こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第十九章 赤と光

  あの日、ユリコはテツオに、こんな提案をしたのだった。

「ねえ、テツオ。あなた今度は女装姿で、県に出向いて街中デビューを、飾ってみたら?」

  ユリコに嫌がられるどころか、逆に奨励されるとは・・・-テツオは少し意外な気持ちだ。

「・・で、でも、弁天小僧みたいにさ、バレたりしたら、どーすんのさ・・?」

「いーじゃないの、バレたって。私たち新たなヒトは、男女の性を超えるんだし。それに、もとより女性は花と同じく、見られてこそさらに綺麗になるものなのよ!」

  そう言われてみると、テツオはさらなる美を求めてか、俄然ヤル気になってくる。

「テツオ。女の私が見るところ、バレるとすれば・・、その声はやむなしとして、あとはやはり顎まわりのフェイスラインか・・・。でもそれらは、マスクで隠せばクリアーできるし・・。

  だけど、あなたのその歩きっぷりって、お世辞じゃなくて、女よりも女らしい、理想的な女性の歩きよ。だから私は、あえて街中“テツコ・デビュー”をすすめるのよ。

  それに、バレるのが気になるのなら、県で時おり“プチ・アソビ”ってコスプレ大会、やってるじゃない。その日にテツコ・ビューをすれば、もっとハデハデコーデで歩いてる人も多いから、女装ぐらいで誰もヘンとは思わないよ。」

  そこまで言われて、テツオはさらにテツコとなって街を歩いてみたくなるが、そう言うユリコの言葉には、もっと深い意味合いがあるようだ。

  ユリコはまた日をあらためて、テツオにこう語りかける。

「テツオ・・。これはあなたとオバアにしか言わないけれど、私は未だに父の死が信じられず、その実感がないのよね・・。だから私は、生と死がよくわからず、いくら本で読んでも考えても、この問題はわからないから、歩く行を重ねながら、きわめていくしかないと思う。

  私が思うに、男と女を分けるのと同様に、生と死を分けるのもヒト特有の相対知によるだろうから、そして私の経験では、人がその相対知を超える一つは歩く行によるだろうから、あなたがそこまで女っぽく歩けるのなら、あなたが実際女となって街を歩けば、何か別な境地へと達するのかもしれないと、行者としても私は思うの・・。」

  テツオは-さすがにユリコは島のノロ-と納得をしながらも、必ずしも自分への関心だけで言われたわけではなさそうな彼女の言葉にやや不足感を感じながらも、これで憚ることなく“テツコ・デビュー”ができそうなので、彼はもっぱら更なる己の美を求めて、街中デビューの準備を始めた。

 

  秋も深まり、木の葉も紅く色づきそうな“プチ・アソビ”の前日の夜、明日に向けて今までの一人女装の集大成、準備完ともなったテツオは、ゆっくりお風呂につかりながら、入念に“毛の処理”を行っている。それは、上から順にいうならば、ヒゲは当然、胸の毛はネックからのVゾーンを剃りあげて、手は肩から、足は腿から、各々の甲と指に至るまで入念に剃りあげる。乳首まわりとヘソまわり、下腹部へと連なる毛並みは(キンゴにもタミにもなかった)自分の男のプライドとして残し、ヘアは当然、同じくノースリーブでもないのだから腋毛も残す。そしてテツオは、湯船に掲げた片足が、湯煙に包まれて、風呂場の明りに照らされながら、光沢を放ちつつ剃りあげられていこうとするのを、ダイヤカットを見るように角度を変えては矯めつ眇めつ、風呂とはいえ溜まらない色っぽさとエロっぽさに生唾を飲み込んで、思わずオナニーへの衝動を感じてしまう。だが彼は、ここでそんなことしてはテツコに申し訳ないからと、ここは足を高く掲げたせいで生唾ばかりか風呂の湯までも飲み込んで、とりあえず毛の処理をすませた後、脱衣所でいつものように自分の裸体を、ダビデ像みたいに愛でる。

  -ああ、僕の、文字どおり水もしたたる何て美々しい男性ヌード・・。でも女装を重ねる度ごとに、気のせいだろうか、ペニスが縮んでいくような・・。かといって尻も乳房も筋肉以上に膨らまないし・・。ある女形の歌舞伎役者が“もとはいかり肩だったのが、なで肩になっていく(1)”って言ってたけれど、スッポンみたいなペニスのかわりに、スッポリそこにショーツが入るというのもなあ・・・-

  しかし、翌朝、いよいよテツコ・デビューの当日を迎えたテツオは、いつも通りの朝の勃起にホッとすると、また入念にヒゲを剃り、化粧水と乳液をつけ、下着のショーツをスッポリとおさめた後、男性の装いでキャリーバッグを片手にたずさえ、ヨシノパパの漁船に乗り込み、県の漁港へ向かって行った。ヨシノパパはキャリーバッグに目をとめて、“テツオ君も渡航準備で大変だねえ。淋しくなるなぁ”と言ってくれたが、もちろんそこにはテツコの女装の一式が込められているのだった。

 

  県一番の繁華街への入り口である中央駅の駅ビルに着いてみると、そこには今日の“プチ・アソビ”の参加者だろうか、テツオと同じくキャリーバッグをたずさえた若者たちが大勢いる。このビル内のコスプレショップが、当日は臨時の楽屋を併設してくれ、参加者はそこで“変身”するようだ。楽屋は成人式の着付けのような畳敷きの床上に、所々に姿見が立掛けられた簡素なものだが、超ハデハデのアニメコーデのコスプレ達は、かえって互いに面白そうに着替えをしている。テツオはそこで幸運にも、ダンボールが積まれて見えない隅っこを発見し、-ここなら自分一人で誰にも見られず、また一枚の姿見を独占できるわ。今からあたしは、イモムシからチョウのように変態を遂げていくのよ・・・-といった具合に、かくして一世一代の心意気で“テツコのメイク”に着手していく。

 

  テツオは恥ずかしそうに上半身裸になると、ショーツとお揃いネイビーレースのブラキャミを、乳房にあたるパットのお椀がイチイチひっくり返るのに苦戦しながら窮屈さながら何とかつけて、そして匂いが沸き立つように、ここで早やバラの香りのフレグランスを上半身いっぱいに振りかける。

  つぎに、後ろが少しクリフカットで色調はカフェ・モカのショート・ウィッグをつけるのだが、その前に、彼は独自の考案として、顔面のこめかみから頭上へと、スポーツ選手がやるようなテーピングをほどこして、顔側面から顎まわりをリフトアップしようとする。これは男っぽいフェイスラインを是正して小顔効果をはかるとともに、将来的にはホウレイ線を強制的に引っ張り消してマイナス5歳の若返りを試みようとするものだが、ウィッグをつけるのはこれを隠すためでもあった。

  そしていよいよメイクに入る。まず、UVや下地こみなど一瓶5役と銘打ったクリームファンデを、ヒゲ剃りあとの顔下半分、首筋まわりにまでほどこし、これを土台に、ヒゲ剃りあとの青の補色とオレンジ色のコンシーラーを押し込むようにつけていき、その上に、健康的なお肌用との一番濃いいリキッドファンデを肌になじませほどこしていく。そしてさらにその上に、少しばかりの血色感をとローズピンクのパウダーチークをチークではなく顔中のここかしこに散りばめては、またその上に、同じく濃いいパウダーファンデで全体の色調を整えて、これらおよそ5重の層でテツオは女装メイクのピンポイントたるヒゲ隠しと基盤メイクをまずは済ませる。

  それでチークは、いっそうのアクセントをつけるため、頬骨から目尻にかけて直にリップを点置きしては、指先ではねあげてぼかし込み、桜から牡丹のようなピンクから真紅へとグラデーションを重ねるように見せていく。またアイメイクは、この前ユリコがしてくれたブロウやシャドウを試してみるうち、それよりも美青年の秀麗眉目を活かすため、今回はアイホールからアイラインの目尻にかけて、愛嬌がてらブラウンとラベンダーの薄塗り程度でとどめおき、その代わりにバレ予防と小顔効果をはかるため、茶に黄まじりの伊達メガネをかけることで調整する。

  そして最後の仕上げとして、口紅はメイクにとっては画竜点睛、テツオは独り言を続けつつ、その唇へのルージュの引き語りへと入っていく。彼はバーガンディーの口紅を、まばたきに連動させるかのように、ン~パッ、ン~パッ!を繰り返し、またティッシュオフを押隈みたいに重ねては、上唇の二山も鮮やかにその唇へと盛っていく。それでなるべくおちょぼ口に見せるため、下唇の両端を肌色ファンデで補正して、これでようやく約1時間、“テツコのメイク”は完成されたようである。

 

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  -ああ、何てあたしは美しいの・・。今日のあたしは、まるで本当のチョウのようよ・・・-

  テツオはここで姿見前に立ち上がり、残った男子のデニムパンツを脱ぎ落として、ネイビーレースのブラキャミとショーツのお揃い-完成された女子メイク&下着姿にうっとりとするのだが、この後にも、男味が薄れていくのにテツコ・デビューの隠し玉は加速度つけて転がるようにまだまだ続き、これからは“足”の仕上げに入っていく。

  テツオは剃りあげられた二本の足を濡れタオルで一拭きすると、つづいて指先の一本一本丁寧に、まるで白磁の陶器に彩色をほどこすように、ワインレッドのペディキュアを爪先へと灯していく。そして親指が一等先んじ、小指にかけてアーチ型の弧を描きつつ、左右対称なだらかに紅花よろしく揃えられた足指先を眺めるうちに、彼は言いようのない幸福感と華やぐ気持ちに満たされていくのだった・・。

  -ああ、何て美しく、また可愛らしいの・・。ワインレッドの赤の深みが、あたしの白い指先とピンクの指頭の合間から、若冲の絵のような極彩色の花びらを咲かせているのよ・・・-

  そしてテツオは、ペディキュアをドライヤーで乾かすと、ここでいよいよ“透けグロ”のストッキングをはいていく。LLとはいえ引っかかってはきにくく、慌てて事を仕損じてピシッとデンセンせぬようにと、慎重に引っぱり上げていくテツオ・・・。

  -・・・爪先が真っ赤な光を反射させつつ、すべるような繊維のなかで、指のラインが光沢を行きわたらせ、足裏かかとのふくらみも、血潮のめぐりに裏打ちされて、朱とピンクのグラデーションを重ねながら、ナイロンの薄いヴェールに包まれていく。細くくぼんだアキレス腱と、紡錘型のふくらはぎが、ゆるやかな脚線を描きつつ、黒ナイロンがより透かされ、二本の足の肌あいを淡く白く浮き立たせて、この稀に見る30デニールの脚線美は、マレーネ・ディートリッヒのそれを超えるの・・・-

  また改めて姿見で、男性の硬骨さが薄れゆくなか自分の女性に恍惚と見入るテツオ。ここまでで、メイク完成、ネイビーレースの下着姿&“透けグロ”に赤ペディキュアと来たのだが、しかし、これでもまだ、女装の序奏にすぎなかった。

 

  序奏のあとにはいよいよ表層。トップスは、彼お気に入りのピュアホワイトのシルクブラウス。体を華奢に見せるため、敢えてMを着込むのだが、前立てのフリルの合間にボウタイを蝶結びにして可愛くおさめ、右前やら左前やら指先がなじまないなか第一ボタンを律儀にとめて、その窮屈さが快感ともなってくる。ボトムズは彼あこがれのボルドーのタイトスカート。腰を細く見えるため敢えてキッツキツのウェストに、これはこれで腸結びかとくたびれそうになりながらも、バイオリンやチェロみたいな弦楽の“くびれ”を見ては幻惑を覚えつつ、ヒップのハリをスカート上から確かめるうち、文字どおり気持ちにハリも出るのだった。そして肩幅を狭く見せ、またキチンと感を出すために、やや裾長細身のクリームベージュのジャケットを着て、頭にはワインレッドのベレー帽をやや斜に被り、また同色のマニュキュアを両手の爪にほどこして、これでテツコのコーデは完成かと思いきや、さらにまたワンステップ、まだ一段上の画竜点睛が残っている。

 

  それは一段上というだけに、対象は足もとにあり、女物のシューズのことで、実はこれがテツオにはヒゲ隠しと同様にテツコに通じる最大の難所だった。彼の足は5L=26cmEEE、これに合う女シューズは滅多になく、しかもコスパの予算の制限がある。ミュールは何とか見つけたが、彼がこだわるパンプスはヒール3.5cmは何とかはけても、彼が是非にと憧れのヒール7cmのパンプスは、なるほど本物の女性たちが“#ku,too”と言うだけあって、爪先に血豆が出来るほど痛い。しかし、職人気質の彼はこれで諦めようとはせず、それならいっそパンプスの先っちょ切って苦痛を減らし、また浮世絵の花魁みたいに足先を見せてやれと、フルオープントウに改造を試みた。

  テツオはそれでパンプスの先端をカッターで切り取ると、ソールにはフェルトを貼り付けて、足の甲があたる所は別のベルトのアーチで補強し、さらに真鍮の針金で縫い付けるというまるで靴職人さながらの改造をやってのけた。しかも彼はお洒落にも、甲の部分に穴を残して、そこに取り外しで耳飾りがつけれるようにし、まずは小さな真珠のような飾りを取り付け、今こうしてテツコ・デビューの船出にあたり、この特製のパンプスを自ら手に取り、矯めつ眇めつ祝福をするのだった。

  -ウフフフ・・、何の変哲もない量販店の黒のつやなしプレーンパンプス、それがこうして世界で唯一、あたしだけの“シンデレラ・パンプス”となったよ・・。シンデレラはガラスの靴というけれど、そんな硬さはあり得ない“#ku,too”というもの。彼女はこの犠牲を払って、何よりこれで彼女を覚えた王子の愛を勝ち取ったに違いない。ということは、あの王子って、足フェチかな?・・-

 

  気づいてみると、いつの間にか他のコスプレ者らは行ってしまった後だった。テツオは革のショルダーバッグに貴重品やらお化粧直しの小物やらを詰め込むと、念のためにマスクをつけ、キャリーバッグを預けたままコスプレショップを後にして、駅ビル下へと降りていく。そこには他のコスプレ者らも入り混じり、改札から出た人もいて混雑をしているのだが、ここを出たら-あとは自分一人で今日一日を“女として生きていかねばならない”-と、テツオはとても緊張している。だが同時に、彼は“今日あたしは、ついに女として街へデビューしていくのよ”と、まるで自分の60兆の全細胞にいっせいに切替スイッチが入ったみたいに、全身くまなく華やぐ感じもするのだった。

  人の流れに乗るままに駅ビルから出るテツオ。今、彼の目前には、人やバス、タクシーが行きかっている駅前広場と、デパートやホテルなどが建ち並ぶすでに見慣れた光景が広がっている。

  そして今、テツコとなったテツオには、太陽が輝きながらさしかかってこようとしている。

  -光、光、今まさに、あたしは光を感じている。今日は晴れ。時はまさに正午にかかり、今はあたしの人生の正午なのかもしれないけれど・・、でも、なぜこんなに、光を感じているのだろう・・?-  

  テツオは今回メガネを買う際、ついでにやった眼底検査で瞳孔を開いた時に、見るものすべてが光に包まれて見えたのだが、女となって街へ一歩を踏み出したその瞬間も、あたかもそれに似たように、世のすべてが光り輝いて見えるのだった。

  -これはメガネをはずして裸眼で見ても変わらない。ということは、視覚の問題ばかりでなく、気持ちのせいでもあるのかな・・? でも、とても微妙ではあるけれど、はっきり感じた気がするのね・・。しかも、少しばかりの“ゆらぎ”までも覚えたような・・。ひょっとしてこれは、気持ちというより、何らかの物理現象なのかもしれない・・・-

  しかし、適応が早いのか、やがて元の感覚へと戻ったテツオは、駅前の陸橋を伝わって、繁華街最大の建造物たるデパートへと向かっていく。

 

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  陸橋を渡っていくうち、デパートの正面入り口が見えてきて、その上には正午をさす大きな時計が掲げられ、その下には秋冬もののドレスを飾ったウィンドウが横一面に並んでいる。テツオがそのパンプスでゆっくりと歩いていくと、デパートの入り口からは女が一人、歩いてくるのが目に入る。

  -おおッ、やけに頭っから足の先までスッとした、いい女が歩いてくるねぇ・・-

  と、さっきまで内なる女の声を聞いていたのに、いざ目の前にイイ女とおぼしき女を見つけると、まるで先祖がえりをするみたいに、オヤジのような独り言が彼の頭の中から起こる・・。

  -アレッ、彼女、マスクをしているけれど・・、いったい、どんな顔なのかな? ドンナ・アンナみたいな顔かな?・・-

  しかしこの時、正午の陽が時計の上から差し込みはじめ、その垂直二足歩行で近づく女っぽウォークいっぱいの全身像が、はっきりとデパート正面ウィンドウに映し出されてきたのだった。

  -エエーッ?? あの女って、あれって実は、“アタシ”なのオォッ?!-

  テツオがその透けグロ美脚を、IラインからAラインへとモード変換させていくと、ウィンドウに映った女もまた鏡面対称性を保ったまま、IからAへと変換させて、しかもさらにその上に、透けグロの光沢を陽の光に照らしつつ、脚線美の筋肉をしなやかにしならせながら、7cmのハイヒールを自在に操れそうな余裕さえ、見せてくれる。

  -ワアア、超カッコイイ!! 悪いけど、レイコさんより、カッコイイわ・・-

  ここまでくると、テツオはもう居ても立ってもいられずに、デパート正面玄関をくぐり抜け、さっそく化粧品売り場へと入っていった。

 

  実はテツオは、今日のデビューに際しては、その女っぽウォークのやり所と見せ所として、頭の中でロードマップを作成しており、そこには各行程と要所の課題、そして等身大の鏡のある多目的トイレの指定があって、その第一にあげられたのがデパートの“化粧品売り場”だった。なぜならここにはフレグランスの香りが満ちて、ブランドもんがいっぱいという、ヴェーヌスベルグの誘惑(2)に負けず劣らず、いかにも憧れの女っぽさに溢れていて、またそれゆえに男子禁制の趣きで立ち入りにくく、プロの女性化粧士の店員もいて、女装者が歩いて渡る難易度が高いと思われ、それがテツオの美貌の冒険心をくすぐったみたいである。

  -今までは遠巻きに眺めるだけだったけど、今日はこうしてレディーとなっての初お目見えよ・・。ふんぷんたる色とりどりのフレグランスの香りの最中、水晶みたいなショウケースに納められたビザンチン風古美術もどきのブランドもののファンデやリップの小瓶たちが、LEDの照明に照らされて、モルフォチョウの標本みたいにきらびやかに並んでいるわ・・。その中をあたしはヒール7cmの靴音を鳴らしながら、レディーに楽しく相応しく、乙女にかなうお求めをと、カネはなくても購買欲は公倍的に高まるのを感じていくのよ・・-

  そしてテツオは、売り場を行き来するうちに、一枚の等身大の姿見に映された自分の姿に、テツコの帽子から靴まで含めた全身像を、ここで初めて見入るのだった。そしてこの時、これはキンゴの影響だろうか、テツオは耳の記憶から“ローエングリン前奏曲”が響いてくるのを感じている。

  テツオはもうここまでくると、テツコとともにこれ以上は我慢ができぬといった具合に、バレ予防のためつけていた白マスクを耳からはずして、そのバーガンディーの唇を外気に向かってキスするみたいに解き放つ。上半身いっぱいに振りかけまくったバラの香りのフレグランスが、襟首から突き抜けて、あたり一面ほとばしり、その趣はボッティチェリーの“プリマヴェーラ”を思わせる。

  -ああ、これほどまでにコスメチックの香にロマンチックに囲まれて、豪華なくらいゴージャスに、クリムトの絵のような金装飾の額縁が、鏡に映ったあたしの姿を囲んでいる・・。

  やや小粋に斜にかぶったワインレッドのベレー帽、その下には、左右に流れるカフェモカ調のショートヘアーと、控えめなラベンダーのアイシャドウに逆八文字の眉がかかった伊達メガネが、小顔効果をもたらしながら黄に茶黒ぶちの角を光らせ、ピンクのチークを仲立ちに、バーガンディーの唇が帽子と対のあざやかな“赤”の効果を放っている。やや裾長細身のクリームベージュのジャケットは、胸下一つのボタンでとめられ、胸のふくらみ腰のくびれが演出されて、胸元のVの字からはピュアホワイトのシルクブラウス、その上品な第一ボタンに蝶に結んだボウタイが、波打つフリルに花咲くように華やかに開いているわ・・。

  そのジャケットの裾下から膝にかけては、ボルドーのタイトスカートでややコンサバに引き締められて、その全身はヒール7cmのパンプスに建てられた、透けグロ美脚を柱とし、30デニールを淡く透かせた赤ペディキュアが差し並ぶ抜け感放つオープントウより、一等抜き出た親指が誇らしげにこのテツコ像の全身のIラインを、爪先、唇、頭の帽子と、3点支持のレッドの差し色きわだたせつつ、微動だにせず垂直二足に支えているのよ・・・-

  そしてテツコは鏡の中より、肩にかけた茶革の小さなショルダーバッグを、赤マニュキュアの片手をあてがい引き上げながら、メガネの奥より艶めかしくも好意に満ちた眼差しを、じっとテツオに向けるのだった。

  -ああ、現がこうして鏡に映ったこんなにも美しい僕とあたし・・・。この2人はまるで、隣り合う2項の和で永遠に続いていくフィボナッチ数列のFnとFn+1とが、その対称性を保ちつつ、その数の比を1.618また0.618というように、永遠の美の象徴である黄金比φに近づいていくということと、何か似ている感じさえする・・・-

  そしてテツオがテツコに、またテツコがテツオに唇を与えようとするかのように、互いに盛ったバーガンディーの唇を、うっすらとした眼差しのまま、貝のように開きつつ、クリムトのユーディットの絵のような恍惚感が、互いに金の水脈が体中を上がっていくかに感じはじめる。

  さらにまた、テツコはこの時、テツオの股間である所に、アツい何かを感じ取る。

  ー・・あら、ヤダ、アタシったら・・。自分で自分に勃ってるわ・・・。

   肝心な時には勃起せず、しても勝手にナエちゃうくせに・・。でも、これって、男としても、女としても、喜んでいいのかも・・・ー

 

  と、その時、

「・・お客様、お客さま!・・」

  と、本物の女性の声が、急にテツオを呼びとめる。

「!ッ、!!!・・・、?・・・」

  テツオは心臓も凍りつくほど驚いて振り返るが、そこには彼と同じ年頃の小柄な女性の店員がいる。

「・・お客様・・、何かお探しものか、お心あたりのものでも・・?」

  テツオは声を発する間もなく、もとより声を出すのもできず、マスクで隠す間さえもないので、反射的に片手を振って-上品にもお嬢さんっぽく振ってみて-、取り急ぎ買う気だけはないというオーラを示す。

  だが、女子店員は怪しむどころか、テツコに向かってニッコリ微笑み、

「お召しもの・・、とってもよくお似合いですよ・・・。」

  と、優しい笑顔で答えると、丁寧にお辞儀をしては、別の売り場へ行ってしまった。

  ボーゼンと、彼女の小走り後姿を見送るテツオ・・・。

「・・・。どうしよう・・、これって、女のあたしへの“告白”かしら・・・?」

  しかし、俄然これで自信をつけたテツオは、デパートの裏出口から、ロードマップの第2のスポット、県中央を流れている新川の“白いつり橋”ウォークへと向かうのだった。

 

  デパートの裏側には川沿いに長く広がる公園があり、夏は阿波踊りの一大演舞場ともなるのだが、普段は市民の憩いの広場で、この日は近所の保育所の園児たちが集っている。園児たちは皆お揃いの小さな黄色い帽子をかぶって、青やら赤やら緑やら、服装は色とりどり。保育士たちが見守るなかで、砂場やシーソー、すべり台を行きつ戻りつ、思い思いにはしゃぎまわって遊んでいる。

  テツオも保育士たちと同じ高さで園児らを眺めつつ花盛りの公園を通っていくうち、つい笑みでほころんでしまうのだが、その微笑むテツコを女児が一人、どうやら怪訝な眼差しで見ているようだ・・。

  -やべぇ・・、あの子、気づいたのかな・・。やっぱり子供は敏感なのか・・-

  テツオはやや歩調を急がせて、その女児の視線をあとにして、新川の向こう岸へと通じている白いつり橋へと向かい、公園を斜めに横切り足早に過ぎて行った。

 

  そのつり橋とは、川幅の中央に建てられた一本の支柱でもって全体を三角形に支えている形のよさが魅力的で、テツオはヒールウォークでかっこよく渡り初めしてキメてみたいと、そんな印象派の絵になるような光景を描いていた。

  つり橋は川沿いに長く広がる公園の東の端から対岸へとかけられていて、園児らが遊んでいる所からは国道を渡っていかねばならないのだが、テツオがつり橋へと近づくうちに、彼にはもう一つの光景がいやおうなしにその視界へと入ってくる。それは4人のチンピラ風の男たちが橋に通じる公園でタムロしている姿だった。

  それは男一人で行ったとしてもカツアゲされる雰囲気であり、テツオは思わず来た道を引き返していくのだが、彼は白いつり橋ウォークを諦めきれず、ここは公園からの表ルートで行くのではなく、国道の橋の下をくぐってぬける裏ルートを思い起こして、園児らの公園から川岸まで下りていくと、国道下へと入っていった。

  そこはトンネルみたいに薄暗く、人気のない通路だった。川岸に近いため潮が満ちると水が溜まってしまうのか、ところどころピチャピチャと舌なめずりみたいな音が、頭上に低い国道の橋の裏目に靴音以上によく響いて、薄気味悪さを増幅させる。テツオはやや不安げに感じながらも、ここをくぐれば公園下からつり橋にすぐ上がれると歩を急がせると、通路の脇をヘビがシュルルと先走っていくのが見えた。

  ヘビの行方は通路の出口で、そこからは光が差し込み、向こうに白いつり橋が見えてくる。テツオが国道下を出て、再び陽の光のもとで、つり橋の形のよい三角形を目にしたその時、彼の目前に先ほどのチンピラ2人が立ちはだかる。

  テツオがとっさに振り返ると、通路の出口は残りのチンピラ2人がふさぐ。おそらく彼らは、テツコがこの国道下の通路へと入って行くのを目にしていて、挟み撃ちにしようとしたのに違いない。-この男らに捕まえられて、橋の下へと引きずりこまれ・・・-テツオがそう察するが早いか、男たちはニヤニヤしながら、テツコにゆっくり近づいてくる。テツオは急に頭が真っ白になるのだが、“助けて!”という叫び声は、恐怖のあまりか意外にも出てこない。

  しかし、また意外にもこの瞬間、テツコの足はその7cmのヒールを活かして、川岸から土手の斜面をケーブルカーみたいに駆け上がると、その身を上の公園へと逃げさせる。男どもも土手を上ると、公園の四隅に駆けては散らばって出口をふさぎ、逃げ惑っているテツコを、まるでクモが巣の獲物に向かうように、公園の真ん中へと囲い込もうとするようだ。男どもは、まるでそれがこれからの前戯のように、またこうすることが彼らの獲物に付随する褒美の一つであるかのように、卑猥な言葉を浴びせつつ、股間を誇示してさすってはイヌのように舌を突き出し、テツコが恐怖に慄けば慄くほど快感が増していくのか、ヘラヘラと笑いながら、テツコをじりじり追い詰める。

  だが、ここで、恐怖で硬直しそうなテツコをよそに、その足はハイヒール・パンプスとともに駆け出し、地を蹴り風を切りながら、まるでラグビー選手のように、ダッシュ、フェイント、肩透かしと、捕まえようとする男どもを、すり抜け、蹴ちらし、突き飛ばして、バッグを小脇に抱えたその身をどこまでも逃してくれる。それでも男らは動物が逃げる獲物を追うように、なおもしつこく追いかけようとするのだが、国道の向こうからこれを見たあの怪訝な目をした女の子が、“キーッツ!!”と一声、思いっきり奇声を上げて、それに続いて他の園児らもいっせいに奇声を上げたことにより保育士たちが駆けつけると、男らはようやく諦め、つり橋の向こうへと散っていった。

 

  テツコはなおも駆け続ける。この忌まわしい恐怖から完全に逃れるために、そしてまた時空をいったんリセットするため、公園の東から西の端へと駆け抜ける。その足はパンプスと一体になりながら、まるで羽根が生えたがごとくその身を飛ばして、駅前の中央通りに差し掛かる公園の最果てまで逃げ切らせる。そして人通りの多いここまで来ると、ようやくテツオは安堵して、花盛りの花壇の前に据え置かれた緑と黄色の2つのベンチの、黄色い方へと腰かけた。

 

  見上げてみると、日は正午を過ぎ、秋のやさしい風を吹かせて、その光は花壇の花々だけでなく、テツオにも注ぎかけてくるようだ。

  ようやく敵から免れたテツオの耳には、軍用ヘリが爆音を響かせながら、彼の居場所に影を落として、過ぎ去っていくのが聞こえる。

  テツオはベンチに腰掛けながら、胸に手をあて、荒げた呼吸が落ち着くのを待とうとしている。気づいてみると、汗が上半身いっぱいに噴き出ていて、その水冷と恐怖の余韻で、彼は思わず腕を囲う。

  だが、落ち着きを取り戻すにつれ、テツオはこうして着衣の乱れの一つもなく、帽子もバッグも落とすことなく、損害を生じさせずに、信じられない機敏さと利発さでテツコの尊厳と存在を守り通した自身の足に、ねぎらいと感謝の目を向けるのだった。

 

  足へと落とした目線をやがて、地に水平に戻しつつ、目の前の花壇に向けていくテツオ。彼は花壇の花の合間より、陽炎が立ち込めるのを見つめている。そして何かに引かれるように目を凝らして見ているうちに、やがて陽炎はゆらぎはじめて、その中からは、椅子に座った少女像が、まるでそこだけスポットライトが当たったように、浮かび上がってくるのが見える。

  少女は白装束を細身にまとい、赤茶けた素足を地につけ、膝の上で両手を握りしめながら、テツオをじっと凝視している。少女は怒りと恨みと怨念の眼差しでテツオの目を捉えつつ、噛みしめた唇には血をにじませ、やがて片手を上げて彼を指さし、その指先からは真っ赤な血がしたたり落ちて、彼女の素足の爪先をも真っ赤に染める。

  無言のまま恐怖に怯えるテツオを前に、きな臭い煙が立ち込め、姿を消しゆく少女にかわって、煙の中より、今度は全身血まみれの兵隊が直立不動の姿をあらわす。兵士の身から続々と流れる血潮が、下の花壇の花々を累々と潤すかに見え、テツオは恐怖のあまり目をそむけ、面をふせた・・・。

 

  正午の日が、これより午後の陽の光へと、傾いていきそうだ。

  色とりどりの花々も、光に合わせるかのように、その向きを変えていくかに思われる。

  雲も風に吹かれるまま空を過ぎ去り、地の影絵も、そのまま散らされゆくようだ。

 

  兵士の気配がなくなったと感じたのか、テツオはゆっくり面を上げる。彼の前にはもとの花壇が広がって、午後の光を受けはじめた花々は、風に吹かれるままのどかに揺れる。

  するとその時、きちんと揃えて閉じていたテツオの膝の合間から、一匹のヘビが跳び出し、ニュウウと地を這い花壇に登ると、テツオの方を振り返る。

  その目は、いわゆる爬虫類の目ではなく、女性的なまつ毛があって、不思議とヒトの表情が浮かんでおり、赤舌をチョロチョロと見せながら、テツオに何か言いたいようだ。

  -“わたしはお前と女の間、また、お前のすえと女のすえとの間に、怨みをおこう。彼はお前の頭をくだき、お前はその踵に噛みつくだろう(3)”-

  テツオの心のその声は、おそらくヘビが発しているものと思われ、ヘビは続いて舌を出し、テツオの意見を待つかに見える。

 

  テツオはしばらくヘビを見つめていたのだが、やがて彼は意を決して、ヘビに話しかけようとする。そして彼は人の口の言葉ではなく、彼の心の声として、心の中からヘビに対して直に話しかけようとするのだった。

  -・・・なあ、ヘビィ・・。この『創世記』の物語では、俺が思うにお前って、俺たちヒトの男の“ペニス”なんだろ。“お前と女の間、また、お前のすえと女のすえとの間に、怨みをおこう” という神の言葉は、人間のセックスはもとよりうまくいかないことを示唆していて、“彼はお前の頭をくだき、お前はその踵に噛みつくだろう”という言葉は、俺たち男は自分でその二足歩行の進化に自らクギを刺すということを、示唆しているんじゃないのかな・・・-

  あのアダムとイヴの事件以来、久方ぶりに人間から話しかけられるのを、ヘビはとても注意深く聞こうとしているようである。

  テツオはそんなヘビを見ながら、ゆっくりと話しつづける。

  -俺たち人間=ホモ・サピエンスは、“知恵の実”を食べ、“生”なるものから“性=SEX”だけを分けて取り出し、またその中から“男と女”を相対的に分けて取り出し、その上さらにお互いの“性器と性交”を分けて取り出し、生殖という生物の命をつなぐ愛と優しさ、神聖さに相反をするかのように、“性欲”を開発し、まるでヒトの味覚のように、自然界にはあり得ないほど誇大に誇張に捏造した“セックスの快楽”に執着した。ここに俺たちホモ・サピエンスの進化と人類史とをつらぬく、あらゆる差別と暴力の原点、すなわち原罪があるように俺には思える。

  そしてそれをまさに牽引したのが、霊長類最大にしてゴリラの5倍もあるといわれるヒトの男のペニスなんだろ。だって、いくらオス同士の精子競争があるとはいえ、直立したら前向きの急所の腹部に位置しながら、まるで見せびらかすかのように常時露出させるのは、デカすぎるし無防備すぎるし、自然淘汰や自然選択の原理からはあり得ない。ということは、ヒトの男のペニスというのは、最初から支配と暴力また権力の象徴であり、“ヴォータンの槍”または“ファスケスの棍棒(4)”のようなものなんだよ。そしてペニスはそのまま進化して、世界中で絶えずレイプを引き起こすってわけなのさ。

  その濡れ衣を着せられたのが、“神がつくったすべての野獣で、ヘビが一番悪賢かった”と記された、お前たちヘビだったと俺は思うよ。だって、神は自分に似せてヒトをつくってしまった以上、今さら“ペニスが一番悪賢い”とは、記せないだろ・・・-

  ヘビは初めて聞くようなテツオの仮説を、慎重に聞いているようである。

  テツオは少し間を置いてから、うつむき加減ではあるが、再びヘビに話しつづける。

  -・・なあ、ヘビィ・・、俺、まだ恥ずかしくて言いにくいけど・・、俺、“男”としてはもう勃たないんだよ。つまり、俺は男なんだけど、いわゆるセックス本番で“男”を意識しちゃうとさ、やれないってことなんだよ・・・-

  ヘビはその真ん丸な目で、-自然界ではそんなの聞いたことがない-という感じの、不思議そうな視線を送る。テツオはそんなヘビの目が、とても可愛く思えてくる。

  -でも、たしかに不思議なんだけど、自分の“男”を忘れた時、今みたいに“女”になってる時なんかは、つまり男と女の相対や相反性を超えている時、自然にそのまま導かれ、相手の愛と信頼のおもむくままに、あとシチュエイションさえ整えば、何とかできちゃうみたいなんだ・・-

  ヘビは丸い目を長いまつ毛で瞬きさせつつ、-それは何だか納得できる-と言ってるようだ。

  テツオは少し安心したのか、さらに話をつづけていく。

  -なあ、ヘビィ。俺、彼女いるんだよ。ユリコっていうんだけど、彼女はもちろん恋人で、将来的には妻となり、多分ずっと妻なんだろうな。だって俺、今日も自分以外の女を見ると、それがどんなにイイ女であってもさ、自分の方がもっと綺麗になれるんだってライバル心を起こすばかりで、浮気しそうもないからさ・・・-

  ヘビはテツオのそのセリフに、カエルも飲み込む大口開いて、笑いそうな顔をしている。

  だがテツオはここで、この創世記で濡れ衣を着せられたヘビに対して、今こそお前に聞いてほしいといった感じで、意をかためて話しつづける。

  -ヘビィ。俺と俺の子孫の男子はさ、極端な例えだけど、たとえ戦場に行ったとしても、決してレイプはしないんだよ。このペニスじゃあ、物理的にそんなの無理だろ。

  でも、これでようやく、人類は最大の悪業だった“レイプ”をもう金輪際、根絶できる! 

人間なんていくら説法しても教育しても言うことを聞かないから、物理的にできなくするのが一番いいのさ。

  レイプが根絶されることで、性的にも身体的にも精神的にも不公平で不条理で片務的な人間の男と女の関係は是正されていくと思う。そればかりでなく、俺はこれこそ差別と暴力また戦争の原点とさえ思うから、これらの悪もやがては消えていくかもしれない。

  ヘビィ、俺、自分のペニスに、ずっと劣等感を持っていたんだ。サイズは平均以下だしさ、勃ってもナエるかすぐ出しちゃうか、おまけにトイレもとても近いし、小便のマトもまともに当たらないこともある・・・。

  でも、レイプをなかば常習犯的にやっていた愚かなホモ・サピエンス達にかわって、俺たちが新しい人類を継ぐ際に、俺のペニスが継がれることでレイプが根絶されるというのは、俺にとっては最大の誇りだよ・・・-

  テツオのこの懺悔ともいうべき言葉を聞いて、ヘビは彼のその苦しかった心のうちを察して思わず涙したのか、しっぽでその目をぬぐったようだ。

  しかし、ヘビはここで、-お前さんはそれでいいだろうけど、あとの男はどうなんだよ?-と聞いてるように感じたテツオは、思い起こして言葉をつなぐ。

  -そうか。ヘビィ、お前、キンゴのことを言ってるんだろ。あいつ俺と違って小顔だから、はるかに女になりやすいのに、ペニスはフランクフルトみたいにデカイんだよ。でも、あいつの子孫はすなわちヨシノの子孫だから、同じよしみでワルキューレ=女武者ばかりが生まれるんじゃないだろか。

  それと、タミとその彼女も新人類になるだろうけど、タミはヨシノの弟だし、あの彼女も強そうだしな・・。

  だから、俺たち新人類ニアイカナンレンシスは、当面は男系、女系と二手に分かれて、生めよ殖やせよで増えていき、それからはこの二手が互いに子孫をつないでいけば、いいんじゃないの・・・-

  テツオのその言葉を聞いて、ヘビもまた、-ならそれで、バランスとれていいんじゃないの-と思っているようである。

  そしてヘビがその目で、-どうせなら、もう一声、聞きたいみたいな・・-と言ったように感じたテツオは、ここでテツコに交代する。

  テツコはあらためて姿勢を正し、上品に膝をしめ両足そろえて、ヘビに優しく語りかける。

  -ヘビさん、あたしたち、あの復活の時からすでに、最後のホモ・サピエンスから最初のニアイカナンレンシスへと、きっと脱皮をしていたのよ。現人類から新人類への分岐だなんて、時間がかかると思っていたけど、実はすでに始まっていたんだわ・・。

  でも、これではっきり、私たちは、“今を生きる希望”が持てる! 

  私たちはこの絶望の世の中で、希望を抱いて生きていけるの!

  それに、あたしたち女は、これからは男性なみの行動の自由を得れる。もう今日のように、渡りたい橋も渡れず、座りたいベンチにも座れない-などというのは起こらない。葦の海でもルビコン川でもガンジス川でも、あたしたちは渡っていける。

  ヘビさん、もしあたしたちの子孫がこれから、新しい人類として再び聖書のような書物を編むなら、あなたの名誉は回復されるわ。あなたはもう悪賢くも狡猾でもない。むしろあなたは今日の保証人として、またこれからは、レイプとレイプにつながるあらゆる差別と暴力、そして不条理、不平等、不公正からあたしたちを守護してくれる守護神として、永く栄誉を記されるだろうと思うよ・・-

  と、テツコに優しく微笑まれて、ヘビは安堵し、最後にお辞儀をするかのように少し首を傾けると、とても嬉しそうな表情で、花壇の中をくぐり抜け、そのまま天へとかえっていってしまったようだ。

 

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  テツオがヘビが行ってしまった花壇の花を見つめていると、遠くの方から再び“キーッツ”と、あの怪訝な目を向けていた女の子の奇声なのか掛け声が聞こえてくる。

  見れば、テツコの足もと、そのフルオープントウ・パンプスの赤ペディキュアの足先に、白黒のサッカーボールがコツンと当たる。

  テツオが声の方へと向き直ると、そこにはさっきの女の子と、いっしょに遊んでいた男の子とが立っている。女の子は、いまだ怪訝な眼差しで見ているようだが、男の子はとにかくボールを返してほしいと思っているようである。

  テツコは、本当はこの子たちにはお礼を言わねばと思うのだが、女の子を怖がらせては悪いので、ここは彼らに一礼すると、ニッコリと微笑みながら上品に両膝そろえて腰を下ろすと、彼らに届くような力加減で、ボールを優しくコロコロと転がして送ってあげる。

  男の子は転がってきたボールを受け取り、嬉しそうに胸の方まで持ち上げる。そして彼の小さなつぶらな瞳が、一瞬、テツコの目をとらえた。

「お姉さん! ありがとう!」

  男の子は甲高い大きな声で、テツコに向かってお礼を言った。それを見ていた女の子も、テツコに目をやり、何か納得したようにうなずくと、彼ら2人は手を取り合って、園児たちのいる方へと駆けて行った。

  テツオも立ち上がって手を振りながら、戻っていく2人の背中を見送っていたのだが、やがて彼は自分の中から、言いようのない優しさと感動が広がって満ちてくるのを感じはじめる。

  -あの小さな男の子に、“お姉さん”って言ってもらえた・・・-

  テツオは再び、今度は緑色のベンチへと腰を下ろすと、お腹に手をやりながら、また前の花壇を見つめていたが、その目には、涙があふれてくるのだった。

  -あの男の子に、“お姉さん”と呼んでもらえた・・・。

   ・・うれしい、本当にうれしい・・・-

  つぎつぎとこぼれ落ちてくる涙が、彼のタイトスカートを、ポツリ、ポツリと濡らしていった・・。

 

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  しかし、これでもう先ほどの災難を、完全に克服できたテツオは、今日の残りをテツコとして完遂すべく、デパート最寄りの多目的トイレへと入っていく。彼はそこで用をたし、メイクの補正を行って、身だしなみを整えると、マスクをつけて声を変えつつ総菜屋にてお寿司を買って、再びさっきのベンチへと戻ってきては腹ごなしをしようとする。

  一口サイズでお口を広げず食べれるのがいいからと鉄火巻を膝元に広げつつ、一つ一つに醤油をかけていくテツコ。彼女はその鉄火巻が、ベンチの下でお行儀よく並んでいる透けグロと赤ペディキュアの足もとと重なって見えてきそうで、思わず照れ笑いを浮かべてしまう。

  -・・でも、ありがとう、あたしの足よ。この“透けグロゆかりの赤ペディキュア”は、美しく、可愛らしいだけでなく、いつの間にか進化して、肉食獣から免れるインパラみたいな俊足で、あたしを救ってくれたのよ。家に着いたら思いっきり、あたしはお前にキスしてあげる・・。

  それとこのテツオ特製のシンデレラ・パンプスも、別部品の切ったベルトでストラップを針金で縫い補強しているだけあって、激しい動きに切れもせず、インパラ足を縦横自在に駆けさせた。さすがは職人テツオよねえ・・・-

  さて、これで腹ごなしも済ませ、テツコはロードマップの次なるスポット-新川ボードウォークの歩き初め-へと向かうため、公園から中央通りの橋をつたって、対岸の川沿いへと渡っていった。

 

  総板張りのボードウォークを想定どおりの女っぽウォークで、テツコは今や女として歩いていく。そのテツオ特製のシンデレラ・パンプスは、7cmのヒールでもってマリンバを奏でるように、木の歩を打って闊歩していき、その靴音は川の波へと響き渡って、また新たな水の波紋がつど広がっていくかのようだ。

  川沿いを一直線につらぬいて行くボードウォークの通りに面して、オープンカフェーが建ち並び、カフェーをたしなむ人々の視線を介するウィンドウが、あたかも屏風絵のように、ワインレッドのベレー帽を斜にかぶるテツコのヒールウォークを連続して投影していく。

  テツコはここでクリームベージュのジャケットの一つボタンを取りはずすと、その胸元のVの字より、白ブラウスのフリルごと蝶タイを羽ばたかせては、足から膝上、腰まわり、胸元そして脇の下から襟まわりへと、そよ風がフレグランスのバラの香りをともなって駆けめぐるのを感じつつ、ハイヒールが二拍子を奏でてはボードウォークをカッコよく闊歩するのを心地よく耳に響かす。

  下を見やれば、ボルドーのタイトスカートより抜きん出る、透けグロゆかりの赤ペディキュアの足もとが、陽の光を反射させつつ、ボードの木目を川として、左右を漕ぎ出る小船のように小気味よく全身を牽引しては、ヒールがボードを打つ音とリズミカルな調和を成すかに思えてくる。

  -ああ、何もかもが音楽みたい・・。この新川も、モルダウ、ドナウ、また隅田川のよう・・・。

 そしてあたしは、これからあの目の前のポンヌフ橋を、あたし自身のコレクションでの着回しを空想しながら、まるで女優のように渡って行くの・・-

 

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  テツコはショルダーバッグに手を携えると、さらにまっすぐ背筋を伸ばして胸を張り、腰をしならせ肩をおよがせ、赤マニュキュアの片手を風になびかせて、前へ前へと歩を進める。うっすら開いたバーガンディーの口元が、空気の取り入れ口となり、彼女の高鳴る心臓から血は全身をくまなく巡って、それが手足の爪先をいっそう赤く彩っては、二拍子そして三拍子へと歩調を上げていくかのようだ。

  -ああ、今、あたしの脳裏には、ショパンの『英雄ポロネーズ』が聞こえてきそう・・・-

  そしてこれより先は、プチ・アソビのコスプレ者らで混んでいるので、テツコはボードウォークをいったん離れ、より街中の石畳のガスライト街へと入ってくる。

  街路に入り、ブティック街へと通じているレンガ造りの店先を歩くテツコ。そのテラコッタで装飾された大きなショウウィンドウが、緑色の石畳を踏みしめながらガスライトの支柱の合間を渡りつつ近づいてくる垂直二足のそのウォークを、モデルのように正面より映し出す。

  -ああ、もう完璧! “時よ止まれ、わたしは美しい”(5)って、言いたいくらい・・・-

  テツコは今日はこれで見納めと、街路の入り口からわざわざ三度、同じコースを周回しては自分の正面ウォーク姿を目に焼き付けると、ボードウォークに復帰する。そして印象派の絵の被写体になるみたいな心持ちでポンヌフの渡り初めを済ませると、中央通りを戻っていって、ロードマップの次なるスポット-駅ビルのコーヒーショップに入っていった。

 

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  歩き疲れて足も張り、ここらでプクイチ落ち着きたいと、テツコは駅ビル1Fの4人が集ったコーヒーショップに入っていく。ここでもまたマスクをつけて、なるべく言葉を発することなく、歌舞伎の女形みたいに手先をすぼめて見せながら、マニュキュアの爪先で今日のコーヒーSサイズをマグカップにて注文すると、テツコは人から見えにくい店の死角の席に掛ける。そしてマスクを取りはずすと、マグカップの白い縁に口紅つけつつ、ほのかに香るグァテマラが口内そして鼻先へと広がりいくのにホッとしている。

  テツコが座っている席は、ほの暗く隠れた所ではあるが、そこは照明がスポットライトのように当たって、偶然にも隣の店の姿見が自分を映しているのに気づく。

  テツコは鏡を見るうちに、ワインレッドのベレー帽は被ったままで、ジャケットを脱ぎ椅子にかけると、バストラインがほの見える白のシルクブラウスに、キツキツ通したボルドーのタイトスカート-その細見せのウェストに片手をそえて、やや高めの席から爪先立ててまっすぐ下ろした片足に、くの字に曲げたもう片足をまじらわせ、お尻をグッと横へと突き出し、テツオのいわゆる“Rライン”を実践してみる。そしてカッコよさげにテーブルに片肘つくと、唇を前にしてポーズを決めつつ、手と足それから身体の所々の角度を変えては、スポットライトの光沢を艶めかしくも照らし返して、めくるめく愛でようとするのだった。

  -ああ、グァテマラの香がたゆたうなか、あたしの長い二本の美脚が30デニールの光沢を裏打ちさせて、マニュキュア、ペディキュアそしてリップが、暗がりのバラのように際立ってその赤色を咲かせている。何て色っぽくも艶めかしい、スタンダールも谷崎も見まごうような赤と黒の陰翳礼讃・・・-

  しかし、テツコは、バレてなさそうなのはいいけれど、誰もがスマホをいじくって、自分が一瞥さえもされないことに少々不満を覚えながら、コーヒーを飲み干すと、また多目的トイレにて落ちたリップを修復しては、ロードマップの次なるスポット-県の中央公園へと向かっていった。

 

  そこは別名“城址公園”というだけあって、この地を治めた大名藩主の旧城跡地。中央の城山はシロサギの繁殖地と化したものの、部分的にはお堀が残され、バラ園その他の多種多彩な植物にも囲まれて、ランナー、学生、親子づれにお年寄りと、県民がしばしば集う憩いの場ともなっており、そこにテツコが歩き初めをして渡るのだった。

  気のおもむくまま旧城の石垣沿いを歩き進んで、やがて大きな菩提樹の並木道へとむかえられていくテツコ。-まるで、“ウンター・デル・リンデン”を行くみたいね・・-と、その足で歩けば歩いていくほどに、ますます身も心も女となり、女に満たされていく感じがしている。

  そしてテツコは、菩提樹の下を歩きながら、ユリコのことを思うのだった。

  -そういえば、ユリコはあたしに、こう言ってたわ。

  “テツオ、私ね、自分の体のどこが一番好きかというと、それは私の足なのね。なぜなら、私は行者だから、日に何キロも山野を跋渉するのだけれど、それはすべてこの足のお陰だから。足さえあれば私はどこでも行けるのだし、また考えることもできる。事実、私は頭や文字で考えたりするよりも、足で考える方が多いし、その方が真理に迫れる気がするの。これは歩く行をする人たちは、共通して思っているんじゃないのかな・・。

  人間の考えることなんて、その大半は己の欲の追及で自然を破壊していくことじゃない。人間のやることなすこと結局は、自然に反する=相反することばかりといえる。だから人の頭で思うことはロクなことはないのだけど、自然のなかを行く限り、人とはいえ足は自然を裏切らないと私は思う。

  そんな私が行者として、今一番思っているのは、‘生と死の意味’なのね。私は私以前に姉を死産で亡くしているし、父も戦死で亡くなった。特に父の死は未だに納得できないし、だから実感というのもない。なぜ父は死んだのか、なぜ父は死ななければならなかったのか、なぜ死ぬのが父でなければならなかったのか。説明ができるものなら説明をしてほしいとさえ思う。

  こんな事は本には書かれていないから、自分で見出すしかないのよ。それも頭ではなく自分の足でね・・。だから最近、私が歩いて行する時は、このことばかりを考える・・”

  そしてユリコは、やや笑いながらあたしに向かってこう言ったわ。

 “テツオ、あなた自身‘足フェチ’だし、以前‘人は実はみな足フェチで隠しているだけなんだ’って言ってじゃない。それと浮世絵なんかを例にとり、足は性器の一部じゃないかとも言ってたよね。

  私、それってあながちはずれてないと今は思うよ。だって私が思うに‘人間は考える足’(6)といえるし、ということは、知恵に頼る二足歩行の人間が性=SEXを柱として進化をしたとの仮説に立てば、足を性器と関連させても何ら不思議じゃないわけだし、足と性とは結びついているのかもよ。

  だからもし、あなたが女として歩き出す時、あなたまた何かを見出すんじゃないのかなって、私は思うの・・・”-

  菩提樹並木はセコイア並木へとつながり、シロサギの鳴き声もかまびすしい城山の影を過ぎると、弁天池に面した敷地に、ガーデン風に演出されたバラ園が広がってくる。

  -・・バラって本当に素敵よねえ・・。高貴な気品と香りに満ちて、バラに女性を譬える気持ちは、今のあたしはよくわかる・・-

  そして、バラ園を巡って行くうち、その満開時の壮麗さ、馥郁たる香りの豊かさ、色鮮やかさに思いをはせつつ、テツコは再びあの感覚を体験する。

  -・・本当だわ・・。また木や花や、鳥や虫たち、行きかっている人たちだって、見るもの、聞くもの、触れるもの、自然の生きとし生けるものが、すべからく光って見える・・・-

  テツコはこの時、天高い陽光が西方へと傾いていくのを望みつつ、今日一日のピークが来たと感じていた。

 

  バラ園を出たあとには、菖蒲園を横切って、テツコは城山の裏側へと抜けていく。そこはやがて川に面して、大学とのはざまを流れる川沿いには蜂須賀桜の並木道が続くのだが、テツコはさすがにここまで来ると、そのウォーク固有の疲労と苦痛を味わいはじめる。

  -・・ブラキャミのブラひもが肩からずり落ちそうな感じで・・、乳パットの輪郭もろっ骨に当たって痛いし・・、また、#Ku,Tooのその名のとおり、パンプスのストラップも足の甲を擦切らすように痛いし・・、それに、もとより引き上げきれてないタイツが腿裏にあたって痛いし・・-

  しかし、これを過ぎればロードマップはほぼ完了と、テツコは痛いのをセーブして、並木道よりテニスコートを望みつつ、学校の校庭横を通りすぎ、公園一周路のラスト、駅裏の鉄道車庫に面した路地へと入っていく。

  -あれっ? こんな傍から見えそうもない所にSLが展示してある!-

  テツコはここで鉄子にならず、少年テツオへとかえり、SL=蒸気機関車への興味に引かれて、簡素な屋根の下に置かれたそのオンボロでおぼろげな黒い車体に駆け寄っていく。

  -プレートが“586・・・”ということは、有名な“ハチロク”だから、大正時代の製造か・・。

つや消しの黒い車体は所々がサビでめくれて、銀色に輝いていた綺麗なスポーク動輪も灰色に塗りつぶされて、往時のその面影はすっかり失せてしまったようだ・・・-

  だが、車体を覗き込んだその瞬間、彼の脳裏に封じ込まれた幼児の記憶に、“ボウッ”という汽笛の音と、機関車がシリンダーより噴出させるアイロンみたいなスチームの臭いとが、玉手箱が開いたようにリアルに満ち溢れてきているのを、テツオははっきり感じた気がした。

 

  -アラッ! もう、こんな時間だわ・・-

  左手首を裏返し、女っぽく腕時計を見回しては、本日のシンデレラのタイムリミットが近づきつつあることを察するテツコ。彼女は帰りのコスプレ者で混雑するのと、男のヒゲがそのファンデの頬にブルーチーズみたいな色あいで生え戻ってくる4時間から6時間の耐久時間が迫りくるのに押されつつ、急ぎ足で跨線橋を渡りきり、中央駅のコスプレショップに戻っていく。だが彼は、ここで他のコスプレ者らと同様に着替えやメイク落としはせず、スカートだけをジーンズにはきかえると、上はまるごとコートをはおり、深めの帽子とマスクとで顔を隠して、また手袋でマニュキュアも隠して、つまりテツコを覆い隠したテツオの姿で、キャリーバッグを引きながら島へと帰っていったのだった。

 

  島へと帰り、女装歴で初めての一般デビューを、おそらく大してバレもせず無事成功裏におさめたテツオは、今日はだれもいない木造校舎で、自分で作った夕食を軽めに取ると、自室に籠ってここからは、深夜まで延々つづく“シンデレラの余韻”タイムに入っていく。

  テツオは再びテツコにかえって、コーデとモードを復旧させると、生え戻ってくるヒゲなどが目立たぬように照明をやや落として、二枚あわせの姿見の少し高めの丸椅子へと腰かける。

  そしてテツオは、これもキンゴの影響か、気分を高めていくためにBGMを選曲していく。

  -彼がよく聞いていた“トリスタンとイゾルデ前奏曲と愛の死”では、あまりにコーフンしそうだし・・。でも、ここは是非、女の人の歌声が聞きたいから、イタリア・オペラのアリア集でも聞こうかしら・・-

  自ら育てた花苗に囲まれて、ソプラノ・アルトの歌声に聞き惚れながら、二枚あわせの姿見に自分を見つめていくテツコ・・。彼女はその“透けグロゆかりの赤ペディキュア”を、本日の見納めとして、二本の足の角度を変えては、あわせ鏡に映して見せる

  -ああ、あたしの美脚が反射しあう二枚の鏡に映し出されて、まるで無限のラインダンスのように見える・・。これはまるで、ラインダンスに見るラインの黄金、美の象徴である黄金比のφが、フィボナッチ数FnとFn+1の永遠の対称性から生まれてくるのに似てないかしら・・-

  そしてテツコは透けグロを脱ぎ去ると、これで今日のコーデを解除して、これも古着屋で買ったのだが室内でしか着れないような、胸元・背中が露出したシルクシフォンでネイビー・レースのワンピースに身を包むと、再び姿見の前へと腰かけ、自分自身のシンデレラに酔うのだった・・。

  -ああ、しあわせ・・、本当にあたしは幸せ・・。今日は本当にありがとう・・。

今までは鏡の中にいたけれど、あたしはずっと今日のように、普通に街を歩いたり、お茶を飲んだりしてみたかった・・・-

  鏡の中より、自分を見つめてくれながら、そんな風につぶやいてくるテツコの声がテツオの心に響いてくる。その目には、美貌への憧れと感謝の色が見てとれて、その口元には、男に戻らなければならない時が近づくにつれ、さびしそうな微笑みさえもが浮かんで見える。

  テツオは自らテツコの肩を愛おしげに抱きしめると、ずっと鏡を見つめ通して、日付がかわった頃あいに、テツコのために服はそのままメイクも落とさず、ひとり床へと横になっていったのだった・・・。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

  -・・暗い、暗い、本当に暗い闇だ・・。

  ぼくは今、眠っているのか・・。このまま重力に引かれていって、ベッドに埋もれ、そこがぼくの墓場ともなり、やがてはアダムと同じように、ぼくも土へとかえるのか・・。

  自分が捨てられていく恐怖、自分が忘れ去られていく恐怖、だれからも省みられてない恐怖・・。

  総じてこれは“孤独”の恐怖。

  自分が愛されてない恐怖。

  自分が愛するものさえない恐怖・・・-

 

“テツオ! このトンネルは長いけど、もうすぐ前に、出口が見えるよ!”

 -・・トンネル? そうか、ここはトンネルなのか・・-

“ホラ! 出口はあれよ。前に小さな楕円の光が、見えるでしょ。

  あれを出れば、緑の山が、広がるのよ!”

「楕円の光って言ったって、そんなもの見えないよ。それに何だか白い煙がたちこめて、アイロンみたいな匂いもするし・・。」

「ごめんね。あなたには見えないわね。

 じゃあ、私が抱っこしてあげる!

 ホラ、前にポツンと楕円の光が、見えるでしょ。白い煙は汽車の蒸気が窓から入ってきてるのよ。

 じゃあ、窓を閉めてあげるね。・・えっつ? 窓を閉めちゃ汽車の音が聞こえないって?

 その要求の多いところが、私によく似てるわね。

 でも、もうすぐトンネル出られるわよ。

 わあっ、いきなり明るくなってきたわ!

 ほら、テツオ、緑の大きな山々が見えるでしょ。

 あれが、私があなたに見せたかった“阿蘇の五岳”よ!」

 

 -そうだ。あの時、ぼくの周りからは煙が散って、いっせいに光に包まれたかと思うと、阿蘇の五岳が悠々と、目の前に立ちあらわれてきたんだよ。

  それでも汽車は、老躯をあえぎにあえがせて、なおも煙をモクモクと吐き出しながら、懸命にドラフト音を響かせては坂をのぼって、それがカーブにさしかかると、客車の窓から三連の動輪が銀色に輝きながら、勢いよく回っているのが見えるんだ-

「テツオ、あれはね、蒸気の力で回っているのよ。やかんの中に水を入れて火にかけると湯気が出て、蓋がコトコト押し上げられる。これはそれと同じ“力”によって動いているのよ。」

  -しかしその時、ぼくは抱き上げられたまま、スチームの匂いよりも、花のようなその匂いに身をゆだねていたと思う・・・。

  そして光が阿蘇五岳の緑色を反射させつつ、SLの黒い車体に注がれて、後ろのナンバープレートを一瞬なぞって輝かせた時、そこには『58654』という金メッキの番号が見えていたはずなんだ-

「姉さん、何で急に下ろすのさぁ・・。山も汽車も見えなくなったよ・・。」

「ゴメンね。今、探し物をしてるから、ちょっと待ってて。」

  幼児にかえったテツオはそこで、汽車の後ろに連結された、客車の展望席に立つ彼女のその全身像をあらためてよく見つめる。それは今日のテツコにそっくりで、違いといえば、髪が長めで、メガネをかけてないことと、あとはシューズがスクエアトウのロウヒールで、襟周りには鮮やかなロイヤルブルーのスカーフが巻かれていることだった。

  テツオは、バッグから何かを取り出そうとする彼女に、やや遠慮がちに言ってみる。

「姉さん。その襟に巻いてる綺麗なスカーフ、いつかボクが、もらっていい・・?」

  すると彼女は、きらきらと光る眼でテツオを見ると、こう言った。

「いいよ。あ、そうだ! 今日は交通事情の下見だから登らないけど、テツオが小学校に上がってから、私と阿蘇に登る時、コレをあなたにあげるから、こんなふうに首に巻けば!」

  と、彼女はスカーフを振りほどくと、テツオの首へと巻いてくれる。

  そしてバッグから取り出したウォークマンの二手に分かれたイヤホンの片方づつを、自分とテツオの各々の耳へとはめて、再び彼を抱き上げると、カセットテープの再生ボタンを押すのだった。

「姉さん、これ、何ていう曲?」

「これはね、“アルプス交響曲”という曲よ。」

  汽車は坂をのぼりきり、阿蘇の北側、外輪山に囲まれた麓の平地を、快速で走っていく。

  -・・しばらくすると、壮大で、華麗な曲がイヤホンから流れてきた。その曲は、まるで山の頂上へと登りつめ、そこから連なる山々の稜線を眺める時の満たされた人の思いが、音楽でつむぎだされてくるようで、まだ自力で登ったことがなく、ただ阿蘇の眺望を麓から垣間見ているにすぎないぼくの想像力を、大いに掻き立ててくれるのだった。

  山が、山が、動いて見える・・。

       山が、山が、生きて見える・・。

  この時、ぼくは、登山というものへの憧れと、それを初めて教えてくれた音楽というものの力を、はっきりと知った気がした。

  ぼくはふと、姉さんの方を見た。

  姉さんの黒い目は、まっすぐに阿蘇の五岳を向いていたが、ぼくが見つめているのに気づくと、そのまま優しく頬をよせ、ぼくにキスをしてくれる・・-

 “テツオ、あの阿蘇の五岳はね、別の名を‘釈迦涅槃岳’といって、ここからでは近すぎるけど、これより北の大観峰から見た景色が、まるでお釈迦様が往生なさった時の姿、つまり人が死に臨んで横たわった時の姿に、似ていると言われているのよ・・・”

 

  テツオは寝ているようだった。枕を頬に抱きしめながら、そしてその枕を涙で濡らしながら・・。

  彼にはこれが、ただ幼い時の思い出なのか、それとも埋もれていた古い記憶をもとにした夢なのかもわからなかった。そしてこれが仮に夢だとしても、夢のなかで自分でつくったストーリーがあるのかもと、まどろみながらも思いはじめる。

 

  眠れなくなったテツオは、起き上がると白いカーディガンをその身にはおり、うす暗い照明の下、月明かりの助けも受けて、もう一度だけ椅子に座ったテツコの姿を鏡に見つめる。その目は夢で涙を流したせいか赤みを帯びて、その悲しげな眼差しをいっそう強く印象づけるようにも思える。

 

  月明かりが室内を照らしていくなか、テツオはテツコを見つめつづける。それは、テツオからテツコへとするのと同じく、テツコからもテツオへとするかのように、対称性を保ちつつ、永遠に続いていくかのようにも見える・・。

  そしてテツオは、今“自分”を思っている意識さえもが、はたしてテツオが発するものなのか、それともテツコが発しているものなのかが、区別がつかなくなってくる。

 

  テツオは、今こうして見つめているその目だけが、真実を知っているような気がしている。

  -二人の目は一筋の光でむすばれ、その目は光で通じ合い、そして互いを思い合うことで、初めて“意識”というものが、生まれてくるのかもしれない・・・-

   テツオはテツコからだろうか、どこからともなくそんな声が聞こえた気がする。そして彼はその声が消えると同時に、月の光が、雲に隠されていくその一瞬、再び窓から差し込んで、その唇と手足の先を赤々と、照らし去っていこうとするのを覚えた気がした・・・。