こども革命独立国

僕たちの「こども革命独立国」は、僕たちの卒業を機に小説となる。

第二十二章その2

  校長とワタナベ医師とが、酒と釣りに興じていた数日後、木造校舎の喫茶室では、ミセス・シンのご指導よろしく今や立派に店長役を務めているテツオを前に、Veni女の会から戻ったタカノ夫人とミセス・シンとが、茶飲み話に興じている。

「・・・ということは、この島にゴミ処理場をつくる話は、これでもう沙汰やみと考えていいのでしょうか?」

「うん。念のために夫にね、県の行政書士会を通じて確認をしてもらったところ、申請取り下げということだから、米軍基地化もゴミの島化も、少なくとも当面はないんじゃないの。」

「だけどさぁ、この島のゴミ処理場が、首都圏から移転してくるカネダケ本社と幹部らのカンツリークラブの風下に当たるから中止されるだなんてこと、ホンット頭にくるよねえ。つーことは連中は“無主物”をいいことに、放射能汚染の実態を知ってるってことじゃないの。」

「そう。だからこそ西へと移ってくるわけよ。この近海を右往左往の大型船も増えているから、例の“福原遷都”だって計画どおり進んでいるということよ。オリンピックの後に万博、その後には遷都ときて、利権はあくまでどこまでも国の未来を食い潰していくんだから。」

「官邸に米軍機が落ち、あのアホ首相が夫妻ごと米軍に拉致されて、それで副総理兼国防相の徳平家盛のかねてからの思惑どおり、官邸への墜落とタイミングをあわせたような北朝鮮の飛翔体の発射をネタに、新憲法の規定どおりに緊急事態宣言が発せられ、政令太政大臣征夷大将軍とが復活されて徳平が兼務するってなったじゃない。だからアイツが今や新たなこの国のプチ独裁者ということで、アメリカとカネダケの都合のいい操り人形になるんじゃないの。」

「あの阿呆チン太郎って、立法府の長=行政の長自らして、違法行為・脱法行為を繰り返し、拉致問題さえ解決できず、その幼稚さゆえに永遠の12歳の国民目線にかなったのか、最長期の政権だったそうだけど、その後の石墓シゲルにせよ、20mSv問題の張本人たる野ブタ直人にせよ枝葉ツケオにせよ、民意は反映しなくても結局民度は反映するよね。それでその顛末が、また、ルビつきの英語はもちろん、漢字も仮名もポツダム宣伝みたいな短文さえもろくに読めない徳平か・・。」

ポツダム宣言は読めなくても、緊急事態宣言なら読めるんだろうか? 新型コロナウィルスで最も感染者が多かった自治体にまず緊急事態宣言を出させておいて、特措法にも緊急事態宣言を入れたように、はじめに緊急事態宣言ありきだったわけだから、これはルビなしでも読めるんだろうね。」

「ということは、今度また原発事故が起こった時もおなじみの緊急事態宣言が発せられ、それこそコロナ肺炎みたいに、“今後1か月間国民は外出するな、避難するな”と戒厳令が敷かれてしまい、“直ちに健康に影響はない。100mSvまで安心・安全。ニコニコさえしていれば放射能は来ないから”と、こんにちワンコのマンガまじりの下らない政府広報が繰り返され、橋や道路も封鎖され、行こうとすれば警察官に御用になり、国民は被ばくのままに晒されるということでしょうか。」

「そう。さすがはテツオ、国民とは異なってよく歴史から学習してるね。

  というわけで、あなた達は卒業を機に、外国に出てよかったわよ。コロナ肺炎でアジア系への黄禍論が復活したことでもわかるように人種差別は絶えないし、外国行くのが根本的な解決にはならないとはいえ、徴兵制と被ばくへの強制は絶対受け入れられないからね。」

「そう、そう、それでさ、キンゴのパパのワタナベ医師も、ヨシノとキンゴが医学部へと入った後で、外国人の奥さんの伝手を伝って国籍を変え、外国の医学校へ編入学させることも考えているらしいよ。

  でも、それにはまず、ヨシノもキンゴも合格するのが先だよね。特にキンゴが・・。」

「そう、キンちゃんってさ、受験勉強と並行させて小説書いてるって話じゃないの。彼はそれで、“ゆくゆくはこの小説も映画化されて、『万引き家族』や『パラサイト』(26)みたいに近年活躍の著しいアジア系映画と並んで、カンヌ、ベネチア、ベルリンと賞を取って大ヒット。この収益でもしこの島が放射能に汚染されても地球のどこかに島を買い、また皆で暮らせばいいですよね”なんてノーテンキなこと言ってんだから。」

「それって、受験勉強指導役のレイコさんは知ってるの?」

「それがレイコさんはね、どこかの県の条例みたいに、一日何分間まではと上限つけて許可しているんだそうなのよ。レイコさんの意見としては、キンちゃんみたいな思い込みの激しい人から生き甲斐を奪ってしまうと逆効果になるだろうし、彼はヨシノと違って理数系が不得手だから二次の論文に思いっきりかける他ないのだし、文章を書く練習になるのであれば何でもいいと・・。」

 

  3人がそんな話になった所で、当のレイコが大きなバッグを手にしながら喫茶室へと入ってくる。

  -それは、鮮やかなコバルトブルーのセットアップで、トップスはウエストのシェイプ感ある襟なしジャケットに白のブラウス、ボトムズは膝下丈のタイトスカートにベージュのタイツ、また黒のエナメルパンプスときて、それでメイクはいつもよりやや濃いめのローズチーク、そして何と僕と同じくバーガンディーのルージュがひかれる・・-

  テツオはいつものように瞬時にチェックをするのであるが、彼は最近レイコがカフェインレスを所望するのを知っていて、彼女が目をあわせてくれると同時にその準備へと取り掛かる。

「しかし、レイコさんも大変よねえ。これからまた県での会合があるんでしょう?」

「ええ。今日はかつての教師仲間と。とにかく医学部入試改革の初年度だから、受験生を抱えるだれもが手さぐりですよ。一次試験は従来同様なんだろうけど、二次試験の課題による論説文は、大学側が模範例を示したとはいえ、様々なパターンがあるでしょうから、今日は予備校での今までの模試をもとに、教師としても自分で考え予想した想定問題を持ち寄って、みんなで議論し合うんです。そしてその中からまた各自自分の受け持ちの生徒たちの受験対策に活かそうということですね。」

「二次試験の課題による論説文って、最近、医師不足と同様によく指摘されている、医師の患者への対応力とか説明力とか、日進月歩の医学に対する学習力-特に論文読解力が著しく不足しているとの危機感から導入されたと聞いているけど、理数重視の弊害を是正して国語力を高めるべきとの発想に基づくものなの?」

「うん。まあそうなんだけど、より本質的な問題として、基本的に思考力というものは母国語の読解力と談話構成力にこそ基づくと思うのね。数学的思考なるものだってその基盤は読む力・書く力に基づくだろうし。だから私は国の施策としては珍しいけど、この入試改革には賛成なのよね。

  それにこの課題による論説文は、介護や健康保険などの社会保障や、医療に関する倫理的な側面など、理数系以外の科目横断的な課題を時事問題も含めて提示し、それに対する受験生の関心の程度と知識を問い、意見を作文として書かせるもので、そこには提示された課題に対する思考力や洞察力、そして文書としての返答力や説明力が自ずとあらわれ、そのポイントごとの客観性も配点基準も明確化しやすいから、従来の二次試験の小論文より公平さも担保できるようにも思うよ。」

  レイコがここまで語ったところで、タカノ夫人は今一度彼女に向き合い、語りかける。

「レイコさん。差し出がましいのかもしれないけれど、もう一度県の高校に戻ることもできるのではないかしら。来年度のこの島の学校もタミ君たち数名だけなら時間的な余裕はあるし、優秀な教員はもとより不足しているし、非常勤でも常に空きはあるようだし・・。それに何より、あなたはまだ若いのだから、もったいないと思うのよ。あなたのような先生こそ、多くの生徒に必要だと私なんかは思うから・・。」

  タカノ夫人の言うことをじっと聞いていたレイコは、ややすまなさそうに微笑み返すと、このように答えるのだった。

「そう言ってもらえることは、とても有難く思いますけど、私は今のこの島でのポジションが、私にとっても生徒にとっても一番いいと思うんですね。

県の高校に行ったりしたら、たとえ非常勤であるにせよ、きっと国防軍への勧誘ごとや、徴兵制に加担させられると思いますので・・。」

「そう、そうだったわね・・。ごめんなさいね、私も思慮が足りなくて・・。

さっきの私の発言は、生徒の保護者側からの、先生への感謝の言葉の一つとして受け取ってもらえればいいからさ。」

「ありがとうございます。私もタカノさんご夫妻には、この島の学校のことをも含めて、とても感謝しています。来年度も同じタカノ理事長のもと、私たち校長と担任とを、またよろしくお願いしますね。」

  女3人、スリーシスターズはここで揃って笑っていたが、テツオはレイコの表情が、その鮮やかなコーデに似合わず、一瞬とても悲しそうに見えたのだった。

「じゃあ、もう行かなくては・・。皆さん、では、私はこれで、失礼しますね。

  ・・それと、テツオ君。あなたのデカフェ、普通のコーヒーみたいに美味しかったわ。焙煎も入れ方も、また一段と、腕を上げたね。」

「あ、ありがとうございます。先生こそ、これからの受験準備の冬の最中、体調にはくれぐれもご自愛ください・・。」

  レイコはテツオにお礼の会釈を返したあと、大きなバッグを肩に下げつつ、入り口に掛けていた薄手のコートを手に取ると、足早に喫茶室から去っていった。

  テツオは、彼女がコートを手にしながらバッグの重みで背を反らし、片方の足一本で重心を支えた際に、押し出された逆さハートのヒップラインが、コバルトブルーの鮮やかさとスカートのタイト感との視覚と触感を伴いつつ、いっそう際立たされていくような感じがして、あたかもそれが見納めとなってもいいように、再びたっぷりしっかりと、その脳裏に刻印しようとするのだった・・。

 

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

「~んん~、美味しいィッ! やっぱり、ここのタルトは別格よねえぇ。」

  今年は例年にない暖冬とはいえ、冬が深まっていくにつれ、レイコさんはヨシノとキンゴの受験準備で、当人以上に体力と神経をすり減らしていこうとするのが、もはや私の目にも明らかになってきた。そこで、こんな時こそ彼女には息抜きが必要と思った私は、2人が予備校へと通う曜日-彼女にとってはオフの日に、今や私の方からお誘いしては、お茶とスイーツへと連れ出すのだった。それは私にとっては、残り少ない貴重な時間であるとともに、受験指導役の彼女に余裕を持たせることによって、2人の側面支援にもなるだろうと思われた。

 

 

  そんな時、受験本番が近づくにつれ、神経質な焦燥感さえ漂わせているレイコさんも、束の間の救済にあったように、かつてのような朗らかさと幸せ感を取り戻し、いや、それ以上に、今や少女のようなこういう時しかハジけられないといった感じで、スウィーツに向き合うのである。

「ユリコ、本当にありがとねぇ。あたしを助けてくれてさぁ。もう甘いのないとやってらんないし。」

「あの、レイコさんのストレス解消法っていうのは、お茶とスウィーツ以外にも、何かあります?」

「うーん・・、家でピアノを弾いたりさ、庭いじりとかもあるけど、そんなのやっても一人モクモクするばかりで気が晴れないし、だからこうしてスウィーツするのが、私にとっては一番なのよねぇ。」

  レイコさんとは課外授業の名目で、お互いに雑誌を見ては、自家焙煎の専門店とか天然酵母のパン屋さんとか、いろんなケーキをその場で食べれる菓子工房の喫茶室とか、行く先々でお店を開拓したものだけど、やはり彼女の一番お気に入りは、社員時代から通っていたこの商店街入り口の2階にある無農薬紅茶の専門店のようである。

「・・私がもっと若い頃、そう、会社員の頃なんかは、ストレス解消法といえば山登りが一番だったんだけどね・・。」

「エッツ? レイコさんも山登りをされるんですか? それって今も?」

「そーよ。今はもうしてないけど。用意一式そろっているし、筋トレぐらいは欠かしてないから、やろうと思えばいつでもできるよ。

  ・・あれ、この話って、ユリコにしたことなかったっけ?・・」

「ええ、初めて伺ったように思いますけど・・。会社員の頃というのは、じゃあ、九州の山々を?」

「そう。阿蘇も九重もよかったけれど、私と特に相性があったのは大分県由布岳で、独立峰が気にいったのかな。そこは西峰・東峰と頂上が2つあってさ、私はいつも東峰に登っていたのね。遠く阿蘇も九重も別府湾も望めるし、正月は樹氷なんかもあったりして、なかなか綺麗よ。」

「山登りって・・、それって多分お友達や、あるいは彼氏と、2人でですか?」

「いいや。私は必ず一人で登るの。なぜって一人だからこそ“山”と向き合えると思ったから。

  一人の方が山と対話ができそうな気がするし、それに友人たちと一緒だと、2人であっても人間社会ができてしまって、山より人に気をつかうのは山に行く意味がないと思っていたから。

  それに彼氏と一緒だなんて、私は想像するだけでも絶対イヤ。男って何につけてもエラソーだし、私は山に通うにつれ、山には神が宿っていると本能的に感じていたから、男がいても邪魔なのよ。

  私の登山の楽しみは、山を下りても続いていて、湯布院みたいな高い所には泊まらず、別府に戻って安宿かえって、竹瓦温泉つかって、それで一人でビール飲むって、まあ、これが至福の楽しみで・・。よくいう豪華温泉旅館での食ちゃ寝くちゃねの女子旅などは思いもよらない、ヒールよりも登山後のビールが好きな私にとっては、山が恋人のようなものだったのね。」

  レイコさんはそれで大いに笑うのだったが、私はこの時、座っている2階の席から下の通りを望める視界に、何やら非常に気になる人物が入ってくるのに気がついた。

  あーっ、あれは“テツコ”、つまり女装のテツオに違いない! 白いベレー帽に白のジャケット、白のフレアスカートと、まさかなぜかのホワイトづくし、まるでダイアナ妃のような・・。対称的にブラウスとタイツは黒で、差し色のつもりなのかハンドバッグはフェラーリみたいにまっ赤っカ。こんな地方いや首都圏でさえ、あの恰好は目立ちすぎるよ。しかも何て気取ったハイヒールの歩きっぷり・・。

  あっつ、ヤバイ、ヤバイ。彼・・いや彼女、このお店へと向かっているわ! どうしよう・・。

  私がイチゴタルトの美味しい店があるなんて、女子の特権かのように自慢したせいなのかも・・。

  ああ、この2階へと一歩一歩踏みしめながら上がってくるヒールの音が聞こえてきそうな・・。

 

  幸せそうなレイコさんを前にして、動揺する私をよそに、コツリコツリと階段上がる音のあと、店の扉がチャリンという鈴の音をともなって、ゆっくりと開けられる。

  ああ、やっぱ、彼女はテツコだった。・・それで、彼女は商店街の真上の窓際、2人向かい合う席に当然1人で座っている。そこは私の席からは見えるのだけど、幸いにもレイコさんからは見えないポジション。だけど化粧室の前にしてレジの真横の席だから、レイコさんが行く際にはその視界に入ること間違いなしよ・・。

  それに私は知っている。あのダイアナ妃もどきのコーデは、パッと見では高見せだけど、実はほとんどワンコインコレクション。あの白ジャケットも古着屋で試着もせずに買ってしまったバスト100cmの巨乳サイズを、彼自ら脇布はずして、背やら胴やら他の布地を引っ張りこんで手縫いで無理やり再生させた、-結果的にはウエストが程よくシェイプ、まるでディオールのバージャケットみたいに出来た。まさに職人芸の見本のようだ!-と、自賛していた一品なんだし・・。

  あ・・、テツコったら何か注文したみたい・・。声を隠すためなのかその時だけはマスクをつけて、何だかカワイソーな感じもするけど・・。あー、でも、ここで、マスクに続いてメガネもついでにはずしちゃったよ・・。しかも、アイシャドウはチークとリップの同系統のローズで固めて・・。

  せめてメガネをしてくれれば、気づかれないかもしれないけれど、普段のテツオを知っているレイコさんがテツコを見れば、きっと心臓止まっちまうよ・・。

  おまけに、またこれ見よがしに足組み直し、マニュキュアと同色の真っ赤なペディキュア塗ったくったあのシンデレラパンプスのオープントウの足もとを、テーブル外へとちらつかせたり・・。

 

「でも、ユリコも時おり行のために、あの嘉南岳を当然一人で登るのでしょう?」

「え、ええ。そ、そうなんです。私は島のノロですので、行者の修行で上山せねばなりません。

  でも、レイコさんも登山をするなら、いつか私といっしょに嘉南岳を、登ってみません?」

  ・・よぉし、こうなったら、私たちの会話をできるだけ長引かせて、テツコを先に行かせよう・・。

「え? でもあの山は霊山で、しかもノロ現役の行場だから、俗人は入山禁止と聞いたけど。」

「あ、いや、あのお山は男子禁制なんですけど、女子であれば入山してもいいんです。」

「そお! なら、今は受験前でケガできないから、2人の受験が終わってからいっしょに行こうか。

  あなたとテツオが就職するブレンネルの保養施設に、卒業旅行として島のみんなで行く予定だから、登るとすればその前の3月中頃、気候的にもいい頃だよね・・。」

  レイコさん、それで何だかしみじみモードに入っちゃったし。なら他の話題を切り出すか・・。

「あ、あの、レイコさん・・。ひとつ聞いてもいいですか・・。

  先ほど、男なんていたって邪魔と言われましたが、それならどうして、校長つまりご主人と、結果的に結婚を、されたのですか?」

  レイコさんはそれを聞いて笑っていたが、-なら、もう話してもいいか-みたいな顔になると、飲みさしのアールグレイに口をつけ、話しはじめてくれるのだった。

「・・私ね、高校で教師たちが、校長などへの忖度と自分自身の保身のために、国防軍への勧誘ごとにより積極的になっていくなか、ほとんど一人で抵抗をしてたのだけど、そのころ彼が赴任してきて、彼も同じく反戦反核・反原発だし、一緒に抵抗するようになったのね。だからその成り行きとでもいうのかな、ある日、彼が、-・・メルトダウンという現象は、人間の精神でも起こり得ます。つまり、人は一人のままでいるうちに、やがてその精神は底が抜け落ち、そのまま病んで死に至るみたいな・・-なんて言うものだから、私はそれに、-それは、死に至る病というの? でも、あまりにも暗すぎますよね-って返したと思うのだけど、彼はそこで、-そう。“天は青く、地は永遠にあり、春さかえても、人の命はいくばくぞ。だから友よ、今この時こそ酒をとり、さかずきを乾したまえ。生は暗く、死もまた暗し”(27)って言うじゃないスか-、なぁんてさ、あのカブイた顔でがらにもなく詩吟めいたことを言って、あの頃はお酒どころか奈良漬さえも食べれないのに、かわりに紅茶をズズーッと一杯、直侍のお蕎麦みたいに音立てながら飲むものだから(28)、思わず私も笑っちゃって、-その詩は、“友よ、君と共にこの美しき宵を味わうことこそ我が望み”(29)って続きますよね。一人で飲むお酒もいいけど、二人で飲むのもいいのかも-って言っちゃったのね。

  それを彼は、これならプロポーズに至れそうだと、解釈したらしいのよ。」

「レイコさん、でも、その解釈って、ちょっとムリがありません? これは一般論ですよって、言うことだってできそうなのに・・。」

「うーん、たしかにそれはそうなんだけど、私も一人山に行くうちに、-これってこのまま、一生続くものかしら・・-なんてね、迷い道じゃないけどさ、心細くもなるわけよ。だから、登るに山というよりかは渡りに船というべきか、結婚はタイミングって聞いたことがあるけれど、そんなもんかもしれないよ・・。」

  私の視界にあるテツコは、彼女もまたイチゴタルトを食べ始めたが、パイ生地に着くリップの跡が歯型といっしょに残っているのか、食べ跡が気になっているようだ・・。

  それでテツコは、おもむろにコンパクトを取り出すと、口紅を直しはじめて、おまけにそこらへんの紙ナプキンでティッシュオフ・・・。ああ、これで、ダイアナ妃もどきもダイナシ・・。

「・・でも、結婚というのはさ、小説や映画みたいな劇的な愛というのはフィクションだと思うけど、する前よりもしてからの方が大事で、いっしょに長く暮らすうち、自然に情が移るものよね・・。

  だから私は、愛別離苦というのは嫌なのね・・。いつかは来るのだろうけど、愛別離苦は避けたいと思うよね・・。それは、気が狂いそうになるほど辛いし・・・。

まあ、これを避けるのは、無理だとわかっているとしてもね・・。」

  レイコさんがまたしみじみモードに入ってしまい、タルトはもちろん、紅茶もすでにポットごとカラになってしまったので、さすがに私もこれ以上の引き伸ばしは苦しいと、テツコがファッション誌に目を落としているこのタイミングで、いっしょにお店を出ることにした。

 

  でも、レイコさんは、やはり何かを感じたようだ。

  店を出て、2人で商店街を歩いているうち、彼女は私にこう問いかけてくるのだった。

「ねえ、ユリコ・・。もしもあなたが街中で、自分とそっくりな人に会ったら、どう思う?」

「エッツ?! レイコさんのそっくりさんって、そんな人、いましたっけ?」

「さっきの店で、ほら、窓際に座っていた白くて派手な女の人。横顔だけしか見なかったけど、私とどこか似ているような・・。」

「あ、あのオンナの人? ・・・い、いえ、私にはおんなじようには見えませんけど・・。

  レイコさん、もしかして、久々の紅茶とタルトに酔われたのでは? だってホラ、両方ともにブランデーが入ってましたし・・。」

「・・私、もともとビールしか飲まないけれど、そんなに弱くなったのかしら・・?」

「い、いえ、きっと、受験準備で疲れているからですよ。受験が終わりさえすれば・・。」

「そうね・・。2人とも合格して、いっしょに“春に酔えるもの”(30)になれればいいけど・・。」

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

「えっつ! あの時、ユリコはレイコさんと、あの店に一緒にいたの??」

  後日、テツオに戻った時に、ユリコは事の次第を話すのだった。

「そぉーよ。同じイングリッシュ・ティータイムでも、ダイアナ妃のようなコーデに似合わず、Mr.ビーンみたいにギコチナくて・・。」

「・・まさかレイコさんには、バレてないよね・・?」

「レイコさんは、-自分と似た何かヘンな女がいる-なんて言ってたから、バレてないとは思うけど。」

「・・レイコさんと似てるって? ユリコもそう感じたの?」

「いいえ。私には似ているとは思えないけど。テツオ、当の本人はどう思うのよ?」

「僕も、似ているとは思わないけど・・。でも、たしかメガネをかけた目のあたりは、似ているのかもしれないな・・。」

「でも、レイコさんは、メガネなんか掛けてないし、アイメイクもしないよね。」

  それでもさっきの発言に、美意識にこだわるテツオが、-同じ美でもMr.ビーンってことはねーだろ・・-みたいな感じで、落ち込んでしまったように見えたユリコは、彼を救い出そうとしてか、ここでまた新たなことを言ってしまった。

「・・テツオ。あなた、ともすればあんな過激なコーデでもって、どーしても街を闊歩したいのなら、いっそタカラヅカでも、歩いてみたら?」

「・・タカラヅカって、あの歌劇の?」

「そぉよ。あそこは美と華やかさとオトコオンナの総本山みたいなものだし、同じような人たちだっているだろうし。

  あなた、卒論も農作業の引き継ぎも目途ついたって言ってたし、私たちの卒業旅行も2人の受験の後だしさ、その前に、自分へのご褒美プチ一人旅みたいな感じで、行ってきたら?」

「・・そうか。また花苗も売れたしな。自分への取り分だけでも余裕はあるし、行ってみようか・・。」

 

  そんなわけで、テツオはキャリーバッグをひとり引き引き、バスと電車を乗り継ぎしては関西へと赴いて、大正以来数あるタカラヅカ・デビューのなかでも異例と思われ、また彼自身も思いもよらぬ“テツコinタカラヅカ・デビュー”の日を迎えた。

  この日テツオは、ホテルにアーリィーチェックイン。さっそくシャワーに毛剃りにメイクとこなし、トップスは首まわりが透けるレースのボウタイブラウス、ボトムズは演奏会でも着られそうなエレガント感のあるスカートをヒールまで泳がせて、上下とも黒で固めたその上に、暖冬ゆえか薄手のベージュのロングコートに濃紺のベレー帽を斜にかぶり、黒の艶ありハンドバックを手にしながら、例のシンデレラパンプスで颯爽とホテルをとび出し、テツコとしての一歩を踏み出す。

  そしてテツコは、-いきなりタカラヅカのウォークも何だから-ということで、まずは女の子モードを高めようと、買えそうにないことはわかっていても、女子が好んで群れそうな近隣のショッピングモールへと足を運ぶことにした。今や慣れた女装にコーデもこなれたテツコにとっては、品定めブリッ子ついでのブティックの冷やかしづくしハシゴ巡りも、難易度はたいしてないと思われた。

 

  しかし、そんな時に、ついに事件が起こったようだ。

  彼がショッピングモールを巡るうち、あるお店に入り込み、いかにも値段の張りそうなイヴニングドレスの並びを、歌舞伎の女形のように手と手先とをすぼめつつ、つっこんで見回していたその時、彼は周辺から異様な視線を感じ取った。

 

 -それは、突き刺すような視線だった・・。

僕がそれを感じて顔を上げると、それらの視線は瞬時にそらされ、まるでチームプレイで獲物を狩る動物みたいに、互いに目配せしあうのだった。その視線の発信元は、少し離れた所から僕を見ていた若い女の子たちであり、そのリーダー各と思われる女の子は男の子っぽい服装だった。

  彼女らは、おそらく僕がこの店へと入った時から僕を見ていて、僕がドレスを見ている間も、お互いに指をさし、目でコンタクトをしあいながら、ずっと揶揄していたのだろう・・。

  しかし・・、同じ人間を見る目でも、あんなに人を蔑む目なんて、あるものだろうか・・・。

 

  僕は気分が悪くなり、早々に店を出たが、エスカレーターに乗ろうとする時、もう一度だけ振り返ると、あの女の子のグループはまだ視線を僕へと向けたまま、何やら話し込んでいる・・。

  だが、悪いことは続くもので、彼女たちとは帰りの電車で、また会ってしまうのだった。

  都会の電車は乗り込んでくる人に押されて、車両の中へと行かされるが、僕が押されていく先に、彼女たちは待ち構えるかのようにして、僕をじっと凝視していた。

  僕はもう仕方がないから、押されるままに行くのだが、彼女らはまるでゴキブリを避けるように素早く退き、僕は一人で、彼女らが取り囲み、触れないようにと空けた所を、通っていった。

  僕はもはや目線を合わせなくても、侮蔑はおろか、まるで殺意のようなものさえ秘めた視線が、体中を突き抜けるのを感じながら、彼女たちが見張っている空間を歩いていったが、ともすれば徒刑場に行かされたイエスも阿Qも(31)、同じ視線を浴びたのだろうか・・・-

 

  ホテルへと戻ったテツオは、今日はこれでコーデもメイクもすっぽりと女を解除し男にかえり、こざっぱりしたコットンシャツとデニムのパンツで男の子としてホテルを出ると、宵の口まだ客足少ない居酒屋へと入っていった。

  彼は父のお供の記憶もあって居酒屋には違和感なく、また、原発難民特有の苦労懊悩のせいなのか、実年齢より年長に見えるため、美青年でも未成年とは思われず、先ほどの差別侮蔑の憂さ晴らしも伴なって、女装の酔いの興ざめを酵母の酔いで取り戻そうと、ここで生まれて初めてビールを一杯、大ジョッキで所望する。

  -へええ、大人ってのはこんなモン飲んでてさ、現実と自分自身と向き合うことを誤魔化してるのか・・-

  ほかにお客もいないため、畳席に一人あがったテツオはここで、テツコつまり女からも解放されて、その反動か、定食を酒のさかなに思いっきりリラックスのようである。

  -プハーッツ! 男ってえのは気楽でいいねえ。ファンデのよれも気にせずに、何分にもメイク要らずの真顔で勝負。上品ぶって口先をすぼめんでもよし、ルージュをひかない唇にトンカツソースがくッついてもよし。だいたいね、女装したら安心して食えるのは一口サイズのお寿司ぐらいで、カレーもうどんもハンバーガーも食べるに食べれず困ってたんだよ。男にかえれば弁天小僧みたいにさ、股ひろげたり胡坐かいたり、熱くなったらシャツもはだけて、靴下なんぞ脱ぎ散らかしてもいいんだし・・。

  ヘッツ! 俺ゃあね、真顔で勝負というからには、当然それには自信があるのさ。あの女の子たちだって、もしも俺が女装じゃなしに、男のこのツラ見せたのなら、ゴキブリを見るような目もアゲハチョウを見る目へと変わっただろうに・・-

  しかし、テツオはトンカツ食べながら、酔いがまわるその前に、また冷静に考えはじめる。

  -原発で難民となり、世間がいかに冷たいものかをずっと見てきた俺にとっては、今さら驚くこともないが、やっぱりLGBTにしたってさ、人種差別と同様に根深い差別があるものさ。

  でも、あの女の子らにしてみても、何で男の女装をあそこまで忌み嫌い、あれほどまでに侮蔑をぶつけてくるのだろうか? だって同じ女の仲間入りと解釈して、もっと寛大な目で見てくれてもいいようにも思うけど・・-

  そして彼は、今や泡の失せたビールを飲みつつ、トンカツからイモサラへと箸を移していくうちに、またも仮説を考えようとするのだった。

  -ということは、こんな仮説もありってことか。つまり、彼女らは女であるにも関わらず、もとから男尊女卑の固定観念のなかにあり、だから女装する男というのは、男よりも女よりもさらに下なるカーストに位置するってことなのか・・。だからあの時の俺というのは、彼女らからしてみれば、自分たちより見下げた存在だってぇことか・・-

  そしてテツオは、最後の一口まで至ったジョッキをグビリと空けると、ニヒルにも似た相を浮かべて、口元をゆがめながら、こうつぶやいた。

「・・・差別って、魂の殺人というレイプに、何だかよく似ているな・・・。」

 

 ・・・そういえばこの国で、変な法律がまた一本、通っちまったということだ。

  被爆者から総スカンを食らったという例のヒロシマサミットで、G7の面目上、またいつものようにアメリカの要請もあり、間に合わせのアリバイ程度に作ろうとしたものなのか、LGBTへの差別解消を目的とするはずが、かえってその差別を助長するものとなったらしいや・・・。

  男が女便所や女風呂に平然と入れるようになる等々、こんな刑法で取り締まる犯罪行為とLGBTの存在とは、もとより何の関係もありはしない。それで今まで女性の人権を平気で踏みにじる発言をしてきたような連中が、今度はこうした悪意から女性の人権を守るだなんて言い出した。これは差別されるもの同士をいがみあわせて、権力に歯向かわせないように仕向けるという、この国のいつもの“お家芸”といえるものさ。このLGBT法をめぐる一連の痴漢行為との紐づけで、俺たち真正LGBTは侮辱され、世間の脅威に晒されて、身に覚えのない恐怖まで感じた者も少なくない。これってやってもいないのに、関東大震災の後に振りまかれた―“朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた”―というデマと、何だか似てやしないだろうか・・・。

  俺自身の経験で言わせてもられば、俺も当初は遠慮して、多目的トイレに入ってたんだが、外で老人や障碍者、子連れのママさんらが待ってるのを見るにつけ、多目的も遠慮をするようになり、かといって女子トイレでは、咳も何もできねえから、息を殺してくれぐれも、小便が高い位置エネルギーでジャーと音立て落下したりしねえように、ヒヤヒヤもんでやってたんだよ。で、うっかり男子トイレに入っちまったら、今度は後から来た男性が女装の俺をハッと見るなり、血相変えて出ていった。

  ユダヤ人も黒人も、白人もアジア人も、皆同じようなウンコとシッコをするものだし、このようにウンコは差別をしないとはいえ、これらいずれのトイレからも、俺は締め出されるということか・・・。

  20mSvでの学校教育、入管法の改悪や、生活保護の削減なんかを見てきたからさ、今さらLGBTだけ人権が保護されるみたいな期待はしていなかったが、人間の世というものはとにかく多数者に対して少数者を作り出しては弱いものイジメをするものさ。それは“性的少数者”というレッテルにもよく込められていると思う。そして性的にいじめるということは、これはレイプの先触れであり、つまりは戦争の前兆の一つといえる・・・。

  戦争・・・。そうだよな。権力側がなぜ執拗にLGBTを“生産性がない”などと攻撃するのは、それが子をもたらさない、つまりは兵隊を生まないからだ。しかし、この人の世で、生産性が一番ないのは戦争であり、そんなふうに産めよ増やせよで生産された兵隊たちは、国家によって戦場でもっとも生産性のない捨て駒にさせられるから、たとえ無意識的にせよ、そんな権力に抗っているLGBTという存在は、かえってもっとも生産的といえると思う・・・。

 

  今や空けたジョッキと果てた食器を目前にして、初回でいきなり大生を干したことに自信を得たのか、テツオはまた、なりたくもない大人に一歩近づいたと感じたようだ。

 -・・それで酒の後には、何も考えないくせに眉間にしわ寄せタバコなんかを吸うんだよな・・-

  彼は自分のつく生業的にも、お茶の香と料理のためにヤニの臭いは避けなければならないのだが、この席のまま何もないのは感覚的にさびしいし、どうせ同じ嗅覚ならと、かわりというか脱ぎ散らかした靴下を嗅いでみる。

 -・・へええ、自分のなら、意外と香しいのかも・・・-

  しかし、こうして時間をつぶすうち、嗅覚の対象が大人くさいヤニの方から、子供時分の遊びの思い出とともに汚れた靴下へとかわったせいか、彼の思考も大人から子供へと逆方向に向かっていって、ここでテツオは初酔いも手伝ってか、秘めていた自分の記憶を、自ら開けてしまったようだ・・。

 

 -・・俺さ・・、九州を出て、東京の小学校に入ってからしばらくするうち、ある日、転校してきた女の子がいたんだよ・・。

  その子、可愛らしくってさ、成績もよかったし、歌もうまかったもんだから、しばらく人気はあったんだけど・・・、そういう子を疎んじるのは必ず出てくる。

  やがてその子は、イジメのターゲットにされて、皆して寄ってたかって、いじめたものさ・・・。

教室で飼ってた小鳥が死んだのもその子のせいにして罵り、椅子の上にはイヌの糞までつぶして置いて、それでだんだんイジメはエスカレート、ついには皆で取り囲み、暴力まで加えていった・・・。

 

  あの女の子の泣き叫びが、今でも俺のこの耳に、はっきり残っているんだよ・・・・。

 

  今にして思えば、小学校低学年とはいうものの、あれは立派な“レイプ”だった・・・。

  俺は自分で手を下したわけではないけど、それでもいじめる側にいて、囃し立てたりしたものさ。

  俺は今日、自分がこんな目にあって初めて、やっと自分の非に気が付いたんだ。

  俺は、何という卑怯ものか・・・。

  あの時、自分が逆にいじめられても、一人でいじめられていたあの子をもしも守っていたら、今の俺は原罪や悔い改めばかりでなく、もっと誇りに満ちてただろう。

  どのみち俺はあの学校にはなじめずに、その後転校して博多へ戻ったというのに・・。

  俺のこの罪、きっとなかなか消えないだろうな・・。

  今日受けた差別侮辱を皮切りに、俺はこれからも同じ報いを受け続けていくと思う・・-

 

  気が付けば、テツオは他に客のない畳の席で、一人胡坐に頭を垂れて、泣いていた。

 

 -・・俺さ・・、あれだけ姉さんに愛してもらっていたというのに・・、小学校に上がると同時に姉さんと別れてからは、あんなイジメをやってたなんて・・・。

  あの時、もしも姉さんがこれを知ったら、きっと姉さんのことだから、血の涙を流しながら、自分の手のひらいっぱいに血をにじませながら、俺を平手打ちし続けたと思うよ・・・。

  本当に、あの女の子には、申し訳ないことをした・・。今謝れるのなら謝りたい。

  そして、俺は姉さんにも、何て申し訳ないことをしたのか・・・-

 

  テツオの今宵は、これで終わった。

  彼は涙をふいて勘定をし終えると、泣きじゃくりつつ一人歩いてホテルに戻り、そして寝巻に着替えると、まだ酔いがさめないうちに、部屋の明かりをすべて消して、寝てしまった。

 

  さて、翌朝、テツオは気を取り直し、せっかくここまで来たのだからと、テツコinタカラヅカ・デビューを貫徹すべく、朝食で腹を安定させたあと、朝風呂、毛剃りにメイクと済ませて、黒のショーツにブラキャミの上、小顔効果をはかるべく顔側面のテーピングリフトアップにショートヘアーのウィッグをつけ、伊達メガネをかけたあと、用意したコーデⅡを身にまとう。

  それは、トップスは彼が手縫いで再生させた白のディオール・バージャケットもどきの一品と、ネイビーのブラウスに黄色オレンジ赤からなるスカーフを巻き、ボトムズは同じくネイビーのタイトスカートに30デニール透けグロとヒール7cmシンデレラパンプスとの組み合わせ。それで頭に紺のベレー帽、また昨日の事件でフッ切れたのか、もうマスクはやめて、そのかわり、青緑のトルコ石と金メッキの葉っぱのような耳飾りを耳にぶら下げ、アイもチークもリップもマニ・ペディキュアもすべて色彩移ろうローズレッドで固めた上にフレグランスもローズできめて、これまた真っ赤なハンドバッグを手にすると、再びテツオは颯爽たるテツコとなってホテルをとび出し、いよいよタカラヅカ・ウォークを実行する。

 

 

  それでテツコは、ホテルから出て、交差点をすぐに渡って左に曲がると、川にかかる鉄橋に阪急電車の反響音を耳飾りの耳に響かせ、左手に大劇場を望みながら、ご当地だけにツカツカとパンプス音も軽やかに小気味よく大橋を渡っていく。そして坂を下っていきながら、手塚治虫記念館を横目にしつつ左に曲がり、かつてファミリーランドという遊園地があった跡地の辺りから、大劇場へと面していく“花の道”なる通りへとウォークしていこうとする。

  -ふううん、そういやキンゴがかつて、“手塚治虫の『火の鳥』は『ニーベルングの指輪』に並ぶ世界史的な名作だ”なんて、言ってたわねえ・・-

  ところが、その通りの入り口付近、一段と高い所に構えている群集から、テツコを目がけていっせいにカメラが向けられ、テツオはまだフラッシュが焚かれなくとも、昨日の差別侮蔑のフラッシュバックに襲われる。

  -な、何だよ、この人々は? タカラヅカって、そんなに男の女装が珍しいのか?・・-

  しかし、それは彼の思い過ごしで、カメラに合わせて振り向くと、そこには本物のタカラヅカの男役が、後ろから颯爽と歩いてくるのが目にとまる。

  -・・ワアアア・・。何てカッコイイのかしら・・。小顔もホッソリ背もスラリ、男の僕より背も高く、鶏冠のような金パツが、さらにいっそう高く見せる。

  彼、共演の娘役に向かって手をあげて振っているけど、何て輝かしいオーラなの・・。

  そうか、あの群衆は劇場裏のいわゆる“入り待ち出待ち”の人々なのね-

 

  テツコは自分の場違いからすぐに退き、普通の観光客のような素振りで通りへと入っていった。

  通りはやがて劇場正面へと至り、その門を潜っていくと、右手には、記念写真用の大きな横一列の実物大ラインダンスの写真があった。

  -わあぁ、これも何て素敵なんだろ。前はもちろん後ろからも、僕にはきっと“ラインの黄金比のダンス”のように見えるのだろうな・・-

  劇場の中へ入ると、お土産屋さんが続いていて、そこはすでに大勢の修学旅行の中学生らで賑わっている。

  -あたしって、あの子たちにはひょっとして、タカラジェンヌの一人として、見えてるのかも・・-

そして奥には、当日券を求めて並ぶお客様の長蛇の列が、続いているのが目に入る。

  -客層は、通りで見てきた人を含めて、圧倒的に女の人が多いけど、ということは、ここはちょうど僕とは逆の、女から女、あるいは、女から男への誘因がはたらいてるって、ことなのかな?・・-

  しかし、列の長さからして当日券は買えないと思ったテツコは、ラインダンスが見れないことにウィッグでなくとも後ろ髪を大いに引かれる思いはしたが、今日はタカラヅカを諦めて適当に昼食をすませると、電車に乗ってまた別の見所へと向かっていった。

 

  テツコが向かって行ったのは、同じ沿線沿いにある芸術文化センターで、彼はここで『白鳥の湖』を観たのだった。それは長時間の全編ではなく、地元のバレエ研究所による発表会を兼ねたハイライト編だったのだが、主役級のゲストを含めてその水準はすこぶる高く、テツオはテツコの目を通して観ながら、すっかり魅了されたようだ。

  -観ているうちに、まもなく僕は得心した。3次元空間いっぱいに、地に垂直にまた水平に手足を伸ばし、そしてそれらを直交させたり、あるいは全身をスピンさせたりするその動きは、互いに直交する電場と磁場の波である“光の動き”、あるいはその仲間たる電子の動きを模したものであるのだろう。これはさすがにユークリッド幾何学をもたらした西洋の賜物に違いない・・-

  そしてもちろん、テツオとテツコの感慨は、それだけでは収まらない。

 -・・男性バレリーナのお尻と太腿・・、あれって何であんなに大きくて魅力的なの・・。

  僕だってあの下半身には、自分のプライドが邪魔しなければ、抱きつきたいと思うほど・・。

  それに、前から見たあの位置のも、とっても立派・・。誇張もあるかと思うけど、あれを目当てに見にくる人もいるだろうに・・-

  テツオは羨ましげにバレエを見ながら、またこんな仮説を考えてみるのだった。

  -このバレエという西洋の舞踊において、歌舞伎の女形タカラヅカみたいな男形が起こらなかった理由というのは、男の脚線美をはじめ、あの男性の下半身のギリシャ的な造形を、そのまま愛でる喜びのためなのではないだろうか・・。そういやかのユークリッドギリシャだよな・・-

 

  しかし、それにも増して、芸術的にも美的にも圧倒されてしまったのは、白鳥と黒鳥をともに演じた女性バレリーナに対してだった。

 -・・美しい・・。本当に美しい。こんなに綺麗なものなんて、この世に他にあるだろうかと思われるほど美しいわよ・・。

  あの白鳥を模した手の動きは、やわらかく、ことごとくしなやかで、指先の先の先まで神経が行き届いているような、まるで神業のように見えるわ・・。

  ということは、やはり、女の踊りは女の方がいいってことかな・・-

  だが、ここでテツオは、校長が絶賛していた六代目歌右衛門の『道成寺』を、ある日県のネットカフェで、一部であるがその映像を垣間見たのを思い出す。

  -そういや、あの手の動きって、歌右衛門のに似てるよな・・。ここまで徹底できた女形って、歌右衛門だけのような気もするけど、ということは、男が演じてこそ映える女というのもあるし、その逆だってあるんだろうな・・。

  しかし、これって、ひょっとして、どっちがどれほど凄いのかしらね・・-

  テツオはこうしてまたいろいろと考えながら、観劇の感激もさることながら、自分もまた美しい女装姿で劇場での初お目見えデビューを無事に終えたと、彼らしい自己肯定感に満たされた。そして彼はいや彼女は、チケット売り場の予告ビデオで流れていた、オペラ『トゥーランドット』の❝誰も寝てはならぬ❞に魅了されつつ、隣の窓ガラスに映った自分を見返り的に見つめては、ーそう、今宵は寝てはならないのね・・、いやそれどころか、あたしはもう宿に帰るのが、いやになりそう・・ーと、思った自分に思わず笑みがこぼれてしまった。

 

 

  ホテルに帰れば夕方近く、日はまもなく夜となる。テツオは名残惜しく感じながらも、今日は無事成功裏に終始したコーデⅡを解除して、風呂へと入り、本日二度目の全身洗いと入念な毛剃りをすませ、いよいよコーデⅢに入っていく。

  実はこのテツコinタカラヅカ・デビューの極め付きとは、いつものように街角やショッピングモールをウォークするばかりでなく、そのおおとりは蘭の花のごとく咲く-と自分自身は思っている-彼のイヴニングドレスデビューなのだった。

  -あたしが古着屋で見つけてきたのは、ネイビーブルーの優雅な夜会のワンピース、それもメイドinイタリィなのよ。古着屋で1600円ということは、もとはもっと高価なもの。その時はショウウィンドウで服を見初めて、男の子のままショウドウ買で買おうとしたものだから、女の子の店員が、“・・サ、サイズは充分ご確認、頂けましたか?・・”なんて少々ビビッていたのを覚えているわ・・-

  しかし、その女子店員の懸念のとおり、生まれて初めて夜会ワンピを着ようとしても、テツオはすぐに文字どおりトンネルに入り込んだようになる。

  -・・これって一体、どうやって着るんだろ。スカートの下から頭をつっこみ上へと探っていこうとしても真っ暗で、前か後かわかんないし、どこでどうして袖を通していいものやら・・。でもこの長袖に腋毛が隠れるメリットで、このワンピを買ったのだし・・。

  イタリアとはいえフェリーニの映画のような大女でもないかぎり、男の僕が着ること自体が無理なのかな。あの店員の女の子がこれを見たら、イタリアだけに“オー、それ見ーよ”って思うのかもしれないな・・-

  しかし、シックな上にも四苦八苦のすえ、最後に脇のチャックを引き上げ着用を済ませたテツオは、二度目の顔側面のリフトアップにウィッグをつけ、アイにチークにリップとまた入念にメイクをほどこし、ネックレスに耳飾りと一通り済ませると、ホテル個室の浴場の等身大の鏡に見入る。

  -・・ああ、いつものことだけど、浴場の自分の姿に欲情を感じるなんて・・。

  さすがに同じイタリアでも、こんなヴェネツィア映画祭に出るような女優みたいな衣装をつけると、その美しさはいつもより、エスプレッソのように香りも高くひきたてられて、フィボナッチ数列黄金比と同じように永遠に続くのかも・・。それは波打つスカート裾のオーロラのように揺れるアシンメトリーをともなって、なおもまた効果的な美の対称性を放っているわ・・。

  それに、首回りから両肩の端ギリギリまで、ボートネックを延ばしたような三日月型のカッティングは、乳首をむすぶ線すれすれまで広げられ、その毛剃りでいっそう白くなった胸元を撫でるよう・・。また、首すじからデコルテにかけられた樹の実を模したネックレスは、青緑のトルコ石と葉っぱの形の耳飾りといっしょになって、三点支持の金メッキの煌めきを連携して見せてくれる・・-

  そしてテツオは、このイヴニングドレスの立ち姿でまわりながら、浴場の姿見で前姿と後姿をためつすがめつ、その美しさに溜息つきつつ、また入念にチェックしている。

  -このドレスって背中の上まで開けられて、背中はよく見せられるけど、このラインにおさまるようなブラがないし、また乳パットもついてないから、これをいったいどうしたものか・・。

  ということは、これを着ていたイタリア人って、至るところで天然勝負してたのかな・・-

  しかしテツオは、この歌手のようなドレス姿を見るうちに、歌手ほど膨らまないものの、詰め物なんかで誤魔化さず、鉛筆で描くように体の線をそのまま見せる天然勝負に魅かれていく。

  -・・だってさ、このタカラヅカの至る所で、男役=男形のタキシードや燕尾服姿の写真を見てきたから、逆に男であることが何だか誇らしいようにも思えてきたのさ。

  だから今宵は僕もこのまま、自分の男のボディーラインを、この全身タイトな艶ありのネイビーワンピで、いっそう際立たせてみても、いいんじゃないの・・。

  それにバストラインは僕のでも、ペチャパイの女ほどはありそうだし、乳首だって男の子のものだから、大輪の花とまではいかなくても、小さくて可愛らしい蕾のようだし・・。ヒップラインは女っぽウォークの演技でもって見せつければいいことだし・・。

  でも、このドレスって女物だしタイトだからさ、男性バレリーナほどはなくても、勃たなくても気配はあるから、そこはショーツで丸め込み、押さえ込んでいくしかないか・・。

  そして、ここまでくればそれこそついに、赤ペディキュアの生足で、きめるとするか・・-

  そんなわけで、テツコはこうしてコーデⅢを何とかきめると、今宵はメガネはかけなくてもフレグランスは振りに振りかけ、白銀のファーもどきの肩掛けをパッと羽織って、銀色のクラッチバッグを手にすると、ホテル一階ロビーへと降りていった。

 

  ホテル一階は劇場と似た感じで赤じゅうたんが敷き詰められ、そこをネイビーブルーのイヴニングドレス姿のテツコが、右手には銀色バッグ、左手は胸元で白銀のファーを押さえて、シャナリシャナリとエレベーターから歩いてくる。

  まだ宵の口であるだけに客層も未だまばらで、テツコもさほど目を付けられるということもなさそうなのにホッとするが、歩いているうち、自分の艶めくスレンダーなボディーラインを見せつけたい気もするのだった。

  -・・でも、これでもし本物の女だったら、こうして自分の豊かなバストとヒップを誇示するのって、ほんと快感なんだろうなあ・・-

  ホテルのロビーは古式ゆかしいロココ調といった感じで、結婚式場にもなるほどだから広々しており、記念写真のバックにもなる中庭や、それを取り巻く回廊があったりして、歩き回るに十分だった。テツコは所々の窓や鏡に自分自身を映しては、ウットリしながら移ろいつつもうろついていたのだが、広い廊下に堂々と置かれている、タカラヅカ各組のトップスター男優たちが屏風絵のように連なった、等身大の舞台写真の前まで来ると、そこではたと立ち止まる。

 -・・素敵ねえ・・。皆さま何て輝かしいお姿なの・・。

  ・・今日の午前にあたしの後に見受けられたお方って、どの方かしら・・-

  しかしテツオは、今や羨ましがるばかりでなかった。彼は昨日の一件があったとはいえ、今日のバレエとこのタカラヅカで、男としての自信を取り戻した気になっており、この屏風絵を前にしても、-自分はまさにあなた方が羨むような美青年で、しかもあなた方がいくらメイクしたって太刀振ったって、逆立ちしたってなれないような朝ダチできる本物のオトコなのよ!-と、逆に自分を励ますことができたのである。こうしてテツオは、またいっそう自己肯定感を高めた上で、デビューのトリを飾るべく、ディナーのために当ホテルで一番メインのリストランテに向かっていった。

 

 

  リストランテフィガロ”へと入ったテツコは、まずはボーイに迎えられる。

「お客様、何名様でしょうか?」

  テツコはあまり声が出せずに、アイメイクの目でまばたきしながら、赤マニュキュアの人差し指を、1本立てて見せてみる。

「おひとり様ですね。かしこまりました。どうぞこちらへ、私がご案内いたします。」

  と、テツコは彼にエスコートされるがままに、ホール奥の中庭に面している見晴らしのよさそうな隅の席へと案内されるが、その道中も、彼女はもちろん手を抜かず、いかにも自分を高見せするようシャナリシャナリと、ここもまたロココ調に彩られたホールの中を通っていく。

「どうぞ。こちらに、お座りください。」

  -そうか・・。こういうお店は街中のセルフのうどん屋さんとは逆で、何でもやってくれるのね-

  と、テツコは彼が引いてくれた席へとそのまま、会釈をしつつちょこんと座ると、最後に両足をきちんと揃えて、わざわざ彼の目につくようにゆっくりと回しながらテーブルの下へと納める。

  そしてボーイは、大きな瓶のレモン入りの冷水を、最初のグラスの一杯として、テツコに注いでくれたあと、革の表紙で飾られたメニューを開き、-では、お決まりの頃、またお伺い致します-と、とりあえずテツコの席を後にする。

  その後姿を望みながら、珍しく、テツコは自分自身を見つめるように感嘆している。

 -・・彼って、何て素敵なんでしょ。姿勢もよく、ピンと張った後姿もカッコよく、言葉使いも清潔で、まさに“清く正しく美しく”を地でいくようなお人だわ。トップスは襟と袖とにきりっとした茶と黒のストライプ入りの白いシャツ、蝶ネクタイが凛々しく結ばれ、ボトムズはプレスのきいたスレンダーな黒いパンツにヒール感あるエナメルシューズ。ここの制服なのかしら、あの糊のきいたシャツと同じく折り目正しい彼にはとっても似合っているわ。それに、美しくもあどけなさの残る小顔に金髪のショートヘアー、耳にはピアス、眉もきれいに整えられて・・。・・彼って、もしや女の子?・・-

「お客様・・。お決まりでしょうか? まずは、お飲み物でも・・。」

「ああ・・、ええ・・。で、では、これをグラスで・・。」

  テツコがワインレッドの指先で指し示したのは、まさに同じく赤ワイン。

「かしこまりました。すぐにお持ち致します。」

  そしてテツコは、昨日のビールに引き続き、今日は生まれて初めて赤ワインを口にしようとするのだが、その前に、彼女はワインをグラスへと注いでくれる、彼の真摯な眼差しと、しなやかな手のこなしに、思わずウットリするのだった。

 -・・まるでボッティチェリの絵の女性のような、何て上品で美しい彼の手と指先・・。

彼、何というお名前かしら? ネームプレートがついてないから分からないけど、ボーイとか店員とかでは失礼だから、あたしの中ではとりあえず“ケルビーノ”(32)と呼ぶことに・・。

  それで、食べるものは何にしようか。というより、一人でこんな高いディナーはもったいないし、食べれもしない。それに第一お金もない。ロココ調であるだけにロコモコ丼みたいな感じの、お手軽メニューはないものかしら?・・-

  しかし、テツコが恐る恐る高額続きのディナーのメニューをめくっていくうち、彼女はドレスと同額の、おそらく店で一番チープな1600円のオムライスをついに見出す。

  再び注文を取りに来たケルビーノに、テツコはそれでも高見せの見栄からか、-あたしは特に理由があって、このオムライスを特別に所望するのよ-とでも言わんがごとく、カラスのような黒縁のアイラインから泳ぎ出すような流し目つかって、注文をするのだった。

「かしこまりました。では、少々お待ち願います。」

  案の定、-このお客様はお目が高い-みたいな感じで、テツコに畏敬の眼差しさえも浮かべつつ、ピンと張った白シャツの後姿もカッコよく、厨房へと戻っていくケルビーノ。

  実はテツオは料理人志望であるだけ、そば屋ならモリ、うどん屋ならカケ、中華ならチャオファン、パスタならアリオリといった具合に、レストランでは一般的に、これがダメなら他もダメと思ってもいいような肝のメニューがあることを知っていた。それは一見まかない飯みたいに見えるが、実はそれこそ店の評価を決める究極やら至高のメニューなのであり、-彼はまんまとそこ突かれたと思ったに違いない-と、テツコはケルビーノには少々悪いと思いながらも、己の高見せ無事キープに、思わず己の低い胸を撫で下ろす。

 

  -ということは、ケルビーノも、もしや僕と同じく料理人の修業者なのかな・・-

  女装者には難関の一つである“注文”をパスしたテツコは、赤ワインを口にしてほろ酔い加減になりながらも、今や落ち着いた心持ちでリストランテの全貌をゆっくりと見回しはじめる。

  -彼が案内してくれたこのお席は、白が基調の大理石が敷かれたようで、視界も広く見晴らしもよく、その割には落ち着いた、本当にいい席なんだわ。多分あたしのいる席は、お互いが干渉しにくい円形劇場みたいな感じでお席が並ぶ“お一人様”向けの席。一段低い中央には泉が湧き出る演出がされ、それが大きなウィンドウを境にして円明園(33)と名付けられた中庭の噴水へと水が通じて、その噴水には十二支の動物たちの彫刻が配されて、時刻にあわせてその口からも水が噴き出るカラクリになってるみたい。そしてこの噴水の向こうには池があり、そこには石で造られた小さなお船が浮かんでいて、またそのお船もステンドグラスで可愛らしく飾られて、中庭を回遊しつつそこで喫茶もできるようね・・。

  そして宵の口も過ぎた今、夜の帳も降りはじめ、登りつつある満月のもと、それらすべては美しくライトアップされていく・・。

  そうか。このホテルもリストランテもそのコンセプトは、“歌劇の感激をそのままに味わい続けて頂きたい”ということなのね・・-

 

「お客様、お待たせしました。これが当店の“オムライス”でございます。

 ・・あ、お水もいっしょに、おつぎ致しますね・・。」

  丁寧に、そしてきわめて上品に、オムライスの一品をテーブルに据え置かれて、その白磁のように繊細で美しい手と指先にますますうっとりしながらも、お水を注いでもらうテツコ。しかし、ケルビーノは、こんなチープな単品にもかかわらず、-このオムライスでこそ勝負!-みたいな緊張感を保ったまま、テツコの席をあとにする。

  それでテツコは、ケルビーノが去った後、おもむろにオムライスのタマゴの黄色い薄皮に、銀色に輝くスプーン一さじをサクッと入れて、まずは一口味わってみる。

 -・・アラ!これ美味しい! トマトソースもケチャップもメニューに書いてある通り有機栽培トマトなのは、水っぽくなくコクも香りも確かにあるから、あたしならすぐに分かるし、チキンだって平飼いの天然育ちだからこそ味わいに深みがある。またメニューにはお米も野菜も無農薬と記されて、ということは、このお店のシェフはきっとしっかりした価値観の持ち主なんだわ。ケルビーノがもしこのお店を選んでお料理修業をしているのなら、彼もきっと見所あるわね・・-

  そしてテツコが、トマトソースをタマゴの黄色い薄皮にスプーンの裏面でヌリヌリしながら、その赤色を広げつつ、チキンライスとグラスワイン、また、彼女自身のマニ・ペディキュアと、それらすべてが彩り移ろう紅で統一されていこうとするなか、テツオはふいにユリコのことを思い出す。

  -ゴメンね、ユリコ。あなたのこと、忘れてなんかいやしないのよ。これほどまでに赤、赤、赤と見ているうちに、あなたが時々言っていた生理痛の苦しみを思い出して・・。ごめんね、女性の苦しみさて置いて、おいしい所取りばかりして・・。

  でもこれも、神がイヴに対して言った、-わたしはお前の生みの苦しみを大いに増す(34)-のあらわれと、人類の直立二足歩行という進化の代償かもしれないな。

  しかし、しばしばその血を穢れというのは、やはり人間=ホモ・サピエンスの大きなゆがみと言う他ないし、また、女性器を弄ぶのも、性欲というフィクションを建前にした、差別侮蔑意識の異様なあらわれなのだろうと僕は思うよ。だってこれらはすべて生命を生むための必要な仕組みであって、進化のそして、神の創造の賜物なのだろうから。

  僕はしばしばこう思うのさ。女性器の局部に対してあれこれ言うのは、要はそれが“ペニスじゃないから”-きっとそれだけが理由なんだよ。そしてそれを愚弄するのも、人間が生命=神に対して嫉妬しているからであり、つまりは、人間の生命=神に対する相反性のあらわれなんじゃないだろうかと、僕自身は思うのさ・・-

  テツオはユリコのことを思いながらも、ここはオムライスの美味しさと、グラスワインのほろ酔い加減、そしてタカラヅカの余韻のようなケルビーノの存在感に思いをはせつつ、宵につられて酔いも増し、噴水や石の船が浮かんでいる中庭にも目をやるうちに、ウィンドウに大きく映った自分自身の全貌にあらためて気づくのだった。

 

 -・・美しい・・。毎度毎度のことだけど、あたしは本当に美しい・・。

  あたしは今、窓辺に映る自分自身に投げキスさえもしたいみたいな・・-

  それでテツコは、ワイングラスを片手にしながら、椅子に座ったまま透けグロの二本の足を交互にずらし、ネイビーブルーの艶のあるアシンメトリーの裾を泳がせ、片手を腰にあてたまま、バーガンディーの唇を前へと突き出し、それと同時にお尻を大きく突き出す例の“Rライン”を窓辺に映して、まるで屋外上映のスクリーンに、チネチッタの名女優に見入るみたいに、自分自身に見入るのだった。

  -あれ、そういえば、ケルビーノって、あたしの視界にいないけど、いったいどこに行ったのかしら?・・-

  そう、テツコが陰翳礼讃自画自賛している最中、彼はテツコのいるお一人様向けの席からは少し離れた、団体様向けのお席の準備に取り掛かっているのだった。

  -・・一人テキパキ手際よく、配席と配膳を整えている彼の姿は、何て凛々しく美しく、まるで白いテーブルクロスの上に飾られた花々を、お花畑として舞っている蝶々のよう・・。

  ケルビーノ、あたしはもう気付いているのよ。あなたは自分が凛々しく働いているお姿を、あたしに見てもらいたがっているということを。そしてあたしがするのと同じくらい、あなたはホールのポジションに立ちながら、ずっとあたしを自分の視界に入れたまま逃さなかったということを。

  だって、あなたはあたしの後に店へと入った新規のお客様たちを、お一人だろうが何だろうが、みんな向こうのお二人席や四人席へと案内し、その人たちの担当は他の女性のウエイトレスに任せたまま、あなたはずっとあたしが見えるこの辺りに、いてくれたのだし・・-

  そしてテツコは、テーブルの準備を終えるケルビーノの向こうに見えるグランドピアノが、この宵のいい頃あいより、ライヴ演奏されていく様子を見ている。

 -・・出だしは、ショパンね。かの『英雄ポロネーズ』も入っているわ。この曲を頭に思い浮かべながら、あたしは初のテツコデビューで、新川のボードウォークを飾ったのよ。あれがあたしの今日に通じる街中女形としての夢の初舞台みたいなものね・・。

あ、そういやメニューに、お客様からのリクエストにもお応えしますって、書いてたわよね。

  じゃあ、ここらであの真面目な彼を、少々、からかっちゃおうかしら・・-

  と、いつもはバレやしないかと、うどん屋でなくてもヒヤヒヤなのに、今宵は酔いの勢いも手伝って大胆になったのか、テツコはそれでも女っぽくすぼめた片手をちょいと上げると、ケルビーノを呼び寄せる。

 

「はい、お客様。何か追加のご注文で、ございますか?」

「い、いえ、あの・・、あのピアノって、リクエストをしても、いいのかしら?」

「ええ、もちろんですとも! 何なりとお申しつけ下さい。私が奏者に申し伝えに行きますから。」

「じ、じゃああ、『もう飛ぶまいぞ、この蝶々』(35)っていうのは、いかが・・?」

「ああ、ハイ。かしこまりました。では、歌の箇所は、奏者の即興あり-かもしれませんけど・・。」

  ケルビーノはテツコの目を見て微笑むと、足早にグランドピアノへと向かい、奏者によろしく伝えてくれる。

 -・・さすがに歌劇の街というだけあって、演奏技術は高いわねえ。たしかに歌の所では、奏者の自由なフレーズで聞かせ所を聞かせてくれる。

  ・・それで、何かほとんどアタッカで、続けて演奏してくれているけど・・、これは戻ってきた彼に聞いてみようか-

「あの、続けて演奏してくれたのは、奏者の方の、サービスかしら?・・」

「い、いえ。僭越ではございますが、あれは私からのリクエストで、ご存じかと思いますけど、『恋とはどんなものかしら』という曲です・・。」

  そう言うと、ケルビーノは頬を真っ赤に染め上げて、この時ばかりはテツコに向かってうつむきながら、その傍らを去っていった。

  -ああ、何ということでしょう。彼はおそらくシャイなうえ、シャレの分かる人かもしれない。でも、あたしはこれで、本の一瞬でもいいから、彼と気持ちが通じ合えたと思いたい・・。

  ああ、本当に、何という嬉しい気持ちなのかしら。これが女の気持ちというものか、リストランテにいながらも、凍ったかと思えば火と燃え上がり、それでも冷えてしまうことはない・・-

  それでテツコは、しばらくしてホールへ戻ってきた彼と目を合わせると、もう一度、片手を上げて呼び寄せる。

  再び、テツコの傍らへと寄るケルビーノ。だが、彼の口からは、-何か追加のご注文でも?-みたいなことはもう発されず、信頼の眼差しでテツコの次の一言を待ってるようだ。

  テツコはそんな彼がたまらなく愛おしくなり、ここは-彼のためにもなることを少しでも-と思いながら、メニューの後半ページより、デザートを所望する。

  そしてこの時、テツコは酔いの勢いか、あるいはすっかり女の気分になりきったか、それとも彼のあふれてくる恋心の故なのか、わざわざケルビーノの目につくように、揃えた二本の足先をテーブルの下から突き出し、またそれにあわせるようにして、交差させていく両腕で極度に胸を中ほどまで締め付けながら、胸元に谷間とまではいかなくても、傍らに起立する彼の目には窪みとなって見えるように、上半身を大きく前に傾かせ、顔だけ彼に向けたまま微笑みつつ、また一方で開いた背中も見せようとしながらも、赤マニュキュアの指先で、イチゴタルトを指し示す。

  そこまでされては、金メッキのネックレスに飾られたテツコの白い模造谷間の胸元も、その透けグロゆかりの赤ペディキュアも、ケルビーノはいやおうなく目にせざるを得ないようで、彼自身のオレンジ色のアイシャドウもブラウンのアイラインも後退するほど、ケルビーノは大きく目を見開きながら、ここはつとめてご注文を承る職務の姿勢を取るのだった。

「・・それで、あの、お客様・・。お飲み物は、いかが致しましょうか?・・」

  気がつけば、テツコの初のグラスワインは、もう既に干されていた。

「じゃあ、コーヒーでも・・。あ・・、コーヒーって、ひょっとして、あなたが入れて下さるの?」

「え、ええ。私でよろしければ、喜んでお入れ致しますが、何をお入れ致しましょうか?・・」

「じゃ、じゃああ、えーと・・、このオーガニック・ブレンドで・・。」

「かしこまりました。ではまた少々、お待ち下さい・・。」

  と、再びピンと張った白シャツの後姿もカッコよく、ケルビーノは厨房へと戻っていくが、彼が去っていった後、テツコは思わず、-痛ッ!-とばかりに顔をしかめる。

  -あんな無理な姿勢で上背を傾けつつ足を突出し、またこれ見よがしに組み直したりしたものだから、股ン所で自分のタマを、思いっきりクリッとばかりに、挟んじまったい・・-

  しかし、出されてきたイチゴタルトと、そして何よりケルビーノ自らが入れてくれたブレンドを口にするうち、テツコにはまた別の格別のタマらなさが、あらたにあふれてくるのだった。

  -今のあたしが思うところ、究極のコーヒーって、いかにも植物の実って感じがすることなのね。それであたしは、ハート型のカプチーノを差し置いて、敢えてブレンドを味わうことで、それを確かめたかったわけ。ケルビーノのは深煎りで、多分お豆は3~4種類くらいかな・・。もちろん、お味も香りも、また焙煎も入れ方も、あたしが言うのも何だけど、十分立派に合格よ・・-

 

  宵の口はとうに過ぎ、紺碧の夜の帳も降ろされて、満ちたりた月の光が雲を白くたなびかせていこうとするなか、中庭に配された十二支の動物たちの噴水が、ステンドグラスを散りばめた石の船を背景に、花のような虹色のライトアップに灯されながら、はや全開で水を放っていく様子を、テツコはウィンドウに映された自分の美貌を介しながら、コーヒーとタルトを前に、ただじっと見つめている。

 -・・美しい。真にこの夜は、そしてこの世も、本当は美しいと思われる。

  このように、もとより美は自然にあり、自然はもとより美意識をもっている。

  そしてこの美意識こそが、神の愛のもと万物を有らしめて、そして自らをまた意識させる。

  人間が言うところの意識というのは、人間が執着により分け隔てした美意識の派生物にすぎないもので、それは人間固有のものではなく、また生物の生死によって有無が分かれるものでもない。

  そう、おそらくはこの美意識こそが、宇宙における唯一の実在と言えるのではないだろうか・・-

  テツコは今や彼が入れたブレンドにも酔いながら、ぼんやりとそんな思いを巡らすうちに、ケルビーノはすでに店へと入ってきた団体客に対応するため、行ってしまったままである。

 

  彼が行ってしまったあとは、一人のまま、コーヒーとタルトをともに味わいながら、ライヴのグランドピアノの方へと、テツコは耳を傾けていく。

 -・・この曲って、さっきから長いこと弾かれているけど、曲名は何かしら?-

「これは、『大地の歌』(36)より最後の楽章、『告別』でございます。」

 -あら、ケルビーノ。いつの間にか、ここに戻ってきてくれたのね・・-

「“告別”って・・。これも、あなたの、リクエストなの?」

「いえ、この曲は奏者が好きな曲でして、月のきれいな夜ですと、つい弾きたくなるのだそうです。」

「・・でも、『大地の歌』って、オーケストラではないのかしら?」

「さすがはお客様、おっしゃる通りです。しかし、実はこの曲には、別に作曲者によるピアノ版がございまして、奏者がただ今奏しているのはまさにそれ、独唱部はそのまま音で流しています。」

  そこまで言うとケルビーノは、一呼吸を置いたあと、彼にしてはより低めた声色でささやくように、テツコにこう言ってくれるのだった。

「・・お客様、僭越ではございますが、ここの箇所は、“0 Schoenheit! 0 ewigen Liebens, Lebens trunkne Welt!”という詩でございまして、訳して申せば、“おお、美よ! 永遠の愛に、生き酔いしれたる世よ!”ということで、恐縮ですが、私はここがこの曲で最も好きな箇所なのです。それに、作曲者のマーラーは、その臨終で口にしたといわれるように、モーツァルトを愛していたと思います。

失礼しました・・。」

「とんでもない。あなた、とってもよく勉強されて、入れてくれたコーヒーも・・。」

  だが、ケルビーノはここでまた団体客に呼ばれたらしく、テツコに会釈もそこそこに、今や忙しさを増しつつあるホールの方へと戻っていった。

 

 

  曲がこのまま終盤へと向かっていくなか、今や劇場や結婚式の帰りだろうか、着飾ったお客様らが増えてくるのを、他の女性ウエイトレスを指示しつつ、巧みにさばいて接客していくケルビーノを、テツコはコーヒーを口にしながら、頼もしそうに敬意をまじえて眺めている。

  -・・彼って一番若そうに見えるけど、実はホール全体を任されるほどベテランなんだわ。忙しくなるにつれ、厨房と客席との橋渡し-コントロールが必要になってくる。食膳の組み合わせも多様になり、それは彼が就いているコントロール役の人が、最終的に取り揃え、テーブル番号を指示しながらウエイトレスへと渡していく。だからこれを任される人というのは、料理と客席双方に精通してなければならない。シェフが背中にも目があるような、全体を見渡せる人ならいいけど、そうでなければ現場の負担は、彼のような役目の人が一挙に背負うことになる。

  それに彼は、この店とホテル全体がモチーフとする“歌劇の感激そのままに”のコンセプトを、まさに直に背負っている中心人物ともいえる。だから当然、姿勢も言葉も洗練されてなければならず、また、あのリクエスト込みのライヴピアノも、彼の音楽の教養と、機知とユーモア感のある会話術に支えられたお客様とのコミュニケーションがあるからこそ、あれだけ楽しく維持されているのだろうし、これで“歌劇の感激そのままに”も、より活かされるというものだ。

  彼はひょっとすると音楽学校に在籍中で、ここにはバイトできているのかな。いや、バイトにしては仕事に熱が入っているから、やはり彼は料理人の修業者で、そのためにお客様の反応含めて店全体を勉強しているのではないだろうか。彼を見ていて、あらためて思うけど、特にこうした所ではただ料理が美味しいだけではダメで、お店の内装、その演出や調度品なども含めて、一種の総合芸術でなければならず、彼はそれを充分自覚し、それであれほど努力をしているのだろう・・-

  テツオは同じ料理人の同世代の修業者で懸命に働いているケルビーノに、何だか悪いと思いながらも、-今宵は特別、あたしもたまにはお客様になりたいし、それにあたしがいたのは開店早々夕暮れ時から混雑時までのすき間だったし・・-と、ここは今まで彼の優しい接客に甘えてもよかったかなと、思うのだった。

 

  だが、いよいよ、ライヴの『告別』と同じように、今やテツコにとってはケルビーノとの別れの時が来たようだ。

  テツコは、-彼は忙しくてもうここには来られないでしょうし、少しでもあたしのことを思い出して下されば-と、ワイングラスとコーヒーカップの双方に、品よくほんのチョッピリと口紅の跡を残して、おもむろに席を立つ。

  そしてテツコは、今や名残惜しそうに、窓辺に映った自分自身の見栄えのする背の高いイヴニングドレスの立ち姿を矯めつ眇めつ、あらためて円明園の中庭を見渡そうとするのだった。

 -・・月の光が、煌々と差し込んで、中庭の草や樹木の青緑を、虹色の噴水とあわせるように、なおもいっそう青々と照らし出していくのが見える。

  今はまだ冬だけれど、春がくれば、この中庭に続くように、大地もまた青々と茂るのでしょう。

  あたしたち同じ世代が、歩み出そうとする大地は、永遠に青く輝き、どこまでも約束の地へと通じているのに違いない・・-

 

  

「お客さま! お客さま!」

  艶のあるネイビーブルーワンピースのアシンメトリーの裾を振りつつ、会計へと向かうテツコに、後ろから駆け寄りながら呼び止めるケルビーノの声がする。

「お客様、大切なお召し物を・・、お忘れ物です。」

  と、彼はテツコの白銀っぽいファーもどきの肩掛けを、両手でもって示してみせる。

  -あら、こんな、実は300円程度のモノなのに、ご丁寧に・・。

  忙しくても最後まで、あたしの席を気にかけてくれてたなんて・・-

  テツコは思わずウルッとなるが、ケルビーノは肩掛けと引き換えに勘定を受け取ると、もう一度だけピンと張った白シャツのカッコいい後姿を見せながら入口へと向かっていき、会計をしようとする女の子に、-ここは私が・・-と退かせては、テツコの今宵の勘定を自らしようとするのだった。

  そして彼はお釣りを渡すまさにその時、受け取ろうとするテツコの右手を自らの左手で支えると、上と下の両方から包み込むようにして、右手でテツコに釣り銭を手渡してくれたのだった。

  ハッとケルビーノの目を見るテツコ。しかし、彼の真摯な眼差しに、優しさと同じくらいの名残惜しさを見とめたテツコは、肩掛けとバッグをともにカウンターの上へと置くと、その赤マニュキュアの左手を彼の右手の上に重ねて、思わずキュッと握りしめる。

 -・・ああ、やっぱり、彼の手は、あたしより一回りも華奢だった・・-

  同じように、ハッと頬を赤らめて、テツコを見返すケルビーノ。その眼差しは一瞬だけ、さびしさに光ったようだが、彼の真面目な職業意識がまさったのか、すぐにまたいつもの笑みに-しかし、テツコには決して商業的でない微笑みへと戻ると、

「ありがとうございました!」

  と、快活な声を響かせ、テツコをリストランテの出口まで、送り出そうとしてくれる。

 

  テツコは自分の後姿を、ここで再びケルビーノに見せながらお店を出ると、もう一度彼を見ようと、見返り美人の様相で、ファーを片手にねじり腰に、開いた背中をまわしつつ振り返る。

  見れば、彼はまだテツコを見ていて、再び目をあわせるや満面の微笑みをたたえつつ、

「またのお越しを、心よりお待ち申しております。」

  と、深々と一礼をしてくれた。

  その嬉しさにまたウルッときつつ、ここはあくまで最後まで“お客様”を保とうと、軽く会釈するだけで立ち去るテツコ。しかし彼女は、それでも彼を涙目で、見納めるのを忘れなかった。

  赤じゅうたんの回廊を歩きつつ、タカラヅカ・トップスター男役の等身大写真の並びを横目にしながら、エレベーターの入り口まで至ったその時、テツコはまたあらためて見返り姿で向きなおる。

  そしてテツコは、今やケルビーノが戻っていったリストランテフィガロ”の正面入り口を望みながら、深々と一礼を垂れるのだった。

  -・・そういえば、校長が貸してくれた『勧進帳』のDVDに、幕切れに、今や見えない富樫に向かって、弁慶が同じように深々と頭を垂れるシーンがあったわ・・-

  こうしてテツコは、楽しかった今日一日と今宵の余韻のそのままに、一人部屋へと帰っていった。

 

  ホテルの部屋へと戻ったテツコ。女装はしばらくこのままで、シンデレラ気分のままで、いつものように自分自身を鏡で見ながら、その美しさと今日一日の思い出とを、ともに耽美し反芻しようとするのだが、今宵ばかりは赤ワインの酔いとともに、ケルビーノの余韻で頭はいっぱいだった。

  -・・ああ、ケルビーノ。今日は本当にありがとう。何もかもあなたのお陰で、こんなに楽しい夜になったわ・・。

  ごめんね。あなたはあたしより先に社会に出ていたから、おそらくは先輩で、本当はケルビーノさんって呼ばなければならないのに、手軽にしかも“ケルビーノ”とは、いくらなんでも失礼だよね。

  でも、あたしだって気づいていたのよ。あなたがお店で、あたしをずっと守ってくれていたことを。

  あなたは故意に、あたしをお一人様向けの一番隅の席へと座らせ、そこであたしが一人でも気兼ねなく落ち着いて過ごせるように、他のお客はみんな遠ざけてくれたのだし、しかもあそこの席からは室内も中庭もよく見渡せたけど、店の中では死角かと思うほど目立たない所だった。

  だから、ともすれば好奇の目に晒されるのかもしれない僕を、君はいつも自分の視界にとどめ置いてくれながら、守ってくれていたんだね。

  同じLGBT同士だから、お互い初めて見合っただけで、何となく分かるしさ・・。

  ケルビーノ、あなたは先に社会に出て、しかもいろいろなお客の多い接客業に就いたのだから、想像以上の困難や差別侮辱にあったのでしょう。でも、だからこそ、あなたはあたしに、あれほどまでに優しかった・・。それはあなたの接客業のプロ意識もあるのでしょうけど、それ以外に、あたしに対する好意もきっとあったと思うし、またあたしはそう思いたいし、それはあたしもまったく同じで・・、いやそれ以上なのかもしれない・・-

  テツオはテツコのなりのまま、ここまでケルビーノのことを思うと、また大粒の涙がこぼれ落ちてくるのだった。

  -・・ねえ、ケルビーノ。あたしね、以前、こんなお話を聞いたことがあるんだけど・・。

  道元禅師(37)が仏道修行を志し、中国(宋)に留学をされた際、当地である年老いた典座さん-つまりお寺の修行僧たち専属の料理人職-に会った時に、「あなたほどのお年の方が、どうして煩わしい典座職などつかさどり、ひたすら働いてばかりおられるのか?」って聞いたんだって。

  すると、その老典座は大いに笑って、「あなたはまだ修行というのが、よくお分かりでないようだ。」と言われたそうよ。それで道元禅師は、それを生涯、座右の銘にしたという・・。

  ねえ、ケルビーノ。今日はおそらくそれと似て、僕は君に、料理人修業の何たるかを、教わった気がするんだ。

  ケルビーノ、同じシェフを志す者として、君もこの店にはいつまでもいないだろうし、僕はもう外国に行くのだけれど、世界のどこかで、また今日のように、会えるといいね・・。

  僕は今日、タカラヅカの舞台でのフィナーレは見れなかったけど、あの男役に負けず劣らず美しくもカッコいい君のお陰で、今宵は僕の一人旅でも、見事なフィナーレだったと思うよ・・-

 

  こうしてテツオは、心のなかでもう一度ケルビーノに一礼すると、ホテルの眼下に広がっている夜景を見つつ、また開けた窓から遠くに聞こえる鉄橋に行きかう列車の反響音を耳にしながら、そしてまた何よりも、彼の心の奥底から響いてくる❝タカラヅカ・フォーエバー❞の歌声を聞きながら、ただ一人、紺碧の夜空に登った月の光を眺めていた。

  そしてテツオはこうするうちに、ある考えに思いが至る。結局、彼は宝塚に赴きながら、肝心の歌劇は見られなかったのであって、そこがやっぱり、非常に心残りな自分に気づく。

  ―・・・今回、僕はようやく宝塚にやってきて、街中のあちらこちらで部分的に感激をしたとはいえ、観劇はしなかった。だから、次回もしここに来たら、今度こそ絶対に、絶対にタカラヅカを観てやろう!

  それももちろんテツコとして! そうね、それも普通の女装じゃ面白くも何ともないから、せっかく劇場に行くのだし、ここぞとばかりに盛りに盛って、それこそ辛苦なほど深紅なドレスに身を包み、ルーズなほどローズの香りをまき散らして、スターたちが舞台上の大階段を降りるように、多くの人がエスカレーターを使うなか、ひとり劇場の階段をスカートふりふり降りてくるというみたいな・・・。

  そう、それなのよ、これで決まりよ! これであたしは、柚子の香みたいに芳しく、月が照らす城のように輝いて、あやしく風に吹かれながら、礼々しくまことしやかに、涼しく吹かれた帆のように、清く正しく美しく、このテツコの女装ヅカデビューを果たしてやるのよ!!

  そう、そしてこのことが、私にとっての勝利! 勝利なのよ!!―

  ここまで構想が及んでくれば、あとはコーデを決めるばかりと、テツオはテツコのヅカデビューの様相を夢想しながら、誰も寝てはならないと聞いたことを反芻しつつも、ひとり眠りに落ちていったようである・・・。