けば、それなりに応えてくれると思うのよ。それに・・、」

  ユリコはここで、やや涙目になりそうになりながら、言葉をつなげる。

「レイコさんね、ずっとテツオのことを心配してるよ・・。ヨシノとキンゴは受験準備でほぼマンツーマン、私とは二人でご一緒することもあるけど、テツオとはまとまった時間をもつことがなくなって、そのことを気にしているのが、私にはよくわかるのよ・・。

  だから、テツオ。私のことは別にいいから、この話をレイコさんに持っていって、この際、思うところを思い残さず、二人だけでお話をしてみれば?」

 

  テツオはそれで、ユリコがたくさん付箋をつけた『Newton』などを参照しながら、キンゴのブログを書きつなげようとするのだが、実際に書き始めると次から次へと疑問がわき出て、まとまった文章にはなかなかならず、せいぜい要点整理と考え方と、彼の意見らしきものを箇条書きにした段階で、ある日それらを携えて、喫茶室にいるレイコの所に相談に行ったのだった。

  レイコは事前にユリコから聞いていたのか、すんなり文書を受け取ると、その場でそれを読みはじめて、お茶をしているテツオの前で何度か読み返していたのだが、テツオが-やっぱりまずかったかな-と思い返しているうちに、彼にある提案をしてくれる。

「テツオ君、このお話はまた日を改めて、時間は長くはなるけれど、昼食後から夕方ごろまで、私と二人で、話をさせて下さらない? それからブログにアップさせても、遅くはないと思うので・・。場所はこの喫茶室で、お茶とお菓子をご一緒しながら・・。」

  テツオはこの提案に望外の喜びだったが、ついに物理学の大謎という本丸に切り込んだのをネタにして、いくら親しいレイコとはいえ、理系の教師と互いに本気で対話をするのを考えると、空気を読まないキンゴと違って、彼は大いに恐縮しそうになってくる。

  だが、レイコはそんな彼の表情を見て取ったのか、微笑みながらも、また言葉を添えてくれる。

「テツオ君・・、あなたに一つ、お願いがあるのだけど・・。私が先生だからといって、決して権威視したりせず、同期に対するみたいにね、遠慮せずに自分の意見を言ってほしいの。というのは、あなたが指摘した問題は、物理学の範疇を超えていて、そこは私も普通の学徒と同じだからね・・。」

 

  さて、いよいよ約束の日になって、テツオは資料をたずさえて喫茶室へと入ってみると、レイコはすでにカウンターの店長席で、積み上げられた資料を前にお湯を沸かしている所である。この日はもちろん貸切状態、レイコが理事長室より持ち込んだのか、コピー機能がついているホワイトボードまでが置かれて、これから始まる対話編の準備完といった感じだ。

「先生、すみません。僕が準備をするべきところを・・、」

「いえ、いいのよ。私も今、持ってきたところだから・・。」

  と、レイコがカウンター席へとついたテツオを前にボードの向きを調整しようと店長席から出てきたところを、テツオは執着のなすがまま、ロドプシンの視覚も瞬時に彼女のコーデをチェックする。

  -トップスは、ピンタックに黒ボタンでノーカラーの白ブラウスに、ボトムズは、膝下丈も充分なボルドーフレアスカート、ベージュのタイツにロウヒールのスエードパンプス・・。ああ、先生らしく、無難なコーデで何よりだった・・-

  初っぱなから、自分でも変な安堵をするものだと思いながらも、今や女装をするテツオには、男女が二人っきりになる時の女性のコーデが意味するコードが、読めるような気がするのである。それで彼は、自分がデビューで着たような、お尻と腿のRラインがはっきり見えるタイトスカート、それでなおかつ透けグロ&ハイヒールの二本の足をこれ見よがしに目の前で組み替えられたらどうしようと、心の奥で心配をしていたのである。

  -そんなの見たら、執着が強くはたらき、お茶の波まで再び粒に戻ってしまって、γ線のガイガー計さえ振り切れたりして・・。でも、フレアスカートなら、見てのとおりの“波”だから、僕のこうした執着もおさまったりして・・-

「テツオ君、テツオ君! 飲み物はアールグレイエチオピアか、どっちがいいって、さっきから聞いているのに・・。」

「あ、はい、すみません・・。ボ、ボクにとっては、RグレイもHオピアも、RもHも相関していて・・。せ、先生は、どっちにされます?」

「私? 私はまずはアールグレイで・・。」

「じゃ、じゃあ、僕はエチオピアで・・。」

  それで二人がマグカップに互いに口をつけ出したころ、まずはレイコから話を始める。

 

「ここで再び科学史の話をするとね、光(光速)をはじめて科学的に求めたのはガリレオといわれていて、ニュートンの光は粒子説というのと、ヤングの光は波説という対立を経て、それが19世紀に入ってから、光が従来は別なものとされていた“電場と磁場”によるものと説明したのがファラデーとマクスウェル。また20世紀に入ってから今度はアインシュタインが、光は観測者の運動に関係なく自然界で最高の秒速約30万kmをとるという光速度不変の原理をもととする『特殊相対性理論』において、従来は別なものとされていた“質量とエネルギー”、そしてつづく『一般相対性理論』において、同じく従来は別なものとされていた“時間と空間”また“重力と時空”とが、実は別なものではない=分けられないものであるということを説明した。

  また20世紀に、光子や電子などミクロの世界を扱う量子論では、ハイゼンベルグの『不確定性原理』において、“位置と運動量”あるいは“時間とエネルギー”というものが、ある基本的な限度以上の正確さで同時に測定することができないことが説明をされているから、これも同じく、これらが実は別なものとはいえない=分けられないものであることを示唆しているとも考えられる。

  そしてこの光子や電子の“粒子と波”も、実は別なものとはいえない=分けられないものではあるけど、この二面性がなぜ起こるかということには、明確な説明が今のところはないようなのね。

  しかし、今まで見たように、これらのことにはある共通点があると思う。それは、人間が光を追及していくと、“知恵の実を食べ、善と悪とを知った”という『創世記』の“善と悪”みたいに、従来は相対的な別なものとされていた2つのものが、実ははっきり区別ができず、独立した別なものとはいえない=分けられないものであるのに気づく-という共通点が見出せると思うのね。

  そしてこのことは、私たち人間は、“光を前にした時に、人間は、何らかの物理的、そして意識的な限界に気づかされる”ということを意味しているのではないだろうか-とも思われる。

  それで今回、あなたたちが指摘したのは、“光が知恵と知性=すなわち意識を担っている”ということ及び、“人間の知はそれに対して、善と悪とを分けるような相対知である”ということで、だからこそ、光を前にした時に、人はすでに分別した=相対化した2つのものが、実際は分別できず、分けられないことに気づく-ということだよね。」

  ここまで一気につぎつぎと、ホワイトボードに見出しを連ねて書き記していくレイコにテツオは早やついてはいけず、思わずストップモーションをかけるのだった。

「せ、先生・・、とてもメモが追いつかなくて・・。これでブログを起こそうと思っていたのに・・」

「大丈夫よ。このボードの板書はコピーができて、これをまとめて持って帰ってブログを起こせばいいと思うし。あ、それと、忘れていたけど・・。」

  と、レイコはボードのコピーをテツオに渡すと、カバンの中からある小物を出してみせる。

「これ、ちょっと古いけどウォークマン。今日の私たち2人の対話は、これで録音できるから、あとで文書起こしをすればいいし。だからもうメモ取りやめて、これから対話に集中しましょう。」

  と、レイコはウォークマンに引き続いて本を取り出し、テツオにその該当箇所を開いて見せる。

 

 

「今、私は、人が光を前にする時、限界を見るんじゃないかと言ったけど、ニールス・ボーアはその著書(6)で、興味深いことを言っていて、そこを今から読んでみると-、

 “われわれの通常の感覚上の印象に秩序をもたらすのに物理法則の認識が適しているのは、光速の実際上の無限の大きさと、作用量子の微小さによるものである。一般に因果的な時空的記述様式が、通常の経験を秩序立てるのに適しているのは、通常の現象における作用に比して、作用量子が小さいということによる。これは、われわれの感覚によって空間と時間とをはっきり区別することの適切さが、光の速度に比して、通常の現象における速度が小さいことに全面的に依拠しているのと、似たものなのである。”-ということなのね。

  ここでいう“作用量子”は、エネルギー×時間を“作用”とよんで、その作用に最小の単位が存在することを示していて、“プランク定数h=6.63×10のマイナス13乗J・S(ジュール・秒)”をさしている。

  つまり、ボーアは、自然界の最高速度である光速cをいわば上限、そしてこのプランク定数hをいわば下限としてあらわしていて、ということは、これは自然界の上限・下限はともに“光”で画されるということに等しいと私は思う。」

  レイコはまた他の書物も参照しながら、板書をまじえて話しつづける。

「そして自然界には、人間界のインチやフィートなどといった人為的な単位ではなく、自然にもとより備わっている物理定数(重力定数G、光速c、プランク定数h)からなる“プランク単位”(7)というものがあり、これが最も根源的な単位とされ、物理理論の適用限界を示す量ともいわれている。」

 プランク長さlp=1.616×10のマイナス35乗m

 プランク時間tp=5.391×10のマイナス44乗s

 プランク質量mp=0.0217643mg      

  この板書をじっくり見つめていたテツオは、だがここで、あることに気づいたようだ。

「先生、この各々のプランク単位を少しいじると、こうなりませんか。

 プランク長さlp=1.616×10のマイナス35乗m そのまま、1.616×10のマイナス35乗m

 プランク時間tp=5.391×10のマイナス44乗s の×3は、1.617×10のマイナス45乗s

 プランク質量mp=0.0217643mg    の×3は、0.654×10のマイナス1乗mg

  つまり、以上のいずれも、黄金比の1.618また0.618と近似の値をもっています。

  ×3の“3”は、僕的には、光速c=2.998×10の8乗m/秒からくる“3”とも見えます。

  プランク定数h=6.63×・・、また、重力定数G=6.674×・・のそれ自体が黄金比に近いのと、そして、光=γ線から対生成されてくる電子の電気素量が黄金比とほぼ同じ1eV=1.602×10のマイナス19乗Cで、そしてこの電子こそがすべての元素を決定づけ、その元素の周期表にも黄金比を生むフィボナッチ数が見てとれました。

  このフィボナッチ数こそは、光合成をする草花の葉序や花びらに繰り返しあらわれるものであり、これはまさに“光”の言葉といっていいと思います。

  ということは、これらの“黄金比”のことは、ニュートンが言う所(8)の、“初めに神は物質を形作り、その大きさと形、その他の性質および空間に対する比率を、神がそれらを形作った目的に最もよくかなうようにした”ということを示唆しているばかりでなく、“自然は光によって創造され、またその限界を画されて、すべては光に制御される”-ということも示唆しているのではないでしょうか?」

  このテツオの発言を、彼の目を見つめつつ聞いていたレイコはここで、深く納得をするようにうなずきながら、板書をつなげる。

「そうね。確かにあなたの言うとおり、ここにも再び“黄金比”が見てとれるよね。

  この黄金比とは、美と美意識の象徴であり、無限につづくフィボナッチ数列のFnとFn+1との前後の比が永久に生み出すもので、このフィボナッチ数が光合成をする植物の草花や、元素の周期表にある電子の数にあらわれること、および、この黄金比が今見たように自然界を律している根源的な単位にも見てとれるということから、私もあなたの言うように、“自然は光によって創造され、またその限界を画されて、すべては光に制御される”-ということがいえると思う。

  そして、フィボナッチ数列のFnとFn+1との前後の比が黄金比を永久に生み続けるということは、フィボナッチ数列には“保存則”が認められるということであり、ここで“何か一つの保存則があるのなら、それにともない一つの連続的対称性が存在するはずである”との“ネーターの定理”(9)を思えば、フィボナッチ数列には、これも美と美意識の要の一つの“対称性”が含まれているともいえる。

  ここで、同じく保存則の典型であり、物理の世界で最後まで残る保存則といわれている“エネルギーの保存則”を思い起こせば、“光→エネルギー→保存則→黄金比→美と美意識すなわち意識”というように、これらはもう物理学の範囲を超えて、全てつながっているようにも思われる。

  それに第一、物理的にいうならば、光はもとより90度で互いに直交しあっている電場と磁場の変動が波=電磁波となって伝わるもので、この光の諸相そのものに、直線、直角、三次元、波動そして空間・時間と、ユークリッド幾何学からデカルト座標三角関数などといった様々な数学が含まれていることから、ガリレオが“自然は数学の言葉で書かれる”の名文句は“自然は光の言葉で書かれている”と言いかえてもおかしくはなく、ここまで来れば、子供たちを犠牲にしても核と平気で共存をする私たち人間ではなく、“光が知恵と知性=すなわち意識を担っている”ということを認めるべきだと私は思う。」

  と、レイコはここまで板書を記すと、ひとまずはコピーをとってテツオに手渡す。

  そして彼女は、続いて板書をいったん消すと、ボードにやや大きな文字で改めてこう書き記す。

  “光知性原理”

「先生、その言葉が意味するものとは、何なのでしょうか?」

「ここでいう“原理”とは、アインシュタインが光の速度をして“光速度不変の原理”を唱えたように、もとより自然に備わっているもので、人間が証明不要の自然の原理(10)という意味なのね。

  だから今私たちも、これにならって、“光が知恵と知性=すなわち意識を担っている”という“光知性原理”なる自然の原理があると認めて、ここでそれを宣言しちゃえばいいと思うよ。」

  しかし、テツオにとっては、このレイコの提案はあまりにも大胆すぎると思えたようだ。

「セ、先生・・。それって、果たしてそんなこと、フツーの人の僕たちが、宣言してもいいんでしょうか・・? 相手はアインシュタインですよ。いくら核がはびこって、世は末世に及んで日月いまだ地に落ちず(11)とはいうものの・・。

  そ、それと、ボクはですね、いったん自分の世界に入れるや否や何事も自信家になるキンゴと違って、実は今まで慎重に考えていたことがあって・・。こうした知恵や知性や意識の世界に、物理学の考え方やその記述方法を援用してもいいのかどうかと思っていて・・。そこん所を先生は、どのように思われますか?」

  と、思い切って理系の教師のレイコ自身に尋ねてみる。

 

  だが、このテツオの問いは、彼女には想定済みのものらしく、ここで聞かれてむしろよかったといった感じで、レイコはまたいくつかの書を開きつつ、テツオに対して示してみせる。

「今のは非常にいい質問で、まさに根源的な問題意識と思うけど、それについては先人たちの考えを聞いてみたいと思うのね。

  まず、これはニールス・ボーア(12)。

“・・実際、アインシュタインにより見事な統一と完成にもたらされた古典物理学の全概念構造は、物質的な対象の振る舞いと、その観測如何という問題とを区別することは可能であるとの仮定の上に安んじている。

そのような制限された適用可能性ということについては、実際のところ我々は心理学、あるいはブッダ老子のような思想家たちの存在という認識論的な問題にさえ、目を転じなければならない。それは原子的現象に遭遇する予想もされないパラドックスを解決する助けになりそうかどうかを検討するよう、我々を励ましてくれるものである。”

  つぎに、これはハイゼンベルグ(13)。

“・・原子物理学の数学的諸構造は、それの適用可能性という点で一定の経験領域に制限されるべきものであり、生命的ないし心霊的事象を記述しようと欲する場合は、こうした知性的構造を拡張しなくてはならぬ、ということになる。

かように拡張された理論は、おそらく原子論の拡張された形とも見なされるものであり、別箇な事象だけを記述する理論のようには考えられないだろう。”

  そして、これはマックス・プランク(14)。

“・・世界を統治する最高の力の存在と本質への問いにおいては、宗教と自然科学とが出会うのであり、これらの答えは決して矛盾するものではない。

それは人間から独立した理性的な世界秩序が存在すること、この世界秩序の本質は決して直接には認識できず、ただ間接的にとらえられたり感知されたりし得るだけでのものであること、これら二点を含んで調和する内容をもっている。

  すなわち自然科学の世界秩序と宗教の神を同一視しようとすることは、何ものによっても妨げられず、また統一的な世界観を欲する我々の認識は、それを要求してもいるのである。

  宗教的人間が接近しようと努める神は、研究する人間に感覚がある程度まで知識を与える自然法則のその力と、本質においては等しいのである。

  神はあらゆる思考の端初にあり、またあらゆる思考の終極にある。ケプラーニュートン、そしてライプニッツなどの人々が、深い宗教性に貫かれていたという歴史的な事実は、宗教と自然科学とが調和し得ることをおそらく最も端的に証明している。”」

  と、ここまで書によりテツオに示してきたレイコは、ふと指先を目にやって、言葉をつなげる。

「テツオ君・・。私ね、特にこのニュートンのようなことを述べたプランクの文章を読んだ時には、ああ、本当にそのとおりだって、涙が出るほど感動したのよ・・。こんな視点は、現代の科学者たちにはもうないだろうって・・。」

  そしてレイコは書を閉じると、再びボードの前に立ち、“光知性原理”の文字を見ながら述べるのだった。

「そんな訳で、今あなたが言った、“知恵や知性や意識の世界に、物理学の考え方やその記述方法を援用してもいいのだろうか”という問題意識は、先人たちのこうした意見に通じるものと私は思う。

  それに、特に粒子と波の二面性に代表される量子論の謎においては、“この現象は、どんな古典的な方法をもってしても決して説明することはできない。まさにミステリーとしか言いようがない。どんな仕掛けで自然がそんな風に振る舞うか、誰にもわかっていない”と言われているほどだから、私たちはこの際ここで、以上の先人たちの言うように、“従来の古典(物理学)的な一定の経験領域に制限されるべきものから、こうしたブッダ老子のような思想家たちの認識論的な問題へと、知性的構造を拡張して”も、いいのではないだろうかと思うのよね。」

  と、レイコのその黒い目で見つめられているテツオは、ここで大いに納得をしたようである。

 

カシミール効果”

  レイコは続いて、ボードに向かってこの文字を書き加える。

「でね、かくしてこの『光知性原理』という仮説をもとに、あなた達のブログを受けて、私が考えてみたことがあるんだけどね・・。」

「“カシミール効果”って・・。これはいったい、何ですか?」

「『カシミール効果』(15)というのは、真空中に向かい合わせた金属板を2枚、少しだけ離して置くと、その金属板の内側には、ある限られた振動数の光=定常波しか存在できなくなるために、あらゆる波長の光がある金属板の外側よりエネルギーが低くなって、外側のより大きなエネルギーに押される感じで、2枚の金属板はひとりでに引き寄せあうというものなのね

  それで、生物の各個体は、昆虫の紫外線域、ヒトの可視光線域というように、各々固有の光に感応する領域があるのだけど、それは原理的には外界の光の波長より限られた狭い光の波長になる。

  ということは、『光知性原理』という仮説においては、ヒトの知恵や知性や意識においても、同じ光を基とするから、ともすればこのカシミール効果のような現象があるのかもと思ったのよね。

  この“定常波”という波は、たとえばあなたが弾くギターや私が弾くピアノのように、固定された両端で反射する弦の波がいい例で、左にも右にも進まず繰り返し振動する波なのだけど、私がこの定常波を人間の知恵や知性や意識などと結びつけたその理由は、ピタゴラス(16)がをはじいて簡単な整数であらわせる協和音程の比を見出し、このピタゴラス音階は現在の12平均律音階に通じているということだけど、何よりそれを人間が心地よいと感じられるということによるのね。

  そしてもう一つは、生物の各々の個体において、定常波のように左右に進まず繰り返し振動する光の波が、ともするとその生物の“意識”をもたらしているのではないだろうかと思ったのね。

  つまり、脳よりも意識が先で、これで脳をもたない植物にも、知恵や意識があることが説明できるし、また私たちの遠い先祖のバクテリアも、脳がなくても知恵や意識があったお陰で、私たち人間が進化の末に今に至ることができたのだろうと思えるじゃない。

  そして、このカシミール効果のようなものを考えると、あなた達が言っている“執着説”にも、また一定の説明ができると思うの。」

  と、レイコは『Newton』より、そのカシミール効果の絵を示して見せる。

「このようにカシミール効果、あるいはカシミール力というのは、向かい合わせの2枚の金属板の内側がその外側のより大きなエネルギーに押されるために金属板が引き寄せあうということから、内側から見て“引き寄せあい、引き合う力”になるわけで、人間はまずここから“力”という概念の芽を得たのかもしれない。

  なぜなら、人間が関心をもつ“力”というのは、今日話題の“自然界に存在するすべての力を統一する大統一理論”にむけて言われる“4つの力”が、重力・電磁気力・弱い核力・強い核力といわれるように、なぜかいつも“引き合う力”に焦点があてられていて、人間は莫大な費用をかけて加速器つかってその研究に余念がない。

  しかし、私が以前にお話ししたセント・ジェルジ(17)の“構成力”あるいは“自己組織力”ともいうべきものには、この大統一理論に比べると関心を示す人は多くはない。それをここでもう一度振り返って見てみると-、

 “・・ここで‘構成’というのは、自然が何か意味あるように二つのものを組み合わせると、その構成要素の性質からは説明できない新しいものが生ずるということである。このことは、原子核や電子から巨大分子や完全な個体に至る複合体の全域にわたって真実である。この相互作用こそ、最高次のすべての機能を生ずるもので、意識、記憶、追憶あるいは学習等の精神現象として現れるものである。生物はそれ自身のなかに、これまでにはまだ確立されていなかったある原理、いわば自分自身を完成させる傾向をもっていると思われる。この自己完成原理はすでに水素原子のうちに存在していたのかもしれず、生命はその起源をこの原理に負うているともいえるだろう。”-ということなのね。

  だから私は、自然界の様々な“力”には、当然こうした“構成力”あるいは“自己組織力”も含まれて、大統一理論というからにはこうした力も考える必要があるだろうと思うのだけど、4つの力がすべて引き合う力というのは、ともすると、この“力”という概念の芽そのものが“引き合う力”だからであり、その起源はこのカシミール力のようなものではないだろうかと思ったのよね。」

「先生、ということは、このカシミール力的な“引き合う力”が、人間=ヒト=ホモ・サピエンスの執着力につながったということでしょうか?」

「うん、そうね。それでもし私たちの先祖のヒトが、このカシミール力的なものにエネルギーを注ぎ込んでいった場合、外に比して内が低いそのエネルギーが高まっていくことにより、外のエネルギーに接するようなことになるから、そこから“作用反作用”の概念の芽が生まれ、これがそもそも相対知のもとになったのかもしれない。」

「先生、ちょっと待ってください。ヒトの視覚が感応する可視光線域とは、太陽光エネルギーの波長のなかで最もエネルギーの高い領域(18)だったと思うのですけど、ということは、ヒトはその進化の過程で、その太陽光エネルギーの最も高い領域=可視光線域へと、自らもエネルギーを注力してそれを求めていったということでしょうか?」

「うん。そのように考えると、光のエネルギーからすればγ線よりはるかに低い可視光線でありながら、それが太陽光エネルギーの波長のなかでは最もエネルギーの高い領域であったことから、それを求めたヒトというのは、それに合わせるべく莫大なエネルギーを注いだものと考えられ、この“引き合う力”からあなた達のいうようなサピエンスの恐るべき“執着力”が形成されて、そのエネルギーはついにはγ線なみの電子1個分の0.511MeVより大きいものになったのかもしれないね。今日でも人間は全エネルギーの約20%を脳につかっているというし。

  私はね、多分、ずっと私たちホモ・サピエンスは、“光”を求め続けてきたと思うのよ。

  それで一方、サピエンスと同時期を生きたネアンデルタレンシスは、アフリカ生まれのサピエンスとは異なって、日が短くて日差しが弱いヨーロッパを中心に生きていたから、後頭部の出っ張りにその痕跡が見られるように視覚自体をより発達させる必要があり、この強い“執着力”を形成するには至らなかった。だから、知恵=光に依存する人類であるにもかかわらず、光にゆかりの磁気の変化に揺り動かされるまま対応できずに絶滅した。つまり、サピエンスのこの執着力は、進化論的には一種の“抵抗力”ともなった-これがあなた達の仮説だよね。」

  テツオはここまで彼らのブログを読み込んで覚えていてくれていたレイコに対して、頭が下がる思いがしている。

 

 “光電効果

  しかしレイコはその頭を上げたまま、ボードにまた新たな文字を書き加える。

「でね、私がさらに考えたのは、この光知性原理におけるカシミール的な効果において生じている定常波に対してね、多大なエネルギーが注がれると、定常波には整数があらわれるということから、ともするとこれは“量子化”されているような現象が起こるのではないだろうかと思ったのよね・・。」

「先生、その“量子化”とは、何でしょうか?」

量子化というのはね、いわゆるパケットといえばいいのか、光のエネルギーが整数単位でとびとびの値を取るように、粒のように数えられるということなのね。つまり、あなたが今回指摘した、光の粒子と波の二面性の原因が、電子1個分に相当する人間の相対知のエネルギーだとすれば、ちょうどそれと同じように、この定常波も粒子のように量子化をされるのではと思ったのよね。

  それで私が考えたのは、ここにもし同じ光でエネルギーの非常に高いγ線が当たった場合、“光電効果”のような現象が生じるのではないだろうか-ということなのよ。」

「その“光電効果”(19)という現象は、これは教科書にもありましたけど、それはたしか、“光を光子の集合体と考えて、γ線のように光の波長が短いほど光子のエネルギーは高くなり、その光を金属に当てると金属中の電子が光子からエネルギーをもらって外に弾き飛ばされる”という現象ですよね・・。

  ということは、同じ光をもととして、人間の相対知が執着力で量子化されているとするのなら、エネルギーの非常に強いγ線が当たることで同様に弾き飛ばされるのではないか-ということになる・・。つまり、放射能が漏れ出して莫大なγ線が環境に放出されると、人間の相対知はダメージを受け維持できなくなる-ということになる・・。」

「そう。このことは、あたかもネアンデルタール人たちが磁気変化に対応できずに絶滅したのと同じような理屈になり、これで私たちサピエンスも同様に絶滅するという仮説が考えられると思うのね。」

  ここまで来て、テツオはいよいよ本丸に入ったかと思うのだが、彼はここで以前から聞きたいと思っていたことを口にする。

「先生、これまでの物理学の歴史において、人間の知恵や意識の問題を、こうしたミクロの粒子や波や量子といった問題に、むすびつけて考えた人って、どれぐらいいたのでしょうか?」

  レイコはここで、また新たな書物を取り出してテツオに見せる。

「この問題は、量子論でいう所の、人間の“観測”が光子や電子などといった物理的な実在とされるものに、どう影響を与えるかという問題につながると思うのだけど、たとえばフォン・ノイマンらは、電子や光子の状態を観測して、その観測結果が人間の“意識”に上った時に状態が一つに決まる-つまり、人間の意識の介在によってミクロな状態が決まるのだ-というように考えたといわれている。

  それに対して、シュレディンガーが、“半分死んで半分生きているみたいな、生死という状態が共存しているようなネコが存在をするのだろうか?”という有名な『シュレディンガーのネコ』なる思考実験で批判したという話がある(20)。

  しかし、私が思うに、これまで私たちが見てきた所ともっとも近い話というのは、ド・ブロイのこの文章(21)じゃないだろうかと思うのね。

 “すべての古典(物理学)的な理論には、容認された仮説があって、一つの体系の状態を量的に観察しても、その状態を少しも乱さずに済むということになっている。

  つまり学者は、その体系と自分自身との間に、問題となる程のエネルギーの交換を行わずに、これを観測し測定することが出来るものと認めている。

  ところが我々の感覚は、常に我々の感覚器官に及ぼす外界の作用、従って外界と我々の身体との間に行われるエネルギーの交換を予想するものであるから、単なる観測の場合においても、厳密に言うとこの仮説は明白に不正確である。”-ということなのね。

  ド・ブロイは、“人間ではなく光にこそ知性がある”とまでは考えていなかったと思うのだけど、彼がこの文章で指摘した“エネルギーの交換”という現象を、私たちは、光→エネルギー→粒子と波→人間の相対知-といった流れで、自分たちの仮説を通じて展開してきたのかもしれないね。」

  しかし、自分たちの仮説に対してある程度の裏付けがありそうな感じがしても、ことサピエンスのネアンデルタール人みたいな絶滅説まで及んでくると、テツオはなおも慎重に、残った疑問を聞いておきたい気になってくる。

「先生、この『光知性原理』の仮説によって導かれてきた、“人間=サピエンスの相対知がγ線にやられてしまう”という現象は、はたして人間以外の他の生物には影響はないのでしょうか?

  それと、仮に人間だけの現象とした場合、その影響は地球上の全ホモ・サピエンスに及ぶのでしょうか? それとも、たとえば3.11原発事故の当事国の国民みたいに、放出されたγ線に近い範囲の人間だけに及ぶのでしょうか?」

 

 量子もつれと非局所性”

  それを聞いてレイコはボードに、あらたにこの字を記して見せる。

「まず、ヒト以外の他の生物に対しては、影響はないと私は思う。というのは、執着力で相対知をもっているのはおそらく人間だけだから。光電効果はエネルギーの高い光子が粒子としての電子に当たって弾き飛ばす現象なので、電子のような粒子がなければ起こらないから、相対知を持たないようなヒト以外の生物たちには起こらないと思われる。

  私が思うに、このことは、旧約聖書の『創世記』-ノアの箱舟の物語(22)における、神の言葉-

“わたしは箱舟から出たすべてのものとの契約を立てる。その契約によれば、今後ふたたび全被造物が洪水によって滅ぼされることはない。わたしは人間であれば人間の責任を追及する”

-を成就するものと解釈できる。つまり、人間の“因果応報”そのものといえると思う。

  次に、この影響が、原爆や原発事故で放出されたγ線に近い範囲の人間だけに及ぶのか、あるいは地球上のホモ・サピエンス全体に及ぶのかという問題は、少し複雑な話になるけど、私はこの“量子もつれと非局所性”の考えがつかえるのではないだろうかと思うのね。

  この話も、粒子と波の二面性の謎と同じく量子論の大きな謎とされるのだけど、高校生の教科書には載ってないから、ここでかいつまんで説明するとね・・。」

  と、レイコはまた様々な書物(23)を開いてテツオに示す。

二つの量子の間でいったん相互作用(これを“相関”という)が生じると、その二つの量子がたとえどんなに離れていても、その相関性は完全に保たれる-という、いわゆる“量子もつれ”の性質が自然界にはあるとされる。

  たとえば電子を例にとると、電子はスピンをするのだけど、そのスピンには上向き(アップ)と下向き(ダウン)の二つがあって、二つの電子Aと電子Bにこのアップ・ダウンの相関性をもたせておく-つまり、一方がアップならば、他方は必ずダウンになる。

  それで、この電子A・Bをもの凄く遠い所に、たとえば100兆kmあるいは200万光年ぐらい離しておいて、測定器にかけた時に起こるのは、電子Aがスピンアップと観測されたその瞬間に、電子Bは自動的に(観測されることなしに)スピンダウンに決定する-ということなのね。」

「先生、でもそれって、100兆kmや200万光年も離れているのに、AがアップならBがダウンというように、Aの観測を受けた結果が、どうしてBに瞬時に伝わるというのでしょうか?」

「そう。自然界には光速を超えるものはないというのに、100兆kmは光速でも約10年はかかるのに、いわんや200万光年も離れては、Aの観測結果がBに瞬時に伝わるなど、あり得ないと思うよね。

  でね、問題はまさにそこで、“粒子と波の二面性”と同じように、この電子Aも人間が観測するまで、スピンがアップなのかダウンなのかが確定しない“重ねあわせ”の状態にあるのだけど、電子Aを観測してアップかダウンが分かった時に、なぜBも同時に分かるのか-ということなのよ。」

「先生、それじゃ何だかワケが分からねえって、言いたくなります。」

  と、テツオの集中力が衰えそうに見えた時、レイコはやや顔をほころばせ、ボードにマンガのような絵を描いてみせる。

「テツオ君、この話はこの本にもあるように、片方の足と足とにいつも違う靴下をはく人が、片足だけを見せた時、仮にそれがピンクとしたら、もう片方はピンクじゃないとすぐわかるということと、同じではないだろうかと、言った人がいるんだってさ。」

  この例え話と絵を受けて、テツオはその執着力を取り戻したようである。

「先生! じゃあ、それってきっと、女の人がヌーディーベージュのタイツをはくか、それとも黒のタイツのどちらをはくかということと、同じですよね!」

  しかし、テツオがテツコに押されたみたいにうっかり口をすべらしたのに、レイコは意外といい反応を見せてくれる。

「そう! もっとはっきり言ってしまうと、『白鳥の湖』で、白鳥のオデットと黒鳥のオディールが・・、あれ、オデット、オディール、白と黒、どっちがどっちだったっけ。まあ、一人二役だから同じだけど、この二人が各々白と黒のタイツをはいて交互に出てくる-その例えがわかりやすいのかもしれない。

  それでね、ここで結論めいたことを先に言うと、この“量子もつれ”の問題は、自然界で光速を超えるものはないという“光速度不変の原理”と明らかに矛盾するから、アインシュタイン量子論にEPR論文等で反論をしていたのだけど、一方で量子論に反するような実験結果も出てこないということから、この両者を矛盾させないようにするには、“局所性”を否定して“非局所性”を認めればよい-ということを、J・S・ベルが後に『ベルの不等式』(24)という形で示して、その後に行われた実験では実際に“局所性は否定され、宇宙は非局所性である”ことが証明された-といわれているのね。」

「せ、先生・・、せっかく白黒タイツの例え話でイメージできていたところに・・。その、局所性、非局所性ということも、わかりやすく説明をしてもらえませんか。」

「つまり、非常に簡単に言うならば、相関したAとBを、光速で何年もかかるような宇宙の遠くに引き離しても、Aを観測した結果が即Bがあらわれるということは、宇宙は実は分けられない=局所的(LOCAL)ではなく非局所的である=ということを認める他ない-ということなのね。」

  と、レイコはボードに記していた、さっきのテツオの質問メモにその目を移す。

「でね、あなたのさっきのご質問-光知性原理の仮説によって導かれた、“人間=サピエンスの相対知がγ線にやられてしまう”との現象は、はたして地球上の全ホモ・サピエンスに及ぶのか、それとも、放出されたγ線に近い範囲の人間だけに及ぶのか-ということは、この“量子もつれ”の問題が、粒子と波の二面性の問題と同じように人間の相対知をはたらかせた“観測”に基づいていて、そしてそれがこうして“非局所性”を示したように、同じように“非局所的”であるのだろうと。つまり、局所的にある地域の人間だけに及ぶのではなく、地球上の全ホモ・サピエンスに及ぶのだろうと、私は思うの。」

  そしてレイコは、ここでボードのコピーをテツオに渡すと、ボードを消していった所に、続いてまたマーカーで何かを書き加えていくようだ。

「以上のことが、物理学でいわれるところの“量子もつれと非局所性”の簡単な概要だけど、私はこの話をしながらも、あることに気づいたのよね。

  つまり、私たちの『光知性原理』によれば、“粒子と波の重ねあわせ”で、人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、重ねあわせの状態より、波から粒子が人間に認識される。

  そして今度は、“量子もつれ:電子のスピンアップとダウンの重ねあわせ”で、人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、重ねあわせの状態より、電子Aがアップと認識されればBはダウンと認識される-ということだよね。そして電子AとBがある時空は“非局所的”であるという。

  ということは、電子AとBがある時空は、100兆kmや200万光年も離れていて、なおかつ瞬時に伝わる非局所的であるというのは、この時空には人間が言うところの、遠い近いという相対知や、瞬時や同時という相対知はもはや利かないってことになるよね。

  にもかかわらず、このように相対知はもはや利かないというなかで、どうして、人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、重ねあわせの状態から、電子Aがアップと認識されればBはダウンと認識される-などという“電子A・Bの相関を認識する相対知”は、あいかわらず利いているのか?・・・  それが不思議であるように私なんかは思うのだけど、テツオ君はコレ、どう思う?」

「セ、先生・・、相対、そうたい、ソウタイって、僕はもう何が何だかワケが分からず・・、分からないから相対どころか、ここで早退したいみたいな・・。」

「つまりね、思いっきり簡単に言ってしまえば、“非局所性”というのだから、宇宙のすべては“分けられない”ということになり、100兆kmや200万光年といった遠いか近いか、または瞬時や同時というようなのが“分けられない”というのと同じく、スピンアップとダウンの電子A・Bも“もつれ”とか“相関”というよりも、結局は“分けられない”ということなのよ。

  これはさっきの例え話の、白鳥と黒鳥、オデットとオディール、白タイツに黒タイツ、これらは結局一人二役なんだから“分けられない”ということと、少し似ているのかもしれないね。」

「・・なるほど、そうか、確かにそうですよね。・・なら、今度はぜひ、ヌーディーベージュを・・。」

「でね、私が言いたいのはタイツの話なんかじゃなくて、以上のことを私たちの『光知性原理』でとらえると、“粒子と波の二面性”そして“量子もつれ”という“量子論の大きな謎”が意味しているのは、

  • 人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、“粒子と波の重ねあわせ”より、波が収縮して粒子として分けられて認識される-これを人間の相対知の端緒とすると、
  • 人間が相対知をはたらかせて分かろうとした時に、“量子もつれ:電子のスピンアップとダウンの重ねあわせ”より、電子Aがアップと分かって認識されればBはダウンと分かってしまう。

  しかし、ここで“宇宙は非局所的である”ということに直面し、すべては分けられないということになる-これを人間の相対知の終極と考えることができるのではないだろうか、と思うのだけど。」

「・・ということは、この二つの“量子論の大きな謎”が意味するものは、人間が相対知しかもてないということと、そしてその相対知の限界を示す証拠である-ということでしょうか・・。」

「そう、そのとおり! ここまで来ると、私たち、ついにここまでやって来たって感じがするよね。

  それで又もうひとつ、“人間の知は相対知であり、それは自ずと限界がある”ということを示唆していると思われるのは、このハイゼンベルグ不確定性原理の式“ΔX×ΔP=h”があげられるのではないかと思う。

  このΔPは運動量の不確定さ、ΔXは位置の不確定さをあらわしていて、この書(25)によれば、

ΔXをほぼゼロに等しいとした場合は、ΔP=h/ΔX(hはプランク定数=6.6255・・)であるから、ΔPの運動量は無限大の範囲で不確定となることから、運動量を問題にしなければ位置だけは(ΔXはゼロなので)はっきりするということになり、これは“粒子”の性質をあらわしたものといえる。

  逆に、ΔPをほぼゼロに等しいとした場合は、同様に運動量は決まるが、位置は無限大の範囲で不確定となり、P=h/λ(λは波長)であることから、これは“波長すなわち波”の性質をあらわしたものといえる

  つまり、粒子と波という“相対知”から見た二面性というものは、この不確定性原理の式で、ΔXをゼロとするか、ΔPをゼロとするかの違いだと思われるけど、“ΔX×ΔP=h”のhはプランク定数で、これはゼロにはならないものだし、ということはΔXもΔPもゼロにはできず、さっきのボーアが言うように“hが自然界(光)の下限”を意味するものと考えれば、“ΔX×ΔP=h”の式はすなわち、“粒子と波とを相対的に明確に分けてしまうことはできない”ということを示唆していて、それはすなわち、“人間の知は相対知であり、それは自ずと限界がある-しかもその限界は光によって画される”ということを示唆していると思われる-ということなのね。」

「セ、先生・・、僕は美意識には敏感だと思いますけど、数学は苦手なもんで・・。Δやλなんかより、AやIやRの方が、僕にはより親しみやすいと・・。」

  と、テツオがボードの板書に疲れた目線を、レイコのその全身像にあらためて向けたところで、彼が空気を読みながら今まで見てきたAやらIやらRラインで、立ったり座ったりをし続けていたレイコの方も疲れてきたのか、ここで一息入れたいようだ。

「テツオ君、私たち、頭つかって疲れてきたから、ここらで一息入れようか・・。

お腹すいたし、甘いものも欲しいだろうと、ホットケーキをつくってきたけど、いっしょに食べない?」

  テツオはこれは望外の喜びと嬉しくなって、飲み干した1杯目に引きつづき、2杯目は「では僕がコーヒー、入れますから」と、カウンターへと向かっていく。

 

  二人の席はいつの間にかホワイトボードを目前にした丸テーブルへと移っていて、そこには書物や資料やボードのコピーが、ところ狭しと置かれている。

  レイコは休憩タイムに入ったので、録音していたウォークマンを止めようと手をかける。

「あ、先生、それはそのまま・・、休憩中も録音はそのままで・・。」

  テツオとしては、レイコとの会話のすべてを、取っておきたいと思うのだった。

「じゃあ、録音はこのままで・・。もしもテープが足りなくなっても、予備用の古いテープを持ってきてるし・・。」

  と、レイコはカバンの中から予備用のテープを取り出し、そこで何かを思い出す。

「・・ね、厨房に低温殺菌のいい牛乳があるのだけど、それでカフェオレにしてみない?」

  

  レイコと並んでカウンターに立ちながら、一緒に準備をするテツオ・・。

 -レイコさん・・、コーヒーをカップへと注いだ時に、表面に白い霧のようなのが浮かぶのが好きなのよね・・-

  彼のすぐ隣では、ホットケーキをお皿に移してメープルシロップをかけていくレイコがいて、テツオは彼女のその息づかいをふつふつと感じている。

  テツオはレイコのオーラに触発されてか、彼の中よりテツコがあらわれ、まるで女同士でいるみたいな、たまゆらにたゆたうようなうっとり感を覚えながらも、レイコがいつも入れるように、湯沸しから湯をポットへ移し、まずはカップを温めながら、そこにミルでひきたてのコーヒー豆をカリタ式よりドリップで落としていきつつ、一方ではカフェオレ用に牛乳を沸かしていく。

  レイコは先にホットケーキのお皿を持って、ボード前の丸テーブルに着席すると、ここまでの対話編の確認をするかのように、テツオの文書とボードのコピー、それと書籍や資料などを交互に見比べたりしているが、カウンター越しのテツオの目にはその姿が、やわらかな午後の光に照らされたあのフェルメールの絵のように、美しく見えてくる。

  -・・あれ、レイコさん、初めてメガネをかけている・・・-

  この日、喫茶室にはいつものBGMはなく、アンティークの柱時計の金色の大きな振り子が、喫茶室のほの暗い空間に、規則正しく秒針を刻む音が聞こえている。

  テツオの視線を感じたのか、レイコはテーブルより顔をあげてカウンターへと視線を送るが、そのわずかな一瞬だけ、二人の目線は合ってしまった・・・。

  -レイコさんの黒い瞳が、メガネの縁から知的さをさらに増し、いっそう黒く光って見える・・-

  格子状の窓から注ぐ陽の光が、弧を描いていくようにレイコのメガネの、その細くて黒いフレームをなぞりつつ、左右の端をはねあげるようにして過ぎ去っていくと同時に、レイコもまたメガネを取り去って、すばやくカバンに仕舞いこんだ。

  湯気が沸き立ち、コーヒーを入れる間合いもいいようだ。

  コーヒーと牛乳の黒と白とが、たがいに艶を放ちつつ、らせんを描いてフラクタルにまざっていくのを見つめながら、テツオはそれでもレイコのメガネをはずした横顔に、時より目線を向けている。

  あの一瞬だけ垣間見た、メガネをかけた彼女の目を、思い返そうとするかのように・・・。